第20話 城跡の少女(3)
先輩は流れの反対側の河原をもうだいぶ先まで行ってしまった。
ここで転んだりしては先輩の足手まといになってしまう。そう思うとよけいに緊張して足が進まない。けれどもここに止まっていたらよけいに足手まといになる。
川の流れは一メートルの幅もないだろう。体育の走り幅跳びでならば跳べる遠さだ。
でも、いまはリュックも背負っている。動きやすい服装とはいっても、体操服ほど動きやすくはない。
花梨は目をぎゅっと閉じてから、目を開け、目を上げ、その勢いで跳ぶ。
だいじょうぶだった。とんっ、と足の裏に衝撃があって、無事に反対側の河原に着いた。
砂と小石にもう背の低い草が生え始めている。そこを小走りに走って、前を行っている先輩に追いつく。
先輩は、追いついてきた花梨をちらっと横目で見た。何も言わない。
それは褒めてもらえるとは思っていないけれど――。
こんなにがんばってるのに――と思いかけて、花梨はその思いを打ち消す。
今日は、先輩の役に立ちに来たのだ。
先輩に追いつけただけじゃだめなんだ。花梨は自分に言い聞かす。
岸から上を見上げる。
向かい側の岸はコンクリートだが、こちらの岸はきっちりと石が組んである。
その石垣の上に、白い壁に鈍い灰色の瓦を載せた古い家が見え、両側には塀がつづいている。二階建てぐらいだろう。
その屋根が、四階建ての校舎よりも高いところにそびえて見える。
それだけこの川はまわりの地面よりも深いところを流れているのだ。
「先輩」
花梨は声をかけた。
「何?」
振り向きもせずに、先輩は愛想のない声で返事する。
ここでめげちゃだめだ――。
花梨は自分を励まして、言う。
「わたしたちがいま歩いてるところの上に、
「うん」
先輩の答えはあいかわらずそっけない。
「これだけ深い川に守られてたら、攻めこむのは難しかったですよね?」
「うん」
「でも、鉄砲や大砲で攻められたら、どうでしょう? これぐらいの川ならば、鉄砲の弾ならば飛び越してしまうと思うんですけど」
「あのさ」
先輩は花梨のほうも振り向かないで言う。
「まず、この川がいまみたいに深いところを流れてるのは、高度成長時代に河川改修したから。その前にこの川がどれくらい深かったか、わたしにはわからない。それに、日本に鉄砲が伝わったころには、ここの図師氏っていうのはもう没落してた」
「う……」
「あぁ、そうだったんですか」なんて言うのはあまりにそらぞらしい。
かといって、正直に「コードなんとか時代っていつのことですか?」なんてきくと、もっと機嫌を悪くしてしまいそうだ。
花梨は空を見上げた。ぼんやりした水色の空に小さい白い雲が浮いている。
思った通りにはいかない。
いまのところ、花梨は、先輩の役に立つどころか、先輩についていくだけでせいいっぱい、いや、先輩を不機嫌にすることにしか役立っていないんじゃないかと思う。
じっさい、先輩はバスに乗ってからずっと不機嫌だった。バスのなかでも、ちっとも笑顔ではない顔で、黙って前を見ているか、スマホで何か調べているかだった。
花梨の気がついたかぎりでは一度だけ先輩はバスの外を見た。それは、あの古いお菓子屋さんの
瑞月堂のあるところってこんなに遠かったんだと花梨はぼんやり思った。
バスを降りてから、先輩は、持ってきた地図も見ないでずんずん歩き続けた。図師館があったという、まわりの田んぼから少し高くなっているところには入らず、田んぼのなかのコンクリート舗装の道を歩き続けた。
そして、その道が川にぶつかり、行き止まりになったところで、先輩は言ったのだ。
「さ、川に下りよう」
と。
それが当然のことのように。
たしかに、川へは木のいっぱい生えた斜面を下りれば下りられる。
でも。
川って、下りちゃいけないんじゃ……。
でも、言い返すのは怖かった。花梨は先輩について川に下りるしかなかった。
そして、ここまで歩いてきたのだ。
気もちをもてあますというのはこういうことだろう。
先輩を悪く思ってはいけない。先輩はべつに自分を必要としていないのに、自分からついてきたのだ。
でもそう思うと、自分がみじめになってしまう。
そのあいだを縫うように「来た以上は先輩の役に立たなければ」と思う。でも、そんなことはどうやっても無理だ。それが身を刺すようにわかってきた。
「危ないよ!」
先輩の鋭い声に花梨はびくっとした。
足を止めるかわりに、花梨は片足で地面を蹴る。ふわっと着地する。
先輩の横に。
横から細い土管が出ていて、そこから流れ出た灰色の水が、河原の途中に細い流れを作っていた。花梨はいろんなことを考えながら歩いていて、そこに足を突っこむところだった。
先輩のほうに顔を上げる。顔が自然にゆるんだ。
照れ笑いなんかしても先輩には通じない、と思うのに。
先輩は、あきれたように花梨を見てからまた歩き出す。
「
「はい」
何を言われるのだろうとどきどきする。また何か指摘されるんだろうけれど、もしかしたら褒められるのでは、という期待がわずかな率だけだけどある。
「
「あ、はい……」
と答えてはみたものの、何のことかよくわからない。
「さっきは、もっと川幅の狭いところもあるのに、広いところをぴょんって跳んでたし、いまはわたしが言うまで気がついてなかったのに、どぶ川の水をすうっと跳んじゃったし」
「あぁ、あはは」
ここで調子に乗って「頭の神経はばかだけど運動神経はいいんです」なんて言ったら、やっぱり先輩には怒られるだろう。
「でもさ、先に注意して危ないことは避けるようにしたほうが安全だよ。君子危うきに近寄らず、って言うでしょ?」
「はい」
もちろん、ここで「なんて言うんですって?」なんて聞き返したりはしない。
しばらく二人とも黙って歩く。先輩のほうが三‐四歩先だ。
「林さんさ」
先輩が振り返らないで言う。
「はい?」
「君子危うきに近寄らず、って言われて、わかった?」
ひやっ、とする。
やっぱり先輩は見逃してくれなかった。
でも、いまは、それでこそ先輩だ、という、誇りに似た気もちもあった。べつに先輩が厳しいことを花梨が誇りに思ってもしかたないのに。
「正確なことは知りませんが」
花梨は、歩いて体が弾むのに合わせて言う。
「危なそうだと思ったら最初から避けるのが賢い生きかただ、とかいう意味ですよね?」
もちろん、ただの思いつきだ。それに、いまの会話の流れからすると、たぶんそうなる。
「うん」
先輩は答えた。
「わたしだってそんな正確な意味まで知ってるわけじゃないよ」
当たりだったらしい。それで先輩が振り向いて笑ってくれるかなと思ったら、先輩は、いまの会話のことなんか忘れたようにずんずん先に行く。
甘くはない。
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