7
"大人のピアノレッスンは、できますか?"
そんなメールが届いたのは、3日前のことだった。送信者は
"ええ、もちろんできますよ"
そう返信すると、早速体験レッスンをしたい、と言う。というわけで、私は今日の17: 30にピアノ教室で彼を待つことにした。もちろん男性と二人きりになるのは好ましいことではない。こういう時は大抵女の子の教え子に来てもらっている。今回は瑞貴ちゃんにお願いした。彼が来るまで無料で彼女のレッスンをする、という条件で。
---
「宮内 雅和です」
そう言って名刺を差し出した彼は、かなりのハンサムだった。二十代と言っても十分通用する若々しい顔立ち。背は180センチくらいか。引き締った体躯。だが、口調と物腰はとても柔らかい。私の好みのタイプにかなり近かった。名刺を見ると、地元のIT企業でSEをしているようだ。
応接間。私達はテーブルを挟んで向かい合い、ソファに座っていた。瑞貴ちゃんの弾くリストの「愛の夢」が漏れ聞こえてくる。その音がする方に、宮内さんが顔を向ける。
「生徒さんですか。すごく上手ですね」
「ええ。彼女は私の教え子の中でもトップクラスです」
「なるほど、これは期待出来そうだ」宮内さんが白い歯を見せる。
ドキリとした私は、それを隠すように微笑む。
「それはどうでしょうね。大人の方のレッスンは、あまり実績がありませんので」
「またまた、ご謙遜を」そう言いながらも、彼の笑顔は全く嫌味を感じさせない。
いけない。何か甘酸っぱい気分になってきた。瑞貴ちゃんのピアノがまたそれにすっかり拍車をかけてしまっている。まずった。コンテストの課題曲だからと言って、「愛の夢」なんて弾かせたのが間違いだった……
「で、ピアノのレッスンをなさりたいという理由は、何なんでしょう?」
心の動揺を押し隠し、私は無理矢理話を本題に戻す。
「ええ、実は親友の結婚式に余興を頼まれましてね。ピアノの弾き語りを披露しなくてはならなくなりまして……」
「何の曲を、ですか?」
どうせ定番の JPOP というところだろう、という私の予想は、次の一言で小気味よく裏切られた。
「『セテンブロ』です。ご存じですか?」
……!
なかなか、いい趣味をしているではないか。「
「ええ。クインシー・ジョーンズの……いえ、オリジナルはイヴァン・リンスですね」
「さすが! よくご存じですね!」宮内さんが目を輝かせる。「親友が好きでしてね。子供の頃に僕がピアノを習っていた、という話をしたら、ぜひ弾き語りで弾いてくれ、と言われてしまいまして……」
「ということは、一応ピアノのレッスンの経験はあるんですね?」
「ええ。一応ツェルニーの30番までは、なんとか……」
ツェルニーか……
ツェルニーはベートーヴェンの弟子にしてリストの師匠でもあるピアニスト、カール・ツェルニーが残した一連の練習曲を意味する。日本ではかなり長い間初級から中級のピアノレッスンの定番曲だった。
私自身もバイエル、ツェルニー、ソナチネ、ソナタという昔ながらの一連のプロセスを経験してきた。私の最初の先生だった母はそういう教え方しか出来なかったのだ。今ではそんな古典的なカリキュラムだけではなかなかやっていけない。他にも素晴らしい教本はたくさんある。レッスンは各個人に合わせるのが、今の主流だ。
「それ、今でも弾けますか?」
「いや、もう二十年近く、鍵盤に触っていませんもので……」
「その、結婚式はいつなんですか?」
「1ヶ月後です」
「だったら、まずはリハビリも兼ねて、ツェルニーをもう一度
「わかりました」宮内さんはニッコリと口角を上げる。「それじゃ、お願いします」
---
かくして私は週2回、宮内さんにツェルニー30番を教えることになった。第1曲から第30曲までの合計30曲あるので30番と呼ばれる。ツェルニーの練習曲は他にも40番、50番、100番があるが、やはりこれらもそれぞれ40曲、50曲、100曲が収められている。そして、これらに重複する曲はない。
ツェルニー30番は曲が進むにつれて難易度も上がっていく。まずは第1曲。この曲は基本的に右手がメインだが……
……。
どうやら彼の手は随分さび付いてしまっているようだ。随分テンポを遅くして、なんとか弾ける程度。それでも一応合格として、第2曲に入る。今度は左手がメイン。
……。
ダメだ。第1曲に輪をかけて酷い。右手と左手がバラバラになってしまう。ミスタッチも多い。この調子じゃ、第30曲をクリアするまでに1ヶ月が過ぎてしまう。
しょうがない。最後の手段だ。
「宮内さん、ツェルニーはもう止めましょう」
「……え?」
キョトン、とした顔で彼が私を見上げる。
「たぶん、今からセテンブロを練習した方がいいと思います」
「いや、でも……いきなりは無理なのでは……」
「いえ、出来ますよ。コード弾きに徹すれば」
そう。
メロディは弾かず、ただひたすらコードを弾く。初心者の必殺技だ。弾き語りならそれでも十分だろう。
「コード弾き……ですか」
「ええ。次回までに私がコード譜を作っておきます。宮内さんはピアノのコードを勉強しておいて下さい。あと、ボーカルも練習しておいた方がいいですね。歌詞付きで歌います?」
この曲はオリジナルにしてもカバーにしても、スキャットで歌うのが定番だが、歌詞が存在するバージョンもあるのだ。
「いえ、スキャットで……」
「それじゃ、カラオケで練習しておいて下さい」
「わかりました」
宮内さんはニッコリしてうなずいた。
---
次のレッスン日。
自分が作ったコード譜の通りに私が弾き終えると、宮内さんはいきなり拍手を始めた。
「……すごいです! やはり先生ともなると、格が違いますね!」
そんなに感激されても……戸惑ってしまう。ただコードを押さえているだけなのに……こんなの、普段弾いている曲に比べたら甚だお粗末な代物だ。
「とりあえず、まずは私の伴奏に乗せて歌ってみましょうか」
「はい」
もう一度最初から私は弾き始めた。宮内さんがスキャットで歌い出す。
……伸びやかな、いい声だ。かなり特殊なコード進行のメロディだが、全く音程を外すことなく歌っている。この人、音感は悪くない。ビブラートをかける技術もある。
---
弾き終えてから、今度は私が拍手する。
「宮内さん、お歌はとてもお上手ですね。これなら新郎の方もお喜びになるでしょう」
「いえ……ただ、アーとかウーとか言ってるだけなんですけどね……」
照れくさそうに頭を掻きながら、宮内さんが笑う。少しだけ、ドキッとした。それを隠すように、私は冷静にツッコミを入れる。
「スキャットってのは、そういうものですからね」
「……」頭に手をやったまま、宮内さんが固まる。予想通りの反応。そこで私はまたにこやかに彼を見つめる。
「でも、とても音程は正確でしたよ」
「ありがとうございます」宮内さんは小さく頭を下げた。「だけど、問題はピアノですから……弾きながらここまで歌えるようになれるかどうか……」
「コードがちゃんと弾ければ、大丈夫ですよ。それじゃ、早速始めましょうか」
私は椅子から立ち上がる。
---
いくらコード弾きは簡単だからと言っても、ほとんど初心者同然の宮内さんに、いきなり両手弾きさせるのはやはり無謀だった。なので、私は片手連弾をすることにした。うちの生徒にもよくやる手法だ。生徒には右手パートだけを弾いてもらい、私が左手パートを弾く。その逆パターンもある。これはなかなか効果的だ。一人で片手の練習をするよりも、曲全体のイメージが掴みやすくなる。
しかし……
今回は、ちょっと失敗だったかもしれない。
このメソッドは、当然だけど私と生徒が左右に並んで密着することになる。相手が子供の生徒ならいいが、大人の、しかもイケメン男性となると……私もかなり意識してしまう。それに、たまたま右手と左手が近いコードになると、彼が間違って私が弾くべきキーに指を伸ばしたりして、手と手が触れあってしまうこともある。ま、私はもうそんなことでいちいちときめくような年齢ではないのだが……宮内さんはそういう事故が起こるたびに「あっ! すみません!」と言ってしきりに顔を赤くしていた。
いけない。なんだか私も胸がキュンとしてきた。母性本能がくすぐられているのが良くわかる。これ以上、深入りしないようにしないと……夫の浮気を調べようとしている私自身が浮気をするなんて、シャレにもなりはしない。
---
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます