9


 ……。


 一瞬、逡巡するが、私はすぐに心を決める。この人は信頼出来る。40年の人生で培われたカンが、そう告げている。


「ええ、お願いします」


 私は頭を下げた。


「ありがとうございます!」松田さんも深く頭を下げる。そして姿勢を戻すと、彼は微笑みながら問いかけた。「それではお仕事の話に入りましょう。百合子さん、『トロイの木馬』ってご存知ですか?」


「トロイの木馬……? トロイアの木馬ではなくて?」


 『トロイアの木馬』なら知っている。ギリシャ神話の有名なエピソードだ。ギリシャ軍のオデュッセウスが、兵士達を無害そうに見える巨大な木馬に潜ませ、難攻不落のトロイア城内に迎え入れられるように仕向けた。そして城内にまんまと侵入したギリシャ兵たちは頃合いを見計らって木馬から出て、城門を開き味方を呼び寄せ攻撃を開始し、見事トロイアを占領したという。


 しかし……ここで彼がなぜいきなりその話を持ち出したのか、全く見当がつかない。全然関係ないような気がするんだけど。


「ああ、正確に言えばそうなのかもしれませんね」松田さんが苦笑する。「どういうお話か知ってます?」


「ええ。ギリシャ神話に出てくる、木馬に兵士を潜ませてお城に侵入させるお話ですよね」


「さすが! よくご存知ですね。コンピュータセキュリティ用語では『トロイの木馬』って言い方をすることが多いんですけど、まさに神話のそれと同じように、無害なソフトを装ってコンピュータに侵入して情報を盗んだりするタイプの不正ソフトウェアのことなんです。今回、それを使って情報を収集しようと思うのですが……百合子さん、まずは貴女あなた自身が『トロイの木馬』にならないといけません。貴女は今のところ、旦那さんに取っては無害な存在です。だからこそ、いろいろ動けると思うんです。あなたに『トロイの木馬』になってもらえるのなら、こちらの調査活動も非常にやりやすくなります。コストを抑えることも可能でしょう。ですが……一つだけ、覚悟してください」


 そこで松田さんは、真顔になる。


「何を、ですか?」


「貴女自身が動くことによって、貴女がたった一人で衝撃的な事実に直面してしまう可能性も高くなります。精神的にかなりショックを受けるかもしれません。それは……いかがですか?」


「大丈夫よ」微笑みながら、私は即答する。「その覚悟なら、とうに出来ています」


「わかりました」松田さんの顔にも微笑みが浮かぶ。「それでは早速なんですが、旦那さんのスマホに細工することは、できますか?」


 私は首を横に振って答える。


「いえ、私はスマホなんですが、実は主人は未だにガラケーを使っておりまして……」


「!」松田さんの目が丸くなる。「なんとまぁ……今となっては珍しいですね」


「ええ」


「となると、スパイウェアを仕込むのはなかなか難しいですね。百合子さん、その旦那さんの携帯、中身見られます?」


「ええ。見られますよ。お互いにお互いの携帯は全て見られるようにしています」


「そうなんですか。だったら携帯を使って不倫相手と連絡を取ることは、どうやらなさそうですね。パソコンとかはお使いですか?」


「ええ。家には一台、夫婦共用のパソコンがありますわ」


「うーん、共用ですか……となると、それを使っても連絡は難しいですね……」松田さんは困った顔になる。


 だけど私には、ひょっとしたらこれを使って連絡しているのではないか、と見当を付けているものが一つあった。


「あと、主人は職場から支給されているノートパソコンを別に持っています」


 その瞬間、松田さんの目が、キラリと光ったようだった。


「それ、百合子さんは操作出来ますか?」


「いえ……主人は指紋認証でいつも使ってますので……たぶん私は、使うことはできないのでは……」


「なるほど。スマホの指紋認証なら、本人が寝ている間に勝手に指を滑らせて画面を開くことも出来ますけど、ノートパソコンではさすがにそれは難しいですね……でも、ちょっとそれ、中身を見てみたいですね。旦那さんはいつもそれをお家に持って来られるのですか?」


「そうですね。毎日ではないけど頻繁に持ってきて、何やら作業してます」


「わかりました。それでは、その中身を見る方法を考えてみます。それと……出勤日は、やっぱり旦那さんはスーツを着てらっしゃるんですか?」


「ええ」


「お仕事中は、やっぱり白衣なんですかね?」


「いえ、最近はスクラブスーツですね」


「……なんですか? それ」松田さんが首をかしげる。


「半袖の作業着ぽい服です。丈夫で白衣よりも動きやすいんで、最近の病院では職員は大体それを着てますよ」


「へぇ……知らなかった。病院なんて滅多に行かないもので……ええと、それ、ペンを挿すポケットとかあるんですか?」


「ええ。最近はもうカルテは全て電子化されてますけど、未だに手で書く書類も多いですし、患者さんに説明する時も紙に手書きすることが多いですから」


「そしたら、旦那さんがお使いのペンを、このボイスレコーダー内蔵のものに差し替えてもらえるとありがたいです」


 松田さんが自分のシャツの胸ポケットから、黒いボールペンを取り出し、ニヤリとする。


「実は今までの会話も、全てこれに記録されていますよ。1回の充電で、8時間は連続で記録出来ます」


 そうだったのか。見た目はちょっと高級そうなボールペンなのに。


「わかりました。これの使い方は……教えていただけます?」


「後でメールにてお送りします。ただ、記録された音声データは暗号化されてますので、そのままでは再生出来ません。これは百合子さんに対する配慮でもあります。まあ、先ほどお覚悟は伺いましたが……やはりそのまま聞いてしまうと、とてつもないショックを受けてしまうこともありますので……こちらから指定するクラウドストレージに、そのままデータを保存して下さい。僕が聞いて百合子さんに内容をお知らせします。もしどうしてもお聞きになりたい、というのであれば……その時はまたご相談、ということにさせてください」


「……わかりました」


 正直、主人にどんなことを言われていようが、私自身は耐える覚悟はできているつもりなのだが……ここはプロの判断に任せた方がいいだろう。


 松田さんは続ける。


「これでお仕事がある日は会話を記録出来ると思いますが……問題は休日ですね。それで一つお願いがあるのですが、休日に旦那さんが良く着る普段着のシャツを一着、お借り出来ますか?」


「ええ、構いませんが……どうなさるおつもり?」


「盗聴マイクを仕掛けます」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る