第3話 夢とうつつに同じ光を見た

 目を開ける。薄靄の中で、やはり自分を呼ぶ声が聞こえた。


「誰?」


 そう、ユメノは呟く。これが夢であることは何となくわかっていた。ただその声の主を求めていた。あるいはそんなことはずっと最初からわかっていて。

「お、」


 口を開いた瞬間に手を掴まれる。振り向けば、そこにはユウキが立っていた。「ユメノちゃん!」と呼んでいる。あれ、と思うとユウキの後ろにはノゾムがいた。

「えっ??? ノンちゃんなんで???」

「まあちょっと気にかかったので、軽く夢に干渉してみたんですが」

「そんなこと許されます???」

オレが許したんですがダメでしたか」

 言いながらノゾムは辺りを歩き回る。「うーん、やっぱタチの悪い妖に憑かれてんのかなぁ」と首をかしげた。


「ユウキのこと連れてきたのもノンちゃん?」

「いえ、ユウキくんはそこにいましたけどね。同じ夢を見てたんでしょ」

「どゆこと?」

「さあ……“見せられている”って言った方がいいのかな」


 どれどれ、と靄をはらおうとしたノゾムの手が止まる。声が聞こえたからだ。顔をしかめたノゾムが、「何を言っているんだ……」と呟く。ユメノとユウキは不思議な顔をして「あたしたちの名前を呼んでるよ?」「はっきりしゃべってるのに、ノンちゃんには聞こえないんですか?」と首をかしげた。

「どこかで聞いたことあるのにな、この声。どこで聞いたか思い出せないの」

「そうですか? ぼくは全然、聞いたことないと思いますけど」

「えー? 嘘だぁ、絶対聞いたことあるのに……」

 うーん、と考えてユメノは腕を組む。違う違う、そうじゃない。ユメノはその答えを知っているのだ。

 顔を上げて、口を開く。


「おかあさんのこえだ」


 瞬間、耳元で『見つけた』と囁き声が聞こえた。視界が暗転する。こちらに手を伸ばすノゾムの姿が見えて、そして急速に遠ざかって行った。






 石段の上で頬杖をつきながらノゾムは目を開ける。

「……締め出シャットアウトされた…………?」

 立ち上がり伸びをして、「うーん……困ったな」と眉をひそめた。それから仕方なく懐から通信機器端末を取り出す。何度かコールをし、相手の応答を待った。


『……何だ、この夜中に。俺は仕事中だぞ』と、タイラは言う。

「厄介なことになりそうなんでちょっと来てもらっていいすか」とノゾムはため息をついた。


 タイラは何やら逡巡しているようだったが、『厄介ごとなら首を突っ込みたくないんだが』などと言ってのける。ノゾムは少し苛ついて、「あんたにも責任がある」と訴えた。

「あの子らに何かあったらあんただって困るでしょうに」

『あの、里の子か』

「とにかく戻ってきていただけます? もしかしたら手遅れになるかもしれないんで」

 向こうで肩をすくめるような気配がある。『わかったよ』とタイラが言った。早く来てくださいよね、と釘を刺してノゾムは端末を折りたたんでしまう。

 1分とかからずタイラは現れた。天狗面でその表情は見えないが、些か不満そうな空気ではある。神社の境内に降り立って、「説明しろ」と高圧的に促した。

「昨日の昼間にユメノちゃんとユウキくんが、『同じ夢を見た』という話をしてましてね」

「その時点ですでに面倒な臭いがするな」

「でしょ。なもんで、先刻ちょっと二人の夢に干渉してみたんですが」

「それもお前の得意分野だったか?」

「割と得意なつもりでいたんすけど、弾かれちゃったんすわ」

?」

「見事にシャットアウト。オレだけ夢から追い出されちゃいましたよ。オレを、っすよ?」

「ほお……」

 腕を組んだタイラが「それは確かに、そこらのちんけな化生とは思えないな」とため息をつく。


「というわけであの二人の様子を見に行こうと思うんですが、物理的に攻撃されたくないので先輩も一緒に来てくださいよ」

「それは構わないが……」


 そしてノゾムは両手を広げてスタンバイした。「それは何をしているんだ?」とタイラが言うので、「オレを抱えて早く飛んでくださいよ! その背中の翼は見せかけかよ!」と叫ぶ。「お前らって基本的に俺を飛行要員としてしか見てないよな」とぶつぶつ言いながらタイラはノゾムを小脇に抱えて飛び上がった。




 都宅にはこれまた数秒でたどり着いたものの、当惑しきった都に話を聞いてユメノとユウキがすでにこの場所を後にしていることを知る。都は大変申し訳なさそうにしながら、「神社に行くといきなり言い出したのよ。送っていくわと言ったのだけど、私が支度をしている間に二人とも外に出てしまったみたいなの。言われてみれば様子がおかしかったかもしれないわ……」と話した。ごめんなさいね、とひどく落ち込んだ様子だ。

「いや……君のせいというわけでもないだろう。こちらの管理不足だ」

「そっすね、主に先輩のせいっすね」

「そうだな、俺のせいだな」

 都には『危険なので実結と一緒に家にいるように』と伝えて、その場を後にする。タイラとノゾムは顔を見合わせ、「厄介っすね」「まったくだ」と言い合った。


「誘導、あるいは乗っ取られたと考えるべきか?」

「二人同時にっすよ。相手は複数か、それなりの力を持った妖ですかねえ」

「しかも、神性の匂いがしやがる」

「それ」


 顎に手を当てながら「まあ……お前の結界を破って山に入ってきたことからも、あるいはそうかもしれんとは思っていたが」とタイラは言う。

「相手は神性持ち……お前と同等の」

「オレと同等ってことは、たぶん今のあんたとも同レベっすよ」

「……厄介、だな」

「ほんとそれ」

 仏頂面のまま、タイラとノゾムはてんでバラバラの方向を見た。そのまま「最終的な責任は?」「あんたに決まってんでしょ、あの子らを山に置いとくって決めたのはあんたなんだから」と押し付け合う。しばらくの沈黙の末に、「助けりゃいい話か」「そりゃそうですよ」と落ち着いた。


「しかし、どこに行ったかね」

「神社に行くって言ってたらしいですけど、それはないでしょうからね」


 うん、とタイラが頷く。「こういう時はアレだな」と人差し指を立てた。

「カツトシの出番だろう」

「それは確かにそうなんですけど、この状況で呼んで怒られません?」

「わからん。あいつを呼び出して怒られなかったことがない」






 案の定というか怒り狂うカツトシを、ノゾムは半目で見る。

「あんたたち、いつもいつも神様ぶってるくせに何やってんのよッ。ほんと役に立たないわねッ」

「まあ……っすね……」

「あの子たちに何かあったら殺してやるんだからねッ」

「おう、やってみろ」

「先輩黙って」

 ふん、とカツトシは鼻を鳴らした。「視ればいいんでしょう、やるわよ」と両目を覆っていた布をこともなげに外す。



 目を開ける。雲の隙間から月の光が差し込むように、その黄金色の瞳が開かれた。


 そうしてカツトシはゆっくりと周囲を見る。視る。ぐるりと見渡し――――不意に「向こう」と指さした。「よしっ」と言ったタイラがカツトシを腕に抱えて宙に浮く。

「ちょっと。もう飛ばないって言ったでしょ」

「あいつらを助けるためだ。お前がいなきゃ場所がわからん」

 諦めた様子で、カツトシは苦い顔をした。その横を、立派な雄狐が駆ける。


「あら、久しぶりに見たわねその姿」

「いやオレだけ置いてかれるわけにもいかないんで」

「そっちの方がいいわよ、あんた。もふもふしてて」

「っすかね? もふもふしてていいっていうのはちょっと複雑だな……」


 それで、とノゾムは神妙な顔で尋ねる。「ユメノちゃんとユウキくんは無事でした?」という問いに、カツトシは「今のところね」と答えた。

「ユメノちゃんは、あれは完全に操られてるわね。心が読めない。ユウキは……操られては、いないみたいね……。とても不安がっているわ」

「ユウキくんは操られてないんすか」

「ええ。ユメノちゃんが心配でついて行ったんでしょう」

「……相手は?」

「女の姿をしているわ。でも人間ではないわね……妖怪……まあ、妖怪ではあるけど……魂が変な色してる。あんたたちと似てるわよ」

「やっぱ神性持ちかぁ」

 不可視を視る力を持ったカツトシにとって、透視は基本的に容易い。今も、山の向こうで囚われているユメノとユウキの姿がはっきりと視えている。ユメノはほとんど眠っているようだが、ユウキはひどく怯えていた。そんなユウキに、女が近づいている。「ちょっと急いでよ」とカツトシはタイラの腕を叩いた。






 近づいてきた女が、「あなただけなぜ起きてしまったのかしら」と首をかしげている。美しい女だ。長い髪はさらさらと動いて、女の顔に影を落としている。ユウキはじっとその女を見た。

「あなたはだれですか?」

「わたくし? わたくしは、あなたたちの母よ」

「ちがいますけど」

 目を丸くした女が、「すごく正気じゃありませんの、びっくり。これはどうしたことかしら」と呟いた。ユウキは躊躇いながらも「ユメノちゃんに何したんですか? 元にもどしてください」と頼む。ユメノはと言えば、目を開けているがぼんやりしていて話もできない有様なのだ。


「その子はとっても素敵な夢を見ているのよ。あなたにもいい夢を見せて差し上げる」

「そういうの大丈夫です」


 困った子ですわねえ、と言いながら女はユウキに腕を伸ばす。その腕に黒い羽根が生えていることにユウキは気づいた。よく見れば、毛皮のコートだと思っていたのは黒い艶々した翼だ。

(鳥…………?)

 女はユウキの頬を撫でる。「私の可愛い坊や。あなたのことも幸せにして差し上げるのに」と甘い声で囁いた。ユウキはうつむいて、「でもぼくたちは二人で生きていくって決めたから」と拒絶する。


「本当に困った子。どうしてあげましょうかしら。今までの記憶がなくなれば、私を母と思ってくださる?」

「ひよこ? ひよこみたいな話ですか? 生まれてすぐ見たものをお母さんだと思うっていう……」

「人間もそんなもんですわね」

「絶対にちがうと思いますけど……」


 いいから、と女がユウキの額に手を触れた。「ひとまずもう一度眠っていただきましょう。次は綺麗に夢を見てくださるといいのだけど」と微笑む。ユウキは後ずさりながら、「やめてください」と叫んだ。



「誘拐犯、みーつけた」


 そんな声とともに、風が巻き起こった。思わず目を閉じるユウキの首根っこを、誰かの腕が掴む。気付けばユウキは大きな狐の背に乗って、カツトシの腕の中だった。慌ただしく動く視界の隅で、タイラが女に殴りかかるのを見る。女が舌打ちをすると、その周囲がパッと明るくなった。

 火だ。女とユメノを守るように火が囲う。「あ? 何だこれ」と言ってタイラがそれを睨んだ。


「先輩! 一旦引きます!」と狐が喋った。「キツネ……しゃべった……」とぽかんとするユウキに、「わー、その反応新鮮だなぁ。オレっすよ、ノゾムお兄さんっす」と狐は苦笑する。それからまだ呆然としているユウキを連れて、その場から遠ざかった。

「! 待って。ユメノちゃんが」

「君のお姉ちゃんは絶対取り返すんで! 今は引きます! つうかアイちゃんさん重てえ~~~~」

「ぶっ殺すわよ」


 すぐにタイラが追いついて、「あれは何だ? 妖であるのは間違いないが、近くで見てもやはり神性は感じるな」と眉をひそめた。ユウキは「ぼく、ぼくわかったかもしれません」と言ってリュックサックから本を出す。

「これ。この妖怪だと思う」

「……姑獲鳥こかくちょうだぁ?」

 開いたページに、おどろおどろしい鳥の妖怪の姿と人間の女の姿が一緒に描かれている。姑獲鳥とは、人に化けて人間の子を攫う鳥の妖怪だ。出産に耐えられず死んでしまった母親であるなど、多くの伝承がある。


「姑獲鳥というと、それほど強い力を持つ妖怪ではないが……」

「まあでも、子を攫う妖怪の中じゃ一番メジャーですかねえ」


 アイちゃんさんはどう思います、とノゾムが尋ねる。カツトシは神妙な顔をして、「あの妖怪の心を読んだわ」と静かに言った。「うわ有能。有能オブ有能じゃないすか」「お前が優勝」と神どもがはしゃぐ。

「心象風景を見るに、ってことはわかる。恐らくこの国ではないわね。東洋ではあるけど……」

「東洋ねえ。俺はあの女を、どこかで見たことがあるような気がするんだが」

「思い出してくださいよ、そういうのは」

「東洋……信仰対象……姑獲鳥…………」

 しばらく考えていたようだったが、唐突にタイラは「思い出したぞ」と顔を上げた。


「鳳凰だ。あれは、鳳凰だった女だな」


 一瞬の沈黙の後で、ノゾムが「鳳凰!?」と目を見開いた。

「鳳凰!? あれ、あの、あれが、鳳凰!?」

「声がでけえなぁ」

「五行の中の“火”を指揮し、羽根あるものの王と言われた、あの鳳凰!!? 神の使いじゃないすか!!!」

「そう言われることもあるな」

「オレらより全然格上なんですけど~~~~」

 タイラは空咳をして「しかし落ちぶれたもんだな、姑獲鳥とは」と肩をすくめる。「つまり相手は鳳凰崩れの姑獲鳥ってことすか」とノゾムが瞬きをした。


「? 昔はすごい神の使いでも、今は妖怪でしょう」

「まあ、そうなんすけど……。あれも信仰を力とするタイプっぽいんで、ちょっとね」

「若いころアイドルやって稼いだ金が今も残ってるし、そもそも未だに当時のグッズが売れ続けてるみたいな話だよな」

「宗教とアイドル業を一緒にするのはどうかと……いや似たようなもんか」


 ああだこうだ対策を話し合うタイラとノゾムを尻目に、カツトシが「あっ」と口を開いた。「ちょっとヤバいかも。もうちょっと高く飛んでくれる? そしたらあんたらにも見えるから」と指示する。ノゾムがカツトシとユウキを背中に乗せたまま、タイラに飛びついた。「おいマジかおい」と言いながらもタイラはやっとの思いで上昇する。

 木々の中を見下ろすと、姑獲鳥の女がユメノを抱いて歩いていた。その後ろを、黒い影がついて回っている。鳥だ。鴉や雀、鳶や鷹もいる。そして現世うつしよのものではない――――妖もそこにはいた。全て羽根らしきものを持っている。

「あー、さっき言ってたやつ。何だったか」

「“羽根あるものの王”ですかね」

「それだ」

「百鬼夜行ってますね、鳥類で」

「百鬼夜行ってるな、俺の山で」

「てかあんたも羽根ありますけど、大丈夫すか?」

「そう思うとムカつくな。あの女を王とは認めていないんだが。俺の知らない間に選挙でもあったのか?」

「まず先輩に選挙権がないでしょ」

 言ってる場合じゃないわよ、とカツトシ冷静に口を挟む。「あれじゃあ近づけないわ。少なくともユメノちゃんを無事に奪還する隙がない」と指さした。

「どうしたものか」

「うーん……まずユメノちゃんを奪還することだけ優先すれば手はありますけど」

「どんな?」

「動きを止めればいいわけでしょ。それならうってつけの人らがいるじゃないですか。属性的にも今回最高ですよ」

 そんなノゾムの話に、タイラが難色を示す。「あー、まあそうかもしれんが……しかしなぁ」と煮え切らない態度を取りながらも、地上に降り立った。






 鳳凰崩れの姑獲鳥――――名を、美雨メイユイという。朧げな記憶の中で、彼女は自分が信仰の対象であったことを覚えてはいたが、今では全てが遠き事であった。

 美雨は愛らしい少女の髪を撫で、「ああ私の子」と囁く。少女はぼんやりと虚空を眺めていた。「ずっと夢を見ましょうね、素敵な夢を見ましょうね」と抱く。


 ふと、空気がざわつく。美雨の僕である怪鳥どもが騒ぎ始めたのだ。舌打ちしたくなる気持ちを抑え、「何の騒ぎです、静かになさい」と諌める。

 ぽうっと目の前に現れたのは、火だ。あたたかそうな、やわらかい光を放つ火。数十、数百と増えていく。それに追い立てられて、鳥たちは散り散りになっていた。美雨は眉をひそめ、じっと前を見据える。

 狐面の青年が立っていた。こんばんは、と軽やかに挨拶をする。


「ところでここがどこだかご存知です? ひとんちで随分好き勝手やってくださってますね。キレそうっすわ」


 神――――? 否、神の分身か。恐るるに足らない。


 火の玉を自らの炎に取り込みながら、「私に“火”で対抗を?」と尋ねた。青年は平然と「まさか」なんて肩をすくめる。

「オレはただ、有象無象の鳥類がぎゃあぎゃあとうるさいので散らしただけっすよ。元からあんたに効くとは思ってない」

 美雨は青年と睨みあった。分身であれど神。油断はできない。かの狐面を見る限り、この青年は荼枳尼天――――あるいは稲荷神の分身だろう。知名度的にも悪くはないが、何か手の内があるとも思えない。

「やっぱ属性の有利不利ってのは大事っすよねえ」と、青年はにこっと笑った。


 不意に歌が聴こえてくる。わらべ歌だ。それをうたっているのも、どうやら子どものようだ。

「あめあめ、ふれふれ。かあさんが」とあどけない、しかし明瞭な声。「じゃのめでおむかえうれしいなーっ」と聴こえた瞬間、美雨の頭上だけが翳った。見上げたときには手遅れで、ザッと雨粒が落ちてくる。

 炎の勢いが弱まった。「雨を降らせる妖……?」と呟けば、幼い少女が顔を出す。じっと美雨を見つめて、「ユメノおねえちゃんかえしてくれなきゃ、ダメだよ」と瞬きをした。

 しかし美雨は特段焦ってはいなかった。この水滴を蒸発させるくらいに燃やせばいい。火を、と思ったその時だ。


 風が吹いた。冷たい。――――

 濡れた体が凍っていく。その痛みに悲鳴を上げれば、幼子おさなごの横に女が立っているのが見えた。

「……こんにちは、姑獲鳥。私は雪女。あなたと同じ、子を抱くことでしか満たされない妖よ。ごめんなさいね。ユメノちゃんそのこ……もう私の子だから」

 それは違うと思いますよ、と狐面の青年が冷静に突っ込んだ。


 体が動かない。美雨は歯を食いしばって睨むが、「じゃあご返却いただきますね」と言いながら狐面の青年が未だ朦朧としている様子の少女を抱きかかえた。

「後はよろしくお願いします、先輩。適当に相手しといてください」

「簡単に言うなよな」

 新たに現れたのは天狗面の男だ。確か先刻、問答無用で美雨に殴りかかってきた。


 美雨は炎を集める。凍り付いた体が溶けてきた。そのまま水滴を蒸発させれば、もう自由だ。

「返しなさい、わたくしの子……!」

「お前のじゃねえっつうの」

「そうね、私の子だもの」

「幸枝ちゃんちょっと黙って。ややこしくなるから」

 雪女が天狗面の男に耳打ちをする。「私も実結も、そう何度もはできないわ」と申し訳なさそうに話し、天狗面の男は頷いた。

「十分だ。君らのおかげであの娘を奪還できた。こんな夜更けに呼び出して済まなかったな。避難していてくれ」

 天狗面の男が幼い少女の頭を撫でる。そして雪女が頷き、一歩引いた。そのまま二人、背中を向けて駆けて行く。


「お前、美雨というらしいな」


 そう、天狗面の男が軽薄な口調で話しかけてきた。「なぜそれを」と美雨は眉根を寄せる。「いやこちらに真明看破が異様に得意なやつがいてな。悪いが読心についてはチート級なんだ」と男は言った。

 美雨は舌打ちをして、「神性が二柱に、雪女に雨女、それと心を読む妖? どうなっているんです、この山」と吐き捨てた。「まあいろいろあってなぁ」と天狗面の男は苦笑する。

「大体、そんな面子でいたいけな小鳥一匹いじめるなんて卑怯だと思いませんこと?」

「いたいけな小鳥なんてどこにいるんだ? いや本当にどこにいるんだ? 俺には傲慢な誘拐犯しか見えないんだが」

 まあ、と呟いて男は拳を握った。「お気に召さなかったのなら謝ろう。そしてここからは」と天狗面の下で破顔する。

「俺がタイマン張ってやるつってんだ」

「はぁ~~~~?? 頼んでませんけど~~~~??」







 ユメノを抱いて戻ってきたノゾムが、嬉しそうに「いやぁ、上手く行きましたね。あの母娘おやこの殺意がギリギリ高かったおかげでほんと上手く行ったっすわ」と報告してきた。そんなことは聞いてもいないユウキは、すぐさまユメノに駆け寄る。

「ユメノちゃん! どうしよう、おかしいままです……!」

「うん。これは完全に洗脳ハッキングされちゃってますね」

 どうすんのよ、とカツトシが眉をひそめた。「やるしかないっす。ユウキくんにも手伝ってもらいつつ」と言いながらユメノの額に手を当てた。


「精神干渉には精神干渉でいくしかないんですよねえ。入りますよ」

「入る?? って、どこにですか??」

「精神世界っす。言わせないでくださいよ、恥ずかしいな。この歳で“精神世界”とか言っちゃうのマジで恥ずかしい。生まれて一世紀半辺りで卒業すべき黒歴史ですわ」

「??????」


 戸惑い切っているユウキの額にも触れて、ノゾムは「行きまーす」と力の抜けた掛け声を発する。「行くんですか!?」と言っているうちに、視界は暗転した。







 カトラリーの響き合う音が聞こえる。笑顔の母が、テーブルに料理皿を並べていく。父は冗談なんか言いながら、フォークを差し出してきた。母が笑う。ユメノも笑う。


 こんなことが、昔あっただろうか。どうだろう、わかんないや。


 優しくて笑顔の似合う母がいて、面白くて頼りになる父がいる。それと、それと――――

 何か足りない。誰かいない。ここは素敵な世界だけれど、見逃せないほど大きなものが足りない。ユメノが笑いかける相手は、

「ねえ、ユウキ」

 可愛い可愛い弟だ。




 カトラリーがカチャカチャと鳴る。荒々しい足音が、後ろから聞こえた。飛び込むような音。跳ねるような音。ユメノの背後から、ユウキが母と父を一緒くたに蹴り飛ばしていた。

 着地したユウキが、キッとユメノを見上げる。

「ぼく、ここにいますけどっ」

 そう言ってユメノの腕を掴んだ。ハッとして、ユメノは「ユウキ」と呼ぶ。

「“二人で生きていこうね”って、ユメノちゃんが言ったんですよ! ぼくはユメノちゃんがいればなんだっていいんだ!」

 変化のない部屋に、風が吹き込んでくるようだった。ユメノは顔をくしゃくしゃにして、「ごめん」と言う。「ごめんね、ユウキ」と顔を伏せればユウキはユメノの涙を拭った。


 そうして何もかも、白くなって溶けていった。




 目を開けると夜だった。当たり前だけれど、やわらかな光など差し込む隙の無い夜だった。ユメノは安心したような、残念なような、そんな気持ちでユウキの手を掴んでいた。

「いやあ、少年……ナイス飛び蹴りでしたね。ちょっと引きましたけど」と、ノゾムが言う。それからユメノに向かって、何か弱々しい炎のようなものを差し出した。暖を取るものだろうか。ユメノはそれを受け取り、抱きしめる。あたたかかった。やわらかな光だった。「ありがとう」と呟く。


 向こうから駆けてきたカツトシが、「ユメノちゃーん、よかったぁ」と抱き着いてきた。出会ったばかりなのにこれほど心配してくれるひとがいるのだから、また泣きそうだ。

「ありがとう、アイちゃん……。アイちゃん、目隠し外したの?」

「あっ、そうだった。どうりで視えすぎて気持ち悪いと思った」

 いそいそと目隠しをして、カツトシは空咳をする。「ユメノちゃんが戻ってきたのは嬉しいけど、事態はそれほど好転してないのよね」と肩をすくめた。それから、東の空を指さす。


「ほら狐、あんたにも見えるでしょ。集まってるわよ、鳥さんたち」

「ああ~、やっぱこっち来たかぁ。鳳凰様のご指示かな? あんなにたくさん……たくさん……? あれ、あんなにいましたっけ? てかめっちゃデカいやついません?」

「分裂したり合体したりするタイプの怪鳥がいたんじゃない?」

「そんなウルトラ怪獣みたいな展開、誰に断って……」


 空を舞う鳥たちを胡乱な目つきで見つめ、「あーやる気が出ない。身体を張りたくない」とノゾムは言った。それをカツトシがじとっと見る。

 必死の思いでユメノはノゾムの腕を掴んだ。「あたしのせいでこんなことになっちゃったの、ごめんなさい。でも、お願い、神様。ユウキのこと守って」と頼む。目を丸くしたユウキが、「ユメノちゃんのことを守ってください! ねえ神様、おねがいします」とノゾムの肩を揺さぶった。うーん、とノゾムは顎に手を当てる。


「そもそも君たちのせいではないんですけどねえ。この山じゃ、よくあることですし。むしろ『やっぱり君らを巻き込んでしまったなぁ』という思いでいっぱいですが。……それはそれとして、悪くない信仰心っす。ありがたく頂戴するっすね」


 ノゾムが狐面を外す。その素顔が見える前に、すっかり姿かたちが変わってしまった。ユメノは口元に手を当てて「き、きつね……」と呟く。ユウキも驚いた顔で「さっきより大きい……」と瞬きをした。

「二人とも、乗って。アイちゃんさんは置いてっていいっすね?」

「自分の身ぐらい自分で守れるわよ。ちゃんと二人のこと守んのよ」

「色々スミマセン。今度、お礼します」

「モフらせてよ」

「それはどうかなー」

 ノゾムだと思われる狐の周囲に、小さな丸い火がいくつも浮かぶ。どうやらノゾムが操っているらしい。火は、そして怪鳥たちを囲んだ。


「そこに有象無象の鳥類がいて、狐が一匹いるとしたら…………どう考えても、狐の方が狩る側だと思いません?」


 凛と響く声。りんと鳴る鈴。惹きこまれるように、鳥たちがこちらを追いかけてきた。狐は駆ける。何もない空を足掛かりに駆ける。

「ど、どこ行くの?」

「オレの領域ですよ」

 狐の尻尾がユメノとユウキの腕に絡んだ。落ちないよう、シートベルト代わりだろうか。よく見ると尻尾が四つほどある。色々あるなあ、とユメノはもう難しいことを考えないようにした。


 古びた神社が見えてくる。薄靄のかかった闇の中で、赤い鳥居はひどく異質なものに思える。

 ノゾムはそのまま鳥居をくぐった。


 怪鳥たちも、我先にとぎゅうぎゅうに詰まりながら鳥居をくぐる。ユメノとユウキを降ろしたノゾムは、もう人の形をしていた。尻尾が残っている。立ち上がろうとしたユメノを見ないまま制し、「顔を見てはならない」とはっきり告げた。

 尾に炎を帯びる。ノゾムの周りだけが妙に明るかった。かみさま、とユメノは呟く。そしてノゾムは右腕を上げた。


「一体誰の赦しを得て、鳥居をくぐった――――?」


 ぞくりと背中が粟立つような感覚。「不敬たるものよ、不浄なるものよ」とノゾムは続ける。

く土に還るがいい。肥やしにでもなるといいんすけどねえ」

 そしてノゾムが、右手を結んだ。瞬間、爆音とともに境内が燃え上がる。思わずユメノとユウキは「あわわわわ」と声を漏らした。


 炎は他の何も焼き尽くさずに、鳥たちを灰にして綺麗に消える。「え、えげつな……」とユメノは腰を抜かした。いつの間にかノゾムの左手には狐面が握られており、ノゾムはそれを丁寧につける。

「コレやると後で本部に始末書出さなきゃいけないから、あんまりやりたくなかったんすよね」

「始末書とかそういう問題じゃないんだけど……ああいうのやるんならやるって先に言っといてよ……超怖かった……」

 ノゾムは伸びをして、「さーて君らを里に下ろそうかな」と言い出した。「もう、この山が危ないってことはわかったっすね?」と横目でユメノたちを見る。


「……うん。邪魔になるなら、下りるよ」

「いい子っすね。送っていきますよ」


 そんなユメノとノゾムの腕を、ユウキが掴んだ。「どうしたんすか、少年」とノゾムは怪訝そうな顔をする。まだ、とユウキは拳を握った。

「まだタイラが戦ってるでしょ!」

 そうなの? とユメノは眉根を上げる。「あー……そうかもっすね」とノゾムはすっかり忘れていた顔をした。

「えーでもめんどくせえな。何だかんだ勝ってたりしないかな、あのひと」

「行こうよ! 勝ってたら勝ってたでいいけど、負けてたらシャレにならんって」

 大丈夫でしょあのひと死なないし、と渋るノゾムを急き立てる。仕方なさそうにノゾムはまた狐の姿になった。


「ああ、そうだ。どうせ行くんなら作戦を立てましょう」

「作戦?」

「ユメノちゃんにやってもらいたいことがあるっす。いいすか」


 ノゾムはユメノに耳打ちをする。聞きながら、「何それ。ほんとにそんなことやって意味あんの?」とユメノは首をかしげた。







 うーん、とノゾム(人間体)は顎に手を当てて笑っている。目の前でタイラと美雨が激しくやり合っていた。

「割と善戦してて草」

「さっき、『何だかんだ勝ってたりしないかな』とか言ってなかった?」

「いや、あのひとの属性どちらかというと風だし、めちゃくちゃ不利だろうなぁと思いながら置いて来たんで。てかそもそも神格が違うんで」

「ひどい……」

「でもこの分だと一週間ぐらいほっとけばワンチャン勝つんじゃねえかなって気持ちと、一週間もやらせてたら山が大変なことになってしまうなって気持ちのせめぎあいが起こってますね」

「止めようよ……」

 しょうがないっすね、と言ってノゾムは腕を広げる。狐火がいくつか浮かんだ。「ユメノちゃん、言った通りにお願いしますね」と言って、そのまま火を飛ばした。


 タイラと美雨の間を掠めていった狐火に舌打ちをして、タイラの方が引く。天狗面をずり上げ鼻血を拭いながら、こちらを見た。

 顔を真っ赤にしながらユメノは声を張り上げる。


「やーい、天狗野郎!!」

「あ?」

「正体見たり、偽神様!! お前が本物の神様であるもんか!! 他に正しき山神様がいるに違いない!! ほら見ろ、今に化けの皮が剝がれるぞ!!」

「…………まったく、礼儀のなっていない小娘だ」


 突風とともに、たくさんの声が聞こえた。


『山神様』『どちらにいらっしゃる』『どこ』『鎮めなければ』『お鎮まりください』『どうか』『お鎮まりくださいませ』『どこに』『はやく、はやく』『山神様を鎮めなければ』


 なにこれ、と呟くユメノの背中をノゾムが支える。「信仰が、スケープゴートを探してるんですよ」と囁いた。

「ほら、

 そう言われタイラに視線を戻したユメノは、思わず息をのむ。ボロボロと崩れていく。山伏らしい結袈裟も、天狗の面も。

 その代わり彼は笠を被り、手には錫杖を掴んでいた。完全に修行僧の出で立ちだ。


「あのひとは信仰を枷とする神だと言いましたね」とノゾムはぽつり、呟いた。ユメノとユウキは神妙に頷く。

「今、君はあのひとが神であることを心の底から否定した。思うに元からあのひとのことを神とは認めていなかったのでは?」

「うっ……だって神様っぽくないんだもん……」

「だからこの手が使えた。信仰は今、スケープゴートを探して山を彷徨っている。該当存在がいない限りいずれあのひとの元へ戻ってくるでしょうが、それまであのひとは大天狗様でも山神様でも、山そのものでもない」

「天狗でも、山神でも……?」


「あれは、生前に僧として仏道を学んだ怨霊だ。ただの、怨霊ですよ」


 タイラは錫杖を揺らし、鈴の音を響かせた。「何です……?」と美雨は警戒して飛翔する。「神性が感じられなくなった……。……? まさかそんなことは」とぶつぶつ独り言ちた。


「祇園精舎の鐘の声」と、タイラが口を開く。「諸行無常の響きあり」と続けて、笠を深く被り直した。

「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」

「なっ……なんです、その……」

「たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに――――風の前の塵に同じ」


 また、鈴の音が響く。

 ふとノゾムが「姑獲鳥というのは」と口を開いた。

「元となる謂れが生まれたときにどうだったかは知りませんが、海を渡って来るときには仏教僧にその伝承が持ち込まれたと言われてます。つまりこの国においては、仏道由来といっていい妖怪っすね」

「は、はあ……」

「で、仏道由来それなら何が一番効くかって、そりゃあ」

 ノゾムが話しているうちに、タイラの持っていた錫杖は槍へと変わっている。タイラの姿まで、いつのまにか黒い衣の僧兵へとすっかり変わっていた。タイラは槍を、空中の美雨に向けて構える。そのまま、踏み出した。


 一閃。真っ直ぐに向けられた槍が、美雨を撃ち落とす。


「坊さんの説法ですよね」

「坊さんの説法(物理)――――――――!」


 地面に転げた美雨が、脇腹を押さえながら血を吐いた。「ああ、ああ……」と呻いている。降り立ったタイラは、また槍を美雨に向けた。いつもより幾分か冷たく研ぎ澄まされた表情。そうして、はっきりと口を開く。

無間むげんなりや、地獄の果て。逃げられるとは思うなよ」

 悔しそうに歯軋りをした美雨が、「ぼうや」と吐き出した。「ぼうや、わたくしのぼうや。どこにいるのです」と、しきりに呼んでいる。


 ユメノとユウキはじっとそれを見て、足を踏み出した。「ちょっ、あぶなっ」とノゾムが腕を伸ばしたが、振り払っていく。と同時にタイラも踏み込んだ。槍を構えたまま駆けて行く。


 うずくまる美雨の前に立って、ユメノたちは両手を広げた。槍は、あと数センチのところで止まる。タイラは目を見開いて、こちらを見ていた。

 何もないはずの空中で、何か割れたような感触がある。ほっとした風のノゾムが腕を降ろした。今の一瞬で、ユメノたちの前に結界を張ったのだろう。

「おしずまりください」と、ユウキが声を張り上げる。タイラはぴくりと眉を動かし、槍を下ろした。得物はそのまま塵となって風に流れてゆく。タイラの姿も、僧兵からいつもの山伏のものに戻ろうとしていた。天狗面をつけ、「里の子らに感謝するんだな、姑獲鳥」と言って背を向ける。


 なぜ、と美雨が体を起こして問うた。「なぜ私を助けたのです」と。少し考えてユメノは、「よくわかんないけど」と口ごもる。

「お母さんだったから。あたしたちの本当の親より、一瞬でも、よっぽどあなたの方がお母さんだったから」

 ユウキは緩やかに首を振った。「ぼくはあなたをお母さんと思ったりしなかったけど」と否定する。

「だけど、そんなに子どもを愛している人なら、いいなと思った。子どもがうらやましいなと思ったから、助けたかったんです。本当の子に、会えるといいですね」

 てか大丈夫? とユメノが膝を折って美雨と目線を合わせた。「こんなに血出てるじゃん……ここ救急車来るかな」と呟く。美雨はといえば笑い泣きのような表情をして、「妖が医者に診てもらえるわけないでしょうに」と言って、やはりわっと泣いた。


 一方でタイラとノゾムは顔を見合わせ、どっと疲れた顔をする。

「び、ビビったな…………。人間、時々妙に蛮勇極まるからわからん。槍持ったおっさんはいきなり止まれないって学校で習わねえのか?」

「マジで結界が間に合ってよかったっすよ。人の子こわい。何考えてるかわかんなくてこわい」

 ユメノとユウキがちらりと見て「何ひそひそ喋ってんの」「感じ悪いです」と膨れ面をする。タイラもノゾムも、「いえ何でも」と神妙な顔をした。


 都宅であるログハウスに帰ると、都は寝ずにユメノたちの帰りを待っていた。「おかえりなさい」と抱きしめられて、ユメノとユウキは顔を見合わせる。もうすでに朝日が上がっており、それはやわらかな光だった。

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