第2話 一生の不覚(2)

 週が終わり、週が明けた。

 あの悪夢のホームルームの時間には桜の花のあいだに緑の新しい葉っぱが目立ってきたかな、という程度だった。

 それが、いまは、緑の葉っぱのあいだに桜色の花びらが残っているという感じだ。

 桜は変わるときには急に変わる。咲き始めたときも、朝、学校に来たときには一部分の枝で花が咲き始めていただけだったのに、夕方には木の全体が淡いピンクの花でいっぱいだった。

 花びらはいまも青い空を背景に舞っている。その桜の花びらがときどき日の光を受けて輝くように見える。緑の葉も、風にそよぐあいだに、きらっと鋭い光を投げかけてくることがあった。

 この新郷しんごう高校は小さい川を前にした小高い丘に建っている。川のところから学校まで登る坂道にも桜が植えてある。

 「おっはよー」

 寄って来たのは由真ゆまだった。

 「あ、おはよ」

 花梨かりんはわざと不景気にことば少なにあいさつを返す。

 ことば少なと言っても、「おっはよー」と伸ばすか、「おはよ」と短く切るかの違いしかなかったけど。

 「どったの? 花梨?」

 由真は花梨の顔の前に顔を突き出すようにして言う。

 「花梨のとこだけどん曇りって感じだよ?」

 「それはどん曇りにもなるよ」

 花梨はぶつぶつつぶやくように言った。

 「どん曇り」って、「どん」と言うほどすごく曇っているのか、それとも「どんより曇り」の略なのか。

 そういうほうに思いを行かせるのは、そう思っているあいだは由真の顔を見ずにすむからだ。

 「えっ? なんで? なんで花梨がどん曇りにならないといけないわけ?」

 「だからさあ」

 けっきょく説明しないといけないのか。

 「今日が、その、城の何とか会議……?」

 「ああ、あれ。うぅんと」

 由真がしばらく考えて。

 「城のある町ワークショップ、だね」

 「……うん」

 意地でも覚えるもんか、と思っていても、関係者の自分よりも関係のない由真が覚えていると、やっぱり気になる。気になるというより気が滅入る。

 きいてみる。

 「それって、そんなに有名な会議、っていうか、なんとかショップなわけ?」

 とろんとした目で、由真を見上げて。

 「はい?」

 由真は、まんまるな目で、きょとんとする。

 「いや。べつに。よく知らないけど」

 あっさりとそう答えた。だから、もっときいてみないといけない。

 「だったら、どうしてそうすんなりその名まえが出てくるわけ?」

 由真はその問いにとても元気に答える。

 「だって、この前の木曜日、あんたとさんざんその話したじゃない! あんたはパフェ三杯もおかわりするしさぁ。しかも、ゴールデンパフェっつったらさぁ、アイスクリームが二つとプリンが載ったいちばん大きいパフェだよ。しかもいちばんふとること気にしてる子がさあ。もう信じらんない!」

 由真まで桜の花びらや若い葉っぱと同じようにきらきら輝いているようだ。

 「あーあ」

 由真のはじけるような話しぶりを聴いても、どうにも景気よくなれない。パフェの一杯めはみんなといっしょに頼んだので、おかわりしたのはあとの二杯だ、と言い返す気にもなれない。

 「それに、金曜日は、花梨、その話ってぜんぜんしなかったから、立ち直ったのかと思ったんだけどな」

 「立ち直ったんじゃなくて、忘れようと努力してたの!」

 花梨が言い返す。由真はそれには答えないで花梨の顔を見た。

 「だってさ、委員長がさ、確かめてたじゃない? やりがいはあるけどたいへんな仕事だよ、って。花梨の名まえ書くときに一度確かめて、そのあともう一度確かめて、それでも花梨は返事しなかったからさ」

 「はいはい」

 そう言われるとこんどは腹が立つ。

 何に、というと、そういうことを言う由真に六十パーセント、委員長の仙道せんどうさんに二十パーセント――。

 そして、あとの二十パーセントは、自分に。

 比率はちょっと違っているかも知れない。違っているかも知れないが、何にしても、あの日のホームルームで、だ。

 花梨を「黙っていてくださる」とかなんとか注意した後、クラスの委員を決めていた仙道さんは

「じゃあ、城のある町ワークショップの担当委員は林さんにしましょう。いいですね?」

と、黒板に花梨の名まえを書いたらしいのだ。

 もちろん、だれも立候補しなかったから。

 しかも、ほかの委員がずんずん決まって、花梨がその「ワークショップ担当委員」から逃げるラストチャンスが近づいたあたりで、仙道さんは

「林さん、いいですね? 委員長の守山もりやま先輩は、とってもまじめで厳しい人だし、この委員はやることも多いと思うけど、いいですね?」

とまで言って、花梨に確認したらしいのだ。

 ちっとも気づかなかった。

 桜を見ていたからだ。

 そう思うと、桜の花びらと若葉の色が作り物のようでわざとらしく感じられてくる。

 まだ桜餅のピンクと明るいグリーンとぼんやりした白のほうがほんものらしいと思う。

 仙道さんも仙道さんだ。

 おとなしくていい子で、ほんとに見るからにいい子って感じで。

 前の中学校で生徒会長だったからって、それで委員長になって。

 それで、自分が司会をやっている会議でちょっとおしゃべりしたからって、花梨の名まえを書かなくたっていいじゃない?

 いや。

 だれのせいでもない。

 ほんと、おっちょこちょいだ、それに不注意だ、ぼんやりさんだ。

 わたしって。

 「わたしとさ、あや美朝みささとでじぃっと花梨の顔見てるのにさ、なんかほんとに心ここにあらずって感じでさ」

 それは「感じ」じゃなくて事実なんです! ほんとに心がここになかったんです!

 そう断言すれば少しでも気は晴れるだろうか。

 ……晴れるわけがない。

 「で、うちのクラス以外はどんな子が委員になったのかな? そのなんとかワークショップの」

 高校は三クラスと国際科が一クラスがあって、ぜんぶで四クラスだ。

 自分がだめな子でも、ほかのクラスの委員がまじめにがんばってくれれば……。

 「あんたほんと聴いてなかったの?」

 由真は明るい声で言う。意外そうではない。花梨が答えないうちに、由真は

「ま、聴いてなかったよね」

と自答した。花梨が由真のほうに顔を向ける。由真はつづける。

 「学年一人ずつなの! うちのクラスがこのワークショップの委員、A組が商店街活性化だっけ? で、B組が映画祭担当委員でしょ、そして国際科はもちろん国際交流、っていうふうにさ、一クラスが一人ずつ委員出すって」

 体から血の気が引いていく。

 もう桜が咲いて散るほどに暖かいはずなのに、寒い。胸とか腕とか背中とかが小刻みに震えだす。

 寒すぎて汗がにじむ。

 「で、でも……」

 由真のことばから少しでも希望を見つけ出そうとする。

 「学年一人ずつってことはさ、二年生の委員もいるってことだから、まだ安心だよね?」

 「だからぁ」

 由真はうきうきしている。由真のまわりだけ春のようだ。

 いや、違う。由真のまわり以外も春なのだ。

 花梨以外は。

 「二年生の委員の人は不登校になっちゃっていないって。だからうちの学校では守山先輩とあんたの二人だけだよ」

 由真は得意そうに言う。

 「だ……だって」

 その不登校の先輩のことを気にしている余裕なんかない。花梨はまだ希望を追う。

 「二人だったら、委員会として成り立たないんじゃないかな、とか、思うんだけど。だから、委員の補欠の募集とか、……あるんじゃないかな、って」

 「いや、つまりさ」

 由真も花梨から目を離して、もう近くなった校門のほうを見上げた。

 そろそろ説明するのがうっとうしくなってきたのかも知れない。

 「これは県内の高校いくつかで作ってる委員会だから。うちからは二人とか三人とか、そんなもんでしょ?」

 花梨は体がふにゃっとしぼんだ風船みたいになってしまったみたいに感じた。その風船のしぼむときの最後の勢いで言う。

 「なぁんでさ、あんたたちラーメン食べにいく話とかパフェ食べにいく話とかしながらそんなことまできいてるわけよ?」

 八つ当たりとはわかっている。

 「わたし、きいてないよ」

 由真は少しも悪びれずに答えた。

 「聴いててくれるのはいつも美朝ちゃん。中学校のときからそうだったじゃない?」

 「ああ……」

 そうだった。美朝は、綾や由真や花梨が先生の言うことなんかを聴いていなくて困っていると、小声とか手まねとかで器用に教えてくれるのだった。

 「じゃあ、どうしてわたしには教えてくれなかったのよ」

 「美朝ちゃん、口パクで言ってたよ。「だいじょうぶ?」って」

 「あー」

 自分は悪いことをしていたんじゃない!

 桜を見ながらもの思いに浸っていたんだ。

 それって、けっこう『徒然草』っぽくて、文学的だと思う。

 あ、いや。

 「春はあけぼの」って何って本だったかな? 『徒然草』は違うと思う。

 でも、とにかく文学的なことをしていたんだ。ラーメンのこととかパフェのこととかを考えていたのでは断じてない。

 それなのに。

 「ねぇ」

 すっかりうなだれて、学校の鞄をぶらぶらさせながら、花梨はきく。

 声がれかけているのが自分でわかる。直さなかった。

 「守山先輩って、ほんとは優しい人なのに、きつい人だ、って噂だけ立てられてるとか、そういうことはないかな」

 「それはわからないけど」

 由真は顔を軽く左右に揺すって答える。

 「でも、その二年生の委員の人が学校来れなくなっちゃったのは、守山先輩とこの仕事してトラウマになっちゃったからだっていう話だよ。だから委員長言ってたじゃん? 厳しいって。だから歴史好きの子とかも立候補しなかったんだからぁ。ふつう、お城とかいったら、そういう子がやりますやりますって飛びつくもんでしょう?」

 「うぅぅ……っ」

 涙がにじんできそうだ。

 足どりが重くなって由真から後れた花梨に、由真はくるんと向き直った。

 「ほら、学校着いたよ。しゅるるんってしてても何かよくなるわけじゃないんだし、かたちだけでも元気よく行こ!」

 「うん……」

 いま励ますんだったら、どうしてあのとき、と由真を恨んでみる理由を考え、でも、あのとき、綾も由真も美朝も自分に伝えようとしたのに自分がそれに気づかなかったのだと思い当たる。

 「うん、まあ、そだね」

 そう言って顔を上げてはみたけれど、校門の上の抜けるような青い空を見ただけで、まぶしすぎて涙がにじみそうだ。笑顔にはなれないので、せめて前屈みにならないように胸を張って歩こうと思う。

 いっしょなのが自分より背の低い由真でよかった。

 なぜだか知らないけれど、花梨はそう思った。

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