20

 一週間後。


 示談の場所は、ロードサイドのファミレスに決まった。龍崎さんの提案だった。こういうのは、かえって人目があった方がいいらしい。


 あの後、良祐さんは自らマンションを出て行った。今は実家に身を寄せているとのことだった。私もあまりマンションにいたくはなかったが、生活の基盤がここなので、とりあえず寝室は使わないようにして暮らしている。


 示談の場には、私側は私と龍崎さん、松田さん。相手側は良祐さんと島田 明日香だけだった。向こうは弁護士は付けないという。龍崎さんの話では、負けると分かっている案件をわざわざ受任する弁護士はまずいないらしい。


 良祐さんは早々に白旗を上げた。煮るなり焼くなり好きにしてください、と。龍崎さんが、慰謝料はなし、その代わり財産分与もなし、というのはどうかと提案すると、それで結構です、と言ってあとは項垂うなだれるだけだった。


 結婚後の二人の貯金は一千万円ほど。それがそっくり私の物になる。十分だろう。さらに、マンションの共同名義も放棄する、ということだから、マンションも完全に私のものになった。だけど私はあのマンションにこれ以上住んでいたくない。名義が書き換わったら、速攻で売りに出すか賃貸にまわしてやる。


 続いて、島田 明日香にも1千万円の慰謝料を要求した。さすがに彼女もそれを素直に受け入れようとはしなかった。あまりにも高すぎる、と。


「それなら裁判になりますが、よろしいですか?」龍崎さんが言うと、


「ま、最悪、それもしょうがないんじゃないかしら」と、ふてぶてしく彼女が応える。


「本当にいいんですか? 裁判になったら永久に記録が残ります。そして、誰でもがそれを見ることができます。あなたが不倫と言う違法行為を働いた結果、裁判で被告となった、という事実をね」


「……」明日香は黙り込んでしまった。が、やがて苦虫を嚙みつぶしたような顔で言う。「だけど、1千万は明らかに高すぎでしょう? 別に子供がいるわけでもないし、養育費も必要ないじゃない」


「いえ、当職は妥当な額だと考えておりますが」


「……そう。分かった。しょうがないね」


 そこで、なぜか彼女の目が光る。


「これだけは出したくなかったんだけど、そこまで言われちゃこっちも……出さざるを得ないね」


 そう言って、明日香は傍らのバッグから一枚の写真を取り出し、テーブルの上に乗せた。


「これって、一体どういうことなのかしら?」彼女の口元が、醜く歪む。


 ……!


 その写真に写っていたのは、私。そして、その手を取る……宮内さん……


「ねえ、百合子さん。あんたも浮気してたんじゃないの。自分のことを棚に上げて、よくも慰謝料請求できるよね」


 勝ち誇った顔で明日香が言う。


「百合子……お前、浮気してたのか?」


 今まで項垂れていた良祐さんの顔が上がった。


「……」


 何も答えず、私は下を向く。


「これであんたも良祐さんに慰謝料払わなきゃならないんじゃない? だったらそれでもう相殺そうさいにしてさ、何もなかったことにしたらいいじゃない」


「くっ……」


 思わず声が漏れる。そうか……そういうことだったのか……


 やはり。


「いい? あんたが1千万なんて無謀な金額を吹っ掛けなかったら、あたしもこんな写真を出す気はなかった。全ては欲をかいたあんたが悪いんだよ。恨むんならあたしじゃなくて……?」


 そこでようやく、彼女は私の異変に気付く。


「……くっ……くっ、くっ、くっ……」


 そう。私が漏らしていたのは……苦悶の声ではなく、嗤い声だったのだ。


「あっはっはっは!」


 とうとう私は顔を上げて大笑いしてしまった。フロア内の客の視線が一気に集中するが、気にならない。


「ど、どうしたの、この人……ショックでおかしくなっちゃった?」明日香が目をパチクリさせる。


 やった。やってくれた。本当にもう、こいつは期待を裏切らない。


 さあ、ここからは私のターンだ。ようやく私は笑いを収め、松田さんをちらりと見る。それを合図に、彼は一枚の写真を取り出した。


「それじゃ島田さん、この写真についてご説明していただけますか?」


「……!」


 それを見た瞬間、明日香の顔が、一気に色を失った。


 その写真に写っているのは、一組の男女。女の方は彼女。レストランのテーブル席か何かに座っている。そして、その向かいの席についているのは……宮内さんだった。


%%%


『一つ、どうしても聞いておきたいんですが……百合子さん、何か僕に隠していること、ありませんか?』


 私が松田さんの口から「島田 明日香」の名前を初めて聞いた、あの日。一通り私に報告した後で、彼はいきなり、深刻そうな声でそう言ったのだ。


「え、なんのこと?」


『宮内 雅和って人と、会ってますよね』


 ……!


 思わず私はスマホを落としそうになる。が、すぐに気を取り直す。


「え、ええ。その人はピアノの生徒さんよ。だから確かにレッスンはしているけど、それだけ。別に、あなたに隠すようなことは何もない」


『そうですか。ならいいんですがね。気を付けてください。彼は……おそらく「別れさせ屋」です』


 ……!


 そう言えば、そういう職業が存在するって、以前テレビで見たような覚えがある。別れたい相手に「別れさせ屋」を近づかせて、浮気をさせる。そして相手の有責で別れる、という。


「それは……本当なの?」


『ええ。そして、依頼主は……例の、島田 明日香です。彼女が彼とコンタクトを取っているような節があります』


 ……。


 私は落胆を覚える。


 そうよね……宮内さんみたいないい男が、私のような年増女に告白してくるなんて……そんなことでもない限り、ありえないわよね……


「松田さん、ごめんなさい。私、一つ言ってなかったことがあったわ。私ね、彼に告白されたの。そして……食事に誘われてる」


『!……やはり、ですか。告白、OKしたんですか?』


「まさか。でも、彼が最後に一目会いたい、でないと諦めきれない、って言うものだから……食事はOKしたわ。だけど……そういうことなら、キャンセルした方がよさそうね」


『いえ、食事は一緒に行ってください』


「……え?」


 私は耳を疑った。


『たぶんその食事の時に、向こうは何か仕掛けてくるかもしれません。それを逆手に取ります。うまく行けば、相手側に決定的なダメージを与えられるかもしれません。ただ……絶対にヤツの誘惑には乗らないでくださいね』


「……わかったわ。要するに、おとり捜査をするってことね」


『そうです。くれぐれも、ミイラ取りがミイラにならないように……』


「ええ。ありがとう、松田さん」


 電話を切った後、私は怒りがメラメラと燃え上がるのを感じていた。


 宮内さんが「別れさせ屋」であることもショックではあったけど、それ以上に、そんな卑劣な手段を使う「島田 明日香」という女に対する怒りの方が強かったのだ。


 いいわ。そっちがその気なら、こっちも裏をかいてやる。地獄に叩き落してあげるわ。


%%%


「この男は、宮内 雅和ですね」松田さんが島田 明日香を見据えながら言う。「こいつをつかまえたら、あっけなく白状しましたよ。あなたに別れさせ屋として雇われた、ってね……」


「……」


 明日香は言葉を失っているようだった。顔面蒼白。体がぶるぶる震えている。


「別れさせ屋を雇う、という島田さんの行為は、非常に悪質です」龍崎さんが後を引き取る。「よって、1千万円の慰謝料は妥当だと、当職は判断いたしました。何かご異議は、ございますか?」


「……」


 項垂れたまま、明日香は一言も発さない。


「それでは、慰謝料につきましてはこれで双方合意が取れた、と認識します」


 勝ち誇ったように、龍崎さんが宣言した。


---


「いやぁしかし……あいつは、全然変わっちゃいませんでしたね」


 松田さんが、晴れ晴れとした笑顔で言う。


 居酒屋。私と彼と龍崎さんは、小さな祝賀会を開いていた。


 あの後、別れ際に松田さんは、明日香に声をかけていたのだ。


 ”明日香、俺だよ、覚えてないか? 高校で同級生だったじゃないか”


 そう言った瞬間、明日香の目が、真ん丸になった。


 ”ああっ……松田 雄一って……あんた!”


 そう言ったきり、彼女は絶句する。


 そして今、私は彼女と松田さんの因縁を聞いた。彼の最初の恋愛で、トラウマの元となったのが……彼女だったそうだ。見事に二股をかけられていたという。


 そうか。それで、タダでもいいから彼女と対決したかったわけね。


「だけど、ホントにすっきりしましたよ。なんか、これで俺も、ようやく前を向いて進んでいけそうです」


 そう言って、彼は隣に座る龍崎さんを振り返るが、彼女は焼き鳥を頬張るのに夢中で、彼の視線に全く気付いていない。


 なんだ。松田さんも龍崎さんのこと、気になってんじゃない。これなら、おばさんが世話を焼く必要もないかもね。


 だけど……


 不意に、私は胸が締め付けられるような思いにかられる。


 そう。私と良祐さんにも、こんな時期が確かにあった。


 それなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう……


 私は心の中で、目の前の二人に話しかける。


 あなたたちは、私たちのようには絶対ならないでね……


---

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