1.5-2 拾われること
そこからは、一心不乱だった。時刻は深夜十一時。周囲は十mにも達する大竹の竹藪であり、月明りすら通らないほどの黒い闇が左右に広がっている。また、私道の石段に常夜灯という公共物は存在せず、ただひたすら竹藪の切れ目から注がれる月明りが頼りとなっており、もはや肝試しと言っていい情景の中をたった一人で駆け抜ける。
石段も終わり、竹林を抜けると、視界は一気に暗闇から深い青がくすんだ紺鼠色の柔らかい色に切り替わった。目の前には、地平線と言ってもいい程のだだっ広い水田地帯が広がっている。水田と言っても、まだ三月下旬に差し掛かった現在では、土づくりの真っ最中で水は張られておらず、田畑と言ったほうが正しい状態である。
その向こうには、まだほんのりと明かりがともる横長い影――首都の紅陽が映る。
しかし、あれは終着点ではなく、通過点。行先は、あの街からさらに東にある港町の水蓮(スイレン)だ。
(最低でも、紅陽から遠ざからないと……)
剣術道場の師範であるからか、父の顔は妙に広く、首都の青年会や商家の者がよく訪ねてきたり、街では師範の娘として声を掛けられることが多々あった。昔は相当なやんちゃ者だったとか、漢気の熱い奴だったとかで、街の男衆との交流が厚いらしい。
つまり、首都は父の勢力圏と言っても過言ではなく、住人に見つかれば間違いなく、光の速さで父のところに情報が行くだろう。
なればこそ、あの街を経由せず、その先の港町までひたすら歩く必要がある。
とはいえ、首都ですら徒歩二十分の距離。水蓮までは考えたことがないが、基本的には馬や荷車を使っていくような場所。
代わり映えのない田畑が延々と続く。
時折走っては、歩いてを繰り返す。
カエルの鳴き声と自分の息切れだけが木霊する。
それこそ、心が折れそうになる。
時折、頬をなでる春先の冷風が心地よく、体を醒ましていく。
進まなければ、自由は得られない。
そんな浮き沈みを繰り返して心が擦り減る中、朝日によって田畑が輝きだした時、ようやく水蓮に到着した。
コウエン国で最大の水揚高を誇る水蓮は、他国と行き来することができる定期船が発着する唯一の港町であり、国の玄関口である。
(そっか……国の、外……)
首都自体が父の勢力圏となれば、もはや国全体に父の目があるといっても過言ではないだろう。どこまでも、自分の人生を邪魔して、手のひらで転がそうとしてくる忌々しさを感じる。
幸いにも、港にはコウエン国の船の様式とは異なった、いかにも諸国を回りそうな船が停泊している。もはや、乗るしかないだろう。
しかし、腹の虫を見過ごすことはできず、ひとまずは食糧の確保を優先して、朝市で有り金全部を水と食料確保へ回した。
ただひたすら逃げたい一心と、一人で延々と歩き続けたことによる心身の疲弊は、理性を簡単に奪いさり、先ほど見かけた定期船に「隠れて乗ってしまえ」と短絡的かつ危険な行動をあっさりと促した。
早朝の積み込み作業中、船員の目を盗み、荷物の陰に隠れながら船倉へ潜り込む。あとは、出航するまで見つからないよう、ひたすら物陰に入るこむように身を屈める。女性の平均身長よりも小さいことが幸いしたのか、その後は見つかることなく、眠りこけている間に無事に出航した。
しかし、これが第三の迂闊点であり、この船が何時に出発したかが分からない。船倉に備わっている小さな窓から外を見れば、すっかり日は登っており、その太陽がまだ登り切っていないのか、落ち始めているのかが分からない。現在がどこを走っており、どこに向かっており、何日かかるのか分からない状態で、買い込めた食糧も四食分と少なく、なるべく節約していきたい。それでも、腹の虫はここぞとばかりに合唱してくる。とにかく今は水でしのぎ、日が落ち切った段階で改めて食べるとした。
二回目の夜明けの後に、どこかの港へ停泊したようである。どこに停泊したのか知りたかったが、抜け出す前に新たに荷物の搬出と搬入が始まってしまい、まずこの荷物の移動の中で自分の身を隠す任務が始まった。いくら小柄だからとはいえ、さすがに接近されてしまったら、見つかってしまう。
これが第四の迂闊点であり、見つかったときの対処を一切考えておらず、逮捕や強制送還などに気づいたのは、この時だった。
(いやだ……いやだ、いやだ、いやだ……見つかりたくない)
ただひたすら、できる限り身を小さくしながら神頼み。指が、掴んでいる二の腕に食い込む。それが通じたのか、見つかることなく、船は再び出航した。
今度の積荷の中に、興味を惹かれる物があった。それは壁面の積込口に入るギリギリの大きさのとても大きな木箱。この箱の後ろや横なら、自分の体を船倉の入り口から完全に隠せてしまうだろう。これ幸いと、その箱のそばに移動して、改めて体を小さくし三食目を食べた。さすがに三日連続で一食ずつの食事は、成長期の体には辛いものがあり、階上から時折漂ってくる食事の匂いによって、飢餓状態が加速している。早く何とかしなければとも思うが、密航している身分と合わせ良心の呵責からか、まだ周囲の積荷を漁る気にはなれず、木箱に身を預けつつ目を閉じた。
次の日。行程にして四日目の朝に、最後の食糧を食べた。水も無くなった。いよいよ、本当に危険な状態へ入っていく。
(このまま……死んじゃうのかな?)
四日間で分かったことは、食料専用の倉庫が別に設けられており、この船倉には食べ物らしき物はあるかもしれないが、乾物やイモ類などの加工が必要な物たちに限られるだろう。そのために、取りに来る必要もないためにか、船員の見回りが無い。
それは、自分を発見してくれる者がいないということだ。
はじめこそ、密航者として逮捕や強制送還されるかもしれないという恐怖があったが、今は発見されずに餓死してしまう可能性が出てきている。
(いっそ……、外に助けを求めたほうがいいのかな……?)
朦朧とする意識の中、強制送還されて永遠に父の駒として扱われる人生か、このまま餓死するかの二択が脳裏を支配している。
(……誰か……助けて)
もう流す涙すら出てこないほど、先ほど飲んだ最後の水が、まだ浸透していない。とにかく今は目を閉じて、少しでも長く生きなければ……。
ゴソッ
「!!!????!??!?」
耳元で、正しくは預けていた木箱の中から、音が聞こえた。飢餓による幻聴かと思い、再び木箱に体を預ければ『痛っ……』『なんだこれ』と人間の声と衣擦れのような音が聞こえてくる。
今まで身を預けていたこの大きな木箱、中に何か生き物、否、人間が入っている。
『ハ……ハハハ……ハハハハハハハハハハハハ……』
極めつけは、急に発せられた高笑い。急激に緊張が走る。心臓が痛いほど、早鐘を打つ。停止しかかっていた体の機能が、強制的に呼び起こされる。立ち上がり、刀を腰の左と思ったが、ここは木箱や荷物のひしめく船倉。刀を抜いても、振り回すことができない。しかも本体と鞘とを分けてしまうと、行動空間が大幅に削れてしまう。
あまりやりたくはないが鯉口は切らず、刀ごと胸元に抱えて警戒するように、荷物の間を縫って、数歩下がる。
そこからは、何が箱が小刻みに揺れる。恐らく動き出そうとしている。もし人間だとすれば、声的には男性であり、最低でも声変わりが完了している年齢。
そして、小刻みはピタッと止まり、沈黙が船倉を支配する。箱の中で何が起きているのか分からない以上、緊張状態を解くわけにもいかず、何度も息をのむ。
「……せぃやぁ!!」
掛け声とともに、箱が内側から破壊された。心臓が止まるかと思った。無いはずの水分が、全身からあふれ出てくる。
後ろ姿ではあるが、木箱の中から出てきたのは、やはり男の人。光沢のある香華茶色の頭髪。群青色よりも深みのある青の外套の上から、銀色の光沢がある総金属の鎧をまとっているが、それを差し引いても肩幅が広く、かなり背が高い。しかし腰回りはやや細めであり、全体的に絞りつつも、上半身を鍛え上げた体形とみていい。おそらく何か重いものを持つことが多いはず。
「……船の中か?」
板越しではなく、初めて聞いた生の声は、体躯に見合うように響きが重く、耳の奥に重みを残してくる。
さて、男は船内を見渡しているようだが、こちらに振り向く様子もなければ、気づく様子もない。怪しさ極まれりという存在に対し、このままじっとしていてもいいが、その異様な現れ方は好奇心を刺激される。
「……ちょ、ちょっと」
とうとう声をかけてしまった。
振り向いた男は、遠目からでもわかるほど輝く深い藍色の瞳。有角族(ホーンド)は比較的平坦気味な顔に対し、この男は堀が深く、鼻筋も力強い。見た目の年齢は自分より年上には見えるが、一回りというほどではない。総じて整った好青年顔と表現してよい。他に角や鰭(ヒレ)、動物的な耳がないために、恐らくは純人族(ホミノス)ということだろう。
「小さい」
こちらが注意深く見ていると、男は一言発した。その言葉が背丈に対するものかと思えば、背が小さいことは誰が見たところで分かり切っていることだ。ならば、見下ろす視線の先にあって、一般的に大きさが比較されやすいもの……胸のことだろう。なんて失礼な奴だ。
「っ!!!! こ、これでも普通にあるわよ!!!」
背丈と角の発育は芳しくなかったものの、胸や尻などの女性的な要素は平均的な育ち方をしており、背の傷さえなければ、一応は女として大手を振れる程度はある。
「すまない、背丈のことを言ったんだが……」
しかし、相手は何やら急に申し訳なさそうに眉を下げ、比較対象そのものを訂正してきた。これではまるで、こっちが自意識過剰みたいな反応になってしまったではないか。余計に腹立たしい事案である。
「わわわわ悪かったね! それでも“普通より”やや小さいって程度なのよ! むしろ、あなたが大きすぎるんでしょう!」
こっちは空腹はほんのりと解消されてるとはいえ、慢性的な状態であるために、苛立ちの積もり方が激しく、一つ一つの言葉や所作が癇に障る。特に角と背丈については、自分としても強めの劣等感を抱いており、指摘される度に血管がざわめく。
「……ん? 普通より?」
ところが、こちらの心の火山が噴火間際だというのも気にせず、まだ問答を続けてこようとする。
「そうよ!!! 何よ! どうせ、アタシは平均以下よ!」
もう泣きたくなってきた。そりゃ、この男からすれば自分は明らかに小さいし、俯瞰視点ではこの小ささも見えづらいだろう。だが、そう何度も指摘されれば、さすがに心の傷が表面化してくる。
「……すまないが、聞きたいことがいくつかある」
これまでも、人の表情や言動を無視するそぶりが多いが、今度はとりわけ重い口調で、妙に真剣味を持たせ、苦悶にも近い神妙な表情で話しかけてきた。
「な、何よ……」
整った顔の異性が、そんな重苦しい表情で話しかけてくれば、さすがに心が急速冷凍され、爆発寸前だった火山も見事に引っ込んだ。
「まず、その角と服装なんだが……もしかして、コウエン国の者か?」
「……そ、そうだけど、何よ」
一応、小さいながらも角は持っているために有角族として証明できる。また、着ている服装も、国民のほとんどが有角族であるコウエンでは一般的な服装である。一般的な成長を経た有角族の角は、主幹と呼ばれる一番太い角の長さがおおよそ三十~四十cmであり、外の国で着用される“頭を通して着る服”を着用することができない。このためにコウエン国民の服はすべて前が開かれており、胸襟を胸元や腹部で重ね、帯や釦で留める構造となっている。
この辺りを踏まえて、自分は見た目としてならコウエン国の者だといえる。
しかし、目の前の男は、何者なのだろうか? 自分のように確たる識別要素を持たず、まだ名乗りなどもなく、ひたすら疑問符を頭に浮かべてばかり。そのうえ、身なりは素人目に見ても良い品質だと分かり、その上どれも新品に見える。木箱から現れただけでも怪しさだらけのに、全身高品質の新品をまとった好青年風の男。ますます怪しい。
「あ、いや、その不快にさせたのなら謝る」
こちらの訝しむ目線を察したのか、それとも先ほどまでの非礼も含めたものなのかは、いまいち判別しづらいが、地面と水平になるぐらいまで頭を深々と下げ、謝罪の意を表した。
「べ、別にいいよ、これぐらいの軽い質問……。んで、次は?」
さすがにここまでされると、先ほどまでの件が含まれていなくとも、水に流してあげようと思った。それぐらい、現状の彼は一定の好感が持てる。
「その、コウエン国では、君や俺ぐらいの身長が割と当たり前なのか?」
先ほどと同じく背丈についての質問ではあるが、明らかに内容の意味が変わってきている。まるで、彼自身やこちらの背丈の人間を見るのが初めてと言わんばかりであり、まるで多くの『当たり前』な情報を欲しているように思え始めた。
「そう……ね。大人の男性は、貴方よりも少し小さいぐらいかな。女性はそれより頭一個分ぐらい小さいね。もちろん、もっと小さい人や逆に大きい人もいる。
でも、“隣の国の巨人族”は、港で見かける以外いないよ」
あくまでも自分が知る限りではあるが、コウエン国の港には時折、外の国の船が停泊するために、様々な地域の種族を見ることができる。
基本的には巨人族(タイタニア)を除いたすべての種族は、そこまで極端に背丈が離れているわけではない。各種族内にも詳細な分類が存在し、その中には長身になりやすい者もいるが、巨人族だけは他の種族のおよそ一.五倍~二倍の背丈を持ち、身長帯は二~三mほどである。
「隣の国の巨人族って……それはコウエン国の人々が俺みたいなワイ……小さい者達ばかりという事じゃないのか?」
(わい?)
何か単語のようなものを言いかけたが、すぐに別の表現に言い換えた。まるで、それを認めたくないような、くしゃりと歪んだ顔で。
しかし、どうも容量が得ない話だ。彼は自分のことを小さいと表現し、コウエン国民だけが小さいのではと疑っている。
「え? むしろ、巨人族のほうが珍しいと思うよ」
学び舎で受けた教育の話でいえば、この世界には五つの王国が存在しており、その中で故郷のコウエン国は有角族が、隣国のティタニス国は巨人族が、そこからさらに南下した海にある島国ミューバーレンでは魚人族が興した国であるために、それぞれの種族の大半は自国に暮らしている。そのために、国の外へ出る者たちは商人や旅人ぐらいしかおらず、世界的に見れば該当地域に行かない限りは、まず見ることはない。
……とはいえ、自分も学び舎で得た知識と港町に行ったことがある程度でしかなく、国の外の実情については知らないといってもいいが、今彼が望む情報でいうなら、これぐらいでも許されるだろう。
ところで、情報を受け取った青年は何やらブツブツと小さく独り言を発しながら、深く考えて混んでいるようである。この情報はそんなに驚くべき点があったのだろうか?
考え込むのはいいが、答えたら放置とは如何なものだろう?
「ねぇ」
しかし青年は耳を傾けない。無視しているというより、自分の世界に入り込んでいるように見れる。
「ねぇって」
それでも反応しない。完全に自分の世界に入り込んでしまっている。本人的には意図としていないにしても、この放置という状況に怒りが沸々と湧き上がってくる。
それもこれも、自分の背が小さいからか? 相手の視界に、意識に入りこまないということなのか? 改めて、青年を見れば、身長差は〇.三mもあるのではないかというぐらい、相手はデカい。その背丈の十分の一でもこちらの角に分けてくれれば……!
「ちょっと、あんた!!!」
先ほどの小さい発言を思い出し、さらに空腹による苛立ちが再爆発。体中の血が頭のほうへ一瞬で上り詰めるほど、青年の非礼はまさに怒髪天をついた。
「す、すまない……! 決して、君を蔑ろ(ないがしろ)にしたわけではなく……本当にすまない」
さすがの青年も、この声は聞こえたようであり、こちらを見ると、みるみると青ざめていく。
目の前の青年はデカい図体の割には、どこか威勢がない。その巨体によって相手を脅したりする様子もない。むしろ……。
(何この、大型犬)
はしゃぎすぎを怒ったら、尻尾と耳を下げて、明らかにしょんぼりする大型犬の姿を彷彿させる。
その上で見た目も良く、高身長とくれば、世の女性陣は黙っておかないと思われる相手に対し、もはや不機嫌に当たり散らすだけの惨めな癇癪女という構図でしかなくなっていた。
「はぁ……もういいよ。それより今度はアタシからの質問。何で箱から出てきたの?」
向こうも一応の誠意をもって謝っている様子ではあるので、ここを落とし所とするしかない。この呆れのため息は彼に対してなのか、それとも自分に対してなのか。それすらも判別したくないほど、ドッと疲れが出た。
さて、相手からの質問に答えるのも疲れたので、今度はこちらの疑問を解決してもらいたいものだ。
「信じてもらえないだろうが……俺自身もよく分からない。起きたら、既に箱の中に閉じ込められていた」
「……は?」
言葉が出ないほど、訳が分からなかった。トンチキな人間なら、ただの乗船に飽きたということで積荷に化けることも、まぁ考えられなくはないが、本人が知らぬ間にとなれば話は別。
青年が破壊した箱の蓋となっていた板を見れば、びっしりと釘打ちがされており、しっかりと梱包した痕がある。
「え、あー……う、うん? んー、誘拐でもされたの?」
とは言ったものの、この意見は若干遠いと思っている。誘拐であるなら、相手が暴れるなり脱走なりをさせないために、拘束しているだろう。しかし、彼にその痕は見受けられないし、実際に目の前で箱を破壊したのだ。装備品もしっかり着込んでおり、まさに自由な状態で入れられていたと見ていい。
「いや、それがな……」
「それが悲しい事に、彼、勘当されちゃったんですよ」
怪しさと不可解さに加え、青年から伝わる申し訳なさがあふれる空間に、新しい声が入ってくる。声の発信源である船倉の入口には、晴天の空色を抽出したような淡い水色の長髪を持つ、中世的な顔立ちの青年が立っていた。金糸雀色を基調とする半袖前びらきの短い外套。黒い刺繍が縁の施された袖なしの上衣。髪色よりも深く菫色に近い膝丈の外着用猿股。足は草履の形に似た露出の大きい履物をしている。
何よりも顔の横には魚のヒレと同じ、細い骨と薄い皮膜で先が伸びた特徴的な耳があり、この青年が魚人族(シープル)であることが分かる。
魚人族の青年は、箱から出てきた長身の青年にラディスと名乗った。また、長身の青年のこともダインと呼んだことで、この場にいる人間の名前をようやく把握することができた。
ところで、ダインという青年は、実は先ほどまでの問答中も含めて、自らが破壊した木箱からは動いていないのだ。そのうえで、今、ラディスがダインに近づいてきているのだが、そのまま挨拶を交わすつもりなのだろうか?
「あのさぁ……まさか箱の中から握手するつもり?」
こちらが指摘すれば、文字通り「ハッ」という驚きと気づきによって、ダインはようやく箱を破壊しつつ、外へ出た。
さて、この二人は一応、今知り合ったということらしいが、何やらこの出会い自体が計画されていた様子であり、二人は今後の予定について話を進めている。他人の話なので、あまり耳を立てては失礼にあたるかもしれないが、この三人しかいない空間で、普通の話声の大きさでは、どうしても話の内容が聞こえてきてしまう。
最低でも、この船が今は隣国ティタニスの港町から、海向こうにあるグランドリス大陸西端の港町ポートアレアに向かっていることは分かった。ダインはポートアレアの街で、まーせなりーず・ねすとという場所に案内され、お仕事を紹介してもらう予定である。聞き覚えが無いということは、コウエン国には存在していない組織の可能性がある。
(しかし、勘当ねぇ)
ダインは自分とは違い、家側から一方的に追い出されたという立場。
だが、極めて整った身なり、礼儀正しく、見た目も悪くはない。それなりに重量のありそうな鎧をまとっていても、様になるほどの体躯から見ても、良家の次男三男にある婿養子先なんて、それこそ選び放題に見えるのにと、勘当されそうな要素は現段階で見受けられない。
そもそも、本人の意識がないうちに箱詰めとなれば、犯罪の臭いのほうが強くなるような気がするのに、彼が箱から出た後の手立てまで用意されているとか……。
(彼、何者なんだろう)
いや、今であったばかりの他人なのだから、気にしても仕方のない事なのだが、これだけの不思議要素の塊には興味が引かれる。
「さて……僕からも質問したいんだけど、彼女は御付の人か何か?」
思い出した。自分はただの密航者。そしてラディスはちゃんとした乗船客。ダインもラディスの手引きによって正規の乗客として扱われるだろう。
つまり、この場において犯罪者は自分一人であり、彼らが自分を船員に通報すれば、たちまち逮捕や強制送還の未来が待っている。
息が詰まる。身体が強張る。身体を守るように腕を組み、ゆっくりと立て掛けてしまった相棒のところまで戻ろうと、後ずさる。
「いや、俺もさっき会ったばかりだ。というか、既にここに居た」
「……確認するけど、乗船券は持ってる?」
ああ、ダメだ。ダインが事実を言ってしまった。ラディスがこちらに向ける視線が、徐々に獲物を見定めるような鋭いものへと変わっていく。これはいよいよ、味方がいなくなった。
(どうする? 二人を倒して逃げる? どこへ? ここは海の上。飛び込めば? 海の藻屑。海の魔物の餌。船長を脅す? 無理。多勢に無勢。てか、これ以上罪を重ねたくない。え、アタシ、完全に詰んでない?)
今思い浮かぶだけのありとあらゆる選択肢を出しては、消えていく。そうしているうちに、身体は痙攣に似た強烈な震えを覚え、足から力が無くなり、その場にうずくまった。
「………………お願い、突き出さないで。アタシ、帰りたくない」
選択肢がない以上は、突き出されるにしても、最後の足掻きとして自分の意思を伝えておく。
ここで送り返しになった場合は、折檻のために体に傷を増やし、その上でどこかの家へ売られるのだろう。逮捕の場合は、停泊予定となるポートアレアが属するサイペリア国の法律に従い、罰せられるのだろう。どこに行ったとしても、自分の存在は消されるだけだ。
「……ラディス、いくらだ?」
(何の話だろう? いくら? 金額? ……もしかして、人身売買したらいくらになるか聞いてる??)
「ん? ……もしかして、乗船料? ダイン、払うの?」
(へ?)
「ああ、こんな危険を冒してまで船に乗ったからには、それなりの事情があるんだろう」
(んんん???)
「……君は優しいね。なら基本乗船料として一人六〇〇〇ベリオン。あ、ダインの分は前払いされているから問題ないよ」
ダインはラディスに金額を聞くと、腰についている小さな革鞄から長財布を取り出し、札を六枚抜き取るとさらりと彼に渡した。ラディスは札を受け取ると、「説明してくる」と一言残し、颯爽と船倉から出て行った。
(は? いや、何の料金? アタシの乗船料? そんなわけないよね?)
目の前で流れるように行われたやり取りに混乱が生じている。
「あ、あの!!」
ダメだ、居ても立っても居られず、おもむろにダインへ声をかけてしまった。振り向いた彼は、無表情とも平然ともいえる読み取りづらい顔で、まるでさも当たり前と言わんばかりだ。
「これも何かの縁だ。気にしないでくれ」
はい、これアタシの分の乗船料だ。縁と言われても、本当に出会ったばかり。偶然を縁と捉えるにしても、今自分は彼によって『生かされた』。
「いやいやいや!! せめて何かお礼させて! ……お金持ってないけど」
食糧を買った段階で、懐は完全にすっからかんである。ちなみに、今回持ち出していたお金は、約二〇〇〇縁(べり=ベリオン)しかなく、基本の乗船料にすら足りていなかった。
それでも、こうして生かせてもらたのなら、せめてのお礼はしたいものの、何を差し出せばいいかなんて、見当もつかない。
「その刀は?」
ダインが指差したものは、背後に立て掛けていた“相棒”の刀だった。
ソレダケハ、ダメ。
脳は一瞬で担保という言葉をはじき出し、同時に体が脊髄反射の勢いで相棒を手に取ると、守るように抱え込んだ。
「こ、これはアタシのだけど……ごめん、この子は渡せない」
そう、絶対に渡せない。弟の命を救い、アタシの道を指示してくれた、自分の半身。
「……取り上げるつもりはない。君のなら、扱えるということでいいか?」
頭上から降り注がれた声は、出会ってから聞いた中で、最も柔らかかった。見上げれば、ダインは一瞬だけ驚いたように見開くと、すぐに平然……いや、少しだけ柔らかい緩みを持った顔をしていた。
そして彼からの問いは、アタシの剣の腕。
「まだ、ヒトを斬ったことはない。でも、熊や猪とは殺り合った。この子は相棒なの」
幾つもの傷を刻み、幾つもの時間を重ね、何度も体を壊して、何度も地を舐め、何度も獣たちと戦った。そんじょそこらの同年代の町娘とは、一緒にしないで欲しい。恐らく殺れと言われれば、何をと問わずに殺れるだろう。それぐらい、アタシは"自分"を殺してきたのだから。
「なら、礼は“旅の仲間”になってもらうで、どうだ?」
「なか……ま?」
新たに降り注いだ言葉は、まさに救いの手そのものだった。
体が震える。体が熱い。その震えも熱も、相棒が受け止め、さらなる暖かさとなって自分に返ってくる。そう感じてしまうぐらい、彼からの言葉が体と相棒を廻っている。
今、彼が何か言っているようだけど、そんなのはどうでもいい。
今、自分は“必要”とされようとしている。
「あと、君の剣の腕を見てみたいというのもある」
ならば、自分が取る選択肢は、すでに決まっている。
「アタシなんかでよければ! お礼はしたいし、行く宛てなんてないし」
この恩は、腕と、背中の傷と、相棒で返させてもらう。
「なら、決まりだな。改めてまして、俺はダイン・アンバース。ダインでいい。これからよろしく」
そう言って、ダインははっきりとした柔らかい笑みを浮かべながら、こちらに手を差し出してきた。元々整っていた顔が無表情から笑みに変わっただけで、こんなにも破壊力が上がるものだろうか。
別に異性に対する免疫がないというわけではない。門下生のほとんどが男であり、ある意味で男に囲まれた生活をしてきた身なのだから、普段ならこれぐらいの笑みは受け流せるはずなのだ。
しかし全くの初対面で種族も違う、明らかに今まで自分の身近にはいなかった分類の異性というのには、免疫がなかったというべきだろう。また身近な異性とは基本的に競い合い、蹴落としあう仲であるために、このように助け合いのためや必要という意味での接触自体がなかったのだ。
そのために、彼から向けられる笑みは、誰からも受けたことのない初めての笑みであり、初めての感覚に心が追い付かない。
それでも必要と差し出してくれるその手を遊ばせておくわけにはいかないので、ざわめく心を抑え込みながら、彼の手を取った。
「こちらこそ。アタシはカキョウ。紅崎華梗っていうんだけど、こっちだとカキョウ・クレサキかな?」
彼の手は、とても大きい。自分の手の約一.五倍ぐらいはあるのではと思うほど大きく、優しい握り方をしてくれる。
彼も、どこか手の大きさの差が気になるようで、時折じわっと力が強くなったり、逆にふんわり弱くなったりと、握り方をわずかに変えながら確認しているようだ。
しかし、握ってから体感で一分ぐらいだろうか。自分たちはまだ握手を続けている。さすがにもう長いのではないか?
「え、えっと……ダイン?」
「ん?」
「いや、その……い、いつまで握ってるんだろって」
「あ、あああ、すまない」
彼がずっと握っていたのは、半ば無意識だったようで、指摘したら照れ臭そうに、だけど名残惜しそうに手を離した。
その時。
まるで地響きに似た巨大な軋む音と共に、船体が大きく傾いた。体がよろめき、このままでは周囲の荷物に体を打ちそうになった。まさにその時、まだ近くにあった大きな手が自分の手をつかみ取ると、力強く引き寄せてきた。一瞬、ダインの大きな体に受け止められたが、追い打ちをかけるように再び揺れが発生し、固定されていなかった腰ぐらいの高さの木箱が衝突してきて、二人とも無様に床に叩きつけられてしまった。弾かれたときの衝撃は思いの外激しく、相棒を手から離してしまった。
「いっつぁ……何なのよ、これ」
「まったくだ……」
揺れは徐々に収まりつつあったが、それでも船体を動かすほどの揺れは長い余韻を残していたために、互いに肩を寄せ合いながら、周囲の荷物を警戒した。揺れがさらに収まると、先ほどの衝突によって手放してしまった相棒をつかみ取る。ダインは自身の武器があるとのことで、寄せ合っていた肩を解くと、自身が収まっていた大きな木箱の元へ移動した。
「二人とも大丈夫!?」
ダインが彼の背丈と変わらない程の巨大な剣を発見した時、船倉の入り口からラディスが慌てて駆け込んできた。息が上がっており、腕や足、顔などに擦り傷が見える。先ほどの大きな揺れによって転倒したか、壁に打ち付けられたか。
すると、ラディスは自分たちの無事を確認すると、急いで自分の後をついてきて欲しいと叫び、ダインと共にラディスの後を追うことになった。
――少女は、青年から『生きる』権利を貰った。
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