第31話 やまざくら(5)
たとえではなく、ほんとうに抱き合って喜んだ。そのほんとうに抱き合って喜んだ喜びを、そのままとっておいてくれないのが、また先輩らしいところだ。
「考えてみたら、さっきのってわたしたちが喜ぶようなことじゃなかったね」
こんどは
でも、花梨も先輩のこういう言いかたにはもう慣れていた。
いつ慣れた、ときかれると、わからない。ずっと前から慣れていたという気もちだ。だから、
「なんでですか?」
ちょっと後ろを向いて、弾む息にのせてきく。先輩が答える。
「だって、あの文書って、
自分たちには読むこともできなかった。
花梨はもちろんだけど、先輩も、公子ちゃんも、文書の持ち主の公子のおばあさんも、だ。
「うぅー」
それはそうだけど。
でも花梨は目を細めて笑った。そんな顔ができたのは、先輩が後ろにいて、花梨の顔を見ていないからだろうか。
「でも、わたしたちが喜ぶのは、べつにいいことなんじゃないですか?」
首を後ろに回して、でも先輩の顔は見ないで言う。
「どうして?」
先輩が、理屈っぽそうな、強情そうな声で言う。
「わたしたちが、出会ったんだから」
花梨はかんたんに言った。
「何百年も、その値打ちのわからないままに残ってきた書きものっていうのに、わたしたちが出会って、それを、その値打ちのわかる先生に伝えたってことでしょ? だから、そういうのをわたしたちが喜ぶのは、いいんじゃないかなぁって思うんですけど」
そこで、くすっと笑う。
「それに、わたしたちが喜ばなかったら、あの文書、残してくれた人に悪いと思うんですけど」
「公子の家の人ってこと?」
先輩がきく。やっぱり理屈っぽい。
「それもそうですけど、さっきの公子ちゃんの」
あ、
花梨がちゃん付けするのは、学校の友だちではいまでは優等生の
でも、仙道さんを「公子」と呼び捨てにするのはもっとどうかな。だから「公子ちゃん」でいいんだ。
つづける。
「さっきの話だと、だれかほかの家の人が残してたものなんでしょ? それがいつか公子ちゃんの家に来て。戦国時代から公子ちゃんの家に来る途中で、だれかが、何この紙くず、みたいに思って捨てちゃったら伝わらなかったし、だれかがコーヒーとかこぼしてあの紙でぎゅって拭いたりしたら、一度でもそんなことがあったら伝わらなかったし。あ、そんな昔、コーヒーはないか……」
「ない」
先輩が無愛想に言う。花梨はめげない。
「じゃあお茶でもいいです」
「まあお茶飲むのも昔はお茶会とか茶席とか特別な場所でだったけどね」
細かいところにこだわる。花梨は自分の話を続ける。
「あれを持ってた人の家がずっとつづいて、手渡されてきて、それがやっとわたしたちのところに来たときに、それの値打ちのわかる人に、なんて言うのかな、わたしたちが紹介した。いや、先輩が、ですけどね。でも、それって、やっぱり、わたしたちが喜ばない、って言ったら、そういうひとたちみんなに悪いって思うんですけど」
言ってから、こんどはリュックの向こうの先輩の顔をちょっと見る。
でも、先輩がどんな顔をしていたか確かめる前に、前を向かなければいけなかった。
脇見はできない。
道はわりと険しい斜面のまんなかを横に突っ切っている。道を踏みはずすと下に滑り落ちる。
このあたりは木がまばらで、明るいけれど、かえってそのせいで下までずるずる行ってしまいそうだ。
とくに、花梨みたいなぼんやりっ子なら。
「わりと強情に理屈考えるね、花梨って」
花梨があれだけ言って、先輩から返ってきた答えが、これだ。
怒ってもいいだろうか。
それとも、先輩と抱き合って喜んだときのあの気もちをなかったことにしないでください、と言う?
いまはだれにも相談できない。
「でも、あのとき、先輩とわたしがあんなに嬉しかったのって、そういういろんなことがあったからじゃないですか? ただ自分たちの手柄だと思って喜んだだけなんじゃないと思いますけど」
よくそんなことを言うと自分で思う。少なくとも花梨は、あのとき、自分と先輩のことしか考えなかった。先輩にぎゅっと抱きしめられて、背中をぶんぶんぶんと揺すってもらって、それで幸せだった。それだけだったはずなのに。
うふん――と先輩は笑った。
「ま、たしかに花梨の言うとおりかもね」
よかった。通じた。
「ところでさ」
それで、あのとき花梨と抱き合った気もちはうそのはずないもんね、ということばがつづいてくれると幸せだと思う。
「明治になるまでの日本人って、ほんとにコーヒーって飲んでなかったのかな?」
ぎゃふん。
何を考えてるんだろう、この先輩は!
いや、こういうときにこういうことを考えるのだ。
あゆ
「それはなかったでしょう」
また、ちらっと後ろを振り向いて、花梨は言う。自分の言いかたが偉そうだったかな、と、ちょっと思う。
「どうして? だってヨーロッパの人は飲んでたわけでしょ、その時代」
「でも、鎖国してましたから、日本って」
「鎖国はしてたけど、貿易はしてたでしょ、オランダと? ヨーロッパのなかでオランダだけコーヒーが伝わってなかった、ってことはないと思うし。それに、日本には、コンペイトウとかカステラとかが伝わってるんだよ?」
先輩は頑固だ。
「でも、カステラやコンペイトウはお砂糖とたまごとかミルクとかがあれば作れるじゃないですか。コーヒーはコーヒー豆が必要だし、日本では採れないし」
「ああ、そうか」
先輩は、くっ、と短く笑う。
「そうだよね」
それで終わるかと思った。
斜面を横切る道は終わりに近づいている。もう少しで、道は、木がいっぱい茂る坂道にさしかかるのが見えていた。
「でもさ、花梨、だったら、どうして薩摩とかさ、そういうあったかい地方でコーヒーの栽培をしたりしなかったんだろう?」
――終わってなかった。
「そういうのはわからないですけど」
花梨もねばる。
「薩摩のあったかさでは足りないとか。日本の南のほうの暖かさではコーヒーにはまだ足りないんですよ、たぶん。鹿児島でも冬は寒いじゃないですか。アラビアとかアフリカとかブラジルとかの、一年じゅう、かっ、と、照りつける太陽の下じゃないと、コーヒーは作れないんじゃないかと思うんですけど。それに、そこまで苦労して栽培しようとも思わなかったんじゃないですか? だって、お砂糖もミルクも入れてないコーヒーって苦いだけだし、みんなが喜んで買うようなものでもなかったと思うんですけど」
お砂糖もミルクも入っていないコーヒーって、飲んだことがあるけれど、花梨はちっともおいしいと思わなかった。二度と飲みたくなかった。それを好きこのんで飲むひとがいるというのが花梨にはまずよくわからない。
先輩は答えなかった。道が急な坂にさしかかり、話をしているどころではなくなった。
もしかすると、先輩にとっては、話をするくらいなんでもないのかも知れない。でも、花梨のことを思いやってくれたのかな。
さっき、先輩は花梨に無理をさせたと謝っていたことだし。
それとも、坂が急なせいで、花梨の足の後ろあたりに先輩の顔が来るので、さすがに大声を出してまで江戸時代のコーヒーの話なんかする気になれなかったのか。
そのどちらかはわからない。
急な坂をひとしきり登って、少し坂が緩くなるところに出たとき、先輩は言った。
「でも、お茶だって苦いのに、飲んでたよ。最初は日本になかったのに、いっぱい植えて、栽培して、さ」
――まだつづくのか!
「お茶は、茶の湯とかあって、そういうので根づいてたからだと思います」
それでも切り返した自分は偉いと、花梨はちょっと思った。
「なるほどね」
これであゆ子先輩も言うことが見つからなくなるだろうか。
「じゃあ、コーヒーはどうして広がったのかなぁ? 江戸時代が終わってから」
まだだ。
「それは、なんか、コーヒー飲んでると、ヨーロッパ、って感じだったからじゃないですか? 明治時代ってなんかそんな時代でしょ?」
「ああ」
振り返ると、先輩もわりと肩で息をしている。
もちろん、花梨もだけど。
心臓はさっきと同じように速い拍子を刻んでいるけれど、さっきほど気にならない。
それより、先輩も、そんなにせわしく息をしながら、明治時代のコーヒーのことなんか話さなくていいのに、と花梨は思う。
「うん、そうだね」
やっと、終わった。
ちょっとならお褒めのことばをもらってもいいと花梨は思う。でも、そう思ったときには、その思いはいつも裏切られてきた。
「花梨って、すごく頭いいね」
裏切られなかった。でも、と思う。
さっきの、花梨は時間に正確、というのといっしょで、これは訂正しておかないと。
「いや、そんなことないです。だって、第三から
「頭いいから成績もいいとは限らないよ」
先輩にそう言われると、にまっ、と笑ってしまう。そういうところが自分は甘いんだろうなと思う。
「頭のいいのをちゃんと成績につなげる努力をしないと」
やっぱり甘かった。
「はい……」
笑ったまま、歯切れ悪く、そう言うしかない。
先輩は目を細くして笑った。
「でも、花梨を見てると、どうして公子が自分のかわりに花梨をわたしのところに送ってきたか、わかるような気がするな」
最後までいい気にさせてくれないのも、先輩らしい。
そうか。自分はあの仙道さんの身がわりなのか。
心がちくっとした。
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