第34話 やまざくら(8)

 山桜の丘までは上から見たよりも遠かった。でも、まわりは杉の若木を植林したばかりで、草もまだ伸びていないので、歩きにくくはない。

 さっきの大きい岩のところから吊り橋をけるように尾根筋がまっすぐつづいていた。その尾根筋を歩いて森に入る。森に入ったところを少し登ると、その上はまた平坦だった。枯れ草や低い木の枝をかき分ければ、小高い山の上まで上がることもできそうだったが、それが目的で来たわけではないので、平坦な部分を横に入る。

 大きい石がいくつも土から出ていて、そのあいだを歩いて行く。

 たくさんのほかの木に混じって桜が咲いていた。

 遠くから見たときには、そのあたりがほんのり明るく見える程度だったが、下から近づくと、花はほかの木の作る暗がりに負けないように力いっぱい咲いている。

 先輩と花梨かりんと。

 二人だけしか見ていないところで、桜の花びらがひらひらと少しずつ散っている。

 先輩が、ぽつん、と言う。

 「きれいだね」

 「はい」

 「あの木の下まで行って、休憩にしない?」

 「はい」

 大きい木だった。平坦地と小高い山の部分との境目に生えていて、根の半分は山の側にかかっている。

 幹は太く、でこぼこしていた。低いところで枝分かれし、その枝が四方八方に伸びている。

 空から落ちてくる何かを受け取ろうとするように。

 花梨は、ちょうど桜の木の根に抱かれるように盛り上がった部分が座りやすそうだったので、そこにあのバスタオルを広げて腰を下ろす。

 下は湿っていて、苔が生えていた。でも、このバスタオルはさっき土の上に敷いてしまったし、ここまで草や木の枝をかき分けて来て花梨のズボンもほこりだらけなので、いまさら汚れるのは気にならない。

 先輩は、その幹の下から桜の木を見上げていた。

 あのすべすべした頬が上から桜の花の白さに照らされているようだ。その先輩と花梨のあいだを桜の花びらが一枚また一枚と横切って行く。

 「桜ってさ」

 見上げながら、先輩が言う。

 「ほんとはこんなふうに咲くものなんだね。山のなかで、なかなか人に知られることもないまま、さ」

 「ええ」

 花梨もその先輩の見ている先を追って、顔を上げる。

 ほのかなピンク色の桜の花がいっぱいに覆って、その上に白く明るい空が見える。

 もう半月も前に咲いていた学校の桜よりも、楽山城の公園の桜よりも、この一本の桜のほうが力強く、それを見上げている者をその上の空へと連れて行ってくれるようだ。

 花梨は背を反らして見上げる。

 上を。

 「はあ」

 もっと上を。

 木の上の空は高い。

 いっぱいの花を見上げてるうちに、木といっぱいの花の房を通り抜けて、その高い空に吸い込まれていくような感覚になる。

 それが心地よい。

 だから、もっと背を反らして……。

 ずべっ!

 「きゃっ」

 急にその桜の花の群れが少し遠のき、止まった。

 「花梨っ!」

 先輩が声をかける。

 「だいじょうぶ?」

 「あ、だいじょうぶです」

 椅子のように腰かけていたところから滑り落ちても、花梨は自分の上で咲き誇っている桜を見上げつづけていた。

 でも、土の上に、かえるのように両脚を広げて上を見上げているのはさすがにかっこうがわるい。

 「てへへっ……」

 花梨はまた照れ笑いして立った。どこも強く打ってはいないようだ。

 「花梨って……もう」

 先輩が桜の幹の下から花梨のところに来て、自分のリュックを下ろす。それから、念のためというように花梨のほうを見た。

 「座るときにはちゃんと下を確かめて……なに、苔がぜんぶ剥げちゃってるじゃ……?」

 先輩が花梨の座っていたところをのぞきこむ。

 先輩が体の動きを止めた。

 「ん?」

 先輩が、花梨の座っていた石に手をついたまま動かなくなったので、花梨はどきっとした。

 「ね、花梨……」

 先輩は小さい声で言う。薄暗いその石の表面を人差し指でたどりながら、じっと一点を見ている。

 花梨もその人差し指の動きを追った。

 「花梨、これ、何に見える?」

 「えーと」

 最初はわからない。でも、先輩は何度も指で同じところをたどって見せた。

 「カタカナの、ク、ですかね、それとも、コ、ですかね」

 「自然にできた模様だと思う?」

 「そうかも知れないけど、彫刻刀で彫ったようにも見えます」

 「自然じゃない、とは言い切れないか」

 先輩はその石に向かって唇をきゅっと結ぶ。花梨の顔をちらっと見る。

 花梨も先輩の顔をちらっと見返した。先輩が考えごとをしているのにじろじろ見るのは悪い。

 「はっ!」

 先輩は「はっ」と「あっ」の中間の驚き声を立てた。

 花梨のほうを振り向く。じっと花梨の顔を見る。

 「はい……?」

 「この石、丸いよね?」

 「はい」

 丸い。だから、花梨は空を見上げようと背を反らして、滑り落ちた。

 「ちょっと来て!」

 先輩はそう言うと、もと来たほうへと歩き出す。花梨もついて行った。

 立ち止まる。

 「これ……」

 先輩が目を下ろしたのは、土に半分埋もれている石だった。たまご形で、大きさは花梨の歩幅一歩分くらいはある。そのたまごが斜めに土に埋もれているような感じだ。

 そのまわりの湿った土の上にもさっきの桜の花の花びらが散っている。

 「これも丸いよね」

 「ええ」

 また少し歩く。

 枯れ草にまわりを囲まれて、そこに根づいてしまっているような石がある。

 「丸いよね」

 「はい」

 先輩は、地面に散らばる「大きくて丸い石」をたどっている。そんな石がいくつも転がり、どれも多かれ少なかれ土に埋もれていた。斜面に近いほうには、そういう大きい丸い石が、もっと小さい石と混じってごちゃっと積み重なっている場所があった。それを、半分以上は枯れた笹が覆っている。

 「あのさ、花梨」

 その石の集まっているところを中腰で見下ろしながら、先輩が言う。

 花梨のほうは見ない。

 もしかして、また怒られるんだろうか、という不安がぎった。

 でも、なんで? 何について怒られるの?

 「さっきの大きい岩のところの石って、ぜんぶ角がとがってたよね」

 怒られなかった。油断はできないけど。

 「はい……」

 「でも、ここの石って、ぜんぶ角が丸い」

 「はい……」

 そうか。

 でも、それは山一つひとつで個性が違うということでは……?

 「普通さ、角の丸い石って川のほうでしか採れないんだよ。川で転がっているうちに石って角が取れるから」

 「ええ」

 そういう話は前もきいたことがある。

 「花梨、お手柄っ!」

 先輩は、うるんだ目で花梨を見て、両手で花梨の手にぽんっとタッチした。

 でも、こんどは、どうしてそんなことをされたか、わからない。

 「いや……でも、えっと……」

 とまどって細い声を立てる。

 「つまりさ、ここの石ってさ、川のほうから運び上げたんだよ。でも、なぜ?」

 「それは……つまり……」

 「転法輪てんぽうりん寺のお坊さんのありがたいお説教で、鬼が改心して石を運んだんだったよね?」

 「あ……! ……っていうことは、ここが城跡?」

 うん、と先輩はうなずく。

 「いや、ここものろし台とか、そういうのかも知れない。お城とは限らない。でも、わざわざ川のほうから石を持ってきて、人間が石垣みたいなのを造ってた。その可能性はすごくあると思う」

 早口で言って、じっと花梨を見る。

 「あ、で、でも」

 いっしょに喜ぶ前に、いちおう疑問を言っておいたほうがいい。そうでないと、またあとで「喜ぶことじゃなかったね」なんて言われるかもしれない。

 「どうして川からわざわざ石を運んだんでしょう? 山には岩がいっぱいあるし、さっきの大きい岩みたいなのを砕いて持ってきてもいいのに」

 「たぶんね、あれ、もろいんだよ」

 先輩は答える。

 「石垣みたいに積んだりしたら割れたりする性質の岩なんじゃないかな。だから、川のほうから、硬い岩を選んでここまで運び上げた。さっきのカタカナみたいな字は、もしかすると、それを担当した一族のしるしかも知れない。石垣の石に担当者の記号を刻む、っていうのは、いろんなお城であることだから」

 「だったら……」

 「うん。でも、速断は禁物」

 「じゃあ、さっきの先生にメールして……」

 「うん」

 先輩は花梨をじっと見つめている。

 細かく震えているのがわかる。興奮しているのだ。

 「やったね、花梨!」

 ふだんはクールで硬い先輩の声が、深みのある声になっている。

 「花梨の手柄だよね」

 先輩の感動に水をさす気はない。気はないが。

 「あの……どうしてわたしの手柄……?」

 「だって、さっき、花梨が中途半端に腰かけてずべっ! ――って滑らなかったら、だれもあの石のことなんか気づかなかったよ。だからお手柄!」

 「うぅ……」

 手柄というか……。

 由真ゆまなら、たぶん「いつもどおり間が抜けてるだけじゃん」って言うと思う。

 そのとおりだ。

 「うぅー……」

 喜んでいいのだろうか?

 この「手柄」を……。

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