前を向いて

ちい。

前を向いて

「この手をずっと離さないでね」

 

 あの頃の私達は幼かったよね。中学の卒業式。あなたの告白に返した私の言葉。あの時、私は飛び上がるほどに嬉しかった事を今でも憶えている。

 

 二人で色んなところに行ったよね。数えきれない位キスをして、たくさん体を重ねて、何度も喧嘩して直ぐに仲直りをして……

 

 私は疑わなかった。このまま年をとっても……ずっと一緒にいるんだって。

 

 気づいたら十年。

 

 あっという間の十年間。

 

 だけど、私はあなたに失恋した。

 

 もう、あなたは私の隣にいない。いてくれない。

 

 失恋した直後、私はしばらくの間、立ち直る事が出来なかった。食事も喉を通らず、ふとした時に涙を流していた。職場だろうが、電車の中だろうが。情緒不安定。そんな私に周りの人達も心配し、上司も有給を使って休ませてくれた。

 

 でも、逆にそれが辛かった。私の部屋にはあなたの残した物がたくさんあったから。

 

 色違いの歯ブラシ。

 

 水族館で買ったお気に入りだったペンギンの絵のマグカップ。

 

 使い込まれた箸に、私より一回り大きなお茶碗。

 

 着古した部屋着のスウェット。

 

 その一つ一つを手に取ってしまう。手に取ると嫌でもあなたの笑顔を思い出して、また一人で泣いてしまう。

 

 私しかいない部屋の中で、わあわあと声を上げて泣いていた。

 

 子供みたいに泣き喚いてもあなたが戻ってこない事なんて分かっている。分かっているけど、止まらなかったんだ。

 

 それから二年がたった。

 

 失恋した直後の様に泣く事はなくなった。それでも、まだ私はあなたの事を今でも愛している。あの頃と変わらない位に愛している。

 

 未だに残してあるあなたの忘れ物。

 

 時々、思い出した様にそれらに触れている。

 

 なんて未練がましい女なんだろうと自分でも、そう思う。

 


 

 

 

「先輩、飲みに行きませんか?」

 

 職場の後輩から誘われた。二つ年下の女の子。少しきつめの顔の私とは真逆でふんわりとした感じの可愛らしい後輩である。

 

「良いわよ」

 

 彼女は何故か入社当時から私によく懐いてくれている。確かに同じ部署ではある。でも、かと言って仕事を教えたりすると言う事もそんなに多くはなかった。だけど、私も彼女とは何か波長が合うのか、彼女に懐かれる事が嫌ではなかったし、どちらかと言うと、私は彼女と触れ合う時間が心地よかった。だから私も彼女とはよく二人でご飯を食べに行ったり、買い物にいったりと、プライベートでも会う事が多い。今日の様に二人だけで飲みに行くのも珍しい事じゃなかった。

 

「お疲れ~」

 

「お疲れ様です~」

 

 生ビールのジョッキでかちりと乾杯、そして、いつもの言葉。

 

 片や二十七歳、片や二十五歳。そんな二人が焼き鳥屋で鳥皮をツマミに飲んでいる。会社の愚痴や他愛もない身の回りの話し。それだけでも彼女と過ごすこの時間はとても楽しい。

 

 あなたの事を思い出さずに済むから。

 

「ねぇ……先輩?」

 

 テーブルに置いている私の手の上に彼女が自分の手をそっと重ねてきた。

 

 アルコールが入っているからか、重ねてきた彼女の掌は、とても暖かかった。


 私はその掌を退けるわけでもなく、そのままに、くるりと手を返し、その手を握った。彼女も私の手を握り返す。

 

「先輩は……まだ、あの人の事を忘れられませんか?」

 

「……そうね。まだ思い出すわ。あの頃の様に、思い出して泣く事は無くなったけど」

 

「そうですよね……」

 

 ふっと彼女が私から視線を逸らし、握り合う手を見つめると、少しその手に力を入れた。

 

「忘れるのは無理だと思います……でも、それでも……」

 

「……分かってる、ごめんね……」

 

「謝らないで下さいっ!!私は先輩を困らせるつもりはなかったんです。ただ……時々、悲しそうにしている先輩を見たら……つい」

 

 彼女は私の事をよく見てくれている。そして、気にかけてくれている。

 

「私は……先輩の事が大好きだから……」

 

「うん、ありがとう」

 

 ぽそりと呟く様にそう言う彼女がとても愛おしい。私は空いている方の手を伸ばし、彼女の頭をくしゃりと撫でた。嬉しそうにふにゃっとした顔で微笑む彼女。

 

 あぁ……やっぱり愛おしい。

 

 でも、それと同時にあなたの事が頭を過ぎる。あなたも、私が頭を撫でると照れた様に微笑んでくれていた。

 


 

 

 

 それから少し経った休日。私はあなたに会いに行った。晴れ渡る空はとても青く雲一つない。

 

「久しぶりね……京子きょうこ

 

 私は花束を墓前に供えると、目を閉じ手を合わせた。今でもあなたの笑顔をすぐに思い出せる。あなたと過ごした十年間。とても幸せでした。あなたを失って二年の月日はとても辛かった。

 

 でも、その辛い日々の中に、あの子と過ごす穏やかな日もある。

 

「ねぇ……京子。私はまた恋をしても良いのかな……あなた以外を愛しても良いのかな……」

 

 ふわりと柔らかな風が吹いた。風が私の長い髪をさらりさらりと揺らす。

 

「当たり前じゃない」

 

 空耳だろうか。あなたの声が聞こえた様な気がした。少しハスキーなあなたの声。

 

「……うん」

 

 一雫の涙が頬を伝い落ちていく。いつ以来だろう。あなたを思って涙を流すのは。

 

 ありがとう。

 

 私にたくさんの思い出を作ってくれて。

 

 ありがとう。

 

 私と出会ってくれて。

 

 ありがとう。

 

 私を愛してくれて。

 

 ありがとう。

 

 ありがとう。

 

 ありがとう。

 

 私は前を向いて進みます。

 

 あなたを忘れる事は出来ないでしょう。でも、それは今までの様に未練としてではなく、楽しかった思い出として心に残します。

 

 

 

 

 

 帰り道、あの子の顔を思い出していた。ふんわりとした優しい笑顔。いつも私を気にかけてくれている可愛い後輩。

 

 私は彼女へ電話を掛けた。

 

奏音かのん、今日会えるかしら?」

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