第23話 城跡の少女(6)
廊下を滑るような足音がして、あのおばあさんが戻ってきた。
両手で大事そうに持っているのは、大きめのお菓子の箱ぐらいの大きさの木の箱と、きれいな
アルバムのほうは古いアルバムらしく、表紙の布の色も刺繍の糸も色が褪せている。
おばあさんは、まず、ずん、とアルバムを机の上に置いて、広げた。
アルバムの台紙も、もう黄色く、というより、赤っぽく変色している。上に貼ってある写真は、白黒写真か、カラー写真でも色が抜けて白っぽくなった写真ばかりだ。
その中の一枚、その色の抜けたカラー写真を組み合わせて横長にしたところをおばあさんは指さす。
「これなんだけどねぇ」
白髪のおばあさんは身を乗り出して言った。
おばあさんの声は、橋の上からどなったときのような濁った声ではなくて、ずっとやさしくなっている。
さっきと違って眼鏡をかけている。なんだかかわいらしく見える。
「はい」
先輩が反対側から身を乗り出した。
写真に関心があるからではない。そうしたほうが足がしびれるのを少しでも先延ばしできるからだ。
「これは、そうだねぇ、四十年ごろ、いや、四十五年ごろだったかな、この家の前から撮った写真だよ。あのころは、下の家がどこもできていなくて、ほら、このとおり」
緩く見下ろしたところに田んぼが広がっている。
そこだけではない。ずっと遠くまで同じように田んぼが広がっていた。そのなかに、ところどころ電柱が立っているだけだ。
先輩はしばらくその写真を見ていた。左右にスキャンするように目を動かしているのがわかる。
「あ……」
先輩が言って顔を上げると、おばあさんも先輩の顔をじっと見ていて、目を細くしてうなずいた。
先輩は、写真の上何ミリかのところに人差し指の指先を下ろして、写真の上をなぞった。
パソコンのキーボードを打っているときにはごつごつしていると感じたその指が、いまは白くてやわらかくて優雅に見える。
なぞってから、おばあさんのほうに顔を上げる。
「このあぜ道が、昔の堀の跡ですね?」
「たぶんね」
おばあさんがさびしそうに言う。
「それが区画整理とかで跡形ものうなってしもうて。この堀を越えてクジの軍勢が攻めてきた、そのとき、……この村のサイジンボウって若い坊主が
おばあさんは目を閉じて懸命に首を傾けた。
「ああ、いや、思い出せん。なにしろ、わたしがここに嫁に来たのが三十年ごろだったからね。そのときには、もう、こういう古い話はあいまいにしか伝わってなかったからねぇ……わたしもそういう古い話には興味なかったしね、若いころはねぇ……」
花梨は横を向いて先輩の横顔を見る。
まじめな先輩の横顔はきれいだ。そのすべすべした肌の白い光が頬の線とあまり高くない鼻筋を浮き上がらせて、そこから先輩の穏やかな情熱みたいなものが伝わってくるようだ。
普段着に近い服装なのでかえってまじめさが引き立つ。制服ならばまじめにしているのがあたりまえだけど、普段着のときでも……。
先輩はまたたきをした。
「クジってどんな字を書くんですか?」
ああ、先輩も知らなかったんだ。
「ああ、えっと……」
おばあさんが目を迷わす。先輩は、すかさず、リュックからメモ帳とペンを取り出して、おばあさんの斜め前に置いた。
ここに書いてください、ということだろう。
おばあさんは、自然にそのペンをとると、少し震える字で「
先輩はつづけてきく。
「その、九慈軍ってなんですか? どこから攻めてきたんですか?」
「さあ……」
おばあさんはとまどった。
「……図師の殿様が、その九慈っていう家と戦ったっていうんだけど……」
先輩はいっそう身を乗り出す。
「何か、その九慈っていう敵について、伝わっていることってありますか? その、どうして図師氏と対立したか、とか」
おばあさんは頭に右手をあてた。
「……いやぁ……」
とまどっている。
「……昔のことだから、水争いとか、領地争いとか、そういうのじゃないのかねぇ」
「ああ……」
先輩は力を抜く。花梨のほうに顔を向けかけて、ふと、おばあさんのほうに顔を戻す。
「水争い、っていうと、
「……そうだねぇ……」
おばあさんの表情はなんだか苦しそうだ。
思い出せないのだろう。
花梨自身のおばあちゃんのことを考えると、それはよくわかる。
ひと続きのはずのものごとのあちこちに穴が開いて、つづいているのはわかっているのに、先に進めない。それが何よりつらいとおばあちゃんはよく言う。
もしこのおばあさんも同じ思いをしているとしたら、これ以上きくのは悪い。
でも、先輩に
「これぐらいにしましょう」
と言うのも勇気がいる。
足がしびれかけているのも忘れて、花梨は花梨で懸命に考えた。
中世の豪族どうしの争いというと……そしてこの市のあたりで何があったかというと……。
だめだ。花梨が考えてわかるはずもない。
でも、考えるふりだけでもしないと。
廊下のほうから、とん、とんという足音がした。
「あれぇえ」
つづいて、とても間延びした声だ。
とてもとても、間延びしている。
それで緊張感がいっきに崩れた。
「おばあちゃあん、おきゃくさぁん?」
女の子の声――その声からして眠そうだ。どろぉんとよどんだ感じがする。
廊下の障子の向こうから少女が姿を見せた。
背はそんなに高くなく、中学生か、花梨と同じで、高校に入りたてぐらいだろうか。長い髪をまとめないまま後ろに伸ばしている。そのゆるい服はパジャマのようだ。起きたばかりなのだろう。
全身から眠そうなオーラを発している。
いままで思い出すために苦しそうな顔をしていたおばあさんは、きつい顔で後ろを振り向き、そちらをきっとにらんだ。
「これっ! キミコっ! お客様だとわかっていて、どうしてそんなだらしない格好で出てくるっ! 恥ずかしいじゃないかっ!」
その声の厳しさにはっとすると同時に、花梨も、そうだよなぁ、と思う。
たしかに、はずかしい。
花梨も朝寝坊で、休みの日、まだ寝ているところにお客さんが来て困ったことが何度もある。お父さんとお母さんとおじいちゃんとおばあちゃんとでそのお客さんの相手をしているあいだ、もう目はぱっちり覚めているのに、出て行くこともできなくて寝間着のまま自分の部屋にこもっていたこともある。
そのはずかしさ、間の悪さと言ったら……。
「おばあちゃんこそぉ」
でも、そのキミコという少女は、だらけきった声でなまいきに言い返した。
「お客さんだっていうのに、お茶も出さないで……あ!」
少女の声が止まった。
じっと一点を見ている。
目を離せないでいる。
その見ているところは花梨のいる場所に近いけれど、花梨の顔からは少しずれている。
横を見ると、先輩も、そのキミコという少女の顔を見上げたまま、動かずにいる。
二人は相手を見たまま動けないでいるのだ。
その視線をたどって、花梨もキミコという少女へと顔を戻す。
あれ?
見覚えがある?
「ちょっと待っててくださいっ!」
少女はとつぜん低くよどんだ声のテンションを上げた。
「いまお茶とお茶菓子をお持ちしますっ!」
そう言うと、少女はさっきとはまるで違う機敏さで障子の向こうへ行き、姿を消した。
その声で、花梨もわかってしまった。
先輩は、眉を上げ、目を細めたまま、唇を閉じて、横目で花梨を見ていた。
笑い出しそうだが、笑うと悪い。
目のまえのおばあさんに。
だから懸命にこらえている。
花梨も同じような顔をしていたかも知れない。
花梨も、たぶん先輩もそのキミコという少女を知っている。
そして、その子が家ではあんなにだらしないところを見せているのが、やっぱりたまらなくおかしかったのだ。
花梨のクラスの委員長、
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