第6話 オランジュリーの幻



「編集長さんて、オックスフォードのご出身だったんですか? すごいですね」

 楓が瞠目して、慨嘆の声をあげた。


「トールキン協会ですか」 


 小桜の眉間に皺が寄る。


「乃白瑠さん、トールキンって、あの『指輪物語』の作者ですよね?」


「うん」


 ジョン=ロナルド=ロウエル=トールキン。南アフリカのブルームフォンテン生まれ。オックスフォード大学でアングロサクソン語の教授として教鞭を取る傍ら、その神話的想像力をもって、12年もの歳月を費やし完結させたファンタジー小説、『指輪物語』は、24カ国で翻訳出版され、何百万人もの愛読者を生み出し、21世紀初頭に映画化された。そして、現在でもトールキンの『指輪物語』に魅了されたオックスフォード大学の生徒によって構成される研究サークルこそが、『トールキン研究会』であった。

 ベルサトリは立ち上がり、ベッドの脇にある書棚を見る。

 乃白瑠や楓もその書棚を見遣る。そこには古今東西の幻想文学の至宝とも言える名著が数多く所蔵されていた。


「うわぁ! ジェイムズ=マルコム=ライマーの『吸血鬼ヴァーニー』の初版本に、C=S=ルイスの『マラカンドラ』まである!」


「乃白瑠さん! それだけじゃないです! 日本のファンタジー小説もありますよ! これは、今は失われた伝説のロスト文庫! コレクター垂涎のレアな本ばかりですよ!」


 頓狂な声をあげる二人を他所に、ベルサトリはベッドの脇の机の上に置かれた日本語のある小説を見つけた。その作者は、日本人。名を優城美町。その題名は、『誘拐犯!』


(何故……?)


 ベルサトリは、その本を手に取る。パラパラと捲ってみる。おかしい。何が。書かれてある文字は印刷したものではなかった。それは、自筆でビッシリ日本語で書かれてあったのだ。そして、しおりの挟まっているページを開く。その場面を読んで、驚愕の表情を浮かべるベルサトリに、


「ウィズダム様。何かおわかりでしょうか?」


 執事がベルサトリに尋ねた。


「そうですね……。それは下で皆さんの前で説明しましょう」


 ベルサトリはその『誘拐犯』というタイトルが書かれた本を持ったまま、階下のリビングへと降りる。勿論、乃白瑠達も一緒だ。

 太陽が薔薇色の歩みを始めるまで、あと小一時間程ある。

 屋敷の周りには霧が降りている。


「で、この私達が解らなかったこの症例、説き明かせたのですかな」


 ベルサトリ達の診察を待っていた、先程の片眼鏡の老紳士が鼻をフフンと鳴らす。


「先程聞いた症状から察するに、典型的な小説依存症のようだな」


「ですね」


 ベルサトリの言葉に小桜が同意する。


「小説依存症だと?! そんな病名は聞いた事がない!」


「勿論、それはこの世ものではない。あの世、つまり霊界で付けられた病名だ」


「なんだと?!」


「あなた方は実際に『想像世界』に行った事がおありか?」


「いや」と、世界的にも有名な某大学の医学部教授の地位にある老紳士は否定するが、


「私はあるぞ」とエクソシストが答えた。


「象魔大戦にはキリスト軍第四喇叭ラッパ師団、第13魔術歩兵大隊を預かる将校として参加した」


「なら、今だに『想像世界』の存在を認めようとしない者共は置いといて、あなたにはお解りの筈だ」


 その言葉にエクソシストが頷く一方で、老紳士が歯噛みする。


「この世で書かれた小説の世界は、『想像世界』で『想像国家』として存在する。亡くなった人間は、生涯の間で読んだ小説の何れかで暮らす事になる。それは、宜しいか?」


「うむ。『聖書』という歴史を読み、天国を信じた人間がそこで暮らすようにな」


「そうです。そして、今問題になっているのは、ユラリアのようなパターンなのです。小説依存症とは、アルコール中毒の人間が酒を求めるように、小説なしではいられない人間の中毒症状の事です。彼女のようにフィクションである小説を多く読み、夢想の世界に耽溺していたようなタイプは、感情麻痺を起こし、日常生活に於いてドラマティックな出来事を望むようになり、更に症状が進行すると、現実と妄想の区別がつかなくなる。ユラリアが小説に出てくる怪物の葬式を出したり、墓を作ったのもその理由からでしょう」


「成る程」


「問題は、怪物に、もっと言えば、彼女は大魔王に感情移入をする傾向があるという点だ。これは日本の例だが、漫画『あしたのジョー』に於ける力石徹、漫画『タッチ』の上杉和也が、物語上で亡くなった時、愛読者達は葬式を出した。しかし、ユラリアの場合、全くの敵役であり、ザコキャラであるモンスター達の墓を作り、葬式を出す……。クリストファーさん、この屋敷には地下室に教会があった筈ですが」


 ベルサトリが執事に向かってそう言う。


「あ、はい。ございますが」


「我々をそこに案内して頂けませんか」


 その要請に対し執事は頷く。



 ベルサトリ達は執事の案内で地下室へと向かった。


「奥様は決して地下室へ誰も入れようとはなさいませんでした」


 そう前置きして、地下室へと通じる階段の扉の鍵を差し込む。そして、ベルサトリ達一行は地下室へと入った。


「こ、これは……!」


 エクソシストが震駭する。

 そこに広がっていた光景は、おどろおどろしいものだった。それは西洋には似つかわしくない、非常に東洋的な匂いのする光景。見る者が見れば、それは仏教、それも異端中の異端とされた儀式の祭壇である事に気づいたであろう。


「異端宗教!」


 ベルサトリが叫んだ。


 それは、密教において、男女交合を通して、その性エネルギーを利用し、変成意識状態に自らを導いていこうとする、所謂、性魔術の一種を行う流派の事である。

 それが、時代を越え、それも大陸の反対側にある英国に、今、こうして現出している? ベルサトリは一歩前に出る。そして、地下室の奥の壁の前に鎮座している仏像を見る。


「あ、あれは、鬼子母神か!」


 鬼子母神。インド神話に於いて、破壊神シヴァの分霊で、その妻の一人である暗黒の女神カーリーの事であり、それが仏教に取り入れられて、子供の成育と安産を齎すとされた神様である。


「乃白瑠さん。鬼子母神て?」 


 楓が乃白瑠に尋ねる。


「うん。あの仏像は間違いなく鬼子母神だよ。でも、何故?!」


 その会話を聞いていた片眼鏡の老紳士が、「鬼子母神とは一体何者だ。悪魔の類いか?」と尋ねると、エクソシストが蘊蓄を披露する。


「最初はな。その伝承はこうだ。性質が邪悪で、他人の子供を奪って食らう彼女は、五百あるいは千人とも言われる子供の末子である愛奴をお釈迦様に隠され、狂うばかりに嘆き悲しんだ。そして、『お前の大勢いる子供の内、一人いなくなってもそのようになる。まして少ない子供の内の一人がいなくなった親の心を察してみよ』と教え諭され、改心し、子供の代わりに石榴ざくろを食し、逆に子供を守る神となった、という訳だ」


 ローマ法皇庁のエクソシストなのに東洋の事をよく知っているという皆の目が集まる。


「コホン。我々の法皇庁には、世界中の神話や伝承を研究する法皇猊下の直属騎士団が心材する。私もそこで学んだだけだ」


 エクソシストがそう説明する間に、ベルサトリはその仏像の前に設えてある祭壇へと歩み寄る。そして、祭壇の上に置かれているある物を手に取る。


「編集長! そ、それ?!」


 小桜が叫んで口に手を当てる。 

 そう、それは紛れも無い人間の髑髏であった。その頭蓋骨には顎や歯、舌等の作り物が付けられ、漆が塗られていた。


「此処でユラリアが行っていたのは、恐らく、タントラ性魔術とカーリー(鬼子母神)の髑髏どくろ法の融合の術だろう」


「髑髏法だと?」


 医者である片眼鏡の老紳士がベルサトリに訊く。


「そうだ。乃白瑠君。説明してやってくれ」


「はい。ええと、鬼子母神の法は、基本的に安産、小児成育の祈願等がありますが、その他に、鉱物の発見、財宝を求める法、女人の愛敬を得る法、夫婦相合する法、治病法、除毒法枷鎖を解く法、訟訪必勝法、官難解脱法等があり、その中でも、怨敵を驚恐安らかならざらしめんとせば、髑髏を用いて、大呪及び印契を以て加持かじする事百八遍《ぺん』といいます」


「ふむ。でもどうして、キリスト教徒の彼女がインド・仏教の神様を崇めていたのだ?」


「ユラリアが専攻していたのは東洋文学でね。彼女はオックスフォード時代、日本の大学の東平大に留学していた事もある。そこで、彼女は東洋、取り分け日本の神話や伝承を学んだ筈だ。ユラリアが行っていたのは、鬼子母神の髑髏法だった……。それには何か訳がある筈だ」


 俄頃の沈黙が、この薄暗い地下室を支配する。

 その重さに耐えられなかったのか、楓が小声で乃白瑠に尋ねた。

 陰鬱に支配される地下室を陰とした時、果樹や野菜を栽培するオランジュリーは、ポジで焼き付けられた世界。

 オランジュリーで遊ぶ少女の幻影が、まだこの城にはあった。

 廊下に貼られた少女の写真のポジとネガ。


 彼女を閉じ込めた世界を開く鍵を、乃白瑠ノベルは持っている。

 ミラルが上げたモンスターの葬式。

 彼女を襲う怪物を、自分で葬式をあげる少女の想念は、自分で倒したかった相手が自分に祟らないようにだったのだろうか?

 彼女の慈愛がそうさせたのかは、まだ乃白瑠には把握出来ていなかったのだ。

 彼女が書いた魔獣。自分を守護する魔獣が阿吽の狛犬こまいぬだったのか?

 自分の幻力マーヤーで創造した魔獣が、誰を襲っても不可思議ではなかった程、ミラルは綺麗だったのだ……。

 



第六話 了

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