Blue: Diver / Gazer

ヘイ

Blue


「すーーっ、はぁああ……」

 

 堤防の上で燦々と降り注ぐ太陽の下大きく深呼吸をする少女の姿。

 天気がいい。

 気温も二十度後半、海に飛び込めば心地の良い冷たい水が身を包むことだろう。

 

青山あおやまはるっ! 行っきまーす!」

 

 右手を上げて、高らかに宣言する。

 陸上選手の様なクラウチングスタートを決め、低姿勢で空気抵抗によって押し上がる身体を最大限まで縮ませ最高速度に。

 短距離走選手スプリンターには遠く及ばない物のかなりの速度。

 行ける。

 彼女が確信を抱き不敵な笑みを浮かべて飛ぼうとした瞬間に背中に何かがぶつかった。

 

「ダメェエエエ!!!!」

「えっ?」

 

 ビターン。

 ギャグ漫画の様な擬音がお似合いな様子で顔から堤防に倒れた。

 

「身投げはダメだってぇ!」

「は、離せ! セクハラで訴えるぞ!」

 

 気持ちよくなるはずが、変な男に抱きつかれ、海に入り水を纏うはずが、変質者の様な男に纏わりつかれる。

 

「せ、セクハラ!?」

「どう見てもセクハラだろうがっ! いいから私の胸から手を離せ!」

「あっ、ご、ごめんなさいっ! 警察は呼ばないで!」

「早くしろ!」

 

 ようやく離してもらえた春は溜息を吐いて、海への飛び込みを阻止した憎き男に辟易とした顔を見せつける。

 

「ご、ごめんねぇ、勘違いだった……」

「おう」

「で、でもね? 制服で海に飛び込もうとする方もどうかしてると思うんだよ」

「黙れや。飛び込み阻止であわよくば胸揉もうとするスケベ野郎」

「そんなっ!」

「事実じゃ!」

 

 はあ、飛び込む気も失せた。

 また溜息を吐くと春は膝に手をつきながら立ち上がる。

 膝小僧には擦りむいた痕が。

 

「あ、ごめん……」

 

 少年も気が付いたのか謝罪を述べる。

 

「気にすんなよ。唾つけとりゃ治る」

「汚いって……。ちゃんと水で流さなきゃ……」

「水ならそこにいっぱいあるやんか」

「海の水はダメだよ、余計に悪化しちゃうから」

「冗談だよ。……私はもう帰るから。二度と顔見せんな、性犯罪者!」

「ひ、ひどっ!」

 

 ヒリヒリとした感覚が膝から。膝を曲げるたびに少しの痛みと痒さを覚える。女の子にとっては致命的な怪我だ。

 スカートでギリギリ隠れるだろうか。

 海に入るのはしばらくやめた方がいいかもしれない。

 

「クソ、あんにゃろう……」

 

 日が沈み、バスタブの中で春は恨言を漏らす。

 

「春ーっ? ご飯出来たわよ!」

 

 脱衣所と風呂場を繋ぐ扉の向こうから声が聞こえて春もバタバタと風呂場から出ようと動き始める。

 

「今、上がるー!」

 

 ガチャリ。

 扉を開いた瞬間に見えたのは顎髭の生えた見慣れた顔。鏡を見て、髭を確認している。

 

「何やってんだよ、兄ちゃん」

「お、春。なあ、兄ちゃんの髭どう思う?」

「キショイ」

「……女子高生のきしょいはぐさっと来るぞ。これでも女子大生からは可愛い言われてんのに」

「似合わんやん」

「ふぐぅううっ……」

 

 胸を押さえて本当に苦しそうな顔をする。

 

なつ、早く来なさい。ほら、春も早く服着て」

「あーい」

「母さん、俺の髭って似合ってない?」

「誰に言われたの?」

「春が……」

「まあ、似合ってなかったけど……」

「言ってよ、もぉおお!」

 

 恥ずかしげに顔を赤くして叫ぶ夏の姿を見ると、春も思わずふふっと笑ってしまう。

 

「なあ、春。夏休みいつから?」

「なに、兄ちゃん。友達と遊べばいいやんか」

「予定合わんの。兄の暇つぶしに付き合えや。妹だろ」

「ほな、唐揚げ貰う」

 

 ひょいと隣に座る夏の皿から大きめの唐揚げを一つ箸で掻っ攫っていく。

 

「あっ! おま、久しぶりの母さんの唐揚げ! お前いつでも食えるやんか!」

「どうせ市販の唐揚げ粉だから! 兄ちゃんだって作れんでしょ!」

「父さん、何とか言ってくれよ」

 

 夏は正面に座る白髪が目立ち始めている黒髪の中年男性に目を向けた。

 はあ。

 身近な息をついて、彼は視線を斜め前にいる春に向けた。

 

「春、そんな唐揚げ食いたいんか? 俺のもやる」

「え! 良いの? あざます!」

 

 差し出された皿から唐揚げを一つ、春は自らの皿に取り寄せた。

 

「おい、父さん! 俺と態度違うやんか!」

「ええい! 黙りなさい夏! お前には春と違って可愛げがないんだから!」

「何なの!? 髭か! 髭が悪いんか!」

「……はあ、兄ちゃん。仕方ないから私の分けてやるよ」

 

 やれやれ。

 世話のかかる兄だと思いながら春は夏の皿に比較的小さな唐揚げを乗せた。

 

「随分ケチくさいな……」

「文句言うなよ、兄ちゃん。モテないぞ」

「モテてますゥゥ! もう、それはモテてますからぁ! 取っ替え引っ替えやから!」

「夏?」

 

 何やら圧の感じる声が夏の目の前から聞こえた。

 コレはまずい。

 母はそういった手合いの話を好まない事くらい兄にもわかっていたはずなのに。ゲシゲシと春は隣に座る夏の左足を右足で踏みつける。軽蔑した様な視線を一瞬だけ見せてから。

 

「じょ、冗談だから! とりあえず、話変えて。ほら春、明日学校で待ってろ迎えに行っからな、な?」

「分かったから。寂しんぼうの兄ちゃんのお願いだもんな、仕方ないか」

「ん? 夏、お前車あったか?」

「父ちゃん、トラックあるじゃんか」

「ああ、アレか。お前の免許、マニュアルだったか……」

「何で、息子が取った免許覚え取らんのや!」

「興味無かったから」

「クソッ! 文句言えねぇ!」

 

 言えるだろ。

 呆れていたのか、聞き流していたのか春はツッコミの声も上げずに唐揚げを持ち上げて口に運んでいた。

 

「で、夏。アンタ、春の事鬱陶しがってたやんか」

「気が変わったん。取り敢えず、春。隣の市のラーメン屋連れてったるからな」

「……何あったん、兄ちゃん」

 

 春にとっては久しぶりに帰ってきた兄がどこか気持ち悪くて仕方がない様で、少しばかり身を兄の方から引いていた。

 

「人は変わるもん。なら兄貴が変わるのも変わんないだろ?」

「どっちなん?」

「いや、兄貴も変わるもんだって事」

「へー。じゃあ、前に持ってったゲーム返して」

「え?」

「あれ、私がお年玉で買ったやつ」

「やー、ちょっと待って欲しい……」

「生産終わったらしいから」

「…………」

「壊したんだろ?」

 

 夏の性格はよく知っている。腹が立ってゲーム機本体を投げつけて友達から借りたゲームを壊した前科のある男だ。

 そこに関しては兄貴を信じている。言ってしまえば壊すことを信じるくらい、兄の事を春は信じていなかった。

 

「最新ゲーム機、欲しくないか?」

「よっしゃ。兄ちゃん、約束だぞ。買わなきゃ指切りな」

「お、おう」

 

 春の現金な態度に夏は震えていた。

 

 

 

 

「あ」

「うげぇ、性犯罪者め」

 

 うんざりという言葉がよく似合う。

 

「顔見るなり罵倒は酷いよ」

「はいはい」

「で、今日も飛び込むの? 今日は止めないよ」

「怪我したから当分はやらないけど……」

「へー」

 

 少年は気まずそうに目を逸らした。怪我をさせたと言うことに責任を感じてはいる様だ。

 

「そういうアンタは?」

 

 鞄を持っているがどうにも帰るといった様子ではない。

 

「僕? これから練習」

「練習?」

「まあ、ピアノのコンクールも近いし」

「え、アンタ、ピアノ弾けるの?」

「まあね、そこまで自慢できる様なもんじゃないけど」

「へー、高尚な趣味ね……」

「趣味には高尚も下賤もないよ。君の飛び込みだって立派な趣味だろ」

「ああ、アンタの女の胸を揉むのも立派な趣味ってことね」

「……うぐっ。それを言われるとね」

「ピアノの大会って何やるの?」

 

 春はピアノに触れたこともないため、大会と言われてもピンとこない。なんとなく課題として出された曲でも弾くのだろうかという程度の認識でしかない。

 

「課題として課される曲を弾くんだよ。ショパン、モーツァルト、ベートーヴェン。後はメンデルスゾーンとか」

「面白い?」

「趣味でやれてる内は。大体のことはそうだと思うよ。趣味だからで妥協できなくなった瞬間から僕らは本気になる」

「大変そうだね」

 

 聞いているだけで精神がすり減ってしまいそうだ。

 

「でも、大会とかってのは勝って認められて自分の顕示欲を満たすには持ってこいだよ。それを味わうから、それを味わいたいから辞められないんだよ」

「ジャンキーみたいな言い方するんだ」

 

 勝利に焦がれて、理想を求めて。自分が称賛される未来が欲しい。

 

「……ははっ。聞いてみる?」

「今日は遠慮しとく。明日とかなら大丈夫だけど……」

 

 妥協案を提案して見せれば彼はツラツラと語り始めた。

 

内海うつみ清隆きよたかの弾いた『月の光』。……動画に載ってるから聞いてみたら良いよ。個人的には天才だと思ってる」

「観ろって言ってる?」

 

 まさか。

 彼は戯けて笑う。

 

「曲の難易度としては高いとは言えないけど、繊細さが求められるんだ」

「ごめん、音楽のことは全然分かんないから」

 

 弾けるだけでも凄いのだから。

 それが一般人が抱くピアニストへの想い。アマチュアもプロも世間がどう呼ぶかで変わる程度の認識でしかない。

 きっと何だってこんな物だ。

 

「そういえば何で海に飛び込もうとしたんだい?」

「聞くけど……海に飛び込むのに理由がいる?」

「……分からないけど」

「私にも分かんないわ。ただ、暑いなーって思ってね」

「何で制服で……」

「では私にあの場で下着姿になれと?」

「そんな事はないけど!」

 

 何で海に入りたかったのかと尋ねられても満足をする答えが出せそうにない、彼女自身。

 

「……海ってさ、静かなんだよ。鼓動がよく聞こえる」

 

 まるで母の胎の中にいる様に。

 自分の音を感じる。

 

「目を閉じれば本当に誰もいない様な気になる」

「一人が好きなの?」

「あんまり……」

 

 苦笑い。

 

「でも、孤独じゃないからさ。一人だけど、独りじゃない。海は命だよ」

「哲学的だね、随分と」

「七割適当だから」

「ちょっと!?」

「難しいこと考えなくて良いじゃん。単純な方が綺麗だよ、数式は。私、文系だけど」

 

 じゃあね。

 小さく手を振って彼女は少年と別れた。

 

「性犯罪者は取り下げてあげるか」

 

 思ったよりは悪い男ではないのかもしれないと玄関に向かって歩き、外に出る。

 

「にしても、思ったより軽トラって恥ずかしい……」

 

 迎えにきた夏の乗るトラックを見て、春は少しばかり体温が上がるのを感じた。

 

 

 

 

 

 

「なあ、春」

「なに?」

「女子高生って存外レベル高いのな」

「……セクハラ?」

「お前じゃねぇ」

「じゃあロリコン」

「……高校生もロリに入んの?」

 

 ガコガコと先ほどからギアを変える為に動かしている左手の指先が、春の太ももに当たりいい加減に少しだけ腹が立つ。

 くすぐったさがあるから。

 

「ねえ、さっきから指当たってんだけど」

「免許取り立てなんだよ……。事故も違反もしてねぇから我慢してくれ」

「……ねえ、兄ちゃんてさ」

「今、運転してっから。信号で止まった時にしてくれ」

「…………」

 

 五分ほど待つと赤信号に捕まる。

 

「で、何だ?」

「何だっけ……?」

「知らねーよ!?」

「んー……あ、そだ。兄ちゃんてさ、ピアノとかの事知ってる?」

「いや、知らんけど」

「使えな……」

「はあ。どうしたんだよ、いきなりピアノなんて。お前が音楽とか情緒あふれる様な趣味あったか?」

 

 兄妹としての長い付き合いから春の生態はおおよそ理解している。夏から見た春は割とアクティブな少女で男勝りな面も見られる。

 

「もしかして女子力とか気にしてる? なら止めとけ止めとけ」

「そんなんじゃない。て言うか喧嘩売ってる? 買うよ? 兄ちゃん、一昨日酒飲んでスッポッポンになってたからそれSNSに流すよ?」

「俺の不戦敗が確定してんだが」

 

 どこか気怠げな兄妹の会話。

 

「……昨日さー、海に飛び込もうとしたら止められて。止めた奴がピアノやってんだって」

「それで?」

「ちょっと興味湧いた」

「やんの?」

「嘘でしょ。そう言うのって子供の時からやってましたーって奴の独壇場だよ」

「……でも、やってみりゃちょっと面白いかもな」

「うん」

 

 だとしてもコンクール間近なのだから、迷惑を掛けるつもりもない。親にピアノを習いたいなどと言うのも今更だ。

 

「まあ、高校でロックに痺れて青春を破壊した馬鹿もいるらしいし」

「うっ……俺の黒歴史を掘り返すな!」

「ギター全然上手くなんないし、集まり悪くて高校で何にもやんなかったんでしょ?」

「そりゃ、な」

「話聞いて笑ってた」

「皆んながみんなバンドでうまく行くと思うなよ!」

「上手くいかなかった例が目の前にいるからね」

 

 居心地が悪い様に視線を戻して運転に集中する。また、話しかけるなというオーラをだして無言が何分か。

 再び信号に捕まる。

 

「なあ、春」

「何、またセクハラ?」

「あれ、ループしてると思ってる?」

「違うんだ」

「……そのピアノの奴、好きなのか?」

「まさか。昨日初めて知り合ったんだよ」

「……そうか」

「どうしたの?」

「俺にも出会いねーかなって」

「食パン咥えて走れば?」

「古いわ!」

 

 ファンタジーすぎるラブコメの定番的な出会いをしなければならないとはどんな状況か。

 

「ほら、変わったよ」

「ん、おお」

 

 ブロロロロと音を上げて軽トラは前に進む。

 

 

 

 

「ほら、ここだぞ」

 

 軽トラが止められたのは狭い駐車場。恐る恐る扉を開けば割合綺麗な店舗の暖簾が入り口に見えた。

 

「いらっしゃい」

 

 随分と、ラーメン屋にしては静かな方だと思う。もっと活気にあふれている様な物だと思っていたのだが。

 

「好きな席にどうぞ」

 

 案内は特にない様だ。

 

「初めて来たなぁ……」

「俺の友達の親の店なんだ」

「兄ちゃんの友達? 危ない人じゃない?」

「友達っつっても先輩なんだけどさ。内海って言うんだけど」

「内海?」

 

 聞き覚えがある様な。

 記憶の中を探ろうとした瞬間に店員が尋ねてくる。

 

「メニュー決まりましたか?」

「あ、こだわり味噌ラーメン二つ、味玉入りで」

 

 注文を終えて、話を再び。

 

「……内海さんな、大学で知り合ったんだけどピアノやってるらしいんだ」

「あっ……。天才」

「内海さんが天才?」

「内海、清隆であってる?」

「そうだが……」

「うん。天才なんだって、その人」

「あの人が? 全然信じらんねぇ……」

「どんな人なんだよ……」

「めっちゃ繊細」

 

 春がグラスコップに水を注ぐと夏もコップを手にズイと寄せてくる。自分の分も水を汲めという事なのだろう。

 

「精神的に結構繊細でさ、なんてゆーか……」

 

「面倒臭い? かな」

 

「……あの、内海さん」

「ああ、知ってる顔が見えたから、つい。ああ、こう言う性格だから面倒臭いと思われるのかな?」

「あの、内海さんは頼りになる先輩ですよ?」

「本当……な訳ないか。また、後輩に無理やり言わせちゃったなぁ」

 

 兄がタジタジになっている。正面から見せられている春としては確かにこれは面倒だと納得した。

 ゆっくりと目を伏せて、スマートフォンの電源を入れる。

 

「……おい、春。何スマホ弄ってんだ」

「これ」

「内海さんの?」

「聞いてみる?」

「ここでか?」

 

 チラリと夏が後方に視線を向けると金髪の幸の薄そうな青年、内海が立っている。

 

「さっき勧められたのがあってさ……」

「『月の光』……」

「知ってるの?」

 

 意外だ。

 まさか夏が音楽に、クラシックにも精通しているとは。

 

「いや、読んだだけ」

「期待させんなよ」

 

 ゲシ、と春は夏の脛を適当な強さで蹴る。

 

「『月の光』って聞こえたんだけど!」

「内海さん」

「オレにも聞かせてよ」

「良いですけど、内海さんのっすよ?」

「ん? それがどうしたの?」

「大丈夫なんすか?」

「ピアノには自信あるから。ただ誹謗中傷は止めてね? 死ぬ自信あるから」

 

 普通に繊細だった。

 ただ、ピアノに対する自信、これだけは圧倒的だ。

 動画の再生ボタンを押すと、曲が始まる。大凡五分ほどの繊細な演奏。

 

「……すげぇ」

「……うん」

 

 初心者でも分かるほどの技術。

 感嘆の声が漏れた。

 

「ふふふ。褒めてもらえると嬉しいね。夏君に褒めてもらえたあたり死んでも良いかも」

「死なないでくださいね?」

「冗談だよ。オレだってまだピアノ弾いてたいし……」

 

 春は確信する。

 この人は天才なのだと。

 趣味、好きなもの。この範囲のまま、内海清隆という男は努力を続ける。楽しい事だと思いながら努力を続けられる人はほんの一握り。

 この男に、あの少年は憧れたのだ。

 

「はい、ラーメンお待ちどう」

 

 テーブルの上にラーメンが置かれた。

 

 

 

 

「ねえ、内海清隆の『月の光』聞いた?」

「うん。凄かった」

「……だよねぇ」

 

 ありきたりな言葉。

 賞賛としては陳腐な表現だ。だが、音楽に於いての才能も文学的な才能においても恵まれたというわけではない彼女のたった一言には多くの称賛が含まれていた。

 

「と言うわけで、僕の『月の光』を聞いてくれないかな?」

「何がと言うわけでかは知らないけど……。コンクールの練習は良いの?」

「五分だけだよ」

 

 音楽室にピアノの音が響く。

 昨日と同じ曲、昨日と違う表現。だからこそ比較は容易だ。

 音の強弱の繊細さに於いて昨日聞いたあれには及ばない。

 それでも、彼の弾くこの曲はきっと上手いものだ。丁寧な弾き方だ。分からないなりに評価をつける。

 

「凄い、凄いじゃん!」

 

 パチパチと拍手を送る。

 文句などつけられない。昨日のあれはスマートフォンで聞いた音声。生のピアノが直に耳に届ける音ではない。だと言うのに、あれほどの音。

 比較して仕舞えば、確かに内海清隆の演奏に及ばない。

 だが比較を抜けば。

 

「本当は、どうか分かってるだろ?」

「…………」

「僕も昨日また聞いたけど」

「……そっか」

 

 春は頑張れ、などとは言わない。

 負けるな、とも言わない。

 辞めなよとも、十分頑張ったから後はもう良いでしょとも。

 どんな言葉をかけても、彼の努力には見合わない様な気がした。

 無責任な気がして、何も言えなかった。

 

「ははっ、敵わないなぁ」

 

 少年の目はまだ死んでいない、澄み渡る様な、それでいて深い綺麗な青色が輝いて見えたのだ。

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Blue: Diver / Gazer ヘイ @Hei767

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