15

「なんか少し、お痩せになりました?」


 宮内さんが、私の顔を覗き込む。


「そうかしら? 夏バテしたのかもしれませんわね」


 私は笑顔を作ってみせる。


 ここは彼が選んだ、こぢんまりとして雰囲気のいいイタリアンレストラン。パスタが主体だ。ディナータイム。彼のおすすめのカルボナーラは、確かにおいしかった。イタリアの本場の味らしく、私が今まで食べてきたカルボナーラとは全然違う。私はそれほどグルメではないのでレシピも思い浮かばないが、これは自分でも作ってみたい、と思う。


 白のイタリアワインで乾杯。彼は良祐さんと同じ、すぐ顔に出るタイプのようだ。


 良祐さん……


 あれから私は、彼の前では何事もなかったように振舞っている。


 だが、心の中では激怒の感情が渦巻いていた。ただ、私の怒りは彼に対してというよりも、むしろ中田 和美と島田 明日香とかいう二人の浮気相手の方に向かっていた。特に後者の方に。


 でも、そんな感情は良祐さんの前では絶対に出せない。それがかなりのストレスになっていた。痩せるのも当然だ。早く決着をつけないと、私の体もどうにかなってしまいそうだ。


 それはともかく。


 宮内さんはしきりに、私にワインを勧める。やっぱり、私を酔わせてどうこうしようという魂胆があるのかもしれない。だけどこの調子では、たぶんこの人の方が私よりも先に酔いつぶれそうだ。


 そして。


「……川村先生!」


 とうとう、彼は行動に出た。いきなり私の右手を、両手で握りしめたのだ。


 顔が真っ赤だ。目が座っている。どこからどう見ても、立派な酔っ払い。だけど私も、酔っ払いに絡まれるのは慣れてる。年齢も年齢だ。この程度のことで慌てたりはしない。


「宮内さん、お酒が過ぎたんじゃありません?」


 私は努めて優しい口調で言う。


「ええそうです! 酔わなきゃこんなこと言えません! 先生、ご主人と別れて、僕と結婚してください!」


「……!」


 なんと。


 これはちょっと想定外。「付き合ってくれ」をすっとばして、いきなりプロポーズ?


 まあ、彼も年齢的にはそういう年なのかもしれないけど。


 それに。


 確かに私も良祐さんと離婚したら、この人と結婚するってことも……できなくはない。しかも良祐さんの浮気で、そのシナリオはかなり現実性が高くなっている。だけど……


「……ごめんなさい」


 私は小さく頭を下げた。


「くぁ―! やっぱダメかぁ!」宮内さんがへなへなと崩れ落ちる。「いやぁ、俊通としみちの結婚式に行って、僕も結婚したいなあ、とつくづく思わされましてねぇ……」


 俊通というのは、この前結婚式を挙げた、彼の親友のことらしい。


「こんなおばさん相手より、もっと若い子がたくさんいるでしょう? 結婚するならそっちの方がお勧めと思うけど?」


「もう、そんなこと言わないでくださいよ……それができれば苦労はしないんですから……まあでも、ほんと、ご主人がうらやましいですよ。ここまで先生に愛されてるなんて……さぞかし先生も、ご主人に愛されているんでしょうねぇ……」


「……」


 とんでもない。私は愛されてなんかいない。愛されてたら、浮気なんかされるわけがない。でもそんなこと、とても言えるはずがない。


 私は言い聞かせる。ともすれば、泣き出してしまいそうになっている自分に。


 泣くな。耐えろ。耐えるんだ。


 取ってつけたような微笑みを、私は顔に貼り付ける。きっと素面しらふの彼が見たら、その不自然さに気づいたことだろう。そして、そこに付け入るスキを見つけた彼は、私を陥落させたかもしれない。

 だけど、おそらく今の彼はそれができるには少しアルコールが過ぎているようだ。


「でも、ねえ、先生、僕、まだ先生の生徒ですよね? 生徒でいる限りは、教えてくれますよね?」


「……え?」


 おっと。


 そちらの方向から攻めて来たか。これは釘を刺しておかないと。


「いえ、結婚式でセテンブロの弾き語りを披露する、っていうあなたのミッションは、終わったはずでしょ?」

 

「でも、僕、ピアノの楽しさに目覚めてしまったみたいです。だから、もっとピアノ習いたいんですよね~。もちろん月謝は払いますから、これからも先生にピアノを教えて欲しいんですけど~」


「……」


 やられた。


 そんな風に言われると、こちらも断りづらくなってしまう。


「……先生と生徒の間をはみ出さない、と誓ってもらうなら、結構です」


 言ってしまった。


「やった!」宮内さんが子供のような笑みを浮かべ、頭を下げる。「それじゃ、今後ともよろしくお願いしまーす!」


 ……。


 やれやれ。ま、こんなところかな。


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