第36話 やまざくら(10)

 「うん?」

 先輩はリュックのほうを向いたまま振り向いた。耳のところに垂れた髪の向こうからこっちを見ている。

 「今日、もしわたしが来なかったら……このおやつって……」

 先輩が一人で食べなければいけなかったはずだ。

 「ああ、そんなの来るに決まってるじゃない、花梨かりんなんだから」

 あたりまえのことのように、先輩は言い、リュックの口を引き開ける作業に戻る。

 花梨だから、って、だから何だろう?

 「でも、わたし、この委員、辞めますって……」

 「ああ、そんなこと言ってたよね」

 「え?」――と声を立てそうになる。

 「そういえば、あのときお菓子の袋抱いてばたばたばたって出て行った花梨って、なんかおかしかったー」

 先輩は言って、振り向いて笑う。

 むぅ。

 こっちは心臓がばたばたして、じっと立っていられなくて、それで、慌てて出て行ったのに。

 しかも、その心臓がばたばたした原因って……。

 花梨は、それを思い出して、またかあっと赤くなる。

 「辞めるわけないと思ってたよ」

 先輩はリズムに乗せてうきうきするような言いかたで言った。

 からかわれているのだろうか?

 「で、……でも、わたし、あのとき……ほんとに辞める気で……」

 「それでも、わたしがウェブのページとか見せてあげると、なんか食らいつくように見てたじゃない? わたしの前に頭乗り出してさ、ディスプレイの前に、べたあって」

 先輩は笑う。

 「あ……あっ?」

 べたあ、なんてしてただろうか?

 いや、そんなことはしてない。してないと思うんだけど。

 そうじゃない。先輩に怒られて、それで、まったく興味なさそうなところを見せたらもっと先輩を怒らせそうだから、無理に興味のあるふりをしていたんだ。

 そう……だったんだけど……。

 「だから来てくれると思った。それとさ」

 先輩は、リュックに箱を入れて、入れ終わって、リュックを脇に置いて、花梨のほうに向き直った。

 じっと正面から花梨の顔を見て、小さく息をついた。

 なんだか、さっきよりまじめっぽい。

 そう思って花梨は上目づかいで先輩を見返す。

 「公子きみこがさ、いいかげんな子を寄越よこすはずがないって思ったから」

 「ああ……」

 仙道せんどうさん……。

 「でもごめんね。さっき、花梨のこと、公子の身がわりとか言っちゃって」

 「あわわわわっ……」

 頭の上半分が熱くなって湯気が出そうになる。

 「あっ……」

 しらを切るにはストレートすぎた。

 「わっ……わかっちゃいましたっ……?」

 ばか。こっちまでストレートに返すことないじゃない!

 ……で、でも。

 ならば、どう返せばよかっただろう。

 「あれ言ってから、花梨の答えがぜんぶ受け身になったんだよね。だからわかった。ほんとごめん」

 「い、いや……」

 先輩に謝ってもらうようなことじゃないですっ!

 「でも、けっして、公子が一番で、花梨は交替要員、とか考えちゃいないから。花梨は花梨で一番だから」

 「えっ……」

 いまの花梨は、答えが受け身になっているどころか、「いや」とか「あ」とか「え」しか返事が返せないでいる。

 花梨は花梨で一番……「花梨は花梨で」がついてるけど、でも一番……花梨が一番……先輩にとって花梨が一番……。

 先輩は短く伸びをして、さっきまでよりくつろいだ言いかたで言う。

 「公子が合格したときに、わたしのところにあいさつに来たんだよね。そのとき、わたしがこのワークショップ委員のこと言うと、公子が、わたしでよければ手伝いますって言ってくれた。そのとき、わたし、公子がどこに住んでるかとか知らなかったんだよね。自分が図師ずしやかたの跡に住んでるから、っていう意識はあったのかな」

 「あ……はい」

 「ところが、公子、委員長になっちゃったでしょ? あの公子が、自分がなろうとしてた委員としていいかげんな子を送ってくるはずがないって思ったからさ」

 「あの」

 ここははっきり言っておかなければいけないと花梨は思う。

 「わたしって、すごいいいかげんな子なんですけど。だって、わたし、あのホームルームのとき、ぼーっとしてて、自分がこの委員にあたったの、気づかなかったぐらいですから……あ」

 最後の「あ」がなければ、しょんぼりさ加減が絵になると思ったんだが。

 「なに、あ、って」

 しかも先輩に聞きとがめられてる。

 花梨は、だから、目を伏せてため息をついてから、正直に言うことにした。

 「何考えてて、自分が委員になったのに気づかなかったのか、いま思い出して」

 「何考えてたの?」

 先輩が身を乗り出す。

 うぅ……。身を乗り出してきいてもらうほどの話じゃないよぉ……。

 「桜餅って、どうして白と緑と桜色なのかってことを考えてて……」

 それだけじゃなかったけど。

 「それで、先輩が、いま桜餅を作ってきてごちそうしてくれたのが、なんか、ふしぎな因縁っていうかぁ……」

 ああ、恨み言みたいな言いかたをしてしまった。

 ちゃんと明るくお礼を言わなければいけないところなのに。

 因縁だなんて。

 「因縁をつけてる」とか怒られたら、どうしよう?

 でも先輩は笑った。声を立てて。

 「それはたしかにふしぎな因縁だね」

 だから花梨もいっしょに笑う。でもそれだけでは悪いと思った。

 「それにしても、先輩、お菓子作り、上手ですね。お料理、好きなんですか?」

 先輩が笑うのをやめて、真顔になる。

 あ、まずいことを言ったかも――花梨はどきっとする。

 「あのさ」

 先輩は真顔のまま言った。

 怒られる!

 でも、お菓子作りが上手、って言っただけで、なんで怒られないといけないの?

 「わたしになんか言われたときの、花梨のその、びくっ、って表情、かわいいね」

 おもしろくもおかしくもないという言いかたで先輩は言う。

 「えっ、……えっ、あっ、あのっ」

 こんどはまた顔が赤くなる。先輩は笑いもしないでじっとその表情を見ている。

 なんか、ちょっとひどいことをされていると思う。

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