13

 私が例のペン型レコーダから音声データを取り出し、松田さんからメールで指示されたようにクラウドストレージにそれらを保存するようになってから、二週間が経っていた。休日の音声データは、主人が脱いだ後にそのまま松田さんにシャツごと渡しているので、特に私が何かすることもなかった。


 そして、今日。


 松田さんが実家にやってきた。応接間、ソファに腰を落ち着けるなり、彼は深くため息をつく。


「残念ですが……真っ黒でした」


「真っ黒……?」


「ええ。旦那さんは、間違いなく浮気しています」


「……!」


 血の気が引いていくのが、自分でも分かる。


 目の前が暗くなり、私の体はソファの背もたれに深く沈んだ。


「だ、大丈夫ですか?」


 慌てて松田さんが立ち上がる。


「え、ええ……大丈夫」


 ソファの座面に手をついて、私は姿勢を正した。


 ついに、来るべきものが来たか……


「吐き気はありませんか? こういう時、結構吐き気を覚える方が多いのですが」松田さんが心配そうに言う。


 そう言われれば確かに、胃が裏返るような感覚はある。だけどこれはストレスが高い時の、通常の反応だ。気持ち悪いが、吐くほどじゃない。


「大丈夫です」深呼吸を一つして、私は松田さんに向き直る。「どうぞ、続けてください。覚悟はできました」


「わかりました。もし、気持ち悪くなったら、遠慮なさらずにトイレにでも駆け込んでください」


 そう言って松田さんは自分のブリーフケースから、一枚の写真を取り出す。


「この女性に、見覚えはありますか?」


 私はその写真を手に取ってみる。縦位置ポートレートで撮影された、胸から上の女性のアップ。セミロングの黒髪。20台くらいだろうか? 随分若く見える。ちょっとポッチャリしてる感じだが、顔立ちはかわいらしい。そして……おそらくFカップは下らないと思われる、はち切れそうなバスト。


「いえ。知らないわね。この人が浮気相手なの?」


「そうです。とりあえず、現状では尾行して名前と職場までは調べました。中田なかた 和美かずみ。市立中学校の教職員。プライベートの時間では例の、CKのエタニティをつけてました。旦那さんはノートパソコンで彼女とメールをやり取りしています。今のところ分かっているのはそこまでです」


「そう……中学校の先生なの……」


「先生かどうかは……職員かもしれませんし……」


「でも、いずれにしても、聖職者よね。そんな人が不倫だなんて……同じ教育者として、許せないわ」


「……」


 いけない。


 松田さんが少し引き気味の顔になった。おそらく私の顔が怖いのだろう。


「そ、そうですね。とりあえず、調査をもう少し続行します。それで、ですね……」


 なぜか松田さんが口ごもる。


「どうしたの?」


「実は、ですね……」どうにも松田さんの口調は歯切れが悪い。「どうも旦那さんに、彼女以外にもう一人、浮気相手がいるような気配が……」


「はぁっ!?」思わず大声になってしまった。


「いや、これはまだはっきりと確証があるわけではありません。ただ……音声ファイルを聞くと、どうもそれっぽい音声があるってだけで……メールのやりとりとかもないですし……こちらも、もうちょっと調べてみます」


「……」


 なんということだ。


 まさか、二人の女性と浮気している可能性があるとは……


 良祐さんは全然衰えていなかった。むしろ精力絶倫だった。ただそれが、私に向けられなかっただけだったのだ。


「……百合子さん?」


 いつの間にか、松田さんが私の顔を覗き込んでいた。


「あ、ああ、ごめんなさい」


「お気を確かにお持ちくださいね」松田さんが優しく笑いかける。「それで……少なくとも一人と浮気していることは確実になりましたので、今後、その人と慰謝料の交渉なども必要になってくると思います。百合子さん、弁護士の当てはありますか?」


「いえ……知り合いにはいないわ」


「おそらく、弁護士を雇われた方が無難かと思います。それでですね、実は、僕の大学時代の同級生で、駆け出しの弁護士ですけどとても優秀な奴がいるんですが……紹介しましょうか? 女性ですので、百合子さんも色々ご相談しやすいと思います。離婚するか再構築するか、ってことも、今後視野に入れて考えていかないといけませんし」


 ……。


 離婚……


 そうか。今までそんなこと、全然考えてなかった……そうなる可能性も、高いわけだ……


 でも、今はいい。今は何も考えられない。本当に良祐さんの浮気相手が二人なのか。二人目がいたとして、それは誰なのか。まずはそれがはっきりしてからだろう。ただ、いずれにしても弁護士に相談に乗ってもらえるのなら、心強い。紹介だけはしてもらおうか。


「……そうね。とりあえず、紹介してもらえればありがたいわ」


「わかりました」松田さんが笑顔でうなずく。


---


 松田さんが帰った後で、私は一人、茫然と応接間に取り残された。


 やがて。


「……うっ」


 嗚咽が込み上げてきた。


 涙が、次から次と頬を伝う。


 私はレッスン室に駆け込んだ。そして……一気に感情を解放する。


「うわあああああああ!」


 ここは防音工事がされている。どんなに号泣しても、外にはほとんど漏れ聞こえない。


 やはり、ショックだったのだ。良祐さんに裏切られていたことが。


 そりゃ、私だって完璧な妻だったとは自分でもとても思えない。だけど……10年以上、一緒にいたのに……仲良く過ごしていたのに……どうして……?


 ひどいよ……良祐さん……


 彼と過ごした数々の思い出が脳裏によみがえり、涙が止めどなく流れる。だけど……


 奇妙にも、私は泣きながら安心していた。私自身が泣くことができる、という事実に。


 母がいきなり亡くなった時は、しばらく涙が出なかった。私が母のことで泣いたのは、初七日が過ぎた頃だった。人間、悲しみが強すぎると、かえって泣けないものなのだ。


 でも、泣けないのは辛いことだ。泣くと心がすっきりする。それは人間に元来備わっているメカニズムであり、ショックから立ち直るために必要な儀式なのだ。


 だから私は思い切り泣いた。泣いて泣いて、泣きまくれ。そう自分に言い聞かせながら。


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