第8話 一生の不覚(8)

 花梨かりんが目を伏せようとしたとき、

「あのさぁ!」

 先輩の強い声が押し寄せてきた。

 そうだ。先輩の声は、後ろの扉からも響いて、花梨を包みこむのだ。

 逃げ場はない。

 先輩は、あの小さな目を別に大きく見開くこともなく、花梨を見上げていた。

 「わたしに迷惑をかけちゃいけないなんて、そんなこと言った覚えはないんだけど」

 「はぃ?」

 赤くなって震えながら、花梨はきょとんとする。

 それでますますことばが出しにくくなる。

 「いや、……いや……。あのっ……、だって、……それは、もちろんっ、……そんなことは言わないけれど、でもっ、……いっしょに仕事しているひとに、迷惑を、かけないっていうのは、もちろん、そのっ、社会のっ、……いや、社会なんてわたしよく知らないけど、でも……常識っていう、そういう、もので、……それに、わたしは、先輩にいろいろ教えてもらう、立場だし」

 由真ゆまが言ったみたいに「手下」とは言わなかった。この緊張しているときにそういう気配りができただけ、ほめてもらえてもいいと思う。

 「……やることの上では、……その、パートナーっていうか、いや、パートナーとか言うほど、偉くはないけど、……なんか、そういう、いっしょにやっていかないといけないひと……だから、そ、……そういうので、迷惑をかけるなんて、よっ……よくないことだっ……からっ!」

 先輩の肩がすっと下がる。

 両手を膝から上げかけて、また下ろす。

 先輩は花梨をじっと見る。

 顔から足もとまで目を下ろし、また上げる。

 もういちど花梨の顔を見たときには、先輩はほほえんだように見えた。

 「わかった」

 でも、そのほほえみは一瞬で消えた。

 先輩は大きく息を吸って、目を逸らして吐いて、また花梨を見上げる。

 「わたしも無理になんて言わない。きいてるでしょ? 去年の委員の子のこと」

 あの、由真が言っていた、不登校になったっていう二年生の委員のことだろう。

 「あ、はい」

 なんだ、自分は落ち着いて返事ができるんじゃないか、とふと花梨は思った。

 「わたしは無理言ったつもりはなかったんだけどさ、負担かけちゃって。それで学校来れなくなっちゃってさ。わたしがその子の人生狂わせたみたいになっちゃってさ」

 「いや。そんな!」

 考える前にことばが出る。

 「そんなことないです。先輩が狂わすなんて」

 「わたしの意図はどうあれ、それが結果だから」

 先輩は花梨のなぐさめなんか受けつけなかった。

 あたりまえだ。先輩をなぐさめられるほど、花梨は偉くない。

 だから、もう何も言えない。何か言おうと口を半開きにしたままだったのに気づいて、唇を閉じる。

 先輩は、瞼をしばらく閉じて、また花梨の顔を見上げた。

 「だから林さんの決めたことは尊重する。でも、覚えておいて。委員長とか先輩とかいうのは、迷惑をかけられるため、迷惑を受け止めるためにいるんだから。こないだ言った大人と高校生とかもそういうこと」

 見つめる。

 こないだ、って?

 思い出せない。でも、先輩が、言った、と言う以上は、先輩は言ったんだ。

 また熱い感じが湧き上がってきた。それが首筋の後ろに達する前に、花梨はことばを出す。

 「あっ……すみません。あのとき、お茶とお菓子の味に気を取られて」

 先輩はぱっと目を見開いた。

 首を傾げて、花梨を見る。

 じっと見る。

 花梨は慌てる。何か悪いことを言っただろうか?

 でも、どうやら、先輩は、怒っているのとは感じが違う。

 不愉快とか、そういうのとも違う。

 「だったら、どうだった?」

 だからどう答えていいかわからない。

 「はいっ?」

 何をきかれているかもわからない。

 「いや、そのっ……」

 「だからさ、その、お茶とお菓子の味」

 「あっ……あっ……」

 下手な言い逃れをするんじゃなかった!

 いや、言い逃れを考えておかないから、あんなことをとっさに言ってしまう。

 ここは正直に言うしかない。

 「お茶は……じつはわたし、あんまり紅茶の味とかわからなくて。でも、お菓子、おいしかったです!」

 いや、おいしいと思って食べた?

 あのバウムクーヘンのようなお菓子ならもっと甘いと思ったのに、当てがはずれた。そう言うのが正直だ。でも。

 先輩はじっと花梨を見つめている。じっと花梨の目を見ている。

 見透かされたらどうしよう!

 「いや、その、生姜の香りが、ほんのり、口の奥のほうに残って、その感じが、すっとするっていうか……いい感じだったと思います。あ、あと、シナモンみたいなのも、入って……ましたよね?」

 緊張しながら言った感想に、先輩はほっと笑った。

 言い逃れにお茶とお菓子を持ち出したのではないとわかってもらえただろうか。

 「よかった」

 先輩の表情は、最初よりずっと柔らかくなっていた。

 それに、その口調も。

 「それで、言いたかったのはさ。わたしたちが高校生だから、お城がどうこう、よくわかりもしないのに言ってられるんだ、っていうこと。だって、大人だったら正確なことっていうのを言わないといけないでしょ? まちがったことを言ったら責任を取らないといけなくなるかも知れない。でも、わたしたちは好き勝手なことを言ってられる。もちろんまじめにやらないとだめだよ。でも、わたしたちが未熟で、よくわかってなくて、それで考えたりやったりしたことだったら、たとえそれは見当はずれでも、大人の人たちが受け止めてくれる。それで、いま、大人の人たち、がんばらないといけないことがいっぱいあるわけじゃない? だから、こういうことではわたしたちががんばって、大人の人たちに受け止めてもらって、もしまちがったことを言ったら直してもらって、それでいっしょに、この県ならこの県を盛り上げていこう、って、そういうことで、わたしたちはこの企画をやってるの」

 普通は、たとえば先生に一度にこれだけ話をされたら、花梨は引いてしまうだろう。

 少なくとも、途中でわけがわからなくなる。

 でも、守山先輩の言ったことは、すっと体に入ってきて、すっと花梨の体のあちこちに定着というのをした。したと花梨は思う。

 「はい」

 「でも、わかったから」

 守山先輩はうなずいた。笑顔が残っている。

 「ま、あんまり苦労はしてくれなかったみたいだから、ご苦労さんとは言わないけれど」

 ぎゃふん!

 先輩ったら、厳しいおことばで……。

 先輩は、そのまま、パソコンのディスプレイのほうを向いた。マウスに手を載せて、ちょっとだけマウスを動かす。

 ああ、これで先輩との関係は終わりなんだ。

 先輩は、来年の、桜が咲く前の季節に卒業して……。

 だが、花梨がそのつづきを考える前に、先輩は、机の向こうのほうに手を伸ばした。プリンタのところから、何かA4版の紙を取り、それを手にして花梨の前に差し出す。

 A4の紙を何枚か。

 いや、訂正――。

 A4の紙をたくさん、ホッチキスで留めてある。

 花梨が受け取る。

 ずっしり重い。

 「これ、あんたのためにプリントしたやつだから、いちおう持って帰って。後は捨てるなり破くなりリサイクルに出すなり、好きにしてくれていいから」

 「いっ、いえ」

 花梨は右手でその紙を持ち、左手を「気をつけ」をするように体にくっつけて、言った。

 「もちろんちゃんとリサイクル出しますっ!」

 またしまったと思う。

 もう、こういうことを言ってしまうんだから、ばかばか!

 「あ、い、いや……ちゃんと読みますっ! そしてだいじに持ってます! 一生、リサイクルに出したりなんかしませんっ!」

 先輩は品よく笑った。

 「そんなことは、内容を見てから決めたらいいから」

 それで、コンピューターのディスプレイのほうに顔を向ける。

 だが、すぐに、その頬が破けるようにふくれて――。

 先輩は、キーボードに手を持っていきかけたところで、ぷっ、と吹き出した。

 吹き出して、笑う。笑い声は立てなかったけれど、しばらくそのかわいらしい肩を上下させて、笑う。

 その笑いを、すっ、とおさめて、花梨を見上げる。

 「わたしを笑わせるようなこと言った罰よ」

 花梨は、どきっ、とする。

 「わたしが思い出し笑いするなんて、ここのところなかったことなんだから。ついでに、わたしの調べものを遅らせた罪も償ってもらわないといけないかな」

 えっ、ええっ?

 だって、後輩のかける迷惑を受け止めるのが、先輩の役目だって、いま……。

 先輩は、慌てる花梨をよそに、おもむろに机の引き出しを右手で引き開けた。

 あぶない!

 まさかとは思うけど、ナイフでグサッ、とか?

 逃げよう、と思ったときには、足が動かない。

 でも、先輩が取り出したのはビニール袋だった。台所のゴミ袋ぐらいの大きさだ。

 「はい」

 ぐるっと体を花梨のほうに向けて、ぐい、とその袋を突き出す。

 この袋の中には毒ガスが入っていて、それを花梨に吸わせようと?

 自分で袋を破いてそのガスを吸い、自害しろ、とでも?

 ――いや。

 入っていたのは、あの、あんまり甘くない、生姜の香りのするお菓子だった。

 毒殺疑惑は消えない。お菓子に毒が……。

 あ、いや。

 そんなことを一瞬でも考えた自分がばかだった。

 ほんとばかでおっちょこちょいだ。

 先輩が笑ったまま言う。

 「これさ、わたしが作ったお菓子だから」

 「先輩がですか!」

 驚きが正直に出てしまう。何を考えていいか迷っていたところだった。その隙を突かれた。

 「うん。まあね」

 照れもなしに、でも笑顔でそう言うところが、この先輩らしい。

 「こんな委員長の仕事もしてて、いっぱい調べてて、いろんなこと知ってて、それでお菓子作りも?」

 「そんなの、高校生なら普通にやることばっかりでしょ?」

 平気に言う。

 「ノーベル賞獲ったとかいうなら、驚いてくれてもいいけど、でもそれはあり得ないから」

 「い、いや……」

 ノーベル賞を取るよりも、日々、あたりまえと思われることをきちっきちっと毎日やることこそ貴いし、難しいことなんだ。

 ――と、これは中学校で国語の先生が一週間に一‐二度のペースでいつも言っていたことだ。

 「まだ改良の途中だから、あんまりおいしくないと思うけど、でも、感想言ってくれたの、花梨ちゃんが最初だから」

 言って、ふいにことばを切り、笑う。

 にこっと。親しげに。

 「だから、あげる」

 「あっ、あっ……」

 先輩の作ったお菓子だったんだ! 自分はそれに偉そうな感想を……。

 「わたわたわたわたっ」という感じが、体の表面を駆ける馬のようにまた体を駆け上がってくる。

 この「感じ」は経験ずみだ。これに頭を占領されたらまた頭が「ああああーっ」となって、「あ」しか声が出なくなる!

 そうならないうちに。

 「ありがとうございます!」

 「うん」

 先輩は笑ってくれている。

 この笑っているのがつづいているあいだに。

 「し……失礼しますっ!」

 花梨は、先輩からもらったA4の紙の束とお菓子のビニール袋を持って、ばこんっと、圧力に押し出されるように、準備室を出た。

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