2章 晴れ、時々女難の相

2-1 小春日和の大草原

 太陽が中天にかかる時刻。雲がぽつぽつと点在する澄み渡った青空の下に広がる大草原。グランドリス大陸最西端の町ポートアレアから大陸の中央山脈まで広がるオルト大平原は、この春に誕生した新緑たちで埋め尽くされ、少し遠くに見える山の麓まで絨毯のように続いている。時々、赤茶色や白と黒のぶち柄の牛に、こげ茶色や濡鴉のような黒色の馬、畑用の水や小麦を引くために建てられている風車小屋、これから種をまくために耕された畑、作業する人々などがトンボ玉のような色とりどりの小粒宝石に見える。

 そんな若草色の絨毯の中を、一台の荷馬車が石畳を蹴る軽快な音を鳴らしながら走っていた。馬車の荷台は天幕が張られていない開放型であり、雨よけの布を被せられた荷物が高く積みあがっている。

 荷馬車を引くのは、走行速度よりも牽引する力を重視して育てられた、ずんぐりむっくりの大柄な茶毛の馬。騎馬や競走馬よりも速度は落ちるが、持ち前の筋力で自身の体重と同じ量の荷物も運ぶ能力がある。速度が落ちるといっても、荷馬車を引いている状態で速度は歩行者の三倍に達するために、大量の物資や人員の運搬には重宝されている。

 そんな運搬に特化した馬車に、これまた色とりどりの男女が五人乗っている。一人は馬を操るふくよかな中年の男。一人はその隣で座高の倍以上の長さがある棒のようなものを抱えながら、輝く金髪をなびかせる青年。高く積み上げられた荷物の上には、南天の実に似た赤髪の少女と、亜麻色の髪の少女が背中合わせに座る。また、焦げ茶色の髪に銀色に輝く鎧を着た青年が、荷台の後方の隙間に座っている。

「のどかだねぇ~」

「ですねぇ~。日差しもちょうどよくって、ポカポカします」

「やばい、眠くなってきた」

 程よい陽光と春風はあまりにも心地よく、揺れる南天色の髪が引っ張られるようにゴロンとその場に寝そべった。港町の潮風もよかったが、大草原に流れる若草のにおいが混じった風も、体の隅々を洗い流すようだ。

「ああ! カキョウちゃん、ダメです。はしたないです」

「残念。ルカと違って、アタシのは股が縫い込んであるやつだから、へーきへーき。それにこんな人気のない大草原だよ? 誰も見てないって。ルカも股に挟めば大丈夫だって」

「もう………………あ……、気持ちいい」

 背中越しに相槌を打っていた亜麻色の長髪の少女こと修道士(クレリック)のルカはこちらを窘(たしな)めつつも、結局はワンピースと呼ばれる筒状の衣類を股に挟み込んで寝転がった。結果は声の通り、トロンっと気持ちよさそうにしている。

 さて、自分たち女子組は現在、荷馬車の荷物の上で晴天に向かってはしたなく、仰向けの大の字になって寝転がっている。荷馬車を引く動物の足音と車輪が回る音に加えて、背中を伝ってくる移動の振動が眠気を加速させる。

 元々、ルカとは馬車の側面を警戒するために背中合わせの状態で座っており、寝転がった際には頭の向きが互い違いになっている。そのために、寝転がってきたルカの亜麻色の髪が視界を占領した。

(綺麗だな……。ちゃんと女の子の髪してる。比べてアタシのは……)

 一応の花嫁修業をしていたとはいえ、基本的には跡取りとして育てられた節が強く、女であることよりも剣士を優先された。結果は体中に傷跡が残り、髪や肌の手入れについてはほとんど教えられていない。ルカの髪が風に遊ばれ、艶やかな照りを見るたびに、自分のキシキシしている髪をつまんでは、ため息が出た。

「おいおい、俺は眼福だけど、存在を忘れられちゃ困るんだよね」

「な、なに言ってるの! 見えてないでしょ!?」

 慌てて体を起こしてみれば、操縦席で頭の後ろで手を組み、足は投げ出すように膝組して、のんびりとした姿勢をする金髪碧眼長身の、一見すると好物件ともいえる牙獣族(ガルムス)の青年こと、トールがニヤついた表情でこちらを見上げている。いくら長身のトールとは言え、振り向いても積み荷の関係で視界が遮らている。加えて中身が見えるのは荷馬車の側面からなので、身を乗り出さない限りは見えない。

「ま、そうなんだけどね。ともかく、休憩もほどほどにして、体起こしてくれよ」

「分かってるよ、今、起きるから」

 本当は寝転がってはいけないことは理解している。自分たちはこの荷馬車の持ち主及び積み荷を護衛するという“仕事”として、荷馬車に乗せてもらっている状態だ。

 自分たちの旅の目的は、聖サクリス教の修道士であるルカの旅に同行し、護衛するというもの。しかし、いくら時間の制限がないとはいえ、全行程を徒歩となると途方もない時間がかかってしまう。

 そこでトールの案として、荷馬車を扱う行商に相乗りさせてもらう代わりに、護衛をするという方法だった。これならば徒歩を避けることができ、また懐も温められる。その代わり、ちゃんと護衛らしく周囲には目を光らせないといけないために、寝転がることはご法度なのだ。

「まぁまぁ、みなさんもゆっくりしててください。トール坊ちゃんも一眠りしてていいんですよ?」

「ちょっと、おっちゃんがそれ言っちゃ、俺形無しじゃんか」

 トールのことを坊ちゃんと呼んだ人物。彼の隣に座り、手綱を引く馬車の持ち主にして今回の依頼人である。自分と同じぐらいの小柄だが、少々太り気味のまんまるとした中年男性であり、福福ぷっくりとした頬をプニプニと突っつきたくなる。名前はタブリス・ペルシアムという、外国の布や服装を取り扱う商人。ポートアレアで仕入れた他国の衣類や絨毯、反物、生地など布製品をサイペリア国中の街で売り歩いている。トールとは何度も相乗りと護衛をしあう間柄であり、知人の域を越えてお得意様状態である。

 今回はコウエン国及びティタニス国からの定期船が運航されるとの情報を聞きつけて、ポートアレアに商品の買い付けに来ていたとのことで、その帰途の一部を護衛することとなった。

 さて、自分とルカは体を起こすと、視線を改めて草原のほうに向けた。見渡せばとにかく草だらけで異国の風景ながらも、どこか懐かしい感じがする。

「しっかし、この草原って本当に広いね。故郷の夏を思い出すよ」

「故郷……コウエン国の夏、ですか?」

「そそ。夏になるとね、春に田植えした稲がこの草原と同じぐらいの長さまで成長して、地平線いっぱい緑一色になるの」

 コウエン国では麦ではなく米が主食品であるため、普通の畑以外にも柔らかめの土壌に水を張った水田と呼ばれる特殊な農地が多く、実に国土の四分の一が水田となってる。

 今、目の前に広がっている草原は、集落単位での作出を行っているようで、畑や緑地の区画分けが地形に沿ったものとなっているために、どの畑も不規則な表現しがたい形となっている。

 代わってコウエンの水田は、個人に対する土地の所有権という意識が強いために、個々の水田は畦道(あぜみち)と呼ばれる少し高上げされた道によって、碁盤の目のように一定の長さと広さで区画分けがされている。

 しかし、そんな区画分けも夏が深まれば、稲穂の背丈も膝上まで伸びてしまい、畦道は緑の中に消えてしまう。土地や国の性質によって形式自体は違うものの、結局は似た風景へ変わってしまうのだ。

「秋には黄色に変わった稲穂も、太陽の光を受けてあたり一面が金色になるの。このあたりも麦畑みたいだから、金色の一面が見られるかもね」

「銀世界にかけて、金世界って感じですな」

「タブリスさん、うまいね!」

「ははは、おだてても何も出ませんよ」

 こうやって互いに軽い口を叩けてはいるが、商人のタブリスとの出会いは二時間前とごく短時間だ。相手も商人というだけはあって言葉の拾い上げや選び方、加えて頭の回転が良く、それこそ商売上手な人なのだろう。超長期任務となるルカと違い、数日で別れてしまう間柄だからこそ、これぐらいの軽い押収が心地よく楽しい。

「金世界か……見てみたいものだ」

 ふと馬車の後方から声がした。揺れる荷馬車の上をゆっくりと這いながら、声のした後ろ側から見下ろす。

 高く積み上げられた荷台の後ろには、護衛人を乗せるためにと、成人男性一人分が収まるほどの空間が空けられており、そこに声の主は収まっていた。

 黒檀に近い焦げ茶色の短髪が風に舞う。石を踏んだ馬車が揺れるたびに光源が変わるほど、きれいに磨かれた銀色の軽鎧を纏う青年。体格が大きいために、空けられていた空間に入ったときは、窮屈そうに見えたものだ。

「ダインは、見たことないの?」

 声をかけると、勢いよくこちらを見上げた。その顔は、先の独り言を聞かれて驚いたような雰囲気だ。

「……ティタニスは市街地など一部を除いては、ほとんどが森だからな」

 だが、驚きの表情はすぐに解けていき、彼の基本である“真顔より少し緩んだ、ゆったりとした様子の無表情”に切り替わった。

 ほんの一瞬とも、そこ数秒ともいえる短い時間だったが、彼の群青とも言うべき深い青の瞳に見つめられたときは、水底へ吸い込まれそうになるほど静かで安らかな気持ちになった。

 コウエンでは種族や地質、また炎のマナを多く摂取する関係から、髪色や瞳の色が赤系統になりがちであり、ダインの群青色やトールの濃い翡翠色、ルカの宝石のような紫といった寒色系の色は、いつ見ても新鮮であり、不思議なものである。

「そっかー……あ! 確かオバケ樫や鬼ブナばっかりなんだっけ?」

「お……おば? おに?」

「ああ、えっと……、そっちではジャイアントオークとギガントビーチだっけ?」

 まだ出会って数日ではあるが、必要以上の会話はあまり発しない様子であることがわかり、そんな彼が自発的に言葉を発したというだけでも、どこか嬉しかった。そのために、彼から言葉を引き出したくなり、ついつい畳みかけるようにしゃべりかけた。

 ティタニス国は世界でも有数の木材産出国家であり、その要因は国土の七割を森林地帯が占めていると同時に、住んでいる巨人族(タイタニア)と同じように、太さは一m、高さは二十~三十mの巨大な木々が立ち並ぶという。

 巨大化の原因は、地のマナと高濃度の栄養を豊富に含んだ土にあると言われている。世界からマナが一時的に消え去った“無彩色の世界”が起きる以前は、ティタニス国の森の中に地属性の精霊界と直接つながる出入口があり、精霊界から直接高濃度のマナを木々や土地が直接受け取っていたといわれている。

 無彩色の世界後は、地属性精霊界の出入口自体が閉じてしまったものの、大地に浸透したマナの貯蓄が十分残っているために、いまだに木々は巨大化したままであると言われている。

 また、隣国であるコウエン国には、高濃度の炎属性のマナを吹き出し続ける火山“神炎山(シンエンザン)”が存在している。地続きの土地であるために、ティタニス国にも鉱物由来の豊富な栄養素の恩恵に預かっている。

 これらの土壌的影響は木々だけにとどまらず、ティタニス国に自生している動植物や人間にも反映され、すべてが巨大化したといわれている。

 もっとも、無彩色の世界後の現代においては、巨大化現象が起きるかどうかは、血族内に巨大化生物の血が流れているなど遺伝的要素が絡み、出生時にはほぼ確定しているようである。したがって、巨大化していない種族が巨大生物やティタニス産の作物を食べても、巨大化現象が起きないことも証明されている。

「ああ、そういうことか。なるほど……、コウエン国ではオバケガシやオニブナというんだな」

 彼は少し不思議な人だ。言葉の一つ一つを噛みしめるように呟き、ゆっくりと飲み込んでいく。彼は、何かと書面や書物での知識しかないということを強調しており、知識を吸収することを大事にしている節がある。また、落ち着いた大人びた対応を見せるかと思えば、子供っぽく『初めて』のものに対して興味を持ったりと、見た目や年齢に比べてチグハグな部分がある。だからと言って、好奇心の赴くままに好き勝手行動するというわけでもなく、ただ静かに視線を走らせている。

 かくいう自分も外の国は初めてであり、何もかもが見慣れないものばかりであるために、視線が泳ぎまくっている。ティタニス国の環境についても教本で得た知識でしかないために、彼のことに関しては一切他人事ではない。

 似た者同士の親近感を勝手に抱いているが、内に秘めておく分ぐらいなら、少しは許されるだろう。

「話がそれたが、俺は常秋の森ばかりを見てきたから、こう……完全な緑一面というのは初めてで、新鮮だ」

 ティタニス国のもう一つの特徴が、多くの地植えされた木々は豊富な地のマナによって、葉の色が新芽の段階から黄色や赤といった秋の装いで芽吹き、そのまま大きく成長する。つまり、総じて紅葉状態の『常秋』な風景が広がっている。落葉前としての紅葉ではなく、純粋に細胞そのものの色が赤や黄色となっているようであり、春には芽吹き、冬には葉を落とすように、ティタニス国にもしっかりと四季は存在する。一応、緑色の植物は存在するが、多年草など土地に長くいる植物は郷に染まるように、年を重ねるごとに新芽が緑色から黄色へ変化する。

 とはいえ、近くに見える草原、遠くに見える山すべてが若草色に包まれているこの光景が、彼にとっては初めてなのだろう。

「そっかぁ……じゃぁ、秋にここに来よう! その時には、この緑が綺麗な金色になってるから」

 先ほどは内に秘めておくと思っていたのに、自分でも驚くぐらいに、その言葉はとても自然に出てきた。

(でも……ルカを送ったら、お終いなんだよね……)

 いくら二人一緒に傭兵になれたとはいえ、この一団はルカの巡礼に対する護衛のためであり、任務が終わった際には、解散してしまうことだろう。そうなれば、自分はたちは個々の傭兵として扱われ、バラバラになってしまう可能性は大きい。

 まだ始まったばかりの巡礼であり、終わりの見えない旅路だが、さらに次を考えてしまうと、すでにもの悲しさを感じる。

(……っ! バカバカバカ! アタシ何考えてるんだ)

 出会ってまだ一週間とも経っていない彼に、変な感情を抱きすぎだ。

 密航者である自分を庇ってくれたからという部分は大きく、返しきれるか分からない恩があるとはいえ、相手が異性である以上は様々な意味の感情を向けてしまう。特に一般的な恋する乙女の時期であるために、ダインのような歳が近しく、頼もしさをにじませるような相手を意識してもおかしくはない。

「そうだな」

 それはただの相槌としてか、本心なのかはわからないが、彼の小さな同意が胸に響く。

「ラディスの所にも行かなければいけないし、今後が楽しみだな」

 そうだった。自分たちは約束していたのだ。死地を共に抜けた戦友である魚人族(シープル)のラディスが住む故郷、南国のミューバーレン。巡礼の旅からは道が大きく離れているために、わざわざ時間や機会を作らないといけない場所。

 そう、一応の未来は確約されている。それがどれだけ先までなのかはわからないが、今しばらくは彼とともに入れることが、どこか嬉しかった。

「ラディスさん……、無事でしょうか?」

 ルカの言葉と視線の先には、どんどん遠ざかっていくポートアレアの街と大海原。おとといの夜に臨時の定期船が出向し、今日はまだ海の上だろう。

 海原にいる彼を見つめる視線は、想い人の安否を祈るもの。昨日の反応といい、彼女はラディスに対して淡い恋心を抱いているようである。

「ルカちゃん、心配するなって。アイツが乗った船は、ミューバーレンで一番早い船だし、今朝の段階で速報が入ってなかったからな」

「は、はい……」

 いくらトールが言葉をかけたところで、無事な姿を見るまでは心配である。しかし、彼女もまた出発した身である以上は、当面はいかなる方法でも会えないために、強く祈るように遠ざかる海を見つめた。

「……ん? おっちゃん、停めてくれ」

 自分もルカにつられて海を見ていたら、トールが穏やかな雰囲気を切り裂く緊迫と呼んでもいいほどの張りつめた静かな声をこぼした。商人のタブリスも、トールから放たれる緊迫した様子に息を飲みつつ、静かに馬車を停めた。

 自分もルカも後方の海を見ていたために慌てて周囲を見渡すが、のびのびと育った新緑が変わらず並んでいるように見える。その間を縫って、何かが近づいてい来る様子も見えない。

「こっちは何もないよ。どうしたの?」

「……血の匂い、浅い呼吸、怪我人ぽいんだ」

 さすがは牙獣族(ガルムス)の嗅覚と聴覚。新緑の匂いが溢れ、春風によって擦れあう草の音に包まれる草原の中で、何かを感じ取ったらしい。

「よし、カキョウちゃんは抜刀の準備をしつつ、俺についてきて。ダインとルカちゃんは、おっちゃんと馬車を護衛」

 トールは全員に指示を出しつつ、抱えていた棒のようなもの――彼の武器である長斧のバルディッシュを抱えつつ、草むらのほうへ駆け出して行った。指示通りに、自分も愛刀を抱えて、積み荷の上から飛ぶように降りると、急ぎトールの後を追った。

 トールが突き進んでいく草むらは牧草用のものであり、人の手があまり入っていないため、ぼうぼうと伸び切ってる。高さはまだ膝ぐらいまでしかないが、春の勢いといわんばかりに硬質となっている草もあるために、ときおり膝上まである足袋を貫通して、チクチクと肌に刺さる。

(ふふふ……こんなこともあろうかと、トールに軟膏を買ってもらったのだ!)

 それは一昨日のグローバス戦直前。森の中を抜けて小屋に行くまでの獣道。あの時は低木の枝だったために、これよりも鋭く硬く痛かった。切り傷みたいな極小の傷を癒すのに、わざわざルカの力を使わせるのも勿体ないため、昨日の旅支度買い出しで遅効性回復薬として傷軟膏を買ってもらった。

 とはいえ、スラックスと呼ばれる細身の洋袴によって、足が完全防備状態のトールは牧草をもろともせず、ぐんぐん進んでいく。肌に刺さるたびにチリチリと痛み、追いつくのがやっとである。

「いた」

 少し前にいたトールが止まった。追いつき、彼の横に並ぶと、そこには所々が土や血ような赤で汚れてはいるが、太陽光によって細かく輝く純白の塊があった。形は卵型。表面は羽毛のような鳥類の羽で構成されており、まるで巨大な鳥の翼のように見る。

「こりゃ、フェザニスだな……」

「ふぇざ……って、有翼族のことだよね?! アタシ初めて見た」

 有翼族(フェザニス)とは字のごとく、鳥のような翼を持ち、大空を自由に飛ぶことができる種族である。今いるグランドリス大陸の北側にある山岳地帯に住むといわれているが、コウエン国とは各大陸の中央にある央海を隔てた反対側にある土地であるためにか交易が一切なく、完全に初めて目にする種族である。

 トールが恐る恐る近づき、かき分けるようにゆっくりと羽毛を開くと、中には確かにヒトがいた。巨大な純白の翼を下敷きに、至る所があられもない姿と表現していいほど、ボロボロに破れた黒い女性用礼装を纏った女性。髪は瑠璃のような透明度のある深めの青で、自分と同じく肩口で切り揃えられている。背丈は自分やルカよりも高く、ダインよりは小さいぐらいと、女性としては平均より長身気味。顔や胸元は受け身のように腕で守られていて、確認することができない。腕、太ももなど素肌といえる部分は傷だらけであり、靴は履いておらず素足。数メートルにわたって地面がえぐれていることから、滑空しつつも墜落したように見える。

「……悪いけど、調べてくれる?」

 トールの指示は、性別的な配慮ということだろう。了解の言葉を返し、なるべく翼を踏まないように女性の本体へ近づく。受け身で丸まっている状態では、顔などの傷が確認できないために、ゆっくりと解くように女性を仰向けにした。

「ううぉ……」

 トールのごくりと生唾を飲み込む音がした。でも分かる。これは同性の自分でもため息が出てしまう。その理由は何より目を引き、目のやり場に困るほどの豊満な胸であった。薄い布地の上、落下で破けたり着崩れとなっているため、今にも零れ落ちそうにしている。

「ねぇ、トール……これ……」

 だが、そんな桃色な雰囲気を吹き飛ばすように、女性の手首にまるで荒縄で縛られていたような鬱血を発見してしまった。足首にも同じような痕がある。

「……そうか、逃げてきたんだな」

「逃げて?」

「これだけの美人さんできらめく純白の翼。しかも、異質な縄の痕。人攫いにでもあったんじゃないかとね。ほら、犯罪者とかなら、もう少し違った傷も多いだろ?」

 この女性の外傷は、手足首の縄の痕以外では、落下時についたような新しい傷だけである。犯罪者の脱走なら、逃げようとするときの抵抗や捕まった際の詰問でできた傷など、もう少し古めで数多い傷跡があっても不思議ではない。

「確かにそうだよね。じゃぁ、助けよう!」

「そうだな。じゃぁ、これ持ってて」

 そういってトールは、持っていたバルディッシュをこちらに預けてきた。

「はいはー、って、おっも!!!」

 二つ返事で簡単に受け取ったものの、自分の背丈なら二倍近くの長さを誇り、刃渡りも六十cm、厚みは二cmにもなる巨大な刃を持つ武器なだけあり、頭より高い位置にある重心と全体的な重さによって、一瞬だけよろめいてしまった。体感でこの武器の重さは十kgほど。これを常日頃から振り回していると思えば、いくら彼が筋力に優れた牙獣族(ガルムス)であっても、実戦を想定した筋力の作り方をしていないと、魔力による補強があったとしても、肩が脱臼してしまう。

(すごいなー……。身長も高くって、体も結構絞ってるのに、こんな武器振り回して……その上、魔力も豊富だもんなー)

 自分はいくら修行によって魔力を使わないで戦闘をする術(すべ)を持っているとはいえ、やはり魔力が在るのと無いのでは雲泥の差が生じる。特に、肉体への負担や継続力、攻撃範囲の拡張性を踏まえても在ったほうがいい断然良いのだ。

 故に、彼の戦い方や立ち回りは、自分には到達できない一種の憧れが生まれている。

 そんなことを考えている間にもトールはジャケットと呼ぶ袖なしの外套の裏地から、一本の治癒ポーションを取り出し、有翼族の女性に振りかけた。ポーションの液体を浴びた傷口は、ちらちらと火花のような淡い乳白色の光に包まれると、傷口が塞がりつつあった。

「よし、あとはルカちゃんに治療してもらわないとな」

 トールが使ったポーションはあくまでも止血や表面的な傷を塞ぐための一時的な治療薬でしかないために、内部までしっかりと治療するためには、ルカの治癒魔法が必要となってくる。

「俺が背負うから、それまで手伝って。あとは先に戻って、事情を説明しつつ、この人を包めるものがないか聞いてくれ」

「わ、分かった!」

 まずは女性を回転させて横向きに寝かせ、体の下敷きになった翼を解放する。幸い変な方向に折れているとかはなさそうであり、上半身を起こしている間にトールが女性の前にしゃがみ込むと、彼の背中に女性の体を預けて、若干乱暴ではあるが肩にかかった腕を引っ張るように背負った。

 あとは指示通り、自分はトールの重いバルディッシュを抱えつつ、先に馬車へと戻る。皆に事情を説明すれば、商人のタブリスは「ふむふむ」と考え込みながら、馬車の後方へと回った。

「えっと、ルカはその女性の治療をお願い!」

「は、はい!」

「ダインはトールが運んで来たら、補助してあげて。その人、アタシやルカより背が高いから、ダインじゃないとできない」

「そうか。わかった」

 預かった指示を馬車で待っていた二人にも伝えていると、時を見計らったように女性を背負ったトールが戻ってきた。

「トールぼっちゃん、これはいかがですかな?」

 時を同じくして、商人のタブリスが黒くて大きな布の塊を持ってきた。広げてみればダインのような大柄な男性が羽織るための外套であった。

「十分十分。カキョウちゃんはその布をきれいに広げて。ダインは降ろすのを手伝ってくれ。そのあと、ルカちゃんが治療開始」

 テキパキと出される指示に、全員が流れるように動く。自分と商人のタブリスが布を広げ、ダインが転がらないように支えながら、女性は布の上にやさしく降ろされた。

(すごい……これも、長年の経験なのかな……)

 トールの指示は分かりやすく、かつ適材適所で、しかも瞬時に発せられる。傭兵としての先輩像がここにある。自分もいずれはこんな感じで、テキパキとかっこよく振舞えるようになるだろうかと、感心するばかりである。

 ルカの治癒魔法が始まると、女性の表面だけ治療された擦り傷や縛り跡はみるみると無くなり、この女性が持つ本来のきめ細やかな美しく、血色の良い肌となった。

 あとは、女性を寝かせるために広げた布を、赤ちゃんのお包み(おくるみ)のように綺麗に包むとダインが上半身を、トールが下半身を持ち上げ、ダインが乗っていた荷台の後ろの隙間に女性を収納した。どうしても翼の分の体積が大きいようであり、お包み状態だと男性二人がかりでないと、持ち上げられないようだ。

「さてっと……この人が起きるまで、俺たちも進もうか」

 女性に負荷がかからないように寝かせると、トールは全員に馬車に乗るように伝えた。

「え、ポートアレアまで戻らないの?」

 自分はてっきり、ここから一度引き返してポートアレアに戻り、女性をネストや保安局へ預けるものだと思っていた。

「それは考えたんだけど、俺たちにも予定はあるしね。あと本人が起きないことには意思確認とかできないからね。彼女には悪いけど、先に進ませてもらう。必要であれば、モールの支部に保護してもらうさ」

 トールの言葉は納得するしかない。まず出発してから三時間は経過しており、ポートアレアに戻って再出発すれば、この地点に到着した段階で夕方になってしまい、丸一日が無駄になってしまう。

 また、女性が人攫いによってこの場所まで移動してきたのなら、精神的なことを踏まえると、安易にどこかの街に置いていくわけにもいかず、本人の意思を確認しないことには、対処のしようが無いとのいうこと。そのうえで、どこでもいいから保護してほしいとなれば、次の目的地である中央山脈の麓にあるモールという街のネスト支部を案内するということだ。

(すべての選択肢を並べたうえで、いい塩梅を探したんだね)

 なるべく自分たちの時間的犠牲を減らしつつ、女性の気持ちに寄り添う方法という意味では、トールの行動は最善解なのかもしれない。 

 自分ならどうしただろうか? 十中八九、感情を優先して、急いでポートアレアに戻っていただろう。その場合だと、商人のタブリスを一方的に巻き込んでしまい、時間的な損失が発生してしまう。

 先のグローバス戦での判断もだが、こういう日常的な場面での判断は、年齢以上の厚みを持っているように見える。

 年齢ではルカが一番年下になるとはいえ、このサイペリア国の民であるために、この国の常識は理解しており、現在は唯一の後衛位置。むしろ四人中三人が前衛と飽和状態の中、一番足手まといになりそうなのは、年齢や経験、魔力の有無においても自分であろう。

(はぁ……足、引っ張らないようにしないと)

 大きなものを持ち上げる力もなければ、誰かを癒す力もない。あるのは、この刀と斬る技術だけ。

 漏れる息は精神的な溜息なのか、それとも積み荷の上に上るための一呼吸なのか。溜まった息を大きく吐き出しながら、再び積み荷の上に登った。

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