第33話 やまざくら(7)
「たぶん、ここだね」
先輩が何度か迷ったあとに言ったのは、大きなごつごつした岩が谷に向かってせり出しているすぐ横だった。岩は
見下ろすと、赤い屋根の大きい建物や、「コ」の字型に曲がった背の低いビル、広い駐車場のあるところに、黒い瓦屋根の家が集まっている町並みが見えた。
目の下は、断崖絶壁とまでは言わないまでも、かなりの急斜面だ。斜面の下のほうはコンクリートで固めてある。
小さいころ、花梨が何度かおじいちゃんとおばあちゃんにこの温泉に連れて来てもらったとき、温泉の建物から見上げた山がちょうどこのあたりなのだろうか?
この大きい岩が、このあたりではいちばん高い。
先輩と花梨は、その崖の側以外のその大きい岩のまわりを回ってみた。
あたりは杉か何かの若い木が植えてあるだけで、見通しはよい。その若い木の背丈はまだ花梨の胸ぐらいだ。林というより、木の苗を育てる畑のようなところだろう。
でも、この大きい岩のまわりだけ高い木が何本か残っている。
岩の上のほうの割れ目に、木の色も変色して
先輩が手を合わせたので、花梨も倣って手を合わせて頭を下げる。
岩の周囲は急斜面だ。そのところどころに、やっぱり角の
「ここが、そのお城の跡……でしょうか?」
花梨が遠慮がちにきく。
「花梨はどう思う?」
その、不機嫌そうな、疲れたような言いかたで、先輩の考えていることはわかる。
「たぶん、お城じゃないと思います」
「どうして?」
「狭すぎます。この岩のまわりにお城の建物を建てたってほんの小さい建物しかできないし、まわりも急すぎて、戦うにしても逃げこむにしても場所が取れないような」
「たぶんねぇ」
先輩もここは初めて来たのだ。もう少しお城らしいところがあると期待していたんじゃないだろうか。
花梨と先輩は二‐三歩ぐらいしか離れていないのに、花梨の頭が先輩の腰のあたりだ。こんな急斜面だとお城はできない。
「もしかすると、のろし台みたいなのはあったかも知れない。何かあったとき、煙を上げて知らせたり、夜ならば
「ええ」
花梨は少し考えた。せっかく来た場所が何でもない場所だと認めるのは、何が何でも惜しいと思う。
「でも、神様がおまつりしてあるってことは、何かあったのかも知れません」
「大きい岩に神様がまつってあるっていうのはよくあることだから。こういう崖の上だから、昔は
先輩は少しことばを切ってからつづける。
「でも、もしかすると、林業でこのあたりに杉を植林したときに、その守り神様としてとか、植林するために森を切り開いたことの罪滅ぼしで、とかでおまつりしたのかもしれない。だとすると明治以降だよね。もしかすると戦後かも知れない」
「ああ、はい」
「わたしたちから見ると、戦後っていうのも、明治も、江戸時代も、戦国時代もみんな「昔」だけど、それぞれ違う時代なんだよね……」
そういえば、仙道さんのところで見せてもらった半紙や半紙のような古い紙に書かれた文書は、ぜんぶ「古い」と思っていた。たしかにどれも古そうで、先輩にさえ字が読めなかった。
でも、専門の先生が見れば、それは、大部分が江戸時代の末のもの、それに明治よりあとのものもあった。「汽車で東京に」なんて書いたものもあったという。
先輩を失望したままにしたくないので、花梨は言う。
「でも、もしのろし台か何かがあったとしたら、お城とは言えなくても、戦争のためのものなんだから、そのワークショップで発表してもいいんじゃないですか?」
「それがあったっていうのが、もうちょっと確実ならね」
先輩は言う。残念そうだ。
「ここにこういう岩があって、のろし台を置くとしたら絶好の場所です、みたいな言いかたでは、ちょっと……」
花梨は顔を上げた。
襟や胸のあたりの服が風をはらみ、風にぱたぱたとなびく。
風は強いし、冷たい。ここは、たぶん
冷たい風をいままで感じなかったのは、山歩きをして体が火照っていたからだろう。
空はまだ白く曇っている。温泉とは反対側、ずっと山がつづく山地の向こう、山の上の雲と空の雲とのあいだに青い帯のように青空が見えるのが、かえって寒々とした感じだ。
もうここには二度と来ないだろう。花梨はあたりを見回した。
この岩のあるところからは、来た道とは逆の山地のほうにも尾根が連なっている。
その尾根を少し行ったところに、やっぱり小さくこんもりと茂った森のようなところがある。
そこの一部分がふわっと明るくまわりから浮き上がったように見える。
なんだろう?
先輩がひとつ息をついた。
「さ、花梨ちゃんにはむだ足させてしまったね」
先輩らしくない言いかただと思う。先輩ならば、ここにお城がなかったらしいことがわかっただけで成果だと考えるはずなのに。
花梨に気をつかってくれているんだ。
花梨は慌てて言った。
「待ってください!」
「うん?」
先輩が花梨を見る。花梨は言った。
「あっちに桜が咲いてるところがあります! どうせだったら」
少しことばを弱めて、笑って言う。
「あそこまで行ってから帰りませんか?」
「何をばかなことを」って言われたら、そうですね、と言って小さく照れ笑いするつもりだ。
「
先輩はしっかりした声で答えた。
花梨には、その白く明るくまわりから浮き上がっているのが桜の花だという確信はなかった。自分で「桜が咲いてる」と言ったのははずみのようなものだった。
そうでなければ、桜の花だったらいいな、という軽い「願望」とか。
街ではもうずっと前に桜は散ってしまっている。
でも、先輩が桜だというのだから、桜なのだろう。もし違う花だったとしても、二人のあいだで桜だというのなら、桜でいいと花梨は思う。
「うん。行ってみよう」
先輩が言ってくれたので、花梨は自然に笑みがこぼれる。
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