5

「あ、百合子おばちゃーん!」


 日曜日のお昼過ぎ。


 甥っ子の英太えいた君が、私の顔を見るなり飛んできて、太ももに抱きつく。5歳。幼稚園の年長さんだ。


 そんな言葉があるのかどうか分からないが、あるとすれば私は立派な「伯母バカ」だ。この子がかわいくて仕方ない。これで私のピアノ教室に来てくれるようになればいいんだけど……残念ながら今の彼は特撮ヒーローに夢中らしい。


「こら、英太! おばちゃんはね、お母さんに話があって来たんだからね!」


 桜子が大声を張り上げる。ここは彼女の家。一昨年、郊外に建て売りの一戸建てを買ったのだ。夫の昭夫あきおさんは国際会議で海外出張中だという。大学の准教授もなかなか忙しそうだ。


「ううん、いいのよ。それじゃ英太君、おばちゃんと遊ぼっか!」


 そう言って私が笑顔でしゃがむと、


「やったー! おばちゃん、またアレしよー!」


 目の前の英太君も満面の笑みになる。彼の言う「アレ」とは……そう、日曜の朝ニチアサにやっているヒーロー番組ごっこだ。ピアノ教室には男の子も来るので、そういう番組のテーマ曲なんかも把握しておかなくては、と思って私も見始めたのだが、思いがけずハマってしまった。もちろん今日の朝もちゃんと見てきている。


 ストーリーは意外にも大人の鑑賞に十分堪えられる。敵役も怪人だけではなくて、国家権力と戦ったり、ヒーロー同士で戦ったりすることもある。それに、変身前の主人公がとにかくイケメン。最近は若手俳優の登竜門になっているらしい。明らかに一緒に見ている母親をターゲットにしている。というわけで、私もすっかり知識が身についてしまい、ごっこ遊びに十分興じられるようになったのだ。決してイケメン主人公に釣られたわけでは……ないと思うが……


 英太君が変身ベルトを締めてきた。誕生日プレゼントに私が買ってあげたドリル型のアイテムは、壊しちゃったらしい。もう、しょうがないなあ。ちょっと意地悪しちゃおうかな。


「" さあ、実験を始めようか "」私が低い声で言うと、


「それぼくのセリフ~」私に決めゼリフを取られた英太君は、ほっぺたを膨らませて唇を尖らせる。もう……めっちゃかわいい!


「あはは。ごめんごめん。それじゃ、ビルドアップからね」


「うん……ビルドアップ!」


---


 一通り英太君の敵役を演じた私は、彼が見たいテレビが始まる時間になったのを機に、ようやく彼との戦いから解放された。


「……お疲れ様」


 ダイニング。桜子がウーロン茶を入れたコップに氷を浮かべて食卓に置く。


「ありがとう」


 食卓の椅子にぐったりと腰を下ろした私は、それを持って一息に喉に流し込む。楽しかったけど、さすがに元気のいい男の子の相手はかなり疲れる……もっとも、きっとこうなると思って今日は動きやすい服装にしておいたのだが。


 桜子は私の5歳下だ。世代も違うしあまり話も合わないが、姉妹仲は悪くはない。それに、今やもう彼女が私にとってたった一人の肉親なのだ。


 同じ家に育ったにも関わらず、彼女はピアノに全く興味を示さなかった。だが彼女には理系の才能があったようで、地元の国立大学の理系学部を出て、今は高校の数学教師をしている。


 例のヒーロー番組の主人公が天才物理学者という設定で、番組内にも数式が登場することがあるのだが、パッと見て彼女はすぐに「あ、ボルツマンのエントロピーの式だ!」なんて分かるらしい。それはともかく。


「で、お姉ちゃん、どういう話なの?」


 桜子が私の向かいに座る。こういう相談が出来るのは、やはり肉親である彼女しかいない。


「うん。実はね……」


 私は一通り、これまでの良祐さんの事を彼女に話した。


「うーん……」桜子が首をかしげる。「お義兄にいさんって、浮気とかするようには見えないけどなぁ……あ、でも、そう言えば桜田さんの旦那さんも、そういう感じだったって言ってたなあ……」


「!」


 そう。私が一番聞きたかったのが、その話だ。桜田さんというのは、桜子が社会人ビリヤードサークルで知り合った、50歳くらいの会社員の女性。少し前に旦那さんの浮気が発覚して、熟年離婚したという。おしゃべりな桜子が以前そんな話をしていたので、今日私は詳しく聞こうとわざわざ彼女の家にやってきた、というわけだ。


「桜田さんは、なんでご主人の浮気に気づいたの?」


「なんとなく、だって。やっぱり20年以上一緒にいると、そういうのが分かるようになるんじゃないのかな。お姉ちゃんもそれくらいでしょ?」


「まだ20年経ってないけどね。でも……やっぱり、なんとなくっていう感覚、分かるような気がする。それで、桜田さんはどうやってご主人の浮気を確かめたの?」


「興信所に頼んだんだって。かなりの腕利きで、すぐに分かったらしいよ」


「そうなの。ね、桜子、その興信所ってどこか分かる?」


「分かんないけど、桜田さんに聞いてみようか?」


「ええ。お願いするわ」


「でも……お姉ちゃん、本当に興信所に頼むの? お金だって結構かかるし……心配だったら、お義兄さんに直接確かめればいいんじゃないの?」


「できれば、疑っていることを本人に知られたくないの。無実なら絶対気を悪くするし、そうじゃなかったら……絶対警戒されるし」


「……ってことは、お姉ちゃん……かなりクロに近いって、考えてるわけね」


「ううん、そんなことは……」


 ない、と続けようとして、自分の中にそう言い切る自信がないことに気づいた私は、口ごもってしまう。


 認めたくないけど、桜子の言う通りかもしれない。三回も同じ香りが服に移るなんて……偶然とはとても考えられない。


 もちろん彼を信じたい気持ちもないわけじゃない。それに……このまま何もしなければ、今の幸せな生活がそのまま続いていくことになるだろう。わざわざ藪をつついて蛇を出すこともないのでは。そんな風に考えることもある。


 だけど……


 一度根付いてしまった不信感は、容易に拭い去れるものではない。そして、それをそのまま抱えて生きていけるほど、私は強い女じゃない。


「分かった」桜子がうなずく。「それじゃ、桜田さんに聞いてみるよ。どこの興信所か分かったら知らせるね」


「ええ。ありがとう」


---

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