やまざくら

清瀬 六朗

第1話 一生の不覚(1)

 それは、花梨かりんにとって「一生の不覚」のおしゃべりだった。

 いや、「一生の不覚」のおしゃべりプラスよそ見だった。

 一年生の一学期――そろそろ高校にも慣れ、そして高校にいる自分が珍しくも新鮮だとも思えなくなった時期だ。

 ホームルームで委員や役員を決める。

 ホームルームは、入学式のあとの一回めはかたちだけだった。クラス分けをしてクラスのみんなが集まったのでホームルームというだけで、先生から、お祝いとか、学校生活の心構えとかのお話を聴いただけだった。二回めは委員長を決めて終わった。その次だから、もう三回めだ。

 先生は、ホームルームは生徒の自主的運営にまかせるということで、いない。そのうえ、授業が六時間とかあって、さらにその後のホームルームとなれば、みんな疲れている。思っていることは一つだけだ。

 「早く終わってほしい」

 そして花梨のまわりの席には同じ中学校から進学してきた女子がかたまっている。

 あやとか、由真ゆまとか、ちょっと離れて美朝みささとか。

 自然とおしゃべりが始まる。

 「おなかすいたねー」

 「なんで高校って七時間目まであるわけよ?」

 「帰りに何か食べて帰ろ。そうしないとほんと飢え死にしちゃう」

 しないって、飢え死になんか! それに、綾、あんた昼もお弁当のあとにデザートとか言ってクリームパンとあんパン食べてたでしょうが!

 でも何か食べたいのは事実だ。そこで花梨は言ってみる。

 「パフェとかは? フォンテーンのさ、プリンの載った大きいやつ」

 綾は返した。

 「そんなんじゃ足りないよ。ひょう屋でラーメン食べよ。大盛りの」

 フォンテーンは駅の近くの小さいケーキ屋さん、ひょう屋はバイパス沿いに少し行ったところにある有名なラーメン屋さんだ。

 ひょう屋のラーメンにも心をそそられる。でも。

 「やだよぉ。そんなの食べたらふとるって!」

 その「ふとるって!」ということばがひときわ高く響いてしまったのがいけなかったのだろう。司会をしていた委員長の仙道せんどうさんに

「あの……林さん? しばらくだまっていただける?」

と名指しで言われてしまった。

 「あ、はい」

 かわいくうつむいて首をすくめて見せる。クラスじゅうが笑った。

 仙道さんも見て笑った。声は立てなかったけれど。

 「はは……」

 自分もつられて笑う。ぽっと頬が熱くなる。

 ずっとそうだった。

 中学校では、おっちょこちょいなことを言ったりやったりしては、笑われる係だった。

 丸顔で、小さい子どもみたいに髪を頭の横のところで留めてて、すぐほっぺが赤くなって。

 背はもうそんなに低くないのに、いつまでも背がちっちゃいと思われていて、しかも、落ちこんだのがもろに顔に出ちゃうのに、しばらく経つと落ちこんだことすら忘れている。

 「そうか。高校でも同じでいいんだ」

 そう思う。でも、それと同時に

「ほんとうにいいの? 高校でも? それだったら進歩ってものがないよ!」

という思いがこみ上げてきた。

 うう、どうしたらいいんだろう?

 そう思って、窓の外を眺める。

 花梨の席は窓からはだいぶ離れている。

 まわりがちょっとざわついた。クラスの何人かが自分のほうを見た。綾や由真や美朝――近くの席の同じ中学校から来た女の子たちも自分のほうに目をやった。

 さっき名指しされたのがそんなにおもしろいんだろうか。

 わざと目を逸らして、窓の外を見つづける。

 また笑い声が耳に届いて、すぐにやんだ。

 わたしって――花梨はつづけて考える。

 ――自分でおっちょこちょいなことをしているつもりはない。

 でも、何か知らないうちに、笑いを起こす中心にいる。

 ――あれは、中学校のときの数学の時間だった。

 その日の授業では、なぜか、宿題をやって来るのを忘れたとか、コンパスを忘れたとかと忘れものしてきた子がつづいた。それで先生の機嫌がすごく悪くなった。

 それで花梨はおずおずと手を挙げなければいけなかった。

 「なに、林? あなたも何か忘れたの!」

 そして、先生がヒステリックな声を上げたのにこたえて、花梨は恥ずかしそうに言わなければならなかったのだ。

 「あの……」

 小声で、うつむきながら、とぎれとぎれの声で。

 「先生。おっ、おトイレ行ってっ、……いいですか……っ」

 一瞬の沈黙をおいて返ってきたのは、教室全体からの爆笑だった。

 なんでだろう?

 さっきからの緊張の連続で、トイレ行きたくてがまんできそうもなくなって、恥ずかしい気もちも抑えて、言ってるのにぃ!

 「……だったら、行って来なさい」

 先生は、何か困ったようにそう言って、それからこらえきれなくなったというようにいきなり笑い出した。

 それで数学の時間は和やかさを取り戻した。花梨がまっ赤な顔をしてトイレから戻ってきたときには、先生もとても伸び伸びとした調子で黒板に図形を書き、式を書き、説明をしていた。そして、その伸び伸びした調子のまま、その数学の時間は終わった。

 たぶん、もう忘れものをした人が出なかっただろう。

 うん、そういうことにしたい。そういうことにしたいけれど。

 ――高校でもそんなキャラでいいのかなぁ?

 窓の外では、桜が満開を過ぎて、散り始めている。

 この学校では、ときには廊下でまで花吹雪が舞う。

 教室は二階で、窓のすぐ外に桜が植わっているので、桜の花のようすがよく見えた。

 瑞々しいというのだろう。新しい緑の葉っぱが出てきて、桜の花の色と、鮮やかな組み合わせを見せてくれている。

 空は一面の曇り空だ。でも暗い感じはしない。

 曇っているくらいがちょうどやわらかくていいと思う。

 ああ、そうか。

 この桜の花びらの色と、この芽吹いたばかりの緑の葉っぱの色と、それとこの曇り空の感じと、それがあの桜餅のイメージなんだな。

 いや、それはおかしい。桜の色と、曇り空の色と、どっちか一つだ。

 じゃ、このイメージは桜餅じゃないのかな?

 そう思ったとき、クラスのなかで、また笑い声が起きた。

 つづいて、何人かが短く拍手した。

 まだ花梨が見られているみたいだ。注目を集めているらしい。

 「なんだよ、もう」

と思う。

 ――いつまでも笑われキャラでいるつもりはないんだって!

 だから、教室の中に戻りそうになった視線を、窓の外の桜の木に戻す。

 ――この桜がまた咲いて、また咲いて、もういちど咲いたら、そのときはもう卒業……。

 卒業、なんて、こないだ中学校を卒業したばかりなのに。

 高校を卒業する、なんて、想像もできないよ。

 中学校の卒業のとき感じたのは、中学校の卒業って小学校の卒業とぜんぜん違うっていうことだった。

 いや、中学校の卒業のときには、小学校の卒業ってどんなのだったか、ぼんやりとしか、そして一部分しか思い出せなくなっていた。

 じゃあ、高校の卒業のときには、あの中学校の卒業式はぜんぶ忘れてしまうの?

 そんなのいやだ、と思う。

 ところで、さっきの、何かおかしくないかな?

 次に桜が咲いて、その次に桜が咲いて、そのまた次……?

 ――あれ?

 「これでホームルームを終わります!」

 委員長の仙道さんが明るい声を張り上げた。声が低くて通りがよくない仙道さんだが、いまの声はストレートに花梨の耳に届いた。

 おーっ、という声が教室を覆う。

 これから仙道さんは職員室まで先生を呼びに行く。そして、先生が来て、「小終礼」があって、それでやっと、帰れる。

 ほっと息をついた花梨のまわりに、同じ中学校から来た女の子たちが集まってきた。

 「ああ、今日も長い一日だったねぇ」

 言って顔を上げる。

 反応がない。

 ――う?

 みんなの花梨を見る顔に、何か違う雰囲気が漂っていた。

 「花梨って勇気あるねぇ」

 「おもしろそう」七五パーセント、「意地悪」二〇パーセント、そして「気の毒」がその残りだから五パーセントぐらいで混じった声で、中学校のときから友だちだった綾が言った。

 ロングヘアの美人だ。少しウェーブのかかった髪をふだんは背中のまん中あたりまで伸ばしている。学校では後ろで結んでいるけれど、それでも髪は肩まで届いている。

 体つきはちょおぉっとぽっちゃりしているけれど。

 それは、昼ご飯にお弁当を食べて、それで、そのあと、今日みたいにパンを二つ食べたり、食堂にラーメンを食べに行ったり、そんなことをやってるからだ。

 そうだ。

 さっきも、綾がラーメン食べたいなんて言うから、花梨が仙道さんに注意されてしまったんじゃないか。

 でも?

 「勇気があるって、何が?」

 「だって、あんたさ、その守山もりやま先輩って先輩のお相手役でしょ?」

 「へっ?」

 わからない。

 「その先輩ってだれ? わたしがお相手役って、どういうこと?」

 「ほぅら、聴いてない!」

 由真が笑って言う。小柄で、スレンダーで、活発で、よく焼けた感じの肌の子だ。

 「いや、もしかして、とは思ったよ。聴いてないんじゃないかなぁ、って。だって、委員長が、いいですね、って確かめたのに、何かふてぶてしそうに横向いて窓の外を見たりしてるんだもん」

 「えっ? だれが?」

 その質問で、綾も由真も美朝も笑った。

 三つ編みの眼鏡っ子でいつもおとなしくて優等生の美朝まで笑うなんて。

 「え、だれがよ? え? それにいったいだれ? そのなんとか先輩って?」

 さすがにいやな予感はしてきた。

 「ね? それ、だれ? だれよ?」

 花梨のその懸命の質問に、由真がついに体全体を折り曲げて爆笑した。

 それに綾も、少し遅れて美朝まで加わる。

 代表して綾が言った。

 「あんたほんとキャラ変わってないわ。いや、もう、ほんっと、変わってないわ!」

 「え? なんでよ? なんで?」

 思い当たるところがあるだけに、顔を上げて懸命に言う。

 「なんでわたしのキャラの話になるわけよ?」

 花梨のひとことひとことがさらに三人娘の笑いを盛り上げる。それでは悪いと思ったのか、美朝が、笑いをおさえて

「あのさ、花梨……」

と説明しはじめる。

 でもすぐにはっと顔を上げて口をつぐんだ。

 落ち着いて、すまして自分の席に戻る。よく一秒もかけないであの大笑いからすまし顔に戻れるものだと思う。

 綾も由真も同じようにする。

 委員長の仙道さんが教室に戻ってきたのだ。仙道さんが席に着くタイミングで、担任の先生が教室に入ってくる。

 「それでは小終礼をはじめます。起立」

 仙道さんの号令で、みんな椅子を引きずって立ち上がる。

 「え? 何? 何?」

 花梨一人が取り残された。

 「ほんと、もう、何なんだって!」

 ぷっ、と頬をふくらませ、わざと斜めに腰かけた。

 窓の外の桜の木は、その枝から次から次へと桜色の花びらを解いていっている。

 風が吹き始めてるんだな、と花梨はなんとなく思った。

 花梨は、いまのうちに、そういうロマンチックでメランコリックな気分に浸っておいて、よかったのかも知れない。

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