1.5章 少女の始まり

1.5-1 捨てられること

 日向では小春日和の風が大地に新たな息吹をもたらし始め、日陰ではまだ冬の余韻が残す竜歴一〇〇〇年芽月の二十日。日は既に八つ時を過ぎて、茜よりはまだ柿の色に近づきつつあった。

 紅焔(コウエン)国の首都『紅陽(クヨウ)』から西へ徒歩で約二十分。左手に稲作用の水田が広がり、右手には炎神様が座するといわれる神炎山から続く山脈の山々。その麓の舗装のされていない田舎道の先に広がる竹林の中に一軒の屋敷がある。

「やああああ!!!」

「たあああああああああ!」

 屋敷の中からは、昼間から絶え間なく鳴り響く若い男女の掛け声。乾いた木材が打ち合う音。木造の床を鳴らすヒトの激しい足音。元々は打ち捨てられた神社を、現在の家主が譲り受け、大幅に改築を施した剣術や柔術などの武を学ぶ場所。道場と呼ばれる室内稽古場、硬い土と山から切り出された多くの岩で作られた室外稽古場、学び舎に住み込む者たちの宿舎、山と戦の神に祈りを捧げる改築された小さな社、道場の主たる師範の寝所と必要な物全てが揃った広い屋敷。

「はあああああ!!」

「そこだあああ!!!」

 その中の道場から、今日は一際激しい数々の音が屋敷の外まで聞こえてくる。

 全面板張りであり、山の方角には総見の上げ床が設けられており、更にその後ろに山の神の目の代わりとも言われる大きな丸鏡、供え物の酒、米、塩、砂糖菓子、榊と呼ばれる年中青々しい葉をつける神聖な木を飾る床の間。

 総見の上げ床に一つ、上げ床から見て左右の壁面に小さな人影がそれぞれ五つと六つ。

 そして、中央で激しく動く二つの人影。

「せい、やぁあああ!!」

 女の掛け声と共に、乾いた木材が弾き飛ばされた音が響き、続いて重みのある柔らかい物が落ちた時の音が道場内に広がった。

 部屋の中央に立っていたのは、細身をした片刃の曲剣『刀』を木材で模造した木刀を構え直した少女。胴は白、下の袴は黒の剣道着に身を包み、肩口で切りそろえられた俗に言うおかっぱ型の真紅の髪。髪から覗く鈍い緑の混じる金色の手の平大の角。髪色と同じ真紅の瞳は、目の前に倒れる青年を噛み殺さんばかりの獣のような眼差しで睨みつける。

 目の前に倒れた青年は同い年だが、自分の背丈よりも頭二つ分程高いの異性。体格差を利用されて、上段からの攻撃や馬乗りにでもされたら、簡単にねじ伏せられてしまう。体力もあるために早期決着が望まれる。

 身体の小ささを利用し、低い位置から相手の脇腹を狙った一撃が、思いのほか綺麗に入ったために、青年はまだ立ち上がることができずにいる。

 青年を見下げながら、少女は手にする木刀を振り上げた。

 まだ立ち上がるのか? それとも降参するのか?

「一本。それまでだ、カキョウ」

 逡巡の後、振り下ろすと同時に、自分の名前と共に制止の号が放たれ、猛っていた気が一気に冷め、現実へと戻される。相手を討つ必要が無くなった剣筋を無理やり修正し、振り下ろした切っ先は青年の右頬から拳一つ分ほど先に落とした。

 それまで忘れていた疲れが身体に現れ、ギリギリまで搾り出された空気を急に取り込むように呼吸が荒くなる。気道を確保するべく顔を上げようとした時。

「カハッ」

 胸元に強烈な圧迫感を覚え、肺から空気が一気に抜けた。そして気づけば、背中全体に剣山に押し付けられたような鋭利な激痛が走った。

「あぐっあ!!」

 痛みによって閉じてしまった眼を開けば、そこには竹林の間から見える夕空。

 ここは敷地の入口部分に広がる竹林を持った前庭であり、道場からは約十mほど離れた場所。

 自分は“いつものように”投げ飛ばされたのだろう。

 起き上がろうと手を突けば、前庭に敷き詰められた大粒の砂利石が手のひらに突き刺さる。受身を取ったものの、背中には砂利が大量に突き刺さったために、胴着が衣擦れを起こすたびに背中が悲鳴を上げている。

「何、息を切らせている。そして何故立ち止まった」

 夕空の視界に入ってきたのは、いつの間にか上げ床から降りて、試合を止めた師範の顔だ。今年で五十歳になるはずであるが、元々童顔気味でありながら、師範として肉体作りを欠かさないために皺が少なく、知人からやっかみを買うほどの年齢詐欺顔と言われている。

 蘇芳色の髪に、自分と同じ真紅の瞳。師匠にして、鳳流剣術の師範たる……実の父、紅崎梗也(クレサキ・キョウヤ)である。

「俺は教えたはずだ。常に全力で相手を殺せ。そして即座に息を整えろと」

 鳳流剣術とは、古くから存在する由緒正しい武術というわけではなく、父が作り上げた新興流派である。

 その昔、喧嘩っ早かった父が両手を大きく広げ、着物の袖を靡かせながら、ド派手に大立ち回りをした姿を元に作られものである。名前の鳳(おおとり)は、靡く袖が鳥の翼に似ていることからであり、剣技の殆どは鳥に関係する名がついている。基本思想は『ド派手に』『素早く』『確実に倒す』であり、勝負事に勝つことを目標と掲げる血の気の多い流派である。そんな風情の欠片も無い血生臭い喧嘩から生まれただけあって、他の由緒正しい流派からは馬鹿馬鹿しいママゴトと言われ、嫌われている。

 派手に立ち回るということは、無駄に大振りな動きを必要とするために、体力が必要となるために日頃の体力づくりはもちろん、急速な回復力と無駄な時間を省くための素早い判断力と行動力が求められる。

 つまり、勝てる状況においてトドメの一撃を放つ前に生まれた空白と、終了の合図後すぐに息を正せなかった事に対する指導として、道場の中心から砂利の敷き詰められた庭まで吹き飛ばされたのだ。

「……すみません」

 何事においても全力で指導する。それはいい。

 ただし、血の繋がった我が子に対しては、身体のあちこちに痕の残るような傷を作ろうとも、性別関係なく容赦が無い。

 これでも今年で十七歳となるうら若き乙女に分類される自分の体中には、その辺の同年代の女子以上に生傷が多く、腕や背中の至る所に大小様々な古い稽古傷が残る。

 今でこそ、受身が取れるようになったりと、戦うための体作りが出来ているために、傷も減ってはきているが、このような指導をされてては、治る傷も治らない時がある。

 今日の投げはかわいいものだ。時には弟弟子達の居るほうへ投げられたり、屋外稽古場である巨大な岩にだったり、川にだったり、屋根にだったり。女の子の顔とは思えないほど、唇や鼻から何度も血を垂れ流した。

 ただ、真剣で斬りつけられたり、火傷を負わされたり、簀巻きにされて水底へとかいう、本当に人命に関わることはないので、回りの大人たちは指導の範疇だと思っている。

 時々、他人から見ても、虐待じゃないのかというものもあるので、これを見てしまった過去の門下生の親さんが、自分の子供にも同じことをするのではという危機感を募らせ、既に何人も道場を辞めさせられた子達がいる。

 残っている子達は、それでも強くなりたいと願う子達や、身寄りの無い子達。苛烈な指導は実子にしか向かない事を理解している子達である。

「まぁいい。今日はここまでだ」

 踵を返し、道場内へと姿を消す父を見つめながら、体を起こす。

 と言っても、全力で動いた後に吹き飛ばされ、思いっきり地面に叩きつけられた身体であるために、起き上がろうにも体中が悲鳴を上げている。

 こりゃ、今日もお風呂は痛いだろうな。

「姉ちゃん、大丈夫?」

 錆び付いた鉄に似た悲鳴を上げる身体を起している最中に、弟の玲也(レイヤ)が気遣うように近づいてきた。

 自分の頭髪よりも青みががかった葡萄色の髪に、家族の証であるかのような真紅の瞳。まだ声変わりが来ておらず、幼さが前面に出る十一歳の弟は、目じりに汗とは違った雫を浮かべながら、姉の顔を覗き込みながら、固く絞られた濡れ手ぬぐいを渡してきた。

「ありがとう。……ほら、さっさと行かないと、父さんに怒られるよ」

(……アタシが。弟の大事な時間を奪うなって)

 玲也は必ず、アタシの後に稽古をすることになっている。アタシの動きというダメな見本を見てから、父より手厚く丁寧に稽古をつけられている。そのための大事な時間であるために、弟との接触は最低限にするようにと叱られた事がある。だから、アタシはこの子をなるべく遠ざけたいのだ。父の目に入らないように。

 そもそもこの家は……家族関係はいろいろおかしいのだ。

 まず、この弟は異母兄弟である。実母が他界して間を置かずといって言いぐらいの期間で、父は玲也の母である継母を後妻として迎え入れ、翌年には玲也が生まれた。当時は自分も五歳だったために、母の死、継母の存在、弟の存在というのは、とてもあやふやに受け止めていた。

 やがて年齢を重ね、自我がはっきりしてくると、この家族という関係性が酷く歪に感じ始めた。

 母を亡くしたばかりだというのに、すぐに新しい女を後妻として迎え入れたのは、母の他界前から逢引をしていたのではないか? 母の死を見計らっていたのではないか? それとも母を含めた三人は、既に何か決めていたのか?

 しかし、父も継母も何も言わない。ただ、黙って稽古に励めとしか言わない。

 そして実母が他界した翌年に生まれた弟の存在。十月十日の逆算をすれば、父と継母が交合いあったのは、母の葬儀直後付近。自分の記憶の中にあった父と実母の仲睦まじい姿は偽りだったのか。

 十数年前までは王族や貴族以外での一夫多妻が認められていたために、一般家庭でも正妻と妾が当たり前のように存在していたらしい。法改正の前後であれば自分のような家庭環境は一般的なものだったとのことだ。

 確かに自分の生まれた年からすれば、法改正の移行期にあたるため、可能性があることは一応理解した。

 だが、納得はしていない。そんな妾の存在がいるのならば、母が他界する前から知らされてもいいじゃないか。何故、母の死の直後でなければならなかったのか。父にとって、自分と母の存在は前々から希薄なものだったのだろうか。

 そして初潮を迎えたとき、人生を狂わせる出来事が始まった。

 この国では、一夫一妻制に移行した後も嫡男による家の全相続が主流となっており、弟が生まれたことによって、自分は自動的に後継問題から外れることとなる。

 ……はずだった。

『カキョウ、今日からお前に鳳流の全てを叩き込んでいく』

 ところが、父は自分に鳳流の全て、つまりは師範として、家を継ぐものとしての教育を施すと宣言してきた。

 剣の稽古自体は嗜みや教養程といった基礎を身につけている程度しかなく、免許皆伝なり実戦を想定した訓練や肉体づくりは一切していない。

 つまり、ここから地獄の日々が始まった。

 まず、基礎の叩き込み直し。これまでの基礎練習はママゴトだと切り捨て、徹底的に修正された。それこそ少しでも気を抜いたら、投げ飛ばされ、木刀で叩かれ、時には踏まれたり、食事を抜かれたりと、一般家庭なら虐待と言ってもいい指導が毎日行われた。しかも指導中についた傷は、自分の未熟さが生んだ戒めのあかしとして残され、女児の体とは思えないほど、体のいたるところに消えない傷跡が点在している。

 次に肉体改造。走り込みや腹筋、腕立て伏せは序の口であり、重り引きや岩場跳び、激しい打ち込みなど、毎日生傷や筋肉痛を起こすほどの訓練を重ねていった。

 初潮の始まった十歳といえば、成長期とは別に女性らしい体が形成されていく大事な時期であるにもかかわらず、年齢に見合わない程無理な訓練量を与えられたために、女性らしい丸みは確保できたが、背丈の伸びが悪く、コウエン国民女性の平均身長よりも少し小さい。

 また角の成長にも影響し、最終的には自身の手の平ほどの大きさまでしか成長しなかった。コウエン国において角の大きさは、人格の良し悪しよりも先に、家柄と並んで他者との間に生まれる地位的優劣を決定する重要な要素である。たとえどんなに性格的破綻や悪行を働いていたとしても、角が大きいほうが優秀種と判断され、多くの物事の優位性を獲得する。手の平大という大きさは、同じ年齢の同性と比べれば、三分の一ほどしかなく、明らかなる発育不良もしくは奇形として扱われる。

 結局、背丈と角という二つの発育不良を抱えたばかりに、師範として不相応と判断されたのか、弟の玲也にも自分に似たような指導が始まった。とはいえ、玲也は大事な嫡男だからか、年下だからか、継母との子だからか、自分が同年齢の時に受けていた指導に比べたら、明らかに手心が加えられている。怒鳴られることも、投げ飛ばされることも、殴られることもない。門下生たちより少し指導量が多い程度。発育不良を起こしている自分よりも、才能も適正もあるのかもしれない。

 このように、幼少のころからの紆余曲折を経て、現在の自分と弟の関係性は、出来の悪い前妻の娘と、出来のいい後妻との大事な嫡男という構図となっている。

 そのために、目の前で涙を浮かべつつ心配の眼差しを向けてくる弟に罪はなくとも、こうして指導の下で吹き飛ばされた先で見下ろされている状態は、苛立ちを覚える。弟から差し出された手拭をやや乱暴に受け取ると、まだ軋む体に鞭打って、無理やり立ち上がった。

「ね、姉ちゃん!! そんな無理しないで……」

 顔を歪めたいのは自分なのに、なぜか覗き込んでくる玲也のほうが歪ませている。

「ほら、大丈夫だから。……アタシのために行って」

 それでも彼が生まれた時のことは、今でも覚えている。歩けるようになったら、必死に後を追ってきて、その辺の枝を木刀に見立てて、ブンブンと振り回していた。なんだかんだと言って可愛い弟であり、そんな彼に理不尽な苛立ちを向けることはできない。頭を軽く撫でてやれば、弟は顔をくしゃりと歪ませながら、「無理しないで」と一言残して、道場へ駆けて行った。

(……行こう)

 無理をしないでとは言われたが、この後には大浴場の掃除や夕餉の支度など、まだ多くのことが残っているために、そう簡単に休むこともできない。悲鳴を上げる体に改めて鞭を打ち、次の作業のために母屋へゆっくり歩きだした。



 日も暮れ、空はすでに紺から黒へと切り替わった夜十時。廊下の窓から見上げる空は、煌々と輝く月とまばゆい星たちによって彩られた満天の星空だった。

(はぁ……今日も体中、チリチリしたなぁ……)

 結局、夕方の投げ飛ばされた後の小さな傷たちは放置したまま、お風呂を済ませて来たところだ。基本的に指導のある日は、今日と同じく全身がチリチリして、今もそれを紛らわせるために、痛みが伝染している二の腕をさすっている。

 現在は師範家族の寝所である離れへ続く、母屋の廊下。外の国では石レンガや漆喰、布張りの壁や床があると聞くが、あいにくこの道場は純コウエン式の全面木材および畳敷きの造りとなっている。木材の家は呼吸するといわれており、夏でも風通しがよく、床はひんやりと心地よい。しかし、今は冬の肌寒さが残る春の夜。足裏に伝わる床の感触は、早く自室に戻るように促すほど、刺す冷たさを持っている。

「……なんですって?」

 現在、師範が私室とは別に設けられた、師範の執務室の手前に差し掛かった位置。その中から、何か悲鳴を孕んだ驚きともとれる継母の奏(カナデ)の声が聞こえてきた。

「静かにしろ」

 そして続けて聞こえてきたのは、師範でもある父の声。

 わざわざ、自分の奥さんに静寂を促さなければならないほど、周囲は音で満たされていない。遠くから聞こえるフクロウの鳴き声、風に揺れる草の擦れる音。そして、自分が立ち止まるまで発していた足音だけだ。

 夜らしい静けさと言っていい現在において、静寂を促す理由があるとすれば、それは外に漏れ出てはいけない音があるからではないか?

 息をのむ、息を殺す、足音を殺す、気配を殺す。そのうえで、ゆっくりとギリギリ二人の声が聞こえつつ、自分の体が隠れる角に陣取る。

「……だから、計画を早める。……“カキョウを家から出す”」

(っ!?)

 息が、悲鳴が漏れそうになる。自制しているつもりだが、それでも漏れ出ようとする息を必死に手で隠す。

「待って。まだ、あの子には何も言ってないのよ?」

 父の発言から計画という言葉が出てきて、継母の何も言っていないから察するに、自分が何らかの形で追い出されることが、以前から話し合われていたということだろうか。

(家から、出す? 何? なに? 追い出すってこと?)

 そもそも追い出す予定だったのなら、なぜ自分は体中に傷を作り、成長を破壊してまで、武の道を究めさせられたのか。

 頭が鼓動に合わせて、波打つように痛い。首筋から血液が上下する音が鳴り響く。呼吸が荒くなるのを抑えるために、腕を噛み始める。夜の静寂の中だからこそ、自身が発するあらゆる音が、嫌にうるさい。

「ああ、分かっている。明日、俺から話す」

「いや、私が……」

「いい。これは俺の問題だ。それよりも、お前には“嫁ぎ先”の準備をしてほしい」

 もう、訳が分からない。追い出すために、わざわざ嫁ぎ先まで用意するってどういう話なのだろうか。

 嫡子ではあるが女児である自分の価値は大幅に下がる。貴族の家系であるなら、家々の繋がり等のために用いられる存在となっただろうが、新興で尚且つ嫌われ流派の家出身で、角が小さい女にどんな価値があるのだろうか?

(そもそも嫁ぎ先って何?)

 思えば初潮を迎え、後継ぎとしての指導が始まってからは、学校と買い物ぐらいしか、まともに外出したことがない。父から武の指導を受ける傍ら、継母の奏でからは多くの家事や礼儀作法を教え込まれた。今にしてみれば、すでに花嫁修業が始まっていたのだと理解する。

「……分かったわ。いくつか打診してみる」

 いくつか。打診。つまりは、すでに複数の候補が上がっている。完全な零から探すではないということは、相手の返事次第では即座に事が運んでいく。

(私には、何かを選ぶ自由も権利もないの?)

 家を継ぐこともなく、ただの街娘になることもできず、恋することも許されず、実父と継母が選んだ、誰とも知らない男のもとへ嫁がされる。いや、売られていくと思っていい。

 つまり、自分に残された時間は限りなく少ない。

 音と気配を出さないように、ゆっくりと床を滑るように擦りながら、いったん部屋から遠ざかる。あくまでも屋内での最短の道が父の……師範の執務室前であって、自室である離れへは庭から直接行けばいいだけ。執務室から十分遠ざかると、庭へ裸足のまま飛び出す。

 春先の夜風が、湯上りの体を急速に冷やす。温度差に負けて、体中の傷が再び痛みだす。肺が冷気によって痛い。足裏には砂利に小枝が刺さるが、止まるわけにはいかない。

(……出なきゃ)

 どこからが始まりなのか。何がきっかけだったのか。前妻の娘だからか? 発育不良を起こしたからか? ……女だからか? 明らかなのは、この家にとっての“荷物”。“負の遺産”。だからこそ管理し、監視し、最適と判断される時期に、物のように手放される。

 庭を渡り切り、汚れた足を気にせず、そのまま母屋と師範家族の寝所とする家族の区画をつなぐ渡り廊下へそのまま上がり、壊す勢いで自室の扉を開け放った。

 正確には自室ではなく、自分専用の離れ。師範とその家族が寝所としている区画は、師範と後妻と弟の自室がある大き目の離れと、自分だけの小さな離れの二つがある。自分だけが家族ではないと言わんばかりに物理的にも、関係的にも切り離された場所。食事と風呂は寄宿する門下生たちも含めて、全員が母屋を利用するため、本当に着替えて寝るだけの自室ではある。

 それはすなわち、この四畳半の畳、床の間、押し入れと必要最低限の広さだけが設けられた小さな離れが、自分の“個人”としての最後の砦。

(ここから、この家から、この街から、逃げなきゃ)

 あんな横暴な父ではあるが、なぜか周囲の人たちからの人望が厚い。街に出れば、小角と罵られると同じく、父の娘であるというだけで妙に声を掛けられる。

 ……言い換えれば、街はすでに父の支配下といってもいいほど、自分に対する目が光っている。街に逃げ込むだけでは、すぐに連れ戻されることは明白。

(アタシの居場所は、何処にもない)

 戸を閉め、急いで寝間着を脱ぎ捨て、箪笥の中からお気に入りで、且つ動きやすい服を選ぶ。半袖の白襦袢に合うように、鳳凰の刺繍が入った赤襟の袖なし羽織。巫女を思わせるような真っ赤な短袴。差し色として紫の柔らかい帯を選ぶ。体中の傷は隠すために、腕には夕日色の薄布製腕貫(アームカバー)を、足には腕とお揃いで購入した夕日色の膝上靴下を。懐には、心もとないほどの全財産をねじ込む。

 そして最後に、床の間に飾られた一振りの打刀と、手入れ道具を小さくまとめてある巾着を手に取る。

 コウエン国では男女ともに十五歳を迎えると、未成年状態ではあるが法律上、婚姻が許される。これを「半立志」と呼び、男には打刀や太刀といった大き目の刀を、女には懐刀となる短刀を親が贈る習わしがある。一昨年、自分も半立志の際には、慣例通りの懐刀となる短刀とは別に、まだ免許皆伝前の半人前ではあるが一人の「剣士」に対する祝いとしてこの打刀が贈られた。柄と鞘は血潮と表す赤。柄の先には金装飾で描かれた、コウエン国において主神シンエンの眷属である鳳凰の浮彫が施されている。

 しかもこの刀は昨年の秋、弟の玲也が覚えたての剣技を隠れて練習するために裏手の山に一人で入り、冬眠前の熊に襲われそうになったところを食い止め、逆に熊を退治した際に用いた、今では相棒と呼ぶに相応しい思い出の刀である。

 なお、弟は逃げる際にできた掠り傷だけで済んだが、自分は何もしなければ全治二か月の大怪我を負った。娘に容赦ない父でも、さすがに全治二か月の傷を放置することはできなかったのか、すぐに街の治癒師を呼びつけて、治癒魔法による即時回復を施した。それでも、熊から攻撃を受けてしまったということは、教えた技術を生かしきれなかった未熟者の証として、今でも背中には四本線が残されている。

 つまり、この刀は相棒でもあり、自分の技術のすべてを見てきた鏡。そして、“剣士の自分”を形成する証であり、“女の自分”を否定する証である。

「姉ちゃん?」

 突然の声。相棒への感傷に浸りすぎて、警戒を怠っていた。反応は遅れたものの、即座に腰を落とし、相棒を腰の左側へ添えて、鯉口を切る。

 声のほうを向けば、戸から顔を少しだけのぞかせる弟がいた。顔は月明かりということもあり、肌は色白く青ざめたように見える。

「…………何?」

 本当に迂闊だった。必死に、何事もないように、とにかく冷静にと、感情を殺しつつ息を整え、構えを解く。しかし、心臓は早鐘のごとく、うるさく鳴り響いている。それぐらい玲也の登場は心臓に悪く、大声を出したくなるほど無警戒だった。

「大きな音がしたから、心配になって」

 迂闊点その二。先ほどの戸を勢い良く開けた音が、隣接している師範家族の離れにいた玲也にまで届いたということは、さらに向こう側にある母屋まで聞こえていた可能性はある。ならば、父と継母に気づかれるのも時間の問題だ。

「玲也、静かに、よく聞いて。……アタシは今から出ていく」

「出ていくって……まさか、家出?」

 自分たちは異母兄弟であり、しかも後継問題も含め、ギクシャクした関係となってもおかしくない程の特殊な間柄なのだが、熊騒動の際に彼を熊から助けた時から、自分を姉として慕ってくれている。そのために、こちらが小さく反応してほしいと願えば、驚きを必死に抑えながらも、その眼には涙を溜め始めている。

「そ、家出。しかも帰ってこない。だからさ、あんたにコレ、渡しておくね」

 コレと言って弟に手渡したのは、貝殻の裏の光沢面を利用した装飾である螺鈿で、打刀の鞘に描かれたのと同じく鳳凰の模様が施された、黒塗りの短刀だった。

「これって、姉ちゃんが半立志に……どうして……」

 弟の動揺はさらに激しくなり、今にも眼に溜めた涙があふれ出そうである。それも当然だ。この短刀は、まるで娘を嫌っているかのように振る舞う父が、わざわざ用意したものだ。弟にとってみれば、尊敬する父が姉の存在を認めたように見える、非常に大きな意味を持つ一品に見えているのだろう。

「いい? アタシは死んだの。だからこれは、アタシが一応ここに居たっていう証。それに死んだ自分を持っていきたくないの」

 だからこそ、“女の自分”と“紅崎家の自分”である短刀を置いていき、“剣士の自分”として打刀を持って出る。

「……分かった。でもこれは、僕が“預かる”だけだからね。姉ちゃんが帰ってきたときに、返すから」

 まだ声変わりが訪れていないが、背丈はすでに自分に迫るものであり、あと数年もすれば、目線は見上げなけれならず、角も何倍以上に大きくなって、この家の後継者にふさわしい男の姿となるだろう。預かるといった言葉には、そんな大人になった彼を想像させるほど、力強い響きが乗っていた。

「……そうね。帰ってきたら、ね」

 その時は、もっと低くなった声で呼び方も姉さんに代わっているかもしれない。帰るつもりは一切なのに、この子の成長を見たいがために、帰ってきたしまうかもしれない。そんな気持ちを呼び起こさせるぐらい、この弟に対する家族の愛は深いものだったのだと、今更悟った。

 それでも……この家に“カキョウ”という存在は必要ない。

「じゃ、行くね」

 最後にと弟の頭を優しくなでれば、短刀が音を立てるぐらい力いっぱい握りしめながら「武運……長久を……」と囁いてきた。彼がわざわざ武人に対する言葉を選んだ当たり、彼なりの覚悟が見えてくる。

 ゆっくりと頭から手を放し、もう彼の姿を見ることなく、部屋の入り口ではなく、対面の大きな障子戸から再び庭に出る。なるべく音を立てずに庭を駆け抜け、敷地境界の唯一の穴となる門までたどり着いた。

 この屋敷は打ち捨てられた神社を改装しただけはあって、門は梁の上に小さな屋根と瓦を乗せた立派な造りとなっており、誰でも迎え入れるという意味を込めて、扉は常に開きっぱなしである。

 門を越えることは、境内という神域や結界の外に出るということ。言い換えれば、加護や庇護から外れ、自分一人で立たなければならない世界へ旅立つこと。街へ買い物に行くのとは意味が異なる。

 そのために、踏み出した途端の空気の変化は顕著であり、夜ということもあって、肺を満たす空気は意味を伴って刺さるように痛い。

 一般的には嫁ぐなりして、発する言葉なのだろう。親不孝と罵られるだろう。

 それでも、自分はこの家を狂わせる歯車。不要な存在。取り除かれる前に、自分から出ていく。

「お世話になりました」

 振り向き、一礼。そして全てを置き去るように、暗闇の中、全速力で石段を駆け下りた。

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