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「いやぁ……看板に『川村百合子 ピアノ教室』と書かれていたんで、面食らいましたよ」


 その人はそう言って笑顔を見せた。思っていたより随分若い。20代だろうか。こんなに若い人で本当に大丈夫なのかしら。私は少し不安になる。


「ああ、お話してなかったわね。ごめんなさい。ピアノの先生とピアニストとしては、旧姓を使っておりますの。ですけど、今はプライヴェートな時間ですから、今の私は『大西 百合子』ですわ」


「なるほど。それでは大西さん、あらためまして……松田調査事務所所長、松田まつだ 雄一ゆういちです。よろしく」


 松田さんが名刺を差し出す。中肉中背。少ししゃに構えたような面構え。どことなく屈折した思いを抱えているように見える。着ているのは少ししわのよったグレイのスーツと、同じようにくたびれた白いワイシャツ。ネクタイは締めていない。


 一昨日桜子から連絡があって、例の桜田さんが使ったという興信所がようやく分かり、早速メールしてみたのだが、あいにく他の依頼で手がふさがっている状態だと言われてしまった。しかし、元々そこで働いていて、2年くらい前に独立した腕利きの探偵を紹介してもらった。それがこの、松田さんと言う人なのだ。


「ありがとうございます。お名刺頂戴いたします」


 私はうやうやしく名刺を受け取る。今彼が言った通りの肩書が、そこに書かれていた。


「あ、どうぞ。おかけください」彼が立ったままなのに気づいた私は、ソファーを勧める。


 実家の応接間。やはり自宅のマンションに男性を呼ぶというのは、近所の目もあってなかなかやりづらい。だから私は彼との話し合いにここを選んだのだ。


「あ、それでは遠慮なく」


 松田さんが座ると同時に、私も向かいのソファーに腰を下ろし、彼を見据える。


「もし差し支えなければ……松田さん、おいくつか教えていただけます?」


「ええと……今年、29になります」


 なんと。やはり二十代なのか。


「随分お若くていらっしゃるのね」


「いや、でも、大学を卒業して以来ずっとこの仕事してますから、もう7年になります。学生時代のバイトの期間も入れれば10年近くですね」


 なるほど。それなりに経験は積んでいる、ということか……


「だけど、独立して自分で事務所を構えたのは、2年前です」松田さんは続ける。「と言っても、前の事務所から未だに仕事を回してもらってたりしますけどね。今回もそのパターンですよね?」


「ええ。今のご自分の事務所には何人の所員さんがいらっしゃるの?」


 私が聞くと、松田さんは苦笑いして頭をかく。


「いやぁ……実は、まだ僕一人でして……所長にして、唯一の所員ですね……」


 そうか。まだまだこれから、ということね。だけどこの人、本当に頼りになるのかしら。


 私のそんな気持ちを見透かしたのか、彼は安心させるように微笑む。


「だけど、ちゃんと公安にも届け出してますし、れっきとした私立探偵ですよ。実績もそれなりにありますから」


「それはよく存じておりますわ。前の事務所からお伺いしました」


 私がそう言うと、彼の笑顔が嬉しそうに輝く。


「ありがとうございます! 僕の強みは、メカですね。大学では電子工学科出身ですから、電子機器の取り扱いには慣れています。用途に応じて盗聴、盗撮アイテムを自作することもありますからね。これは他の事務所さんにはなかなかマネはできません。さらに、写真の経験もかなり長いです。中学の頃から親父の一眼レフで撮影してましたから。浮気の証拠写真の撮影では、失敗したことはまずないですね。乗り物も、自動二輪から大特まで一通り運転出来ますよ」


「へぇ……すごいですね」


 私が感心したように言うと、


「まぁ、要するに……オタクってことですけどね。女性に嫌われる」


 彼は苦笑してみせる。


 そうは言っても、私はそういう男性は嫌いじゃない。「オタク」と自称する割に、松田さんにはキモさがない。喋りも流暢だし、これでこの少し斜に構えた雰囲気さえなければ、結構モテるんじゃないかしら。


「さて、それでは本題に入りましょうか」


 松田さんがキリリと顔を引き締めて続ける。


「旦那さんの行動で怪しいところ、というのは……どういうものでしょうか?」


「ええ……と言っても、本当に些細なことばかりなんです。女性の香水の香りがスーツから匂ってきたとか、彼は休日にランニングしているんですけど、いつもならすぐに連絡が取れるのに、なかなか連絡が付かなかったり、とか……」


「なるほど」スマホの上で忙しく指を動かしてメモを取りながら、松田さんが言う。「旦那さんは車で通勤してらっしゃいますか?」


「いえ、バスか、自転車ですね。車の免許は持っていないので」


「バスで通勤されているのなら、混雑しているときにたまたま近くにいた女性の香水が移り香になることもありますよね」


「その可能性はもちろん考えました。ですが……自転車通勤の時も、ふわっと匂うことがありました。それも、毎回同じ……」


「!」松田さんが一瞬眉をしかめる。「でも、旦那さんはお医者さんでしたよね。職場には看護師さんが沢山いらっしゃるし、そういう方の香水の香りが移った、ということは……考えられませんか?」


「主人の職場では医療従事者が香水の類いを付けるのは禁止なんです。患者さんに不快感を与えることがあるので……だから、そういうことはまずあり得ない……と思っているのですが……」


「ふむ。それは確かに……かなり怪しい感じですね」


「ええ、そうなんです」


「いつ頃からの話ですか?」


「そうですね……最初に気づいたのは、もう一か月前くらいになるかしら……」


「わかりました。いつも決まった日に匂うのですか?」


「そうでもないんです。不定期に匂うもので……」


「そうなると……ピンポイントで張り込むわけにもいきませんね……」


「ええ……それなりに時間が取られますよね……金額も……」


「まあ、張り込みはバイトを使って安く済ませる事も出来ますからね」松田さんは再び、安心させるように笑顔になる。「僕も学生時代、よくやってました」


「そうなんですか」


「とは言え、もちろんタダでと言うわけにもいきませんから、やはりそれなりの金額は覚悟して下さい。ですが、調査が進んで旦那さんの行動パターンが把握出来たら、こちらもピンポイントで動けるようになりますから、費用を抑えることも可能ですよ。それに、百合子さんにも色々協力していただけるのなら、さらにお安くすることも可能です」


 なるほど。如才なくこういう提案ができるところは、やり手の印象だ。好感が持てる。


「そう言っていただけると有り難いですわ」

 

「それでは、ご契約ということで、よろしいですか?」

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