第3話 一生の不覚(3)

 「じゃ」

 そう言って、花梨かりんは、目を閉じ、大きく息を吸った。

 襟も整えた。リボンもずれてない。六時間も七時間も授業を受けているとかならずどこか崩れてしまう髪型もさっきトイレで整え直した。

 靴下もちゃんとした。靴の汚れも落とした。

 ゆっくりと息を吐き終えると、花梨は薄く目を開く。

 顔を上げながら、その目をぱっちりと大きく開いた。

 後ろを振り返る。

 あや由真ゆま美朝みささが、「固唾かたずを呑んで」という表情で、その花梨をじっと見ている。

 「行ってくる」

 最後の戦いに向かう魔法少女のように言って、花梨はドアの前に進み出た。

 もう後ろは振り向かない。

 もういちど、軽く目を閉じて、息を小さく吸って、吐く。

 その勢いではずみをつけて、中指を少し出したこぶしで花梨はドアを叩いた。

 軽い音が、こん、こん、と響く。

 「はぁい!」

 なかから返ってきたのは、思っていたより明るくて伸び伸びした声だった。

 「失礼します」

 言って、ノブを回し、引っぱる。

 「城のある町高校生ワークショップ 新郷しんごう高校準備室」という長いプレートがはめてある、教室棟三階の部屋のクリーム色の扉を開ける。

 部屋のまん中に大きな本棚か何かの棚があり、その両側に机がある。

 その向こうから窓からの光が入ってきている。

 花梨は新しい世界に両脚を踏み入れ、両脚を揃えて立ち、振り向いて入ってきた扉を閉めた。

 扉の向こうで、綾、由真、美朝の三人娘がこちらを心配そうに見ているのが最後にちらっと見えた。

 もうそこには戻れない。

 とんとんとんとんと、全力で走ったときのような鼓動が体の内側から聞こえてくる。

 頬は熱い。たぶんまっ赤だろう。

 でも、それはいつものことだ。花梨はすぐほっぺがまっ赤になる。

 そう思って落ち着いた隙をとらえて、花梨は顔を上げた。

 右前に立っている人影に向かって、花梨は言った。

 「いちっ……」

 喉が引きつって声が出ない。あわわわっとなる。

 いけない! 最初からこんなのでは!

 「一年C組の林花梨さんね」

 花梨に言い直す隙を与えず、強いけれど優しい声がふわっと来た。後ろの扉からも響いてその声が花梨を包みこむように感じる。

 ほわわぁっとした、よくわからない感じが腕から背中から頭へと駆け上がってくる。

 「三年A組の守山もりやまあゆ子です。よろしくお願いします」

 守山先輩は、花梨に向かってしなやかに腰を折って頭を下げ、また頭を上げた。

 ふわぁっと靡いた髪を左手で肩にかけ直す。

 さっきの感じがまた来て、花梨の頬の熱さが二倍になった。

 まっ赤さも、たぶん。

 頭のなかが「ああああーっ」となってしまう。

 「あっ、あっ、あっあっ、あっ、あっ、あ……、あっ、あ……」

 「あ」以外のことばが出なくなる。慌ててことばをさがす。

 ことばが見つかっても、うわずって、出そうとする声がぜんぶ逃げて行ってしまう。

 それを糸を巻いて無理に引っぱり戻すように、花梨は声を出す。

 「はいっ。……一年、C組の、えっと、その、は、林、林花梨です。その、何か、その、いろんなことがまだよくわかってないですけど、よろしくお願いします」

 ぺこっと頭を下げる。

 さっきの先輩のお辞儀はほんとに「礼」になっていた。

 でも、花梨のあいさつは子どものあいさつだ。頭だけ下げて、頭を撫でてもらうのを待つ子どもみたいな。

 「うふん」

 先輩の落ち着いた笑い声の息が花梨にも届いた。肩のあたりを温かさがすっと撫でていく。

 花梨は顔を上げた。たぶん泣きそうな顔をしていると思う。

 自分ではどうにもならない。

 「まあ、そう緊張しないで」

 また、包みこむような声だ。

 あのほわわっとした暖かい感じが、でもさっきよりずっと穏やかに来て、顔の前に、先輩の姿があった。

 あたりまえだ。いまあいさつしたところなのに、前に相手がいなかったらそのほうが困る。

 すごい美人だ、と思った。そして、親しみやすそうな人だ、と思い、それから、いやいや、美人というならさっきの綾のほうがずっと美人だ、と思いなおす。

 前髪を細めの眉のところで切りそろえている。目は小さく、鼻筋は通っていないが鼻はわりと大きい。そして、軽く結んだ唇、細長い顔だけれど、擦り寄せたら気もちよさそうなほっぺだ。少し淡いめの色の髪は肩の上あたりまで伸ばしている。肩にふんわりかかっている。

 背は、花梨より顔半分ほど高い。

 見上げると、頼りになるお姉さん、という感じだ。

 おなかの前に揃えている手の甲と指が、意外に骨っぽい。

 「はぁ……」

 この人が。

 この人が、さっきからいろいろ言われていた守山先輩……。

 いや、自分がああでもないこうでもない、きっとどの先生よりも厳しくて怖いひどい先輩なんだろうなと思っていた……。

 守山先輩は、その花梨をしばらく興味深そうに見ていたが、ふと、そのきりっと結んだ口もとをゆるませた。

 「いきなり作業の話も何だから、お茶にしない? まあ、あんまりいいお茶菓子があるわけでもないけど」

 「は……?」

 お茶? お茶菓子?

 「はぁ……」

 花梨は全身の力が抜けたように思った。

 でも、全身ではなかった。

 そこで抜けて解けて落ちたのは、花梨がいままでかぶっていた外側の殻の部分だ。

 やっと花梨自身に戻った、と、花梨は思う。

 花梨はほっと息をついて、笑った。

 「じゃ、いただきます」

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