第9話 一生の不覚(9)

 気がつけば、階段の上にいた。

 どうやってあの扉を開け、閉めたのか。

 ついいまのことなのに、花梨かりんはまったく覚えていない。

 丸めたA4の紙とビニール袋をちゃんと胸に抱いているのを確かめて、花梨はふうっと大きく息をついた。

 そこから、夢から覚めて寝ぼけたままという感じで、ふらっ、ふらっと階段を下りていく。

 そうだ。

 いまのは夢だった。

 その証拠に、何を話したか、覚えていない。

 しかも、それが夢でなかった証拠に、A4の紙とお菓子の入ったビニール袋はきっちりと胸に大切に抱いている。

 さらによくわからない。

 夢なのもほんとうで。

 夢でないのもほんとうで。

 どっちもほんとうでよくわからないまま、幽霊のようになって、階段を下りていく。

 風が吹き抜けた。

 階段の上のほうについている窓が開けてあるのだ。そこから、春の、いや、初夏の風が吹き抜けていく。

 廊下に花びらがいっぱい散っていて、ときに花吹雪みたいになってたのは、この窓から入ってきたのか。

 廊下の外には桜はないはずなのに、おかしいと思っていた。

 花梨の横を通り抜けた初夏の風に、目のまえから桜の花びらが命を持ったように一斉に舞い上がり、一斉に散って消えた。

 肩の後ろから力が抜ける。

 目が覚めた。

 いまのは、幻?

 夢で、夢でなくて、それが同時なのだとしたら、それは幻というもので……。

 花梨は踊り場に立っている。

 ここまでが幻だとわかって、花梨は、たったったっと普通に階段を下りて行く。

 夢ではなかった。

 何を話したのか覚えていないのは、いつものことだ。

 花梨がぼーっとしているからだ。

 夢でなくてもぼーっとして、何をしたか覚えていない。

 息をつく。

 でも、このまま教室に戻るんだろうか?

 そして、また、あの三人娘と話をしながらお弁当……?

 いや、あや由真ゆま美朝みささももう食べ終わっているかな?

 出るとき、待ってようか、と由真が言ったのに、いや、先食べといてくれていいから、と言って出たのだから。

 なんだか、何から何まで「割り切れない」感じが残る。

 それで教室への足どりが鈍る。

 向こうから、制服の前のリボンをひらめかせて、だれかが来た。

 そのリボンがひらめきながら光を放っているように見える。

 こういう感じの子は、自分みたいにこんなわけのわからない悩みかたはしないんだろうな。

 「林さん」

 その子が声をかけてきた。

 「あ?」

 いや、同級生に声をかけられて、「あ」もないだろう。生意気な子だと思われて嫌われたらどうしよう。

 相手はふふっと笑った。

 「どうしたの? 林さんらしくないけど」

 前言撤回。いくら花梨でも、あのおっちょこちょいの明るい子の花梨でいつもいるわけじゃないんだ。

 そんなことを言う子に嫌われたって。

 「あ」

 顔を上げて、もういちど、「あ」だ。

 目のまえで、委員長の仙道せんどう公子きみこが笑っていた。

 花梨がその事態を理解するということができないあいだに。

 「ね、お弁当食べた?」

 仙道さんが明るい声で言ってくる。

 お……お弁当?

 いや、お弁当はわかる。

 お弁当をどうやって食べようといま考えていた、そのお弁当だ。

 でも。

 仙道さん?

 仙道さんもわかる……の……だけど……。

 「あっ、あのっ……」

 どうして仙道さんにお弁当のことを言われるのか。

 それがわからない。

 それがわからないということが、やっとわかる。

 懸命に考えている花梨に仙道さんが言う。

 「まだだったらさ、いっしょに生徒会室行って食べない?」

 「はぃ……へっ? せ、生徒会……室……?」

 またわからない!

 生徒会室って……?

 いや、生徒会に室がついているから、生徒会室なんだよね。そうだよね。

 で、生徒会……?

 生徒会って……生徒の会だから生徒会って……。

 生徒会っ?

 わたし、生徒会に呼び出されるような何か悪いこと、したの?

 思い出せない。

 思い出せないけど、それはいつものこと……。

 花梨がさらに懸命にそんなにも複雑なことを考えているというのに、仙道さんは

「うん」

と軽く平気でうなずいた。

 「はい……」

 それで、花梨も。

 「じゃ、わたし、お弁当取ってくる……」

 よくわからないままにそう返事していた。

 これも、また、いつもの花梨らしい。

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