牙をむく悪役令嬢

 真っ暗な視界の中、ガラガラと規則正しい車輪の回転音だけが聞こえる。

 現在、私は手足を縛られた上麻袋を頭から被らされ、馬車の座席下に転がされている。粗悪な馬車なのか、ちゃんと座席に座っていないせいか、ガタガタと尋常じゃなく揺れたり跳ねたりして、そのたびに全身のあちこちを打ち付けて痛い。絶対に青痣だらけだ。

 どうしてこんなことになっているのかといえば、話はおよそ三十分前にさかのぼる。

 王都警備隊の制服を着た軍人が現れ、事態が収束した旨を伝えてくれたので、帰宅することになったのだ。まだ話し足りないからと言って、セシリア様自ら送ってくださるとの申し出があり、一緒に馬車に乗り込んで走り出したまではよかったが、モーリス邸が見えなくなってすぐ異変が起きた。

 馬車が急停車し、外から御者の悲鳴と馬の激しい嘶きが聞こえたかと思うと、荒々しく扉が開いて仮面をつけた男たちが私を掴み、車外に引きずり出したのだ。セシリア様は勇敢にも男たちに掴みかかろうとしたが、私にナイフを突きつけて牽制し、そのまま近くに止めてあった馬車に放り込まれた。

 そこで現在のように拘束され、車内の床に転がっている、というオチだ。

 ……というか、なんで私がこんな目に遭ってるんだろう?

 これって誘拐だよね?

 攫われるのはヒロインの宿命とはいえ、このゲームで別にそんなイベントはなかったはずだし、雑すぎる扱いはとてもヒロインっぽくないんだけど……まあ、誘拐されててこんなに冷静でいるヒロインはヒロインでないな、うん。

 ていうか、セシリア様は大丈夫だろうか。屋敷の近くだからすぐに戻れただろうけど、馬車を引いていた馬は血みどろだったし、御者もぐったりしていたし、私のせいで大きな迷惑をかけてしまった。

 などと考えていると、馬車のスピードが落ちて停まる。

 一度も止まらず一定のスピードでここまで来たし、これまでの経験から十数はキロ走ったと推測される。大通りを一直線に行けば王都を出る可能性もある距離だが、城門を通った感じはしなかったので、少なくとも王都からは出ていないとみていい。

 ガタン、と荷台の戸が開き、うっすらと外の明かりが麻袋越しに感じると、やっぱり荷物のように持ち上げられてどこかに運び出された。

 カサカサと草や落ち葉を踏む音と共に、のどかな小鳥のさえずりが聞こえる。土のにおいも感じるし、まるで森の中にいるみたいだ。

 王都に緑があるとすれば緑地公園だと思うが……と思考を巡らせている間に、立て付けの悪そうなドアが開く音がして、再び薄暗い中に転がされた。

「ご苦労様。じゃあ、しばらく外で待ってて」

 聞き覚えのある、鈴を転がすような可愛らしい声。

 まさか、と目を見張る私の麻袋をはぎ取り、彼女は小さなランプだけが照らす室内で、優美に妖艶に微笑んだ。

「ごきげんよう、プリエラさん」

「クラリッサ……様?」

「ええ。ご覧の通り、クラリッサ・マクレインです。お久しぶりですわね」

 いつもの贅を尽くしたドレスではなく質素なワンピースに身を包み、黒髪をポニーテールにまとめているクラリッサを一瞥し、そこから周囲を見回すと無造作に置かれた木箱や園芸用具が目に入る。物置小屋のようなところだろうか。

「……ここは?」

「そんなこと、わたくしからカーライル様を奪った泥棒猫さんに、教える義理はありませんわ」

 奪う? なんの話?

 動揺でうまく働かない思考をどうにか動かし、カーライル様がマクレイン家に婚約はしないと直談判しに行ったことに思い至る。

 もしかして、それは私のせいだと思ってるの?

「あ、あれは、カーライル様の意志で――」

「嘘おっしゃい。どうせあなたが卑猥な手段であの方に取り入り、既成事実を作って婚約を強要したのでしょう? そうでなければ、カーライル様がわたくしとの婚約を望まないなんて、あり得ないことですわ」

「そんな事実ありません!」

 私とカーライル様であらぬ妄想を展開させるのも許せないが、絶対選ばれるという自信がどこから湧くのかさっぱり理解できない。

 もちろん、今日までずっと二人が相思相愛だと誤認していた私が言えた義理ではないが、相手から好かれているかどうかくらい肌で感じないのだろうか? それとも恋する乙女フィルターを通せば、嫌よ嫌よもなんとやらになるのか?

 とにかく、一旦下手に出て弁明するか。誤解が解けるかどうかは怪しいけど。

「……クラリッサ様がカーライル様をお慕いしているのは、存じ上げておりました。しかし、お二人の仲を裂こうと思ったことも、ましてやあなたを陥れようなどと考えたこともございませ――ぐぅっ」

 クラリッサが私の鳩尾あたりを踏み付け、重い痛みと共に息が止まった。

 急所を突かれると呼吸困難になると聞いたことがあるが、それを身をもって体験するとは思いもしなかった。

 ややあって正常な呼吸が戻り、新鮮な空気で肺を満たしてほっとしたのも束の間。彼女は私の胸倉を掴み上げ、お互いの鼻が付きそうな距離にまで近づくと、爛々と光るアメシストの瞳で私の瞳を見つめる。

 それは単なる比喩ではなく、本当に彼女の目は光を発していた。正確には、瞳孔の中にある魔法陣のように複雑な文様が光っているのだが――なんだか邪眼みたいだ。見てるだけでたとえようのない不快感に襲われ、胸をかきむしりたくなる。

「違いますわよね? あなたが体を使ってカーライル様を誑かしたから、彼はやむにやまれずあなたを娶るしかなくなった。そうですわね?」

 クラリッサの声が耳からではなく、脳の中に直接吸い込まれるような錯覚に陥る。

そしてその言葉通り意識が書き換えられるような、自分が自分でなくなるような感覚に、洗脳という単語がよぎる中、頭が真っ白になりかけたが、すんでのところで歯を食いしばり――目の前にあったクラリッサの額に頭突きをかました。

「いだぁっ!」

「うぐっ!」

 激突の痛みと衝撃で、瞳の奥に火花が散る。

 目の前がグワングワンと歪んでいる気がするが、脳震盪にはなってないようだし、不快感はすべてリセットされたのでよしとしよう。

「ちょ、ちょっと、何するのよ!」

「何かしたのはそっちの方でしょう! チートスキルか何か知らないけど、邪眼で洗脳して言うこと聞かせようなんて……そんなの、本物の悪役令嬢じゃない!」

「アタシの瞳は邪眼じゃなく《魅了の紫水晶》! 見つめた相手をアタシの虜にするだけの人畜無害な能力なんだから、洗脳とは全然違うっつーの!」

 中二っぽいネーミングはさておき、本人の意思を無視して虜にしてる時点で洗脳だ。

 クラリッサは被ってたお嬢様令嬢の化けの皮をかなぐり捨て、子供のように地団駄を踏んで喚き散らす。

「もう、一体なんなの!? アンタもカーライル様も、アタシの《魅了の紫水晶》が効かないなんて! おかげで計画が大狂いよ! せっかく労力を割いてカーライル様の出現条件を満たしたっていうのに、アタシの努力の結晶を横から掻っ攫うなんてサイテーなヒロインね!」

「……出現条件?」

「しらばっくれないで! カーライル様は、全員攻略したあとに出てくる隠しキャラなのよ。だから、全員“攻略済み”の状態に持っていくために、恋のキューピッドをやってたのに! アタシの《魅了の紫水晶》でみんなまとめて魅了して、適当な相手を宛がえばよかったとはいえ、随分苦労したのよ! アンタのせいで全部パーよ!」

 恋のキューピッドの雑さにも愕然としたが……カーライル様が攻略対象!?

 すっごくハマってたわけじゃないけど、ちゃんとスチルも回想シーンもコンプリートしたし、攻略サイトでもそんな情報は載ってなかったはずだけど……マジで?

 あ、でも、そういえば、プレイしてから大分経ってから、リメイク版が出たっていう話を聞いたな。興味は引かれたけどちょうど別のゲームをやってて結局買わず仕舞いで――ひょっとして、そこで追加されてたのかも。

 だとしたら、私ってとてつもなくタイミング悪い女じゃない?

「そ、そんなこと言われたって、私はカーライル様が攻略対象だなんて全然知らなかったもの! ていうか、なんで攻略対象じゃない人たちまでくっつけまくってるのよ! 余計なことしなかったら、私はとっくに別のモブと結婚してたわ!」

「仕方ないじゃない! カーライル様ルートだと、ヒロインは婚活に乗り遅れてぼっちになってるって設定だもん!」

「悪役令嬢なのに、どうしてヒロインの設定にこだわった!?」

「うるさい! なんにしたって、アタシの邪魔をしたことには変わりないわ!」

 クラリッサは不毛な問答を遮ると、木箱の上に置いてあったらしい園芸バサミをシャキシャキと動かし、醜悪な笑みを浮かべた。

 まさかそれでじわじわ切って傷つけて殺すとか? いや、園芸バサミくらい鋭利なら刺すという用途もあるが……どっちにしたってホラーすぎる!

 私の強張った顔を見て胸がすく思いがするのか、クラリッサは愉快そうにクスクス笑い、ハサミの切っ先を喉元に突き付ける。思ったより手入れされているのか、ランプの明かりを反射してギラッと輝く刃に、思わず固唾を飲んだ。

「心配しないで。殺しはしないわ」

 シャキン、と音を立てて、ドレスの襟元に小さな切れ込みが入った。

 そこから本当にちょっとずつ、コルセットごとハサミで裁断され、まるでいたぶるように綻びが広がっていく。

「ふふ……こんな人気のない場所で、縛られて半裸になった令嬢が見つかれば、絶対に穢されたとみなされる。未婚の令嬢にとって、これ以上ない汚点ね。一生まともな結婚はできないわ。でも、アタシはそんなくらいじゃアンタを許せない」

「じゃあ……どう、するの?」

「決まってるじゃない。この事実を公表しない代わりに、アタシと結婚してくれるようカーライル様にお願いするのよ。あの人、理解不能だけどアンタにご執心みたいだし、結構有効な手段だと思うのよねぇ」

 時々ハサミの刃を滑らせ、頬や首筋に浅い傷を作っては薄っすらと血が滲む様をうっとりと眺め、喉の奥で忍び笑いを漏らす。

 あの刃がもっと深く差し込まれたり、勢いよく引かれたりしたら、動脈は深く傷つき致命傷になりかねない。

 殺さないというクラリッサの言を信じ切れないし、わざとでなくとも手元が狂ってザックリいってしまうかもと思うと、恐ろしくて泣き叫んでしまいたくなる。

 だが、それでは彼女を一層愉しませるだけだ。

 痛みに顔をしかめつつも、恐怖を押し殺してじっと耐える。

「……そんな脅迫、通じると思ってるの? 冷静に考えて、あなたの方が捕まる確率が高いんじゃない?」

「あら、大丈夫よ。アンタを拉致ってきた奴らは王都警備隊の連中なの。カーライル様の隊じゃないけどね。みんなアタシの虜だし、アタシの命令通りの証言をしてくれるわ。『複数の男に乱暴された令嬢を保護した』ってね」

 そんな会話を続けているうちに、へその少し上あたりまで切れ込みが入り……そこでクラリッサは一旦ハサミを置き、左右に別たれた布を力いっぱい引っ張って、私の胸元を大きく晒した。

 平均値よりかなり控えめなバストを見下ろし、クラリッサは嘲笑する。

「うわ、ヒンソー」

「ほっとけ!」

 どうせ私は貧乳だよ!

 負け犬の遠吠えを我関せずでスルーし、今度はスカート部分にハサミを入れていくクラリッサ。暴れて足蹴にされるのを恐れてか、私の足の上にどっかりと座って、悠々とハサミを動かす。

 しかし、二、三度ハサミを入れたところで、にわかに外が騒がしくなり――鈍い打撃音がいくつか飛んできたら、瞬く間に静かになった。

 私だけでなくクラリッサも手を止めて、何が起きたのかと戸口を注視していると……ドガンッとけたたましい音と共にドアがこちら側に倒れてきて、まばゆい日の光が室内に差し込む。

 薄暗さに慣れていた目には痛いほどの刺激だったが、それは私にとって救いの光であり、クラリッサにとっては断罪の光だった。

 反射的に細められた視界の中、一つの人影が飛び込んでくる。

「プリエラ、無事か!?」

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