第12話 乙女の決意(1)

 物理の授業だ。

 前では先生が難しい話をしている。

 「力」と「仕事」だっけ?

 そういうことばは中学校で習ったような、習わなかったような。

 机に頬杖をついていた花梨かりんは、ふと体を起こした。

 教科書の、人が何か大きい荷物を押しているような絵が描いてある下にたまご形のまるを描く。

 そのまるを斜めに突っ切る線を描く。線は、左側から入ってきて、たまご形の隅の一部分を囲むようにぐるっと曲がり、そのあとはまっすぐに右上へと抜けて行く。

 その線に、まるの右上の部分で合流する線を、下のまん中あたりからもう一本描く。

 その下のまん中からの線の右下に「文」のマークを入れる。

 たまご形は新郷しんごう盆地、斜めに突っ切る線は志織川しおりがわ、その下の線は南堀川みなみほりかわで。

 「文」はいま自分のいる新郷高校だ。

 自分のいる場所を書きこんで、花梨は、ふふっと笑う。

 つづいて花梨はお城のマークを二つ書きこんだ。一つは、志織川が大きく曲がり、たまご形の一部分を囲っているところ、もう一つは志織川と南堀川が近づくあたりに、南堀川から線を引いて、四角く囲ったなかに。

 志織川が大きく曲がっているところがいまの楽山城らくざんじょう、志織川と南堀川が近づいたあたりは、室町時代ごろにこのあたりで勢力を誇っていた図師ずし氏の館だ。

 こうやってみると、楽山城が自然の地形に守られた城だということがよくわかる。

 南と東は川で、後ろ側は山だ。

 平地から押し寄せて来る敵はお城からはまる見えだ。後ろの山から攻めてきても、城に入るには谷を一つ渡らなければならないから、ここで必ず見つかる。だいたい、楽山城の後ろの山は崖になっていて、ここから大軍で攻め寄せるのは難しそうだ。

 そして、先輩がくれた、あのA4版の紙をたくさん綴じた資料によると、図師氏の館も、「城」としてもけっこう立派なものだったらしい。

 図師氏の館と、隣り合う正法蓮華寺しょうほうれんげじとは、堀に囲まれ、また石垣で囲まれていた。南堀川は、水の量はそんなに多くなくて、水の深さは浅いけれど、地面から川の底までの深さは深い。図師氏の館の堀は、そこから水を引いていたのだから、同じくらい深かっただろう。

 そんな深い堀を渡らないとこの館は攻められない。

 ――このとき、優等生の美朝みささは、花梨のほうを振り向いて口をパクパクさせて何か伝えようとしていた。

 もちろん――。

 花梨は気づかない。

 図師氏の館の攻めかたについて考えつづける。

 その深い堀に下りて、また登ったりしていたら、そのあいだに弓矢で狙い撃たれる。

 でも、鉄砲を撃ちこめば? 大砲だったら?

 鉄砲の絵は難しそうだったので、細長い長方形にまるを描いて大砲の絵ということにする。

 南堀川は狭いし、その図師氏の館の堀も狭かったみたいだ。本で見た図面でも南堀川と同じくらいの幅しかなかった。

 だったら、弓矢は届かなくても、鉄砲なら届くか。

 だめじゃん。

 じゃあ、楽山城のほうはどうだろう?

 同じように、楽山城のある場所のまわりに大砲の絵を描いて囲んでみる。

 大砲というより、花に囲まれているみたいで、かわいくなった。

 まあ、いいか。

 こちらはだいじょうぶそうだ。楽山城は広い。それはいま公園になっているからわかる。ミサイルならともかく、その時代の大砲なんかではまんなかまで届かない。

 ――このときにはもう美朝だけではない。あや由真ゆまも花梨をじっと見ていた。由真は、先生に気づかれないように手をパタパタやって、花梨に気づいてもらおうとする。

 しかし花梨の考察は続いた。

 いや……。

 崖の上から大砲を撃てば?

 平地からならば重力に逆らわなければたまは遠くまで飛ばない。しかし、崖の上から撃てば?

 「林さん!」

 先生の声が響いたのに、花梨は気がついていた。

 気はついていた。けれども。

 崖の上からならば、大砲の弾は……。

 「林さんっ!」

 先生が大きく鋭い声で言った。

 教室中が縮み上がる。

 花梨もはっとした。ふと顔を上げる。そのとたんに先生と目が合った。

 じっと花梨をきつくにらんでいる。

 ああ、またやった、と花梨が思う前に、先生は鋭い早口できいていた。

 「いまの質問、答えてみなさいっ! 林さんはどうなると思いますかっ!」

 「はっ、はいっ!」

 そして、花梨はとっさに答えてしまった。

 「もちろん、重力に引かれて落ちるけど、最初に勢いがあるので、その勢いはそのままで、その勢いのまま遠くまで届くと思いますっ!」

 答えてからかあっとなる。

 それは、崖の上から楽山城に大砲の弾を撃ちこんだら、という話の答えじゃない!

 いまは、

「すみません。きいていませんでしたっ」

と言って、小さくならないといけないところなのに。

 汗がにじんでくる。

 しかし、だれも笑わない。

 凍ったような時間が続く。

 長いあいだ、と、花梨には思えた。

 じとっと汗がにじむ。いや、凍った感じが強すぎて、汗もにじまない。

 長いあいだ、教室がしずまりかえって、だれも身動きしなかった。

 しかも、みんなは花梨を見上げているし、先生も花梨の顔をじぃっと見ている。

 ――何?

 何したの、わたし……。

 なんか、みんなが黙らないといけないような、ひどいこと言った?

 「……はい、そのとおりです」

 やがて、先生がとまどったように言った。

 「座りなさい」

 花梨は、とりあえずスカートの後ろに手をやって、お行儀よく座る。

 そこから先生は滑るように話し始めた。

 「つまり、動いている物体も同じように重力に引かれます。その結果どうなるかというと、やっぱり一定の加速度で落下していきます。動きがあるから重力の加速度が効かないということはありません。でも、この最初の動き、水平方向の動きも、その勢いはそのままです。重力に引かれたからといって消えることはないんですね。最初の動きは同じように続くんです。だから、いま林さんが答えたとおりです。こう、遠くへ飛んでいく、ということになるわけですね」

 由真は信じられないという顔で花梨を見上げ、綾はにやけてうつむいて指先で小さく拍手していた。美朝はちゃんと授業を聴いている。

 さっきのかあっと熱くなった余熱が残って、体全体が温かくなったように感じる。

 花梨がどんなにおっちょこちょいのお調子者でも、いまのが偶然に当たった答えだということぐらいはわかっていた。

 でも、先生の機嫌がよくなったんだから、いいか、と思う。

 中学校の数学の時間に「おトイレ行って、いいですか」ときいて、教室じゅうを和ませたときと同じだ。

 高校でもずっとこのキャラのままでもいい。

 それじゃ進歩ってものがない。でも、それでもいいかな、と思う自分は、やっぱりお調子者だ。

 花梨は幸せな温かさに浸りながらそう考えた。

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