第6話 一生の不覚(6)
「でも、それだけ」
もう顔を上げているために膝に手を突っ張りつづけている必要はなさそうだ。
一回、目の下を手の甲で右、左と拭って、
鼻の奥をつーんとした感じが走る。
「そう。それだけなんだ。それだけ言われて、月曜日までにこの市のお城の全部についてあらましだけでもレポートにまとめてくるか、それともこの担当やめるか決めてきなさいって言われた」
「うーん」
「ちょっと待って」
と口をはさんだ。
「この市のお城全部ってどういうこと?
「いや、それがさ」
ばつが悪そうに口を半開きにして、花梨が言う。
「あるらしいんだ。あの分厚い本あったでしょ? あれを開いて、
「それってさ」
優等生の
「
「うん」
花梨はほほえんでうなずく。
「守山先輩の言うにはさ、お城って本来はそういうものなんだって。そういうのが江戸時代に整理されて、それで、数が少なくなったかわりに、立派なお城ばっかり残ったって」
「それだったらきいたことあるよ」
美朝が言った。
「うちのおばあちゃん、
湯口というのは新郷市の西のほう、山地に入ったところにある温泉で、バスの終点からさらに一時間歩かないといけないようなところだ。「
「うん……」
そんな話は花梨は知らなかったけれど、ありそうだとは思った。
――うちは何代も前からこの街に住んできた家だっていうのに、家でそういう話あんまりしないからなぁ。
「そんなのだったら」
美朝の反対側から綾が口をはさんだ。
「ますます無理だね」
ほんとうにさばさばと言う。
「うん……」
花梨はうつむいた。
綾も美朝も何も言わない。
花梨と入れ替わるように、由真が顔を上げた。
「守山先輩ってひどいひとだ」
きっぱり言う。
ひやっと、花梨の体に氷の矢が突き抜けたような感じが走った。
それは、「戦国時代の砦」のことを考えていたからだけではない。
「やめて」
と言おうと思う。でも、その前に由真はつづけた。
真顔で。
「だってそうでしょ? 花梨だって委員なんだし、委員としては守山先輩も対等なんだから、花梨をそんな自分の手下みたいに使って、自分のやってほしいことをやってこなかったからって、そんなひどい言いかたをする資格なんてないはずだ」
「やめて」
ともういちど言おうとする。
顔を上げたら、由真は両目でじっと花梨の顔を見つめていた。それで声が止まる。
「それに、新しく入ってきた委員には、最初にそのあたりをていねいに教えるものじゃない? だって、みんな、この市でお城って言ったらあの新郷公園の楽山城のことだと思うよ。戦国時代の砦なんか普通は考えないよ。それも含めてやるんだ、ということをちゃんと言わなかったとしたら、言わなかった先輩が悪い」
由真の言いかたは熱を帯びてくる。
「それに、担当をはずれる、って何? だって、委員って、クラス委員会とか生徒会で決めるものでしょう? 先輩が委員長だからってやめさせることができるもんじゃないよね? それをそんな、私物化したみたいな言いかたしてさ。二年生の委員が不登校になっちゃったのもわかるよ。もし花梨さえよければ、わたし、先輩に文句言いに言ってやる」
由真はやる気満々だ。
しかも由真はすぐに行動に移してしまう。
中学校のときも、英語の先生が一部の生徒にばっかり甘いと抗議に行ったことがある。そのときは、英語の先生も甲高い声でヒステリックに言い返し、由真も負けずに言い返し、職員室全体が大騒ぎになってしまった。
また同じようなことをするかも知れない。
「いや……」
花梨は言った。
「そのへんの話はしてもらったと思うんだ」
紅茶の温かい湯気と生姜の軽くつんとした感覚がよみがえってくる。
花梨には紅茶の香りなんてわからなかったけれど、あの、バウムクーヘンをまっすぐにしたようなお菓子には、生姜の味と、シナモンの味がほんのりついていた。その味が喉の奥のほうにしばらく残った。
そして、その向こうの、守山先輩の制服の腕のところの、ほんとうに「折り目正しい」折り目と。
あのときほど、襟を整え、リボンも何度も結び直して来てよかったと思ったことはない。
「いつもどおりさ、わたしがきいてなかっただけ……」
由真が眉をひそめた。
あたりまえだろう。応援してやろうと言った当人が、たよりないのだから。
花梨は心を挫けさせないで、つづける。
「先輩にとっては、それで十分伝わったつもりだったんでしょ? 先輩はさ、わたしってどんな子か知らないからさ」
ふっ、と喉がつかえた。
あ、いけない、と思う。その喉のつかえを押さえる。
また涙が噴き出した。
もう泣かないことにしたのに。立ち直ったことにしたのに。
そう思えば思うほど涙は湧いてくる。
ぼろぼろぼろぼろと、ほっぺの横に涙が流れ下る。
まるで真珠が転がって行くように。
その感じが気もちいい。
――泣いてるのも、悪くないな。
そう思ったときには、花梨の喉からはむせび声が出ていた。
「だから自分を責めない」
綾が言って、またおしぼりで涙を拭いてくれようとする。その前にぶるぶると花梨は首を振った。
「いや、自分を責めてるんじゃないんだ」
言って、いま首を振ったのは、綾に涙を拭いてもらうのをいやがったからだと思われたなと思う。
じっさい、綾は涙を拭こうととり上げたおしぼりをテーブルに戻したし。
「たださ。守山先輩、ずっとていねいに相手してくれた。怒ったりはしなかった。だってさ」
さいわい、こんどの泣きたい衝動はすぐに治まった。涙声のまま、また手の甲で涙を拭って言う。
「先輩の考えてたのと、わたしが持って行ったのの違いみたいなのを考えたらさ、もっとかあっとなって怒っても普通だったと思うんだ。それをさ、本のページを開いてさ、ウェブまで見せてくれてさ、それで、やって来るか、担当をやめるかしなさい、って言ったんだから、そんなにひどいことなんかない、と思う」
ふいに、あの、紅茶を飲み、ほのかな生姜風味の「まっすぐなバームクーヘン」を食べながら先輩と話した話がよみがえる。
先輩の声は、凛とした強さがあった。
けれど、でも優しかった。
「中学校はどこなの?」
「あ……その、第三です。あ、新郷市立第三……です」
「じゃあ、いっしょに来たお友だち、けっこうたくさんいるでしょ」
「ああ。います。います。みんなとってもいい子で」
「それはよかった。中学校からのお友だちって宝物みたいなもんだよね。わたしはさ、おんなじ中学からの同級生って少なくて、とくにおんなじクラスにはだれもいなくて、一人だったから」
守山先輩は、この子たちがわたしの友だちでいてくれて、よかった、と言ってくれた。
それなのに、この子たちと守山先輩とが、自分のせいで敵どうしになるなんて。
そんなことには絶対にしたくない。
「考えたんだけどさ」
美朝が遠慮がちな言いかたで言った。
「先輩の言いかたがどうだったとしても、問題は、花梨がその七つとか十とかのお城についてちゃんとレポートをまとめられるかだね。いや、レポートは、わたしたちが手伝ってまとめたら月曜日までにはそこそこのレベルのものはできると思うんだ。けど、その先も、花梨、ずっとその先輩といっしょにやっていくんでしょ? 由真が言ったように手下じゃないとしても、少なくともパートナーだよね? だいじょうぶなの?」
「いや」
花梨はこたえた。長く息をつく。
もう気もちも乱れない。
「無理だと思う。月曜日に、そのことは先輩に伝えるよ」
言って、つつましやかに笑って見せる。
美朝、由真、綾と顔を見回す。
みんな、真顔で、花梨の顔を見てくれた。
最後に綾の顔を見て、しばらく見て、目を閉じて、うん、とうなずく。
「ありがと」
三人もほっと息をついたのがわかった。
――ぱん!
綾が大きく手をたたいた。
「よぅし! この話はこれで一件落着ということで」
綾が芝居がかった言いかたで言った。
美朝も由真も笑顔でうなずく。
もちろん花梨も。いっぱいの笑顔をつくって。
「じゃーあ、じゃんじゃん食べるぞ! 歌うぞ! とりあえず四川焼きそばの大盛りと、オム野菜と、広島風お好み焼きのおっきいのと」
綾は張りのある声を張り上げた。
オム野菜というのは大きいオムレツでブロッコリーとかにんじんとかじゃがいもとかを包んだメニューで、ここのオリジナル料理だ。それと、広島風お好み焼き(大)と、あと……何だっけ?
……どれをとっても大きいのばっかりだ。
「あのさ」
美朝があきれる。
「夕方とは言ってもご飯前なんだからさ」
「別腹、別腹!」
綾は言い張る。花梨が思わずぽろっと言う。
「綾ちゃん、そういうの言わなければ美人なんだけどなぁ」
綾が聞きとがめた。
「言わなければ、なんだって?」
「あ、訂正訂正」
花梨は慌てて言い直す。
「言っても美人。言っても美人だよ、うん。言わなければ普通の美人だけど、言ったら大食い系の美人。とっても個性的だよ」
「よろしい!」
ほんとうによろしいんだかどうか。
それで、由真や美朝も含めて、みんなで笑う。
これでいいんだと思う。
わたしたちはこうやって仲よくして、そして、守山先輩はそういうわたしたちを「宝物」のようだと思ってくれて。
そうだ。それでぜんぶがうまく行く。
花梨はこのとき心からそう思った。
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