第3話 練習にも工夫が必要なのか?
「で、前後に車体を揺らすような意識で練習すればいいのか?」
アキラが内容を確認する。しかし、ユイは首を横に振った。
「半分は合ってるでござるよ。ただ、車体を揺らすのはあくまで『たまに』でござる。基本的には、全く車体を揺らさずにバランスをとる意識を持った方が良いでござるな」
「そういうものか」
「うむ。人間だって二本足で立っている時、たまに軸足を変えるでござろう?その頻度でござる」
「……分かった。やってみる」
アキラがほんのわずかに自転車を進ませる。こうしないと、そもそも基本姿勢さえ取れない。
基本の姿勢に入ったら、そのままブレーキを引いて止まる。
(たしか、この後バランスを崩しそうになったら、えっと……)
ハンドルを右に切る。ユイとは逆向きだが、どちらでもやりやすい方でいいと言われたはずだ。
(右にバランスが傾いたときは、少しだけ車体を前に押す。左にバランスが傾いたときは、車体を後ろに引く)
小難しいところだ。実際に判断するのは一瞬。頭の中で回路を作って考えているようでは、遅すぎる。
「アキラ殿。あまり難しく考えず、ハンドルを反対側に切り返したいと思った時に、代わりに車体を引くのでござる」
「そうなのか?」
「うむ。そうすれば、どっちにハンドルが曲がっていてもやりやすいはずでござる。意識の問題は結構重要でござるよ」
ユイがとても近くまで歩いてくる。アキラとしては、そこまで近づかれると困るところだ。転ぶに転べない気持ちになる。
「大丈夫でござる。転びそうになったら、また漕ぎ出してみるとよい。走っているうちは転ばぬでござろう?」
「いいのか?」
「うむ。なんなら、最初は拙者が手を添えたり、アキラ殿が電柱などに掴まったりして練習してもよい。補助輪による練習みたいなものでござる」
そっと、ユイがハンドルの端を握ってくれる。その細腕は、アキラが乗っている状態の自転車を支えられるようには思えなかったが、
「……なんか、出来る気がしてきた」
「うむ。ちょっとずつ、無理のないフォームを見つけるとよい。こればかりは、拙者にもアドバイスできぬ。人それぞれでござるからの」
ユイの手が、少しだけアキラの手に触れている。しっとりとして、吸い付くような肌触り。それでも決して、ペタペタとはしない。まるでシルクのような彼女の手は、柔らかくて、温かかった。
「うう、肩が痛い」
練習を始めて少したったころ、アキラがそんなことを言い始めた。
「慣れない練習でござるからな。身体のあちこちに余計な力が入ってるのでござろう」
「ああ、それは分かる気がする」
アキラが自転車を、公園のちょっとした階段に立てかける。スタンドのない車体を止める時、ときどきやる方法だ。ペダルを逆回転させながら、ちょっとした段差に当てるようにする。なんと、それだけでペダルが固定されて、車体が自立するのだ。
意外かもしれないが、海外では――特にスポーツバイクの業界では、スタンドが付いていない車体はメジャーである。その環境下で生み出された、いくつかある駐輪方法のひとつだ。
「はぁ……ちょっと休憩させてくれ」
「うむうむ。疲れたら休むがよい、でござるよ。こういうのは頑張りすぎてもダメでござる」
「ああ、そうだな……」
一応、アキラも昔はスポーツなどを、それなりにたしなんでいたものである。無理は禁物なのも、自分の限界がどの程度なのかも知っているつもりだ。
ベンチへと戻ったアキラの肩に、そっと小さな手が乗る。
「ユイ?」
「ふふふー。肩にきているのでござろう?せっかくでござる。拙者が揉んで進ぜよう」
「いや、いいよ。なんか悪いし」
「遠慮は不要でござる。これも指導のうちでござろう」
ユイの揉み方は、なんというか……揉んでいると言うより、さすっているに近い。その小さな手でアキラの肩をしっかりつかむのは難しいらしい。
本人もその自覚はあるようで、体重をかけて押してみたり、指を立ててみたりと試行錯誤しているように感じた。
「そういや今更だけど、ユイの自転車って、ブレーキレバーがハンドルに近いよな。あれって手が小さいからなのか?」
「ああ、うむ。そこに気づくとは、なかなかいい目を持っているでござるな」
「いや、何となく、な」
「ブレーキレバーの種類やグレードに寄るのでござるが、レバーの付け根付近にネジが付いているタイプがあるのでござる。そのネジを締めれば、レバーをハンドルに近づけることが出来るのでござるよ」
「へー。割と単純な構造なんだな」
「単純であるがゆえに、細かい調整が難しいでござるけどな。うまく調整すれば、ちょんと触れただけでブレーキが急激にかかるでござる」
「そうなのか。……上手く行かなかった場合は?」
「そもそも奥まで握り込んでもブレーキが利かなくなったり、逆に常時かかりっぱなしになったりするでござるよ」
つまり、素人が手を出すところではないという事だろう。
ユイによる肩もみは、会話中も優しく続いた。揉んでいるというより、さすっているに近いが。
「……気持ちいいでござるか?」
ユイが不安そうに訊いてきた。アキラとしては『もちろん』と強く頷きたいところだ。
「ああ、気持ちいいぞ。……でも、何で俺のために、こんなに尽くしてくれるんだ?」
肩もみの話だけではない。せっかく学校が休日だと言うのに、その一日を丸ごとアキラのために開けてくれたこと。それにお弁当を作ってくれたことや、そもそも家が遠いのにアキラの家の近所に来てくれたことなど、もろもろ含めて。
「ん、んー?」
ユイも改めて訊かれると、答えに困る。理由は自分の中で整理がついているのだが、いざ言語化して伝えるとなると難しい。そんなところだ。
「まあ、あえて言えば、『アキラ殿が応援したくなる性格だから』でござるな」
「応援したくなる?」
「うむ。なかなかおらぬよ。『ママチャリに乗っている年下の女子』の言うことを、こうして本気で聞いてくれる人は――。少なくとも、拙者が知る限りはアキラ殿だけでござる」
そう言われると、アキラも照れる。というのも、アキラにしてみればそれは当然の事だった。
確かに相手は年下だし、乗ってる車体もママチャリなのだが、そういう問題ではない。
彼女がどれほど優れた自転車乗りであるか。それは初対面の時から嫌というほど思い知らされてきた。
「ユイは、凄いよ。ただママチャリ乗ってる女子高生だなんて、そんなレベルじゃないぜ」
「ほう……」
「?」
アキラの肩に乗せられていた手が、そっと顔の前で交差した。汗をかいて冷えた後ろ頭に、温かく柔らかいものが触れる。
「ユイ?」
「ふふっ……拙者、数多くの畏怖か、あるいは理解できない趣味への苦笑は受けてきたが、そのように褒めてくれるのは、アキラ殿が初めてでござる」
小さな囁き声が、それでも耳にしっかりと届く。吐息まで届くくらいに、とても近い距離での声。
アキラは身動きが取れなかった。ちょっとでも振り返ったら、ユイと顔がぶつかるんじゃないかと――それを確認したくても、そもそも振り向くことが出来ない。
緊張の一瞬だったが、それはすぐにほどけた。彼女はすっと身体を離して、それから……
アキラの肩を引っ叩いたのだった。
「いってぇ!?」
「さて、そろそろ練習再開としようか。せっかくアキラ殿の方から頼られたのだし、拙者もしっかり教えないと、の」
「優しさと厳しさの温度差がキツイぞ」
ようやく後ろを向くことが出来たアキラは、弱弱しくも抗議の声をあげる。しかしユイは手をひらひらと振って、いつもの悪戯っぽい笑顔を見せるのだった。
「こういう時、せっかく練習を始めたなら、ガッツリやった方がいいでござるよ。もちろんまとまった時間が無いなら、こまめにでも毎日続けた方が良いのでござるけどな」
結局、日が落ちかけるまでずっと、アキラは適度な休憩を取りつつ練習を続けた。
結果――
「おっとっと……」
「お、これは凄いでござるよ。32秒!新記録でござる」
足を着いたアキラの隣で、ユイが拍手する。
「最初はブレーキをガッツリ握り込んで、前に行こうとするのを止める感じだったけどさ。慣れてくるとブレーキ要らないな。本当に体重移動だけでどうにかなる感じだ」
「うむ。最初より少し腰も後ろに下がったでござるな。アキラ殿にとってのベストポジションなのでござろう」
大体のコツさえつかめれば、どのくらい継続できるのかは運と集中力次第だ。
「今日のところは、このくらいでやめておこうか。アキラ殿も疲れたでござろう?」
「ああ、変な話だけど、こんなに長い時間クロスバイクに乗ってたの、初めてかもしれない」
「走行距離は1kmも無いでござるけどな」
「それそれ。平均速度2km/hって、初めて見たよ。こんな数字」
「ふひひ」
「ははっ」
遠くには、夕日も落ちかけていた。秋に入り、そろそろ昼夜の寒暖差が激しくなるころである。たくさん汗をかいたアキラも、薄着のユイも、少し寒そうに身を縮める。
「あ、そうだ。何かお礼をさせてくれよ」
「む?いや、拙者はそんなつもりは……」
「いいって。なんか、こう――そんな気分なんだ。それに、練習に付き合ってくれただけじゃなく、昼の弁当とか、マッサージとか、いろいろ助かったからさ」
「うーむ……」
少しだけ、アキラに甘えてみたくなる気持ちが湧いてくる。このまま帰りたくない。もう少しだけ、今日が続いてくれたらいい。明日からはまた、お互いに学校やら何やらで会えなくなるから。
とはいえ、これからサイクリングも無いだろう。ユイとしては構わないが、アキラがお疲れだ。あまり長い時間サドルの上にいるのも、あまり健康にいいとは言えない。
「それならば……」
夕食をおごってもらうのは、さすがにおこがましいだろうか。別に高い店じゃなくてもいい。ハンバーガーでも構わないくらいの気分だ。
いや、しかし今からお礼のために引き留めてしまうより、後日に何かをしてもらったほうがいいか。そうすれば、また会う口実も出来る。その予定は最低でも来週になりそうで、それまでの時間が遠いように感じてしまうが――
「あー、俺に出来る事なら、なんでもいいぞ。ほんと、それくらい感謝してんだ」
「う、うむ」
アキラが待っている。早く決めなければならない。どうして今日はこんなに早く日が落ちてしまったのだろう。思い返せばいろいろ話せた日が、それでもあっという間で――
「で、では、夕飯をおごってもらうというのは、どうでござろう?」
やっぱり今、アキラと話したい。そんな気持ちが抑えきれなかった。
「ああ、いいぞ。そのくらいなら全然」
「ほ、本当でござるか?」
「ああ。あんまり高い店とかじゃなければ……つっても、この辺にそんな高い店ないか」
「拙者の金銭感覚だと、駅前のファミレスなんかも充分に高い店に入るのでござるが?」
「お、いいな。近くだし、それでいいか?」
「う、うむ」
アキラがクロスバイクに跨り、少しだけ走ってから止まる。なんてことは無い。覚えたてのスタンディングスティルをやってみたかっただけなのだろう。そうやってユイのいる後ろ側へ振り返ろうとして、やっぱりバランスを崩して足を着く。
「ふふっ」
そんな子供っぽいアキラを見て、ユイは笑った。ママチャリに跨った彼女は、
「あ、ちょっと待ってほしいでござる」
前カゴに入れたクマのぬいぐるみ――の形をした子供用リュックサック。そのファスナーを開けて、スマホを取り出す。
両親に『晩御飯は食べて帰る』と、連絡を入れる必要はあるだろう。
「んーっ」
アキラの方を見れば、彼は自転車のトップチューブに跨ったまま両足を地面につけ、大きく伸びをしていた。肩を回したり、首を傾けたり、やはり疲れていたのだろう。
そうして子供みたいにキラキラした目で、本当に綺麗な笑顔で、無垢に言うのだ。
「俺がスタンディングできるようになってた。って知ったら、ルリは驚くかな」
「……ルリ姉?」
それは、二人にとって共通の友人の名前だった。そもそも、アキラを自転車の世界に引き込んだ女性だ。ユイとは良きライバルである。――おそらく。
「そうそう。ルリには『まだアキラ様には早いと思います』とか言われたんだけどさ。やれば出来るぜ!みたいな?……まあ、そんなところを見せようと思ってさ」
「お、おお……おお!そうであったか。道理で今日のアキラ殿は、やる気に満ちていたと思ったでござる」
「そうか?俺はいつもこんなもんだぜ」
「んー、そうでござったかもしれんな」
いつも――いつだって、アキラは自転車に一直線だった。そんな彼を見ていて思うのだ。本当に自転車が好きなんだな、と。
でも、その理由がもし、単なる趣味などでは無かったら――
「ん?どうした。ユイ?」
アキラが心配そうに声をかける。そのくらい、ユイは変な表情をしていたようだ。
とっさに戻そうと思ったが、よく考えればいつもの表情が分からない。そんなもの、意識して作ったことがないからだ。
せめて、この表情の原因がアキラじゃないと思わせるため、ユイはスマホに視線を落とす。何の通知も届いていない画面をなぞり、次にアキラと目を合わせる時のための表情を考える。
考えて、それから考え付かないことに気づいた。
「あ、すまぬ。アキラ殿。両親が心配しているようでな。帰らねばならん」
「そ、そうなのか?」
「うむ。今日の礼は、またの機会で構わぬよ。気が向いたらで良いでござる。それではな」
「え?ああ……」
アキラが何か言いかけていたが、ユイはペダルを強く踏みつける。ギアを無理やり上げたせいか、後輪周辺からバキバキと異音が響いた。
一瞬で加速して、道路に出たかと思うと姿を消す。そのくらいの勢いで……
これは、ほんの一日だけの、二人の休日を描いた物語。
アキラがその後、ユイと付き合ったのか、それともルリと付き合ったのか……そもそも、どんな経緯で彼女らと出会ったのか。それは、また別の物語で語られるだろう。
ユイのその後については、きっとこれまた、さらに別な物語で。
あえて中途半端な終わり方をするが、これもまた、ひとつの終幕である。
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