第6話 タクシーの中は煙草の匂いがした
背の高い草をかき分けかき分け進み、ユメノは「この山広すぎー。全然終わりが見えないじゃん」と嘆く。横を歩いていたユウキが冷静に「それは違いますよ、ユメノちゃん」と口を出した。
「ぼくたちはずっと同じところを周っています。ほら、あそこの木はさっきも見たじゃないですか」
「それ早く言ってほしかったなー」
はたと立ち止まり、ユメノは「じゃあずっと迷ってるってこと?」と顔をしかめる。「そうですよ」とユウキが当然のように肯定した。
「えー……困った……」と呟いたその時である。ふわりと風が起きて、天狗面の男が静かに降り立った。
「呼んだか?」
「いや、別に呼んでない」
「呼んでないかぁ」
「でもいいところに来たよ、タイラ」
「左様ですか」
腕を組んだタイラが「お前たちのその不遜な態度、悪くないぞ」と喉を鳴らす。そういえばこのひとも神様だったな、とユメノはぼんやり思った。思っただけである。
「あのさぁ、さっきからずーっと同じとこぐるぐる回っちゃうみたいなんだよね。どこにも辿り着けないんだけど」
「おお。もしかして山を下りたいのか?」
「……一回ね。買い物に行きたいんだよね」
「てっきり家に帰るのかと」
「家には帰りません」
「それにしても“ちょっと買い物に行きたいので人里に下りる”なんてことがまかり通ると思っているんだからすごいよな」
「まかり通らないんですか?」
「別に構わんが」
「構わんのじゃないですか」
タイラはそのまま歩き出し、ユメノとユウキもついて行くことにした。
「そもそもここがどこなのか、お前たちは知っているのか?」
「山」
「大正解。100ポイントやろうな」
謎のポイント制を導入してきた山神様に対し、ユメノは無邪気に喜びながら「やったぁ」と声を上げた。ユウキだけが「ポイントを集めると何があるんですか? 何があるんですか?」と気にしていた。
「山であることには変わりないが、お前たちの知っている山とは違う」
「なんかそんなん言ってたよね」
「前提として世界は二重三重とかさなっているわけだが」
「前提として???」
「お前たちの生きていた世界とこちらの世界は、ぴったりと重なった異なる世界であるということだ。そしてそこに、明確な境界線はない」
何言ってんだろうこのひと、と呆けた顔をしているユメノの横でユウキが「わかります」と頷いている。タイラは笑いをかみ殺してユメノとユウキの頭を撫でた。
「境界線がない以上、どの世界からも異なる世界へ干渉できるが」
「で、できるの?」
「できるよ。もちろん、そこに“在る”と知っていればな」
「ある、って知ってれば……」
「そうだ。一昔前には、人も神や妖と当然のように干渉しあっていた。誰もがそこに神や妖が存在していることを知っていたからだ」
歩いているうちにユメノたちは少し拓けた場所にたどり着いていた。タイラは立ち止まり、「いつしか人は科学へと舵を切り、あらゆる神秘を生活から遠ざけていった」と呟く。
「それ自体は文化の発展に必要なことだったんだろうが、こうして多くの人々は異なる世界への干渉の術を失くした」
「じゃあ、“知ってる”人なら干渉できるの?」
「お前たちの身近にいなかっただけで、神や妖と親交を持つ人間ならたくさんいるよ。今のお前たちみたいにな」
確か、と言いながらタイラがユウキの腕を掴んだ。「お前は俺と会ったことがあると言っていたか?」と首をかしげ、そのままユウキの腕を上げて振る。ユウキは少しムッとしながらも頷いた。
「なるほど。もしかしたらお前たち……少なくともユウキの方が俺を知っていたから、こちら側の世界に干渉し迷い込むことができたのかもしれないな」
ユメノとユウキは顔を見合わせて、「じゃあユウキのおかげでここにつけたんだ」「バカにされても妖怪とか信じてきたかいがありました」と神妙な顔をする。
「しかしだな、前提として世界の行き来はしようと思わなければできない。意思の問題だ。わかるな? お前たちは『とにかくここではないどこかへ行きたい』と思いながらこの山に入り、神の領域に足を踏み入れた。そしていま、『山を下りたい』と言いながらその実全く下りたがっていないということが問題なわけだ。さしずめ行きたくはないが用事があるといったところか」
「うっ……その通りです」
「じゃあぼくたちは山から下りられないんですか?」
「やりようはある。いかんせん山というのは生者を愛して喰う自然であるからして、そもそも魅入られると簡単に遭難するものだ。一旦山から出れば、世界の境界を越えるのはもっと容易になる」
「まず山を下りるのが難しいんだっていう話してなかった?」
するとタイラはユメノとユウキを腕に抱えて、「山から下りられなきゃ、空があるだろ」と囁いた。それから有無を言わさずに、勢いよく飛翔する。ユメノは思わず悲鳴を上げ、どんどん遠ざかっていく地面を見た。
その横でユウキは目を見開いて、「ねえタイラ」と呟く。
「ぼくは昔こうやって、空を飛んだことがあるんですよ」
「そうか、そりゃあいい経験をしたな」
しばらく空を飛んで、タイラがふと「干渉した。お前たちの世界に戻ってきたぞ。どの辺で降ろそうか?」と口を開いた。幾分か慣れてきたユメノは「あ、じゃあそこの図書館の近くで」と指さす。了解した、とタイラが頷いた。
タイラは人けのない広場に降り立つ。「楽しかったか?」と無邪気に聞いてきたので、ユメノは目尻を下げて「ジェットコースターの100倍こわかった」と答えた。ユウキはといえば、「まあまあです」なんて言っている。そうかぁ、とタイラは腕を組んだ。
それからタイラは人間の姿になる。といってもユメノたちからは、コスプレを脱いでスーツに着替えたようにしか見えないが。
「用事が終わったころ迎えに来ようか?」
「大丈夫! “行きたい”って気持ちがあれば行けるんでしょ? あたしたち山に帰りたさ満点だし、迎えがなくても行けるよ」
「でもまた山に登らなきゃいけないの、ぼくちょっと大変だな……」
「……まあ、気が向いたら迎えに来るよ」
タイラに「またねー」と手を振ってユメノとユウキは歩き出す。タイラは苦笑しながらもこちらを見守っていた。
久方ぶりに里に下りたのは買い物をするためだが、せっかくなので図書館に寄ってみることにした。山のことや妖怪のことを一度調べてみようと思っていたのだ。
例の山の名前は
かつて雀鈩山では、誰もいない山奥から声が聞こえたり、迷い子が見知らぬ男に手を引かれて戻ってきたり、不思議なことが多くあったのだという。その頃から人々は『雀鈩のお山には天狗がいる』と噂した。そんなある時大規模な土砂崩れが起こり、麓の村がまるまる壊滅してしまったらしい。力も技術もない当時の人々は自然に対して全面的に降伏した。山そのものを崇拝し、それを支配し操る“神”という存在を造り出すに至ったのである。荒れる山は神の怒りであり、それを鎮めれば災害を抑えられると考えた。それが最初から天狗伝説ありきのものだったのか、それとも後から結びついたものなのか定かではないが、今日において雀鈩の山神は天狗の姿をしている。
「お勉強? 偉いわね」
聞いたことのある声が聞こえて、ユメノとユウキは同時に顔を上げる。頬杖をついた都幸枝そのひとが、にこにことこちらを見ていた。思わず、ユメノは「ゆきえさんっ、じゃんっ! なんでここに???」と口に出してしまう。都は人差し指を唇に当てて「図書館ではお静かに願います、お客様」と微笑んだ。
「こ、ここで働いてるの?」
「そうよ」
「言ってくれればよかったのに……」
「あなたたちこそ、言ってくれれば連れてきてあげたのに」
お金がないんですか、とユウキが不安そうに尋ねる。住まわせてもらっている手前、負担になっていないかと心配だったのだ。都は肩をすくめて「それもあるけど、一番はね、色んなことをやってみたいと思っているの。人より永い生だから」と答えた。「図書館の司書さんというのはとっても素敵だわ。私、本を読むことも好きだけど、本を読んでいる人を見るのも大好きなの」と話す。
「二人は山を下りられたのね」
「すぐ戻るけど」
「どうしてもおうちには帰りたくないの? もちろん私は、あなたたちがずっといてくれたら嬉しいけれど」
「うん……家には帰れないかな」
そう、と呟いて都は気を取り直したように「何を読んでいるの?」とユメノたちの手元を覗き込んできた。「それはあの山に関する記録ね」と嬉しそうに言った。
「…………本当に、ずっとずっと昔からいるんだね、山神様って」
「そうね。彼は本当に永い時間をあの山で過ごしているようね」
「やっぱりこれってタイラのことなの?」
「ええ。私が生まれたときにはもう彼は神様だったし、現在に至るまで彼の代わりが現れたことはなかった」
静かに息を吐いて都はどこか遠くを見る。ずっと昔のことを思い出すような仕草だった。「私は昔、人間だったの」と口を開く。
「彼に捧げられた供物だったのよ。人身御供と言った方がいいかしら」
数瞬の沈黙の後、ユメノは思わず驚きの声を上げようとした自分の口を塞ぐ。何とか声を抑えて、「人間だったの?」と確認する。都は恥ずかしそうに顔を赤くして、「もう百年近く昔の話よ。歳がバレてしまうわね」と言った。年齢とかそういう問題じゃない。
「その頃わたしはまだ小娘だったけれど、お腹に赤ちゃんがいた。父親不明の子だった。私には相手がわからなかったし、最後まで自分が父親だと申し出る人もいなかった。小さな村では大層気味悪がられて、どうにか私のことを追い出したがっているようだった。そのうちに山神様への供物となることが決まっていた」
「ひ、ひどい話じゃん……!」
「当時には珍しい話ではなかったけれど、そうね。ひどい話ね。だけど私はそのまま村にいるよりは神様に煮るなり焼くなりされた方がマシだと思って、山へ入ったのよ。そうして彼は、」
そこで都は「ふふっ」と笑って口元を両手で隠す。「彼は、とっても困っていたわ」と目を細めた。「困ってたんだ……」「困ってたんですか……」とユメノもユウキもタイラの困り顔を想像する。
「それまでにも何度か人身御供は行われていたけれど、大抵子どもだったみたい。女子であれば、生娘ね。そのたびに彼は子どもたちを里に帰していたのですって。それが腹に子を宿した女が来て、その上村には帰りたくないと訴えるんだから、本当に困ったでしょうね。そう……私も今のあなたたちと同じように、『帰りたくない。ここにいさせてください』と彼に頼み込んだのよ」
ユメノはぽかんと口を開けて、それからハッとした。
「タイラは昔、傍にいた人間を妖怪に変えちゃったことがあるって言ってた。それって、幸枝さんたちのこと?」
「…………それは、誰が言っていたの」
「タイラも“そうだ”って」
都は悲しそうに口を結んで、「彼は私の願いを叶えてくれたのよ」と呟く。
「私はあまり体が丈夫ではなくて、お産の経過が良くなかった。ある寒い夜に私はきっと死んでしまう運命だったのだけれど、『この子を産んであげたかった』と彼に泣きついたのよ。それから私は目覚めたときには妖になっていた。彼が霊力を分け与えてくれたのだと思う。そうして生まれた実結も妖だった。彼は……きっと今でもそれを悔いているのでしょうね」
「幸枝さんは……後悔してる?」
「いいえ。実結をこの腕に抱けたのだもの、何も惜しくはないわ。だけれど、そうね。実結は望まずに妖になって、これでよかったのかとは少しだけ思うかしら。それも私のエゴであって、彼の罪ではないわ」
そろそろ仕事に戻らないと、と言いながら都は立ちあがった。
「二人とも、何時頃帰るの? 一緒に帰りましょうか」
「大丈夫だよ。図書館で調べものした後、買い物する予定だから」
「そう。気をつけてね」
都はユメノたちに目配せをして、大股でカウンターまで歩いていく。その後ろ姿を見送ってから、ユメノとユウキはまた本に目を移した。山の神を鎮める儀式について記述がある。無機質に印字された文章をなぞりながら『そんなに怖い神さまじゃないのに』と心の中で語りかけた。
買い物が終わって外に出ると、もうすでに辺りは暗かった。田舎の夜道などというのは大体暴走族のバイクの群れくらいしかいないので、ユメノたちは足早に山へ急いだ。
「ちょっと図書館に長居しすぎちゃったな。知らないことたくさんあるんだもん」
「やっぱりタイラに迎えに来てもらった方がよかったんじゃ?」
「それはちょっと申し訳ないよ……」
それにしてもまだ夕方だというのに、真っ暗で誰もいない。街灯さえ見当たらないせいだ。「今日は山に行かないで、どこか泊まれるところ探しましょうか」とユウキが提案する。それもそうだな、とユメノも思った。
そんな二人の背後から、『てけっ、てけっ』と物音がする。「何? ハム〇郎の足音かな?」とユメノは振り向いた。ユウキがひそひそと「ゼッタイもっと大きい動物ですよ。タヌキか……鹿かも。背中を見せずにゆっくり後ずさりましょう」と囁く。ユメノは目を凝らし――――そして、悲鳴を上げた。
「あっ、あ、あーるじゅーはちじー! R18Gだ!!」
「人間ですよ、ユメノちゃん。あれ、人間です」
「よく見て下半身ないから! やっぱ見ないで! 絶対見ないで!」
ユウキの腕を掴んで走り出す。「なんだよぉ、これ……デジャブ……?」と泣きべそをかいた。
「すごく速いです。追いつかれちゃう」
「なーーーーんで!? 向こう、下半身ないじゃん。腕力ハンパなくない???」
「軽量化に成功している」
「軽量化で足捨てたの!?」
そんなことを言っている場合ではない。力の限り走りながら、しかしそこは灯りもない夜道。何か道端の小石にでもつまずいたのか、ユメノは盛大に転んだ。
絶望を覚えながら「ユウキ! あたしのことはいいから先に!」と叫ぶ。ユウキは『冗談じゃない』という顔をし、実際に「なんですか、もう。冗談じゃありませんよ」と呆れた風に口に出してユメノを起こそうとした。そんなユメノの胸元から、何かふさふさした丸いものがむくりと顔を出す。突然のくすぐったい感触に、ユメノは悲鳴を上げた。するとその丸いものは光を放ち、伸びをして辺りを駆け回り始める。狐だ。子狐のように柔らかな毛並みをしている。
狐はどんどん大きくなりながら上半身だけの物体に威嚇し、怯ませた。それから器用にユメノとユウキをすくい上げ、背に乗せる。そのまま真っ直ぐ走り出した。
「速い速い速い速い! 待って!」とユメノは狐の首にしがみつく。
「この狐、光ってます。ノンちゃんかな?」とユウキは狐の背を撫でた。
狐はうんともすんとも言わない。ノゾムに関係はあるだろうが、この狐がノゾムであるというわけではなさそうだった。
一度だけ、狐は高々と鳴いた。それから徐々に小さくなり、消えてしまう。まるで火が吹き飛んだかのようだった。背後からはまだ、あの奇妙な物音が聴こえている。近づいてきている。うっかり、『神様仏様……』と祈ってしまった。
背後の物音とは違う、ブレーキ音。ちょうどユメノたちの目の前に、タクシーが止まった。金はほとんど持っていないが、乗せてもらうほかにどうにもならないと思った。ユメノたちは精一杯手を上げる。
やがてタクシーのドアが開き、運転手は笑ってこう言った。
「呼んだか?」
聞き覚えのある声。ユメノは呆然として「たいらぁ……?」と呟く。隣のユウキがはきはきと、「呼びました! 乗せてください!」と叫んだ。タイラはといえばわざとらしいほど恭しい仕草で「どうぞ、お客様」と車内を指し示す。何が何だかわからないが、ユウキに続いてユメノもタクシーに乗り込んだ。
「な……なんで? 何……? タクシー?」
「言ったろ、仕事をしているんだ」
「タクシーの? 運転手を? タイラって神さまじゃなかったの」
「神様がタクシーの運転手をしてはいけないという規約はない。お前たちは何に追われている?」
ハッとして、ユメノは「R18G!」と声を荒げた。タイラは「R18Gにか? そりゃ大変だな」と呟いた。
「あのね、あのね、足がないんだよ。女の人だと思うんだけど、」
「ああ……そういうものか。お前たちは本当に好かれているな。とにかくこのまま山に帰るか」
「ぼく、ちょっと後ろを見てみてもいいですか?」
「見るんじゃない」
「もう、すぐ後ろにいますよ。追いつかれてます」
「見るんじゃないって言ってるだろ」
ため息交じりに前を見ていたタイラが「あ、やべっ。信号だ」と言いながらブレーキを踏み込んだ。ユメノとユウキは「ぐえっ」と言いながら転がる。
「ああ、お客様。言い忘れていましたがシートベルトを」
遅いよ、と文句を言おうとしたその時だ。重い衝撃音が響いて、車体が揺れた。後ろから何かが衝突してきたのである。僅かな沈黙の末に、タイラが空咳をした。
「ここから得られる教訓が何かわかるか?」
「え……何……?」
「後部座席でもシートベルトをしましょう。それと――――前の車が急ブレーキをかけることも想定して正しい車間距離を守りましょう、だ」
「言ってる場合か?」
仕方なさそうに頭をかいたタイラが、車から降りる。ユメノたちも恐る恐るドアを開けた。
端的に言えば例の上半身だけの女性はタイラの車に完全に突っ込んでおり、頭が抜けない様子だった。タイラは呆れた様子で「いや、そうはならんだろう」と言い、ユウキが目をぱちくりさせながら「でもなってますよ」と指をさす。
タイラは車のトランク辺りを左足で押さえながら、女を引っ張り出そうとした。
「お前、ひとの愛車に何てことしてくれてんだ。弁償しろ、弁償。警察呼ぶぞ」
小さな呻き声と共に『かんべんしてください』と聴こえた。
ようやく引っこ抜けた女は、先ほどより幾分か血まみれになって泣いていた。どうやら反省の意思はあるようだ。タイラは懇々と説教をして、「まあお前の気持ちもわかるが」とため息をつく。
「お前も、未練に引っ張られて現世に縛り付けられているのは苦しかろう。経の一つくらい読んでやるから来世に期待したらどうだ」
女はまた小さく呻き、タイラは瞬きをしながら「……いい子だ」と呟いた。
それからタイラは懐から数珠を出し、膝を折る。口を開いて、低い低い囁き声のような読経が始まった。
じっとタイラを見てから女に目を移したが、すでにそこには女の姿はない。「あれ……」ときょろきょろ辺りを見渡すと、タイラが息を吐きながら「ご苦労さん」と目を閉じた。
「次の世では満足して生を終えられるといいな」
立ち上がったタイラがユメノとユウキを見て「怖い思いをしたな。SAN値チェック入れるか?」と腕を組む。「産地チェック? なんで?」とユメノは怪訝そうな顔をした。「大丈夫そうだな」とタイラは頷く。
「さて、お客様。またお乗りになりますか?」
「乗れますか?」
「タイヤが動けば問題ない」
「果たしてそうでしょうか……」
てかさぁ、とユメノは眉根を寄せた。「もう遅いんだけど、あたしたちお金持ってないんだぁ」と申告する。タイラは喉を鳴らして笑い、「構わないとも。どうせ帰り道は同じだからな」と肩をすくめた。
「飛ばないんですか?」
「疲れたな」
「飛ぶのって疲れるんだね」
大人しく車に乗ったユメノたちは、運転席のタイラに「車だと山まで何分かかる?」と聞いてみる。タイラはシートベルトをしながら「30分くらいじゃないか」と答えた。
「後ろもシートベルトしろよ」
「学習しました」
「よし、いい子だな」
発進し、窓の外の景色が過ぎ去っていく。「迎えに来てくれてありがとう」とユメノは言った。タイラは、「たまたま通りがかっただけだよ」と話す。
不思議だと思った。会って数日のこの男が、どうにも自分たちを大切に思っているように感じられて仕方ない。ひどい思い上がりだとしても、そういう風に思わされるのが不思議だった。思えばあの山のひとたちはみんなそうだ。今までユメノたちが出会った誰よりも、ユメノとユウキのことを大切にしてくれているような、そんな気さえする。まるでどこかで出会ったことがあるように、懐かしさまで感じる。
「タイラってさぁ、」
「ああ」
「一言でいうと何なの?」
「お前……『一言でいうと何なの?』とかいう俺が一番聞きたくない言葉をそんなに軽率に言うんじゃない。狂うぞ、俺が」
ユメノは慌てて「あのね、だってね、」と弁解しようとした。
「困っちゃうよ、たくさんあると。全部知りたくなって、好きになっちゃうもん。だって、あたしはもうタイラが神さまなんかじゃなくて普通の人間ならいいのになって思うんだよ」
一瞬の沈黙の後で、「それなら俺は神だ。お前たちと相容れることはない」とタイラは静かに呟いた。ユメノはぎゅっと拳を握りながら「そっか」とこぼす。
「そっか、うん。じゃあ……わかった。神さまなんだね」
「そうだ」
明らかな拒絶の色に、ユメノは内心少しだけショックを受けながら、やはり少しだけほっとしたりもした。当然ながらこのひとも、人ならざるものなのだ。だからユメノたちを助けてくれたのだ。そこに何の他意もないはず。神だから人を助けたのだ。そう思うことにした。
そんなユメノを不思議そうに見てから、ユウキが身を乗り出す。
「神さまのままでお坊さんみたいなことができるんですか?」
「読経のことか。また難しいことを聞くな……。出来ないこともないんだ、大体のことはな」
そうなんですか? と首をかしげるユウキに、タイラは「正直俺の神性についてはややこしいことが多いので詳しく説明したくないんだが」と苦笑した。
「信仰によって神性を得た影響については、俺のやることなすこと全てにマイナス補正がついていると考えていい。…………まあ、概ねな。概ね、そうだ」
「すごく含みのある言い方するじゃん」
「あと俺は神である限りは非武装だ。何かを殺傷するような武器を持たない。そこら辺に落ちている傘で何かをぶん殴ることは可能だが」
「神さまになっても物騒さを捨てきれなかったんだね」
「これでも抑えられているはずなんだが」
「それで? 元々どんな暴力的な人間だったの? お坊さんだったのに?」
タイラはハンドルを切りながら「天狗というのはそもそも生臭坊主のなるものなんだ」なんて言う。そうかな、とユメノは思ったが黙っていた。
「そういえば今日、幸枝さんに会ったんだけど」
「彼女も里に下りて色々やっているからな。今の彼女は何をしていた?」
「図書館の司書さん」
「彼女らしいな」
「そういう話、しないの」
「聞いたこともある気がするが、忘れたな」
「呆れた」
涼しい顔をしてタイラは笑う。こういう時このひとは本当にただの人間みたいなので、ユメノはまた『ここにいるのは神さまなのだ』と思い直す必要があった。空咳をして、ユメノは口を開く。
「幸枝さんから話、聞いたんだよ。幸枝さんは昔、タイラに捧げられた供物だったんでしょ?」
「……そうだよ。まったくあの頃の人間と言えばひどかった。人身御供など、どこの神が最初に求めたんだか」
「幸枝さんと実結ちゃんを助けるために、タイラは二人を妖怪にしたんだって言ってた。どうしてこの前、誤解しちゃうようなこと言ったの?」
「誤解しているのは彼女だろう。俺はあの二人を救おうとして妖怪にしたのではないよ」
「じゃあ、何?」
タイラは黙って、瞬きをした。それから不意にユメノに対し、「お前は本気で、俺が人間だったならいいと思うか?」と尋ねた。いきなり話をぶり返され、驚きながら咄嗟に「その話はもういいって」と否定してしまう。タイラはまた瞬きをして、「……欲だろうなぁ、あれは。俺自身の欲で、彼女たちを妖にしてしまった」と呟いた。
「それも、よりによって雪女とはな。素質があったんだろうが、それ故に彼女は“親である”という狂気を得てしまった。雪女というのは姑獲鳥とも並ぶほどの子煩悩な妖怪だからな」
「元々の性格じゃなくて?」
「ああ……うん、まあ……それもちょっと否定できないところがあるよ、彼女は」
ふっと笑ったタイラが、「そんな子煩悩な彼女が、お前たちの帰りを今か今かと待っているだろうな」と肩をすくめる。
山へ帰ると、タイラの言った通り都がユメノとユウキのことを待っていた。転んだ時に擦りむいたのか、ユメノの膝の傷を目ざとく見つけてはすぐさま処置をし、『やっぱり私もついて行けばよかった』と言って寝込んだ。そ、そんなに…………。
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