親子/兄妹

新居/距離


 普通、子供は親のことをどれくらい知っているものなのだろう。

 誕生日は知っているだろうか。

 血液型は知っているだろうか。

 好きな食べ物や、趣味は知っているだろうか。

 知ってて当然と思う人もいるかもしれない。もちろん、知らないという人もいるだろう。

 少なくとも俺は母さんのことを全然知らなかった。

 初恋の相手だというにも関わらず。いや、初恋の相手だからこそ、俺は母さんのことを知りたくなかったのだ。

 

 

 ☆

 

 

 小学五年生の夏。

 父と遥奈さんは籍を入れた。俺の了承を取ってからの動きは早く着々と新生活の準備を進めていく。

 結婚するのにも色々と苦労があるようで、父は仕事から帰ってからもボールペンと印鑑を持って書類と向き合うようになった。

 家事を手伝いながら、友達と遊んだり、一人でゲームしたりの夏休み。

 友達と遊んでいるときはまだいいが、一人でいる間は遥奈さんのことで頭がいっぱいだった。

 ころころと表情を変え、感情を目一杯表現する遥奈さん。そんな彼女の姿が頭から離れない。

 初めて知った感情に戸惑う毎日。俺は完全に浮ついていたと思う。

 

 「引っ越しするぞ!」

 

 唐突にそう言われたのは夏休みも中盤に差し掛かった頃だった。

 夕食を終えお茶を飲みながら一息ついていたのだが、その突然の宣言にお茶を吹きそうになる。

 

 「突然だね」

 「遥奈とも一緒に住むことになるしなあ。このマンションだと手狭になるだろ?」

 

 父の口から遥奈という名前が出ると少し嫌な気分になる。

 これは多分嫉妬だ。好きな人の名前を軽々しく呼び捨てにされるのを嫌っているのだ。

 夫婦が名前を呼び合うなんて当たり前のこと。

 父には幸せになってほしいし二人の邪魔をする気は無い。なのに、たかが名前を呼ぶ程度のことでもやもやする自分がいる。

 自身がこんなにも嫉妬深く独占欲が強い人間だったと知り、そんな自分が醜く情けない存在に思えた。

 

 「もしかして嫌だったか?」

 「え?」

 「あ、いや……なんだか気が進まないように見えたからな。最近そわそわしてるし何か我慢してないか?」

 

 初めての恋に浮ついているのがそわそわしてる風に見えたのだろう。自分では平静を装って過ごしているはずだったのだが、父には様子がおかしいように感じたらしい。

 仮面を被って取り繕うのは得意だと思っていたが、どうやら恋という感情はその得意を押し潰してしまうほどに強大だったようだ。

 気が進まないように見えるというのも当たっている。

 俺は父と過ごすこのマンションが好きなのだ。突然引っ越しを告げられても気が進まないのは当然だろう。

 しかし、遥奈さんとも一緒に住むには引っ越したほうが良いとも分かっている。

 複雑な気持ちだった。

 

 「我慢はしてないよ。引っ越しはいいんだけど学校は? 転校するの?」

 「転校はしない! 小学校は遠くなるけど、中学校はここより近いぞ」

 

 学校の近さなんてどうでもいい、思い出が詰まったこの部屋を離れたくない。

 なんて言えるわけもなく。

 

 「いつ頃引っ越すの?」

 「大体二ヶ月くらい先だな。学校始まったら時間も無くなるし、夏休みの間に準備は進めておかないと」

 「わかった」

 

 席を立ち、自分の部屋に戻る。ベッドに飛び込んでうつ伏せになり枕に顔を埋めた。

 

 「嫌だな……」

 

 ここで過ごした思い出がどんどん甦り、涙が溢れてくる。

 それを必死に堪えながら身体を丸め目を閉じる。静かな部屋の中、聞き慣れたクーラーの音だけが耳に届く。

 今はその音すらも愛おしく感じ、胸が苦しくなったのでリモコンを手に取り停止ボタンを押した。

 

 

 引っ越しが決まってから、父が持ってきたダンボールを見て本当に引っ越すんだと感傷に浸ったのは束の間、荷物の整理に追われる日々が始まる。

 追われるといっても小学生の私物など大した量では無かったので整理自体は簡単に済んだが、同友達からの誘いに乗って遊びに行ったり、夏休みの宿題をやったりと中々忙しい夏休みだった。

 土日は遥奈さんも家に来る。その度に落ち着かない心臓と戦い、平静を装った。

 

 あっという間に時は過ぎ、いよいよ引っ越しも間近に迫る。

 ダンボールが増えていくたび生活感が薄れていく。

 取り外された壁掛け時計。空っぽの戸棚。何も置かれていないキッチン。

 父と過ごした部屋が、空虚な空間に変わっていった。

 

 「もうすぐだなあ……」

 

 部屋を見渡して父が呟く。その言葉にはどんな感情が乗っているのだろう。

 特に反応しないでいると、父が大きな右手を俺の頭に乗せた。

 小学五年生にもなってこうやって頭を撫でられるのは気恥ずかしさがあるが、今はされるがままにしておく。

 この部屋でこうして父と触れ合うことはもう無い。

 父は何を思って俺を撫でているのだろうか。聞いても答えは返って来ない気がして、俺は無言を貫いた。

 

 引越し先はなんと一軒家だった。

 洋風で二階建てのごく普通の家。今日からここが大友家の帰る場所になる。

 父の車に乗せれるだけ乗せてきたダンボールを家の中に運び込む。

 マンションを出るのは億劫だったが、こうして新居に足を踏み入れると少しだけこれからが楽しみになった。

 少し遅れて到着した引越し業者の作業が始まって、使い慣れた家具が新居にどんどん設置される。

 しばらくすると、家の外に軽トラックの業者が止まった。同時にタクシーも来て、後部座席から最近少し見慣れてきた女性が姿を表す。

 

 「あ! 秋護くん!」

 

 大友遥奈。高月という名字は既に変わり、血の繋がりは無いが俺の母親となった。

 もう何度も会っているのだが、俺は遥奈さんとの距離感を測りかねている。

 父の奥さん。

 俺の母親。

 そして、俺の好きな人でもある。

 こんな複雑な相手にどう接すればいいのだろうか。正解を出すには小学生の俺にはハードルが高すぎた。

 無言で軽く会釈すると、遥奈さんは困ったように微笑む。

 どう接すればいいのか分からないのは遥奈さんも一緒だろう。なにせ俺は血の繋がらない息子なのだ。

 遥奈さんは父が好きで結婚した。卑屈かもしれないが俺なんておまけのようなものだろう。

 

 「これからよろしくね!」

 「こ、こちらこそ……よろしくお願いします」

 

 軽トラックで来た業者が遥奈さんに声をかけて荷物を下ろす。

 遥奈さんの家から持ってきた荷物だろうか、荷物の量はそこまで多くない。

 

 「取り敢えずリビングに置いちゃって下さい!」

 

 遥奈さんがそう伝えると、業者の人が威勢のいい返事をしてテキパキと運び始めた。

 

 「今日からここでの生活が始まるんだねえ……今更実感が湧いてきたよ」

 

 俺の隣に並んだ遥奈さんがぽつりと呟いた。返事を欲している呟きか、ただの独り言か判別がつかず「……ですね」と気の抜けた相槌をうつ。

 

 「秋護くん、秋くん、秋ちゃん……やっぱ秋護かなあ。どれがいい?」

 「え?」

 「呼び方だよ! 家族だし、秋護くんって呼ぶのはなんか違うかなって思って」

 

 言いたいことは分かるが、本人に聞くことなのだろうか。しかもすこぶる答え難い質問だ。

 呼び捨てが一番家族っぽくはあるが、遥奈さんから秋くんや秋ちゃんとあだ名で呼んでほしくもある。

 友達の家は家族でもあだ名で呼んでいたし、子供をあだ名で呼ぶこと自体は変わったことでは無いのだろう。

 ただここで『秋くんと呼んでほしい』なんて恥ずかしくて言えない。

 

 「えっと、おまかせします」

 

 結果、俺は一番困るであろう回答をしてしまった。案の定、遥奈さんは「どうしよう!」と言って頭を悩ませている。

 だがこれに関してはあんな答え難い質問をしてくる遥奈さんも悪いと思う。

 

 「うーん、どうしよう……あっ、秋護くんも私のことは好きに呼んでくれて良いからね! お母さんでもママでもマミーでもマムでもマザーでもなんでもいいから!」

 「わかりました」

 「敬語もいらないからね!」

 「頑張ります」

 「……あはは、頑張らないと敬語になっちゃうのかー。そっか……よし! うん、私も頑張るよ」

 「何を頑張るんですか?」

 「なーいしょ!」

 

 そう言って人差し指を唇に当てる遥奈さん。それから少し雑談をしていると家の中から声がかかった。

 

 「遥奈ー! 手伝ってくれー!」

 「はーい!」

 

 父に返事して嬉しそうに家の中に入っていく後ろ姿を見て、少し胸が苦しくなった。

 

  

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