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翌日。実家のレッスン室で、私は子供たちにピアノを教えていた。
私がピアノ教師となってから、もう18年近くになる。最初の3年は母と一緒に教えていたが、教え方のスキルが私の方が圧倒的に上だったので、母はもう全て私に任せる、と言ってピアノ教室から手を引いてしまった。それを機会に私は実家のピアノ教室の看板を新調し、自分の名前を冠に入れた。
今まで私が教えてきた生徒は、おそらく200人は下らない。中には音大に入った生徒もいる。だが、私が夢見つつも果たせなかった、国際コンクールに出場出来るレベルの生徒に出会うことはなかった。たった一人の例外を除いて。
今は小学六年生だけど少し大人びて見える、とても美人な女の子。彼女は三才の頃から私の教室に通い始めた。その当時から彼女は非凡な才能を発揮していた。
絶対音感をあっという間にマスターし、初めての曲でも数回の練習で弾きこなせてしまう。演奏時の集中力も並外れていた。だけど、常に無口で無表情。下手に顔立ちが整っているせいか、余計に冷たい印象を周囲に与える。実際コミュニケーションも不得意で、友達もほとんどいないようだ。
それでも彼女は順調に成長を重ね、昨年はジュニアピアノコンクールのエリアファイナルで奨励賞となり、今年は満12歳以下の部門でグランドファイナルに出場した。残念ながら入賞は果たせなかったが、地元のテレビ局も取材に来たりして、私の教室のいい宣伝になった。
本当に無愛想な女の子だけど、とにかく私は瑞貴ちゃんがかわいくて仕方なかった。彼女にだって感情がないわけじゃない。ただ、不器用で傷つきたくないだけなのだ。だから無表情の仮面を被っている。
瑞貴ちゃんを見ていると、こんな子が欲しかったな、と時々思う。私だって彼女くらいの子供がいてもおかしくない年齢だ。だけど、良祐さんとはついに子供はできなかった。そして
瑞貴ちゃんは子供とは思えないスケールの大きな演奏をする。ピアニッシモからフォルテッシモまでのダイナミックレンジも広い。あの華奢な体で、よくもまあこんな音が出せるものだ、と感心してしまう。もちろんそれにはそれなりに理由がある。今のような季節、薄着になると良く分かる。華奢な印象を与える割に、彼女の上半身はかなりがっしりしていて筋肉質だ。私と同じ、ピアニストの体格。
ちなみに私も一応バストは86センチはある。だが、カップはB。要するに胸板が厚いだけなのだ。今の瑞貴ちゃんの胸も、おそらく同じくらいのカップサイズに見える。
私は様々な技法を瑞貴ちゃんに叩き込んだが、彼女はそれをあっという間に吸収していった。特にペダルを使った彼女の表現は多彩を極める。そして彼女の運指は正確の一言に尽きる。ほぼミスタッチをすることがない。もちろんピアノの演奏はミスタッチをしなければいいというものではない。だが、彼女の演奏は決して無味乾燥な物ではなく、常に情緒たっぷりに歌い上げる。
そして、今日はそんな瑞貴ちゃんのレッスン日。コンクールも終わり、課題曲の練習にも飽き飽きしているだろうと思った私は、しばらく何でも好きな曲を弾いていいよ、と言っておいたのだ。そして今日、彼女は自分の弾きたい曲の楽譜を持ってきた。
「先生、わたし、この曲を弾いてみたい」
そう言って彼女は私に楽譜を差し出した。その表紙を見た瞬間、私は我が目を疑った。
表紙のタイトルに、こう書かれていたのだ。
"Gaspard de la nuit"
……「夜のガスパール」。モーリス・ラヴェル作曲。
ラヴェルはドビュッシーやサティと同時期に活躍しており、この3人はフランス印象派の作曲家としてまとめて扱われることが多い。
それにしても……いきなりラヴェルの真骨頂とも言える、この曲を瑞貴ちゃんが持ってくるとは……
ラヴェルの音楽には二面性がある。一つは「亡き王女のパヴァーヌ」「水の戯れ」に代表されるような、古典派、ロマン派の路線を忠実に踏襲した作品。だがこの「夜のガスパール」は、ラヴェルのもう一つの側面、狂気スレスレの暗い情熱がむき出しになっている。
そう言えば、今では音楽の教科書にも載っている名曲である「ボレロ」も、初演時に聴衆の一人が「この曲を作った人間は狂っている」と言ったそうだ。それを人づてに聞いたラヴェルはニヤリとして、「その人は本当に私の音楽を理解している」と呟いたという。
「夜のガスパール」には3曲が収められているが、特に第2、第3曲はかなり不気味で、とても小学生の女の子が弾きたがるような曲とは思えない。
「瑞貴ちゃん……本当にこの曲、弾きたいの?」
私が念を押すように問いかけると、
「うん」
当然、と言わんばかりに即答し、瑞貴ちゃんはコクンとうなずく。「どの曲も好きだけど、わたし、特に『スカルボ』が好き。でもね、自分でも試してみたけど、全然上手く弾けないの」
……!
なんとまあ。
「
だが、私もこれがラヴェルのピアノ曲の最高傑作だと思っている。かつてストラヴィンスキーはラヴェルを「スイスの時計職人」と評したが、まさに時計のように緻密に組み上げられた楽曲なのだ。演奏の正確さに拘る瑞貴ちゃんの感性に、何か訴えるものがあったのかもしれない。
「そうねぇ……『スカルボ』はまだ瑞貴ちゃんには難しいかもしれないわね。『
「
「うん……『スカルボ』よりはまだ弾けるんだけど、それでも運指が良く分からないところがあって……」
「わかった。それじゃ、今日は『水の精』を練習しましょうか」
「うん」
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