第3話 タイタニック号
「タイタニック号の沈没が描かれた小説が、事件の前に出版されているとしたら? どう思う?」
「そうなんですか!」
「1898年にイギリスの、M・ロバートソンが『タイタン号』という小説を書いてる」
「小説って怖い!」
「僕は、そんな小説世界を、小説家を救いたいんだ!」
「はい!」
楓は瞳をうるうるさせた。
「僕達はこれで失礼します」
「御苦労さん」
互いの冷淡な声音が、味気の無いボロ事務所内の静謐を際立たせる。
事務所を出て、階段を降りながら尋ねる。
「あのう、乃白瑠さん? 編集長と何かあったんですか?」
「ち、ちょっとね……」と言葉を濁す乃白瑠と楓は神田古書店街を歩き、JR中央線神田駅に向かった。改札を出てホームで電車を待つ。
「それにしても、僕が万年筆のコレクターだってよくわかりましたね!」
「乃白瑠さんは気づいてないかもしれませんが、私、乃白瑠さんの後輩で同級生なんですよ。ご存じの通り私は、東平大付属の中・高の二つ後輩で、大江戸モード学院では同級生でしたから。クラスでは乃白瑠さんの万年筆オタク振りは有名でしたから」
「じゃぁ、やっぱり君は、大江戸モード学院で同じクラスで隣の席だった、僕がペンネームを付けてあげた、
乃白瑠の大声に、ホームにいる人達が振り向く。
「乃白瑠さん! その名前は言わないで下さい!」
「でも、彼女はお下げで、牛乳瓶の底のようなレンズの黒縁眼鏡を掛けていた筈じゃぁ」
「髪はショートに、そしてコンタクトに変えたんです」
「そうでしたか。ありがちなパターンですけど、随分と変身したんですね」
乃白瑠は天を仰いで月を見る。そしてほほ笑む。
「そのきっかけを作ってくれたのは、乃白瑠さんなんですよ。あの時、私に素敵な名前を付けてくれたから。愛王楓っていう……」
「光栄だなぁ。楓さんのような可愛い人の名付け親になれて」
「そんな。私なんか」
「『魔法がきこえる ~南風の足音~』を創造したのはお姉さんかもしれませんけど、楓さんだって成績優秀だったでしょ。文章が巧くて、文分け《ふわけ》(腑分け)の授業や、パスティーシュ(文章クラフト)の授業でも群を抜いていたじゃないですか」
パスティーシュ。色々な作家の文体を真似て文を書く作風シミュレーションの事である。
「それに比べて僕なんか……」
「そんな事はないですよ。私、好きだったんです」
「エッ?!」と、乃白瑠はギョッとして、楓の横顔に視線を注ぐ。
「私、乃白瑠さんが書く文章、すごく好きだったんです。確かに比喩が足りないし、講師の先生にも怒られてましたけど、私、今でも覚えていますよ。先生が出した詩の課題の時に、乃白瑠さんが作った詩を」
と言って、楓は詩を口ずさむ。
僕達は多くの奇跡の中で 優しさに巡り逢う
たった一人の男と たった一人の女
男が女を愛する時 世界は少しだけ幸せになれる
戦争も争いもない そんな瞬間を永遠に続けていけば
世界は平和になれる ジョン・レノンが囁くよ
イマジン・・・
想像するんだ 愛がきっと世界を平和に出来るって
イマジン・・・
想像するんだ 自分の大好きなあの娘がきっと幸せになれるって
例え誰かを嫌っても
君が誰かを好きでいれば
君が好きな誰かにとって
君は味方なんだから……
「もっと自分に自信を持って下さい!」
「楓さんにそう励まして貰えると、元気が出てきましたよ! 今度の新人賞に応募する小説。頑張っちゃおうかな」
「その意気ですよ。乃白瑠さん! ところで、その小説どんな内容なんですか?」
「うん。典型的な異世界ファンタジーでね。勇者に倒されるモンスターのお葬式を出しながら世界を旅する美少女の話なんだ。タイトルは、葬儀屋ランちゃん」
「わぁ、面白そうですね!」
「そう思います?! じゃぁ、読みますか。途中までしか書いてないけど」
「いいんですか?」
「楓さんは小説家としては先輩だし、色々アドバイスも貰いたいしね」
乃白瑠は背負っていたリュックから原稿用紙を取り出し、楓に手渡す。
「あれ、乃白瑠さん本名使ってるんですね。乃白瑠さんは新人賞に応募する時、ペンネームを使わないんですか?」
「うん。ペンネーム使うの何だか卑怯な気がしてね。自分の全人格を自分で否定してしまうような感じがするんだ」
「私には耳が痛い話だな……」
「あっ! 別に楓さんを責めてる訳じゃないんだ。僕にだって変身願望はあるしね」
「やっぱり。あっ! すいません! 深い意味はないんです!」
「いいよ。僕眼鏡かけてるし。チビだし、ちっともあか抜けない万年筆オタクだからね」
そう言って乃白瑠は自嘲気味にフッと笑った。
「普通、人の名前は親とかが考えるものでしょ? 自分では絶対つけられない。でも、昔は違った。
「そうですね」
「それとは別に、確か、編集長と小桜さんが勤めていたジュニア・ノベルの大手出版社から刊行された小説の作者が後書きで言ってたんだけど、『……おのれの名を敵に知られて呪殺される事もある。……魔術師は真の名を隠す』。つまり、昔は本当の名前を隠して、他人に出来るだけ知られないように、真の名前、読み方は隠そうとする文化が日本にはあったんだ」
「だったら、乃白瑠さんは何故? 乃白瑠さんに自己顕示欲があるとは思えないし」
「言ったでしょ。自分で自分を殺す事は出来ないって。その作者も言ってたよ。名前って凝縮されたアイデンティティーだって」
「それは私もそう思います」
「かといって、魔術師が呼び出す神様や天使、魔神が本名でなく偽名を使ってたらどうなります? 僕は、僕の小説を読む読者にとって、そして、僕の小説から生まれる『想像国家』の住人にとって、神様のような存在になる訳でしょ。もし、彼らが苦しんでいたら、僕の助けが必要になる。その時、僕がペンネームという偽名を使ってたら……。そう考えると、ペンネームは使えなくてね」
「そうだったんですか」
「イエス様は、名前を隠さなかった。だから阿弥陀如来になった。それに、僕の場合、家が家だけにね、色々としきたりがあるんだ」
「乃白瑠さんの家って、そんなに格式高い家柄だったんですか?」
「うん、自慢してるようであんまり言いたくないんだけどね」
「じゃぁ、乃白瑠さんのお嫁さんになる女性は大変ですね。私もしっかりしないと……」
その時、電車がホームに滑り込んで来た。
「エッ?! 何か言いました?!」
突風が止み、電車が止まる。
「い、いえ! 何も! 私、決めました。乃白瑠さんが書いたこの小説、『葬儀屋 ランちゃん』の読者第1号として、その『想像国家』の住人になります!」
「でも、この小説が出版されるとは限らないし、たった一人の住人になるかもしれませんよ? それでもいいんですか」
「大丈夫です!」
「グスッ……。嬉しいなぁ。もし、楓さんがピンチになった時は、いつでも僕の名前を呼んで下さいね」
「はい!」
開いた扉に乗り込む乃白瑠と楓。帰宅ラッシュという事もあり、電車内は鮨詰め状態である。二人は新宿駅で山ノ手線に乗り換え、渋谷駅で下車。そして、東急東横線で田園調布駅にて降りる。
駅前に立ち、
「流石小桜さんですね! 田園調布に住んでいるなんて!」
二人はメモされた住所を頼りに街を散策しながら、小桜が住んでいるというマンションへと向かったのだが、その住所のある場所には、築うん十年も経っている小さなボロアパートが建っているだけだった。
「さ、流石、ですね……。エヘヘッ」
楓の顔が引きつっている。まるで、十数年前の月9ドラマのような展開!
乃白瑠と楓は階段を昇り、萩尾小桜と書かれた表札の前に立つ。そして、ノックする。応答がない。もう一度扉を叩く。すると、
「ば~い……。どなだれすかぁ……」
「こ、小桜さん!」
「ゲッ! 乃白瑠君?!」
そこに現れたのは、黒縁眼鏡を掛け、マスクをし、ドテラを羽織った小桜の見るも無残な姿だった。
バタン!
「ちょっと小桜さん、ドア閉めないで下さいよぉ!」
閉められたドアが再び開く。
「入って。さ、速く!」
小桜は、二人を急いで中に引き入れると、扉を閉めた。
第三話 了
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