13
私が例のペン型レコーダから音声データを取り出し、松田さんからメールで指示されたようにクラウドストレージにそれらを保存するようになってから、二週間が経っていた。休日の音声データは、主人が脱いだ後にそのまま松田さんにシャツごと渡しているので、特に私が何かすることもなかった。
そして、今日。
松田さんが実家にやってきた。応接間、ソファに腰を落ち着けるなり、彼は深くため息をつく。
「残念ですが……真っ黒でした」
「真っ黒……?」
「ええ。旦那さんは、間違いなく浮気しています」
「……!」
血の気が引いていくのが、自分でも分かる。
目の前が暗くなり、私の体はソファの背もたれに深く沈んだ。
「だ、大丈夫ですか?」
慌てて松田さんが立ち上がる。
「え、ええ……大丈夫」
ソファの座面に手をついて、私は姿勢を正した。
ついに、来るべきものが来たか……
「吐き気はありませんか? こういう時、結構吐き気を覚える方が多いのですが」松田さんが心配そうに言う。
そう言われれば確かに、胃が裏返るような感覚はある。だけどこれはストレスが高い時の、通常の反応だ。気持ち悪いが、吐くほどじゃない。
「大丈夫です」深呼吸を一つして、私は松田さんに向き直る。「どうぞ、続けてください。覚悟はできました」
「わかりました。もし、気持ち悪くなったら、遠慮なさらずにトイレにでも駆け込んでください」
そう言って松田さんは自分のブリーフケースから、一枚の写真を取り出す。
「この女性に、見覚えはありますか?」
私はその写真を手に取ってみる。
「いえ。知らないわね。この人が浮気相手なの?」
「そうです。とりあえず、現状では尾行して名前と職場までは調べました。
「そう……中学校の先生なの……」
「先生かどうかは……職員かもしれませんし……」
「でも、いずれにしても、聖職者よね。そんな人が不倫だなんて……同じ教育者として、許せないわ」
「……」
いけない。
松田さんが少し引き気味の顔になった。おそらく私の顔が怖いのだろう。
「そ、そうですね。とりあえず、調査をもう少し続行します。それで、ですね……」
なぜか松田さんが口ごもる。
「どうしたの?」
「実は、ですね……」どうにも松田さんの口調は歯切れが悪い。「どうも旦那さんに、彼女以外にもう一人、浮気相手がいるような気配が……」
「はぁっ!?」思わず大声になってしまった。
「いや、これはまだはっきりと確証があるわけではありません。ただ……音声ファイルを聞くと、どうもそれっぽい音声があるってだけで……メールのやりとりとかもないですし……こちらも、もうちょっと調べてみます」
「……」
なんということだ。
まさか、二人の女性と浮気している可能性があるとは……
良祐さんは全然衰えていなかった。むしろ精力絶倫だった。ただそれが、私に向けられなかっただけだったのだ。
「……百合子さん?」
いつの間にか、松田さんが私の顔を覗き込んでいた。
「あ、ああ、ごめんなさい」
「お気を確かにお持ちくださいね」松田さんが優しく笑いかける。「それで……少なくとも一人と浮気していることは確実になりましたので、今後、その人と慰謝料の交渉なども必要になってくると思います。百合子さん、弁護士の当てはありますか?」
「いえ……知り合いにはいないわ」
「おそらく、弁護士を雇われた方が無難かと思います。それでですね、実は、僕の大学時代の同級生で、駆け出しの弁護士ですけどとても優秀な奴がいるんですが……紹介しましょうか? 女性ですので、百合子さんも色々ご相談しやすいと思います。離婚するか再構築するか、ってことも、今後視野に入れて考えていかないといけませんし」
……。
離婚……
そうか。今までそんなこと、全然考えてなかった……そうなる可能性も、高いわけだ……
でも、今はいい。今は何も考えられない。本当に良祐さんの浮気相手が二人なのか。二人目がいたとして、それは誰なのか。まずはそれがはっきりしてからだろう。ただ、いずれにしても弁護士に相談に乗ってもらえるのなら、心強い。紹介だけはしてもらおうか。
「……そうね。とりあえず、紹介してもらえればありがたいわ」
「わかりました」松田さんが笑顔でうなずく。
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松田さんが帰った後で、私は一人、茫然と応接間に取り残された。
やがて。
「……うっ」
嗚咽が込み上げてきた。
涙が、次から次と頬を伝う。
私はレッスン室に駆け込んだ。そして……一気に感情を解放する。
「うわあああああああ!」
ここは防音工事がされている。どんなに号泣しても、外にはほとんど漏れ聞こえない。
やはり、ショックだったのだ。良祐さんに裏切られていたことが。
そりゃ、私だって完璧な妻だったとは自分でもとても思えない。だけど……10年以上、一緒にいたのに……仲良く過ごしていたのに……どうして……?
ひどいよ……良祐さん……
彼と過ごした数々の思い出が脳裏によみがえり、涙が止めどなく流れる。だけど……
奇妙にも、私は泣きながら安心していた。私自身が泣くことができる、という事実に。
母がいきなり亡くなった時は、しばらく涙が出なかった。私が母のことで泣いたのは、初七日が過ぎた頃だった。人間、悲しみが強すぎると、かえって泣けないものなのだ。
でも、泣けないのは辛いことだ。泣くと心がすっきりする。それは人間に元来備わっているメカニズムであり、ショックから立ち直るために必要な儀式なのだ。
だから私は思い切り泣いた。泣いて泣いて、泣きまくれ。そう自分に言い聞かせながら。
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