第7話 一生の不覚(7)

 天気が晴れに戻った月曜日――。

 日射しはもう夏のようだ。

 窓を開け放った校舎の廊下をその暑い夏のような風が吹き抜けていく。風はときに強く吹き、制服の襟やリボンを翻し、頬を撫でるというより強く掠って通り過ぎる。

 窓の外の桜は花なんか咲かせていない。力強く緑の葉を伸ばしている。

 桜の花びらにかわって、そろそろ柳の綿毛が飛び始めていた。

 花梨かりんは、一人、「城のある町高校生ワークショップ 新郷しんごう高校準備室」の前に立った。

 昼休みが始まって、教室を出るときには、リボンも直したし、襟も確かめたし、髪も手で梳いたし、制服がゆがんでいないかにも気をつけた。

 でも、ここでは、髪を一度手で直しただけだ。廊下で風に煽られて制服とかリボンとかいろいろまたおかしくなっているかも知れないけれど、いいと思った。

 ふっ、と息をついて、扉をノックする。

 いくら先輩が熱心でも、昼休みにはいないかな。

 もし昼休みにもこの準備室に来るとしても、もっと遅くなってからかな。

 「はぁい」

 そうではなかった。先輩はいた。

 花梨が思ったとおりに。

 「一年の林です」

 「はい。どうぞ」

 先輩の声はいつもどおりだ。

 「失礼します」

 花梨は、扉を開けて部屋に入り、扉を閉めた。

 今日は先輩は椅子に腰かけている。あの大きいパソコンを立ち上げて、そのキーボードに手を置いたまま、顔だけ花梨のほうに向けている。

 これも思ったとおりだ。

 花梨はお辞儀した。こんどは、きちんと腰をかがめて、できるだけ「礼」をしたつもりだ。

 瑞月堂ずいげつどうの袋を腰の前に持ったままというのが、あまりかっこうよくはないと思ったけれど。

 先輩は、唇を結んで軽く会釈する。

 「まあ、座って」

 笑みも浮かべず、しかしべつに不愉快そうでもなく言う。ちらっとコンピューターのディスプレイを眺めて、また花梨を見る。

 「いいえ、立ったままで失礼します」

 「そう」

 先輩は軽く言って、じっと花梨を見上げた。

 花梨は、一つ息を吸って、吐いて、肩の力を抜いてから、言った。

 言い出すと同時に肩に力がこもってしまったけれど。

 「この前はすみませんでした」

 また頭を下げる。

 「謝りに来たのなら、そのことはもういいから」

 花梨が頭を上げると、先輩はもう花梨のほうは見ていなくてマウスを動かして何かクリックし、しばらく画面を見た。

 花梨のほうを向く。

 「それで?」

 「はい」

 花梨は息を吸って、こんどは力を抜かずに言う。

 「考えてみたんだけど、わたしには無理です。だから、すみませんけど、担当をやめさせていただきたいと思います。ほんとうにすみません。それで、これ、お返しします」

 瑞月堂の紙袋を持って、机の高さまで引っぱり上げる。

 なかにはあの三冊の本が入っている。重い。

 「ああ」

 先輩の反応はそれだけだった。

 先輩は座ったまま左手を紙袋に伸ばす。

 冷たい、やわらかい手が、硬く握った花梨の手に触れる。

 花梨の手からその冷たさがぴぴっと体の中へと走った。

 その冷たさがどこかで熱さに変わって、おなかの底から熱さがこみ上げてくる。

 顔が赤くなる!

 首筋の後ろが震えはじめた。

 でも、そんな後輩のようすにはいっこうにかまわないように、先輩はクールに花梨を見ていた。

 関係ないなら、出て行ってほしい。

 そんなことばが伝わってくるようだ。でも花梨は動けない。

 動かないのではなくて、動けない。

 先輩の制服は、今日も腕の折り目がぴしっとしている。

 先輩はまた何かクリックしてから、また花梨のほうを見た。

 「……っ……」

 「失礼します」という声を押し出そうとするのだが、歯ががちがち鳴りそうで、それを止めようと力を入れるとことばにならない。

 「あのさ、いちおうきくんだけど」

 先輩は暖かくも冷たくもない声で言った。

 花梨をじっと見て。

 「それって、お友だちでみんなでカラオケボックスに行って相談して、それで決めた結論じゃないよね?」

 「いっ!」

 べつの熱さがひゅうっと襲ってきた。こんどこそ花梨の顔がぽぽぽぽぽっと赤くなる。

 冷や汗ではない、熱い汗がにじんできた。

 「いっ……い……」

 言いわけができない。

 「い」だけじゃことばにもならない。そう思ってもことばが出てこない。

 「いっ……いっ……い……いっ……せっ……せ」

 懸命にことばを捜し、見つかったことばをつないで、絞り出す。

 「せ……せんぱぃ……、そっ……、それっ……? どうして、それ……?」

 先輩は、一つ息をつき、マウスから手を放して、両手を膝の上に置き、肩を花梨のほうに向ける。

 「べつにストーカーみたいに後をつけたりしたんじゃないよ。たまたま知ってただけ」

 「あ……あ、はい」

 またことばを絞り出す。

 「いえっ! はいっ……いえっ! はいじゃなくてっ……。 そんな! ……先輩がストーカーだなんて、わたしっ、……そんな……こと……考えて……ませんっ!」

 「それはいいけど」

 花梨のその懸命の言いわけも、先輩は何もなかったようにスルーしてしまった。

 先輩は、息をついて、体をディスプレイのほうに向け、それから斜めに花梨のほうに顔を上げた。

 その頬のやわらかい楕円に、窓の外からの明かりと、コンピューターのディスプレイの明かりとがすうっと映える。

 先輩はつづけた。

 「前みたいなことを言われたら、自分の家に帰って、土日のあいだに自分がどこまでできるかがんばってみて、それで、つづけるならつづける、やめるならやめるって判断するものじゃないの? そうやってからじゃないと、自分でどこまでできるか、わからないじゃない?」

 怒ったり、叱ったりの言いかたではない。

 落ち着いた言いかただった。

 言い終わっても、先輩は花梨の顔をじっと見上げつづけていた。

 いま、花梨は、先輩に自分を見上げさせている。

 しかも、先輩は、パソコンを使って作業しなければいけない。その時間をむだづかいさせてるんだ。

 「あ、いえ……そんな……」

 声が詰まる。ほっぺの熱さがじわっと顔を両側から押しつけているように感じる。

 でも、言わないと……。

 言わないと先輩にもっとむだな時間を使わせる!

 「たしかに、そう……ですけど……。あっ……あのときはっ、落ちこんでて、友だちに助けてもらうしかなくて、そ、……そっ……それからっ、……もし立ち直ってその試しっていうのをやってみて、もし、もし、……もし自分にはできないってわかっても、それから断ったんじゃ、先輩に、迷惑……かけるかな、って。いや、これ、言いわけなんだけど、それでも、全部が言いわけのために考えたうそ、ってわけじゃないから……やっぱり……言わないと……って、思……っ……てっ」

 切れ切れに、そこまで言い、そこで切れた。

 しばらく、沈黙だ。花梨と先輩の目と目がぶつかり合う。

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