08 一難去ってまた


 氷南さんが泣いていた。

 

 どうしてかはわからないが、彼女は泣きながら逃げてしまった。


 やっぱり嫌だったのだろうか。それともクレープが美味しくなかったとか?

 ……いや、そんなことくらいで逃げたりはしないだろ。ちゃんと食べてくれてたし。


 はぁ。せっかくいい休日になりそうだってテンションが上がってたのに最悪の休日になってしまった。


 ……あ、氷南さん。買った本忘れてる。

 どうしよう、届けたいけど家知らないし。


 しばらく考えてから、俺は一旦彼女の姿を探すことにした。

 もちろんあてはない。

 こんなことなら彼女の家の前まで送っておけばよかったと後悔しても今更どうにもならない。


 結局朝と同じ場所で彼女が通りかかるのを待つことにした。


 ♠


 夕方になってしまった。

 もう何時間くらいここでうろうろしているのだろう。

 通りすがりの人もさすがに俺の事を不審だと思っているに違いない。


 幸い俺は高校生。

 だからこそ不審者扱いされないで済むということか。


 ……今の時代って本当に連絡先を知らないと何もできないと痛感させられる。

 こんなことならクレープに誘う前に連絡先をきちんと訊いておくべきだった。


 はぁ……あと少しだけ待ったら帰ろう。

 お腹空いた。



 夕方になってしまった。

 ようやく、涙で腫れた目も元に戻ってきたけど、心の傷だけはそんなに早くは回復しない。


 今日、あの時に感情が昂りすぎて泣いたりしなければと何度後悔したことか。


 でも後悔先に立たず。今となっては私は急に泣き出して走り去った変な女でしかない。

 絶対に彼に嫌われたとわかってはいるが、それでもいてもたってもいられずに、静かに部屋を出る。


 なぜか、昼間彼といった駅前のクレープ屋を目指して歩く。

 すると家を出た角のところに見覚えのある人影が立っていた。


「い、泉君?」

「あ、氷南さん!よかったようやく会えたよ」


 嬉しそうに彼がこっちに向かってきてくれる。

 ようやく。ということはもしかしてずっと私を探してくれていたのだろうか?


 そう考えるだけで、また涙が吹き出しそうになるのだが今だけは我慢だ。

 我慢しろ私!また泣いたら二度目はないよ!


「あ、あの……どうしたの」

「ええと、本。忘れてたから」

「これを渡すために?」

「あはは、迷惑、だったかな」


 迷惑じゃない。迷惑どころか今にも泣きそうなくらい嬉しいんです。

 でも言えない。素直な言葉を発しようとすると、なぜか喉がキュッと絞まるんです。


「そ、そう。」

「もう諦めて帰ろうかと思ってたからよかったよ。俺も、これ帰ったら読むし今度の部活はお互いの感想を言い合うってことにしない?」

「い、いいよ」

「うん。家は近いの?送っていかなくていい?」

「いい。すぐそこだから」


 私はなぜか彼の好意を断ってしまった。

 ほんとは家まで送ってほしかったし、なんなら家にお邪魔してほしいまである。

 でも言えない。そんなことされたらまた泣いちゃう……


「氷南さん?」

「私、帰るね」

「う、うん。じゃあまた」


 せっかくここまでしてくれたのに、彼にまともにお礼も伝えられず追い返す格好になってしまった。

 しかし彼の姿が少し遠くになった時、私はふと思い出したことがある。


 連絡先、まだ訊いてない。


 大慌てで、私は彼の方に向かう。

 その角を曲がったらまた彼を見失ってしまうかもしれない。


 だから今だけは私の声、ちゃんと出て!


「連絡先!教えて!」


 言えた。

 大きな声が出た。


 彼も、私の声に振り返ってこっちに来てくれる。


「氷南さん、今なんて?」

「はぁ、はぁ……連絡先。あの、こういうことあると不便だし」

「あ、ああそうだよ、ね。うん、是非」

「じゃあ、これ。私のQRコード」

「う、うん。ちょっと待ってね」


 こうしてようやく彼の連絡先をゲットできたところで、私は緊張の糸が切れた。

 その場にへたり込みそうになるのを必死で踏ん張りながら、なんとか彼にさよならを言って家に帰ることができた。


「……やったー!泉君の連絡先ゲットしたー!」


 部屋に入った瞬間にその喜びは爆発した。

 すぐに母から「うるさい」と注意されたがそんなことはもうどうでもいい。


 ベッドに横になって、泉秀一と書かれたアカウントをじっと見つめながら今度はまた新たな問題に気づく。


 どうやって、どんなメッセージを泉君に送ろうかな……



 氷南さんが呼び止めてくれたおかげで、ようやく俺は彼女の連絡先をゲットした。


「よっしゃー!」


 と部屋で一声。

 すぐに母から「どうしたのよ」と心配されたがそんなことはもうどうでもいい。


 ベッドに寝転んで氷南円と書かれたアカウントを眺めながらニヤニヤしてしまう。

 うん、ようやくこれで彼女と楽しいライムができるというわけだけど……


 待てよ、彼女から俺に何か送ってくることとかあるのか?

 いや、ないよな。


 そうなると、やっぱり俺の方から彼女に何か送らないとこのライムは始まらないわけで。


 ……話題がない。

 今さっき渡したばかりの本の感想を訊くのは早すぎるし、かといって他にホットな話題もない。


 ……どうしよう。クレープの感想でも送ろうかな?

 いや、あんまりしょうもない話題だと既読スルーまである。


 うう、なんか胃が痛くなってきた。

 ちょっと風呂入ってから考えよう。



 うう、お腹が痛くなってきた……

 なんですぐに連絡くれないんだろ?やっぱり迷惑だったのかな……


 ううん、きっと泉君も忙しいだけだよ。

 多分夕食食べてお風呂入って読書して、そこから寝る前に覚えてたらきっとライムしてくれる……ってそれだとめっちゃ私の優先順位低くない!?


 あー、やっぱり連絡先とか知らない方が良かったのかな……

 知ってしまった今だと変に期待してしまう。

 だから余計に何も反応がないのが辛い。


 はやく、何か送ってくれないかなぁ。

 ずっと彼のトークルームを開いたまま、そこに何かメッセージが来ないか眺めていた。


 とまぁ、こんな感じでぼんやりしていたら私はどうやら寝ていたようで。

 

 気が付けば朝だった。



 ようやく勇気を勇気を出せたのは風呂からあがって部屋に戻った後。

 散々風呂場で悶えまくった挙句、のぼせかけるまで湯舟に浸かって出した結論は、とりあえずよろしくだけ送ろうということだった。


 それくらいいいよな?


 ゴクッと唾を飲みこんで、俺は一言だけ『今日はありがとう』とメッセージを送信した。


 するとだ、すぐにメッセージの横に既読の文字が浮かび上がる。

 その瞬間、俺はドキッとした。


 これは、もしかして向こうも俺からの連絡を待っていてくれたということか?

 

 急に期待が高まる。

 どう返事が来るのか、緊張がおさまらない。


 しかし、彼女からの返事はない。


 ……もしかして俺が不愛想な内容を送ったから返信に困っているのか?

 しかし、何通もメッセージを連発する度胸もなく、俺は待つしかなかった。


 じっと。

 灯りを消した部屋で携帯の画面だけに照らされながら、その画面を見続けた。


 それから一時間ほどが過ぎた時にわかった。


 既読スルーされていると。


 そう思うと今度は急に胸が苦しくなる。

 やっぱり、俺とメールがしたかったわけではなかったんだ。


 はぁ……寝よう。

 もう期待するのも疲れた。


 そう決心して携帯を枕元に置いて、目を閉じる。

 しかしなかなか寝付けない。

 不安がそうさせるのももちろんだが、それでもピコンと通知音が鳴らないか気になって仕方がない。


 時々何かの物音が携帯の音に聞こえて飛び起きたりを繰り返しながら、眠りについたのは多分日をまたいだころだったと思う。


 そして気が付けば朝だった。

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