12
"大成功でした! 本当にありがとうございます! 先生のおかげです!"
宮内さんから届いたメールを、私は実家のパソコンで読んでいた。
一昨日、彼の最後のレッスンが終わった。問題の間奏の部分も、なんとか弾きこなせるようになった。そして、昨日が彼の本番、親友の結婚式。このメールを見ると、どうやらうまく行ったらしい。
だが……彼のメールの、続きの文章が……私の心をざわつかせた。
"先生にはとても感謝しております。一度、ご一緒にお食事でもいかがですか? もちろん、僕のおごりで"
……。
まずい。
OKしてしまいそうな、自分がいる。
もちろん、そんなことはダメだ。自分自身に言い聞かせる。
だけど……
なんで、こんなに心がざわめくのだろう。
いや、分かってる。ずっと前から。ただ、今まではそれに自分で気づかないふりをしていただけだ。
私は、宮内さんが気になってる。もちろん、男性として、だ。
彼も私に好意を持っているようだ、ということは、私もなんとなく気づいていた。だけど、私は人妻なのだ。それを受け入れるわけにはいかない。
でも……もし、良祐さんが浮気していたら……宮内さんのアプローチを受け入れても……いいのでは?
……いや、ダメだ! たとえ良祐さんが浮気していたとしても、私も浮気していいということにはならない。同じレベルに堕ちるのは、絶対ダメだ!
"お気持ちはとてもありがたいのですが、お月謝もいただいておりますし、それ以上に特別なお礼をなさる必要はございません"
苦渋の決断の末、私はそう返信した。
それからすぐのことだった。
いきなり、実家の電話が鳴ったのだ。
「もしもし、川村です」
『宮内です』
「……!」
なんと……電話をかけてくるとは…
『川村先生……僕、どうしてももう一度、先生にお会いして、直接お礼したいんです。ダメですか?』
「ええ。私、お月謝以外の生徒さんからのプレゼントは、極力受け取らないようにしておりますの。それはどの生徒さんに対しても同じですわ」
私はあえて、にべもない口調でそう告げた。
『……』宮内さんは黙り込む。だが、やがて絞り出すような声で言った。『先生、僕の気持ち、気づいてますよね……』
「!」
ああ。なんてことだ。
とうとう彼は、パンドラの箱を開けてしまった。
『結婚式で、新婦の友だちにも何人かお会いしましたけど』宮内さんは続ける。『先生ほど魅力的な女性は、いませんでした。やはり、僕は、川村先生のことが……』
「私には夫がいます。そういうお気持ちにはお応えできません」
電話で良かった、と思う。声だけなら、いくらでも毅然とした調子が作れる。だけど……今の私の顔には、たぶん狼狽の感情が如実に表れている。これを宮内さんに見られなくて、本当に良かった。
『……』
沈黙。私は追い打ちをかけるように言う。
「宮内さんには、もっと若くてお似合いの女性がいらっしゃると思いますわ。こんなアラフォーの年増女より」
こんな、心にもないことを、よくもまあスラスラと言えるものだ。私は自分に呆れる。
本当は私だって、彼を独占したいという気持ちがないわけじゃない。だけど、それは言うわけにはいかないのだ。
『僕は先生のこと、年増女だなんて思ったことはないです。それに、僕だって四捨五入すれば40ですから、同世代です』
「……」
今度は私が沈黙する番だった。
嬉しかった。宮内さんみたいな魅力的な男性にそう言われるのは、とても光栄なことだ。だけど……
「ごめんなさい。夫を裏切るわけにはいかないの。だから今のお話は、全て聞かなかったことにさせてもらうわ」
断腸の思いで、私は告げる。
『そうですか……ご主人のこと、愛してらっしゃるんですね』
力なく、か細い声だった。
「ええ」
あえて即答する。もちろん本心では、良祐さんを愛しているという自信は全然ない。そう突っぱねることが、私が自分自身に課した
でも、本当に電話で良かった。
だって、今の私の頬には、涙が伝っているのだから。
『……わかりました。だけど……最後に、もう一度だけ、先生のお顔が見たいです。それで……僕はすっぱり諦めます。やっぱり、一緒にお食事、いかがですか? もちろん、二人っきりの場所じゃなくて、衆人環視のレストランで……それ以上のことは、誓って何もしません。それでも……ダメですか?』
「……」
さて、どうしたものか。
そこまで言われてしまうと……断るのもどうか、という気になってくる。それに……
最後に会ってケジメをつけたい、という彼の気持ちは、私もよくわかる。彼の顔を見れば、私自身の気持ちにもケジメがつけられるだろう。
「……わかりました。本当に、一度だけですよ」
とうとう、私は言ってしまった。
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