第38話 やまざくら(12)
いっしょに寝ようか?
それとも、起きていて、用心のために先輩の番をしようか?
でも、こんな山のなかで、悪い人も、悪い野獣も、とりあえずは出そうにない。
では花梨もいっしょに寝るかというと、さっきからの先輩とのやりとりで振り回されて、目はぱっちり覚めていた。
「しようがないなぁ、もう」
何がしようがないのか、自分でもよくわからない。
とりあえず、どうしようか……?
風が少し強く吹いて、花梨の目のまえを、桜の花びらが、くるんくるんくるんと舞いながら、どこかへ飛んで行った。
袖の下が、ちょっと寒い。
そうだ。
先輩は汗をかいたまま寝ているのだから、このままでは冷えてしまうのではないだろうか。
さっき、がんばりすぎて花梨がひっくり返ったとき、先輩はおなかにタオルをかけてくれていた。
じゃあ、こんどは、と思う。
花梨は、自分が持ってきていた、バスタオルではないほうのタオルを、先輩の体にかけた。
おなかの上にかけて、胸の上まで引っぱり上げて
ふと見ると、先輩は花梨の顔のすぐ下で寝息を立てていた。
見たことのない先輩の表情だ。
寝ぼけると野生っぽくなるあの
子どものときのまんまの表情――。
そう言うのがぴったりだ。
花梨は目を細め、頬を緩めて、その先輩の顔に見入っていた。
先輩が、うん、と小さく息を漏らして、腕を動かした。
でも、目が覚めるようには見えない。たぶん、胸の上に置いたタオルを直そうとしているんだ。
先輩がタオルのところから両手の指を出す。
ああ、やっぱり、と思う。
それが花梨の油断だった。
先輩の手は、タオルの端のところでは止まらなかった。
花梨の、頭の横で短く結んだ髪の横を通り越して。
耳の後ろの頭の後ろを、両方からぎゅっとつかむ。
「え……?」
「え?」じゃない!
花梨の頭が自動で動いていく。動かしているつもりもないのに動いて行く。
花梨は止めようとしない。そう動いてあたりまえだと思ったから。
花梨の唇が、軽くやわらかくあたたかいものに、ふっ、と触れた。
あっ、と驚く。
驚いて離れようにも、花梨の頭は、先輩の手が許してくれるところまでしか動かない。
先輩、力、強い……。
あゆ
いや、ぱっちりと開いた。
寝てなんか、いなかったんだ!
「ありがと、花梨」
花梨の唇のすぐ近くで、先輩は、小さい声で、はっきりと言った。
目が
花梨はいつものようにわたわたしていいと思う。
でも、花梨は落ち着いていた。どうして自分が落ち着いているかはわからないけれど。
澄みとおって波一つ立たない水のようだった。
「はい」
花梨も先輩の目から目を
先輩が、くっ、と唇を結び直す。それから言った。
「わたしね、遊び友だちみたいな先輩がいて、えっちゃん先輩っていうんだけど、小学校のころからさ、そのえっちゃん先輩とずっと遊んで回ってた。さっき公子が言ってた、あの近くの
「はい」
そういう話は、前に
それに合格したのが最低点近くなのなら花梨もいっしょだ。
先輩の言っていることがほんとうなのなら、だけど、花梨の最低点近くというのはほんとう……。
「ところが、そのえっちゃん先輩、わたしが一年のとき、東京の大学に合格してさ。わたしの成績ではけっして合格できないようなところに。そして、去年の連休で、わたし、東京まで遊びに行ったわけ、えっちゃん先輩のところに」
「はい」
「裏切られた、って思った」
先輩は、言って、目を逸らしそうになる。
でも、先輩は、花梨の黒い目から目をはずすことなく、花梨を見つめつづけて、つづけた。
「先輩、大学でたくさん友だちができてて、わたしにつき合ってるひまなんかないみたいだった。あげくの果てに、先輩が大学の友だちとお酒飲んでるところにいっしょに行って、わたしもお酒飲まされて、ひっくり返ってさ。そのとき、自分のばかさ加減がすごく腹立って、お別れも言わないで、黙って、泣きながらこの街に帰ってきたんだよ。……先輩、わたしにはばか騒ぎばっかりしてる一面を見せてくれてたけど、そうじゃない、まじめに勉強して、同級生たちのまとめ役みたいなところもあって。でも、わたしはそういうところぜんぜん見なかったんだ」
「はい」
「くやしかった。そのときちょうどこのワークショップの仕事にめぐり会ってさ。猛勉強したよ。でもさ、自分はできない子なのにがんばってる、って思ってるから、ほかの子はもっとできるはずだ、っていう、なんていうのかな、コンプレックスがあって。それで
「ああ」
花梨は思い出している。
「
「だって、一年生のとき、わたしってあそこの常連だったんだもの」
「ああ……」
でも、常連だったから、というだけで、花梨たちが店に入るときに店の前をタイミングよく通りかかった、ということにはつながらない。
「常連だった」ということは、いまは違うのだろうし。
花梨は別のことを思い出して、ふうっと息をついた。
「その先輩って、
「うん」
先輩は優しい声で答える。
「今年は連休ごろに帰る、って、年賀状に書いてあったから、帰ってきたらあの店に行くだろうな、と思って、行ってみた。でも、店に入って確かめる気になれないで、向かい側に立ってたら、そしたらさ」
先輩がくくっと笑った体の動きが、その手から伝わってくる。
「介抱されてる酔っぱらいみたいになって、花梨が店に担ぎ込まれてたんだもん。見て笑っちゃった」
「笑われてたんだ」
その花梨からもくちゅっと笑いが漏れる。
それが、あの勧奨院というお寺の子なのなら、仙道さんからその名まえを出されたときの先輩の反応の意味もわかる。
行きたくなかったんだ。やっぱり。
花梨は、つづけて、ふんわりした声で言った。
「そのえっちゃん先輩の連絡先、きいてきてるんですけど?」
先輩、怒るかな、と、ちょっと思う。
「いい。わたしも知ってる」
なんだ、と思う。
「こんど連絡しとく。わたし、もう、一人でがんばってるわけじゃない。いっしょにがんばれってくれる、とても頼りになる後輩がいるから、って」
「はい」
「ありがとう」と言ったほうがいいかなと思った。
でも、その、ちょっと偉そうな「はい」で、花梨のことばは止まる。
いままで中途半端な中腰でいた花梨は、すっ、と膝をついた。
先輩は頭の後ろに回した手にこめた力を弱め、手を放す。
膝をついた花梨は、こんどは自分の手を先輩の頭の後ろに回す。
先輩は止めなかった。
花梨は、目を閉じ、先輩のおでこに自分のおでこをひっつけた。
くすぐったい。
先輩のおでこがひやっと感じられるのは、自分の顔がほてっているからだろう。
そして、二人ともそんなに高くはない鼻の頭をくっつけて――。
花梨は、あゆ子先輩と、ふんわりと唇を合わせた。
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