21
二日後。マンションで、私が引越しのための荷造りをしていた時だった。
ドアチャイムが鳴る。
インターフォンのカメラ映像を見ると、そこには女性らしい姿が映っていた。
「どなたですか?」
『……中田です』
ぽつり、と小さい声。映像の中の中田 和美は、俯いたままだった。
本当に来たんだわ……
私にお詫びしたいという彼女の意向は、龍崎さん経由で聞いていた。私としては彼女については別にどうでも良かったが、それで彼女の気が済むのなら、ということで龍崎さんからここの住所を彼女に伝えてもらったのだ。
「少々お待ち下さい」
私は玄関に向かう。
「……すみませんでした!」
ドアを開けた瞬間、中田さんはいきなり膝を玄関の床につけた。そのまま両手も床に付けようとしたので、私は慌ててその手を取った。
「やめて! 土下座なんかするものじゃないわ!」
「ですけど、私……奥様に、とんでもないことを……」
涙を浮かべながら私を見る彼女の顔は、明らかにやつれていた。松田さんの報告書によれば彼女は24歳ということだが、かなり老け込んだように見える。頬がこけ、目は虚ろだ。松田さんが撮った写真の中の彼女とは、まるで別人だった。
「ねえ、中田さん」
「はい……」
「起きたことにはね、善いも悪いもないの。人間が勝手にどちらかに決めつけているだけ」
「え……」中田さんが、キョトンとした顔になる。
「あなたも……たぶん、私も、今はどん底にいるんだと思う。だけどね、どん底から這い上がった者は、強いのよ。強くなるための試練を与えられたのだ、と思えば、どん底に落ちるのもそれほど悪いことではないわ」
そう。
これは私の持論。といっても、私の愛読書である、山本鈴美香作「エースをねらえ!」の受け売りだ。このマンガのヒロイン、岡ひろみは恩師である宗方コーチを亡くし、失意のどん底に叩き込まれる。だが、宗方コーチの親友であった桂コーチは彼の後を引き継ぎ、宗方コーチの死という、ひろみにとってとてつもなくネガティブな出来事を最大限にポジティブに活かして見事彼女の成長につなげたのだ。「どん底から這い上がった者は強い」というのは、作中の宗方コーチのセリフそのものだ。
「……」中田さんは言葉を失ったままだった。私は続ける。
「いずれにせよ、あなたはなかなか出来ない経験をしたのよ。今後はそれを糧として、前に進んで行けばいいんじゃないかしら」
その瞬間だった。
中田さんの両眼から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
そして。
「う……うわあああ!」
まるで子供のように、彼女は大声を上げて泣き始めた。私は思わず、彼女を抱きしめる。彼女のそれとはまるで正反対の、私の薄い胸に顔を
いつしか、私の目にも涙が浮かんでいた。
---
その日、宮内さんがピアノ教室にやってきた。少し頬がこけたように見える。彼は深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした……先生」
「宮内さん……」
あの明日香との直接対決の日、松田さんは彼をつかまえて別れさせ屋であることを無理矢理白状させた……と言った。だが、真実は微妙に異なっていた。
明日香は彼の従妹であり、彼女が本家、彼が分家の血筋で、立場的に彼は彼女の言うことを聞かざるを得なかったのだ。別れさせ屋を働いたのもこれが初めてとのこと。ここまでは松田さんも裏を取ってくれた。そして、私を本気で好きになってしまった彼は、松田さんに捕まったときに自ら進んで全てを話し、彼女をハメる手伝いまでやってくれたのだ。ただ、明日香にそれを知られたくなくて無理矢理白状させられたことにしたのだった。
「僕がしたことが、絶対に許されないのは良く分かっています。ですが……僕は本当に後悔しています。なんであんなヤツの言うことを聞いて、貴女を深く傷つけるようなことをしてしまったのか……」
「別に、私はあなたとお付き合いしていたわけではないですから、それほど傷ついてもいません。それに……松田さんから聞いてますわ、あなたが私のために動いてくれたことは。だけど……それでも私はあなたを信じられません」
それが、私の率直な気持ちだった。
「それは当然です」宮内さんがうなずく。「それだけのことを僕はしてしまったんですから。でも……僕は、できれば先生の教え子として、これからもピアノを学んでいきたいんです。それ以上のことは当面は望みません……ダメですか?」
「……」
当面は……ね……
まあでも、大人の教え子が経営的にありがたい存在なのも確かなのよね。
「かまいませんよ。あくまで教え子というだけなら、ね」
ああ、言ってしまった。
「ありがとうございます!」
再び彼が最敬礼する。
まったく。
これほどマイナスな状態からのスタートで、恋愛関係にまで持っていけるとでも本気で思っているのかしら。
だけど。
果たして彼がどんな手管を弄してくるつもりなのか、興味がなくもない。なんて、我ながら甘すぎるかしらね。
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