第2話 そもそもどうして走っていると倒れないんだ?
「アキラ殿は、なぜ自転車が止まると転ぶのか……言い換えれば、なぜ自転車が前に進んでいる間は転ばぬのか、考えたことはあるでござるか?」
「ああ、あるけど、さっぱりだぜ。なんか、ジャイロ効果?とかいうやつだったよな。それが何かは知らないけど」
「うむ。そのジャイロ効果の話は一旦忘れてほしいでござる。今回の話にとってあまり有益ではござらぬ」
ユイはベンチから立ち上がると、数歩進んで距離を取った。そしてくるりと回ってアキラと向かい合う。
得意げに咳払いをするユイ。どうやらこういう役割が好きなようだ。
「そもそも、人間が二本足で立っているように、自転車も二輪で立っている。ので、理屈はそんなに変わらぬよ。重心さえ真ん中にあれば、どちらにも転ばぬのでござる」
「それは分かるぜ。つまり、車輪と地面の接点が、自分の重心の真下にあればいいって事だろ?」
「うむ。それでは問題でござる。例えば拙者がこのまま後ろに重心を崩したとする。その場合、どうなるでござる?」
地面に両足で立つユイは、そのままふらりと後ろに傾いた。それはまるで、壁のないところで寄り掛かろうとしたようにも、ベッドのないところでベッドにダイブしたようにも見えた。
当然、そのまま倒れれば後頭部を地面に打ちつける――
「バカ!お前っ!?」
アキラがさっと立ち上がろうとした、その時には、ユイが既に対処している。左足を後ろに出したユイは、それを新しい支えとして姿勢を起こす。
結果、『よろけながら一歩下がるだけ』という形で、転ばずに済んだ。
「お、おい……驚かせやがって」
すっかり立ち上がって一歩前に出てしまったアキラは、再びベンチに座る。どっと嫌な汗をかいた気がするのは、気のせいではないだろう。背もたれに身体を預けると、背中がじっとりと濡れている。
「ふむ。驚かせてしまったでござるか。まあ、要するに、こうして足を置く位置を変えれば、バランスを崩しても対処できるということでござる。二本足で立って、後ろに転びそうなら、片足を後ろに――逆もしかりでござるな」
今度は前に転ぶふりをして、左足を前に出して踏み込む。
その股下ぴったりのホットパンツから伸びる白い脚は、筋肉が浮いているわけでもなく、すらりと細かった。アンクルソックスとスニーカーに阻まれるまでのあいだ、ほぼ全体をさらけ出した素肌が、やたらと眩しい。
「見てるでござるか?」
「え?あ、ああ。えっと、み、見てない」
「いや、せっかく説明しておるのだから、しっかり注目してくれぬと困るのでござるが?」
「あ、ああ。そうだったな。見るぞ」
「う、うむ?」
どうしてこう……今日に限ってユイは、こんな露出度の高い服をチョイスしたんだか。などと思ってみたが、そう言えばユイの私服ラインナップをあまりよく知らない。もしかしたら普段からこんなものなのかもしれない。
「さて、じつは自転車でも同じ理屈が通用するのでござる」
ユイが声を上げたことで、アキラの視線は足元から、急にユイの顔へと引き戻された。
「どうしたでござるか?ひどい間抜け面でござるよ」
「ああ、今日はそんな日なんだ」
「……そんな日があるのでござるか」
納得半分、疑問半分くらいの表情を浮かべたユイは、しかし気を取り直して歩き出す。
「アキラ殿が先ほど言ったように、自転車の真上に重心があれば倒れない。では重心がずれた時はどうするでござるか?」
「え?……えーと、重心を車体の真上に戻す?」
「動かす方が逆でござる。車体を、重心の下まで持ってくるのでござるよ。例えば、左に転びそうになったら、ハンドルを左に切る。右に転びそうになったら、ハンドルを右に切る。そうすれば倒れないでござろう?」
「そっか。自転車の方を自分に合わせるのか。……いや、でも、普段はまっすぐ走ってるはずだぜ。それでも転ばないじゃん」
「いやいや。普段だってほんのわずかにまっすぐではないのでござるよ。例えばアキラ殿は、縁石の上から落ちないように走れと言われて走れるでござるか?」
「それは……まあ、自信はないな」
アキラが言うと、ユイは勝ち誇ったように腰に手を当てて、胸を張った。
「ちなみにスピードが出ていれば、さほどハンドルを傾けなくても車体位置を調整しやすいのでござる。逆に言えば、スピードが遅いとハンドルを大きく傾ける事になるのでござるよ。アキラ殿が低速でハンドルを切り揉みしていたのは、それが理由でござる」
「そっか。なんか感覚でやってたけど、そんな理由があったんだな」
「まあ、大半は無意識でござるよな」
ユイがママチャリに跨る。真っ黒なフレームのビレッタは、キックスタンドを上げて進み始めた。
「で、ここからが肝心。スタンディングをするときは、ハンドルを必ず斜めにしないといけないのでござる。拙者は左に向けた方がやりやすいので、そっちで説明するでござるよ」
「あー、俺はどっちかな?」
「まだ初心者ゆえ、きっと分からぬよ。そのうち分かるゆえ、焦らずとも良いでござる」
おおよそ斜め45度ほど……自転車のハンドルとしては、結構大きく傾けるユイ。そのままペダルから足を離さずに、見事なスタンディングを披露する。
「拙者のタイヤをよく見てほしいでござる。実は完全に止まっているわけでは無く、微妙に動いているのが確認できるでござるか?」
「え?」
「反射板とか、バルブを見てもらえると分かりやすいでござる」
そう言われて、アキラは再び足元に視線を落とす。確かに少しだけ、反射板が揺れていた。数秒に一回程度。ごくわずかに、だ。
「ハンドルが左向きでござるから、前に車体を進ませれば、車体の位置は左にずれるのでござる。もし左にバランスを崩したら、車体を前に進ませると、左に転ばなくて済むのでござるよ」
「なるほど。……で、右にバランスを崩したときは?」
「その場合は、車体をバックさせるのでござる。するとハンドルが左を向いたままでも、右に移動できるのでござるな」
つまり、前後移動をハンドルの角度で左右移動に変換する。という事なのだろう。車輪は前後についているため、前や後ろにバランスを崩すことは無い。あとは左にバランスを崩したら、左斜め前へ。右にバランスを崩したら、右斜め後ろへ。
ゆらり……ゆらり……
こうしてみれば、停止するというよりは、常にその場で足踏みをしているような……いや、それほどの頻度ではないので、立っている最中に軸足を変えるような、微細な動きだ。
「つまり、走っている時と理屈は変わらんよ。常に車体の位置を小さく移動させることで、バランスを保ち続けている。それがスタンディングスティルでござる」
「なるほどな」
と、一瞬納得しかけたアキラだったが、何か痛烈な違和感に気づく。あまりにもユイの実演が綺麗なので、うっかり気づかないままでいそうだったところだ。
「なあ、ユイ。どうやったら、自転車はバックするんだ?」
アキラの知る限り、ペダルを前に回せば自転車は前に進む。しかしこのペダルを逆回転させたところで、車体は後ろに進まない。空回りするだけだ。
「ああ、それについては……」
自転車を降りたユイは、再びベンチへと戻る。そこには先ほどの重箱と、下に敷いた風呂敷があった。
その風呂敷の端を持ったユイは、勢いよくそれを引っ張る。
いわゆる、テーブルクロス引き。上に乗っているはずの重箱は倒れず、ベンチの上に居座っている。ベンチと重箱の間に挟まっていたはずの風呂敷だけが、彼女によって思いっきりよく引っ張られた。
「位置エネルギー、というやつでござるな。今のようなテーブルクロス引きや、だるま落としに使われる原理でござる」
「……それと自転車と、何の関係が?」
「つまり、自転車に跨ったまま、ハンドルを手前に引くでござろう?すると、拙者の身体はその場から動かず、下にある自転車だけが後ろに進むのでござる」
そう言ったユイは、再び自転車に乗ると、そのままひょこっとハンドルを引っ張った。ブレーキがかかっていない自転車は、素直に後ろに数センチ下がる。
「ほっ!」
ブレーキをかけて車体を固定したユイが、姿勢を戻す。そしてまたブレーキを離すと、もう一度ハンドルを引っ張る。その繰り返しで、ユイは少しずつバックしていった。
「おお、すげー!すげーよ!!……でも、どうしてペダルを後ろに回してんだ?体重移動と位置エネルギーだけで後ろに下がってんだろ?」
「それは、後輪の構造の問題でござるな。通常、後輪は前に空回りすることはあっても、後ろに空回りはしないのでござるよ。だからペダルを止めたままだと、数センチ下がっただけで突っかかるのでござる」
「なるほどね」
気になったので、アキラも自分のクロスバイクで試してみる。もっとも、乗ったままで後ろに下がることは出来ないので、降りた状態で手押しすることになるが。
「あ、本当だ」
自転車を前に押したときは、ペダルが回らない。しかし後ろに押してみると、確かにペダルは勝手に回った。そのペダルを無理やり止めてみたところ、それ以上は後ろに動かなくなってしまう。強力なブレーキがかかったような感触だ。
「まあ、実際にスタンディングスティルをするときは、せいぜい前後に数センチも動かさぬよ。そのくらいならペダルを動かさずとも、充分に移動できるでござる」
「つまり、腕だけに意識を持って行けばいいって事か?」
「いや、脚も使って重心を移動することになるでござる。なので、腕だけとか脚だけで解決すると思わない方がいいでござるよ。あ、サドルに座るかどうかは、人によって変わるところでござる。拙者はどっちでも出来るでござるけどね」
立ったままの状態でスタンディング。そこからサドルに座って、両手を離して見せる。それでもまだユイは転ばない。
さらに、片手をハンドルに戻したユイは、片足をペダルから離して見せる。左足と左手でペダルとハンドルとブレーキを操作し、残った右手で右の足首を掴み、余裕のY字バランス。まるでサーカスだ。
「すげーな。さすがに真似できる気がしないぜ」
「うむ。ここまでする必要はないでござるよ。まずは普通に止まるところまで練習してみせよ」
「おっしゃ!」
アキラの身体に、やる気がみなぎってきた。
そっとクロスバイクに跨ったアキラは、慎重にペダルを漕いで進んでいく。そして、ブレーキ。車体はぴたりと止まった。そしてハンドルも斜めに曲げた。
(やったか!?)
(あ……)
そのまま、アキラは自転車ごと思いっきりひっくり返り、肘に小さなあざを作る結果になるのだった。
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