1-終 不要者たちの出発点

 体感では10分ぐらいだが、実際は30分も外で話し込んでいたようであり、管理責任者である修道士長のシスター・マイカが、小難しそうに頭を抱えながら全員を教会の中に招き入れた。

「まったくもう……、いつまで待たせるのですか……」

「風が心地よかったから、ついつい」

 シスター・マイカの小言を、まるでいつものことと、トールはどこ吹く風のように受け流す。

「……そうですね。まるで自然が貴方たちの旅立ちを祝っているようですね」

 その言葉は深く優しく、同時にどこか遠くへ投げかけるような音であり、静まり返った礼拝堂の中に重く響き渡った。

 招かれるままに礼拝堂に入ると、正面の巨大なステンドグラスから差し込む光のみが礼拝堂を包み込む。言い換えれば光の届かない場所は全て陰になっており、差し込む光がより一層際立ち、静まり返った空間と相まって、まさに荘厳な情景となっている。

 祭壇へと続く中央の通路の両側に並ぶ木製の長椅子たちには、大小さまざまな人影がすでに座っていた。服装は皆、ルカと大きな白い襟と紫色を基調としたロングワンピースやチュニックを着ており、恐らく大人子ども含めて、この教会に所属する全ての者たちが集まっている。

 自分たちは祭壇から最も遠い入口そばの長椅子に腰を降ろし、シスター・マイカと共に祭壇へ向かうルカを見守ることにした。

 ルカは祭壇の前まで来ると、肩から下げているバッグは身に着けたまま両膝を折る。床の上に膝立ちになると、手に持っていた杖を床に置き、胸元で手を組み合わせ、祈りの状態へと入った。

「我らが姉妹のシスター・ルカは、今日この教会から栄えある巡礼へ旅立ちます。この旅は数多くの兄弟、姉妹が成し遂げたと同時に、多くの兄弟、姉妹たちが志半ばに聖サクリス様の元へ旅立ちました。この長く、険しく、苦難多き旅における、我らが姉妹とそのご同行の無事を、皆で祈りましょう」

 シスター・マイカが祭壇を挟んで、礼拝堂すべてを見渡せる中央に立つと、声高らかに巡礼開始の宣言と祈りの唱和を願った。その言葉に、皆が一斉にルカと同じく胸元で手を組み、ステンドグラスに描かれた聖サクリスへ、沈黙の祈りを捧げ始めた。自分も見様見真似で胸元で手を組み、この旅の無事と成功を祈った。横目で右隣に座ったカキョウを見れば、手は組み合わさっておらず、手のひら同士を合わせた合掌と呼ぶコウエン式の祈りを捧げていた。その奥のトールは特に何かすることなく、腕と足をそれぞれ組み、この祈りの場を静かに見守っている。

 程なくして祈りが終わると、長椅子に掛けていた修道士たちの中から小さな人影たちが、立ち上がろうとするルカの元へ駆け寄っていった。

「ルカ姉ちゃん! 行ってらっしゃい!」

「がんばれよ!!」

「絶対、帰ってきてね!」

「たまには手紙ちょーだい!」

 駆け寄ったのは、ルカと同じく孤児院で生活する子どもたちであり、旅立つ彼女に対して次々と応援の言葉をかけつつ、抱き着いたり握手したりしている。

 だが、どの子も決して「寂しい」や「行かないで」とは言わず、取り囲まれるルカの光景を見守る大人たちも含めて、みんなが笑顔なのだ。

 この和やかであるはずの雰囲気に、僅かながらの違和感を抱いてしまった。

 シスター・マイカの言葉にもあったが、この旅で命を落とす者もいる危険な旅であるのに、この場に永遠の別れの可能性については、誰も一言も発しない。それが旅立つものへの鼓舞もしくは、これまでのネストまたはトールの評価が生み出す安心感から来ているものだろうか?

 どちらかといえば聖サクリス教において、巡礼という行事そのものが成否や生死を問わず、選出されることの重要性が大事であり、誉れ高いことであるように見える。

 これは自分が聖サクリス教の教えを知らず、また一切の傾倒がないための、外側から見た一方的な偏見からくる感覚なのだろう。

 見方を変えれば、巡礼が重要であるからこそ、教会本部はマーセナリーズ・ネストと相互協力協定を結び、巡礼者の経費を教会が負担し、なおかつ同行者への報酬も支払うという手厚い補助まで用意してあり、。トールも“季節の恒例行事”と言っていたために、このサイペリア国においては“日常”の一つなのだろう。

(これも、“外を知る”ということか)

 立つ土地が変われば、人も、環境も、主義主張も、信じるものの比重も、ありとあらゆるものが変わり、それがその土地における“常識”なのだと、教えられる。

 カキョウの祖国であるコウエンには『郷に入っては、郷に従え』という意味の言葉がある。その土地に入ったら、たとえ自分の持つ価値観と異なっていても、その土地の慣習にあった行動をとるべきという教えであり、この木箱から出てからの3日間で、最も体に染み渡り、この先もずっと染み込み続けるだろう。

「さぁ、さぁ! もうお開きですよ。皆さんはお勤めに戻ってください!」

 なかなかルカの周囲が落ち着かない様子を見かねたシスター・マイカが、手をたたきながら祭壇から降りてくると、群がっていた子どもたちが蜘蛛の子を散らすように、大急ぎで礼拝堂から出て行った。大人の修道士たちも、こちらに軽く会釈をすると、子どもたちを追った。

 現在、礼拝堂には自分らネスト組3人に、ルカ、シスター・マイカの5人だけしかいない。人の気配が大幅に減った礼拝堂は、石レンガから生み出される無機質な冷たさと合わさり、荘厳という言葉が似あうほど、重く厳かな空間へと切り替わった。

「シスター・ルカ。あなたに言っておかねばならないことがあります」

 自分たちも立ち上がり、ルカのもとへ寄ろうとしたときに、シスター・マイカが声を発した。5人しかいない礼拝堂では、一人の声が透き通るように響き渡る。シスター・マイカは改まったようにルカの前に立つと、沈痛な面持ちで言葉を続けた。

「この巡礼は、ただ各地に祈りを捧げるだけでなく、この世界と……我々の兄弟姉妹たちをよく観察することです」

 経験を積めという意味でなら、世界を見るという言葉は身に染みるほどよくわかる。しかし、後者のまるで身内に目を向けろという言葉には、世界と発した時よりも深く、重い音色が掛かった気がした。

「兄弟姉妹を観察、とは、どういう……」

 ルカは、その言葉の意味が理解できないと動揺し、息を飲んでしまっている。様子から見て、彼女も初めて聞かされる内容であることがわかる。

「今は詳しくは言えません。ですがいずれ、あなたも『あること』を選ぶ時が来るでしょう」

 シスター・マイカの沈痛な面持ちは、言葉をつづるごとに陰りを増していき、まるで、その時が訪れないことを祈ると言わんばかりの悲痛な声に聞こえる。

「今は……ええ、今はですね。この言葉は忘れてもいいです。とにかく、あらゆることを経験し、あなた自身の考えを持つことです。よいですね?」

「は、はい……気を付けます」

 ただひたすら、今はと繰り返すシスター・マイカの姿に、目の前に立つルカは目を見開き、息を飲み、肯定の返事しか出せない。忘れろと言いながら、まるでルカの瞳に一言ずつ刻み付けるようだった。

「よろしい。……これで私が教えれることは、もうありません。シスター・ルカ、貴女の旅路が無事であることを、切に願います」

「マイカ、様……」

 言葉をつづり終わるとシスター・マイカは表情を少し緩め、彼女の頬をやさしく撫でた。そして一撫でされるたびにルカの瞳からは一筋の涙が、自らの頬と撫でる手を濡らしていく。

 その光景はまるで見送る母親と見送られる娘の姿であり、監禁生活の中で小説や伝記から得た、旅立ちや離別の情景との一致であった。これが自分の思い描いていた見送りの場面そのものであったからこそ、先ほどの子どもたちに取り囲まれた和やかな雰囲気が違和感となっていた。

「さぁ、泣くのは終わりですよ。……行ってきなさい」

 シスター・マイカはルカの目元の涙を優しく拭うと、頬からゆっくりと手を離した。

「はい……行ってきます!」

 そしてルカも残りの涙を拭うとシスター・マイカから1歩離れ、今まで聞いた中で一番大きな声で挨拶を発し、大きくお辞儀をした。

「そして皆さんも……、ルカをよろしく頼みます」

 ルカ越しに向けられる視線に自分たちも姿勢を整えると、トールに続くようにお辞儀をし、シスター・マイカに答えた。

 顔を上げれば、これ以上の言葉は無用とシスター・マイカが笑顔で力強く頷き、自分たちは踵を返して、礼拝堂を後にした。



 薄暗い礼拝堂から明るい晴天の下へ移動すると、その明暗の差に眼が追い付かず、一瞬眩んでしまった。現在の時間は10時。もうすでに1時間経過しており、強まった日差しが頬を刺激する。加えて、草原から舞い上がる春風と、大海原から流れてくる潮風がぶつかり合い、髪やコートの裾を巻き上げた。

「うーおーーー! きっもちいい!」

「ですっ、ね! きゃぁ!」

 春風と潮風のぶつかり合いは、前を歩く女性二人の煌めく赤髪と輝く亜麻色の長髪を、空へと舞い上がらせた。その2色の髪は、空の青とも草原や山々の緑とも違うために、その揺れる姿がまるで生き物のように切り取られ、さながら踊り子の舞のように、激しくも心地よく揺れている。

 もっとも、ルカにいたってはロングワンピースが舞い上がらないよう、必死に押さえつけ、心地よさを感じるどころではない様子である。

「ほんと、見事な出発日和だなぁ」

 そんな和やかな女性二人の背中を、トールは鼻の下を伸ばしながら、幸せそうに眺めている。そのうち、小突いたほうが良いのだろうか?

「そうだな。風が心地いい」

「そう言う割には、浮かない顔してるな」

 トールに指摘されたように、確かに自分は女性二人と青い空、若草色の丘からすれば、似つかわしくないほど暗いのだろう。

「……この世界で他者を排しても生きると決めたのに、この風と景色があまりにも心地よすぎて、その決意を忘れそうになるのが怖い」

 そういいながら、自分の手を見つめた。

 この手はきれいに洗い流されているものの、昨日初めて、生きた人間の肉を斬り、殴りつぶした血染めの手なのだ。たとえそれが、己の生存権を守るための行動であっても、今まで培ってきた倫理観が褒められた行動ではないと言わんばかりに、警鐘という頭痛と心のモヤを生み続ける。

 特に昨日の最後については、完全に殺意に飲まれた上での行動であり、それをカキョウとジョージ支部長によって止められなければ、あのまま振りかぶっていただろう。

 そして、この心地よい風が、警鐘の痛みと靄を和らげていく。青空が、春風と潮風が、草木が、春という季節がどんなに爽やかであろうと、この手についた血と『殺』は消えないというのに、まるで決意ごと連れ去っていく。

 それは自分が決意から逃げたいという現れなのか、また人を斬らなければならないという恐怖なのか。

 今の気持ちを吐露してみれば、幾分かはマシになったものの、すべてが晴れることはなく、自分が認識している以上に、昨日の戦いから受けた影響は大きかったのだと実感させられる。

「んー……」

 そんな吐露を受けたトールは、こちらを不思議そうな眼差しで見つめたかと思ったら、ヌルっと眼前に右手を差し出し、次の瞬間。

「あいたっ!!!」

 強烈なデコピンをもらった。

 しかも、タダのデコピンではない。貯め動作無しに放たれたはずだったが、その衝撃は頭部の中を通り、後頭部へ抜け出るような貫通性を誇った。加えて、指で弾かれただけなのに、威力と痛みで数歩後ろに下がってしまうほど、すさまじいものだった。特にこちらも完全な無防備状態だったからこそ、一切の軽減要素無しに純粋な衝撃と痛みに襲われ、自分でも驚くほど大きな声で、痛みを表現してしまった。

 救いだったのは、弾いてきた指の牙獣族(ガルムス)特有の鋭くとがった爪が、彼のコントロールによって、皮膚をかすめることなく無傷だったという点。……それでも痛いという事実は変わらない。

「少し考えすぎだっつーの。いいか? お前が覚悟だの決意だのと言っているものは、何も常日頃考えておくようなものじゃないんだ。自分や仲間の生存権が不本意に他人によって奪われようとしたときに腹をくくるもの。

 気楽にしていろとは言わないが、もう少し肩の力を抜け。真剣なのは良いことなんだが、張り詰めすぎると『生きる』ことに疲れちまうぞ」

「生きることに疲れる……」

「そ。疲れたら、体の動きが鈍くなるだろ? あれと一緒で、体だけじゃなく、頭と心も動きが鈍くなる。そうなれば判断も行動も遅れ、本当に取り返しのつかない事態を引き寄せてしまう。それぐらい、適度に気を抜くっていうのは重要なことなんだぞ」

 トールが言っている生きることへの疲れというのは、思い当たる節が多すぎる。養子先を出るつい先日まで、自分は存在しているだけでも周りに迷惑を振りまいている人物なのだと思っていた。特に幼少のころはさらなる迷惑をかけたくないという自分の気持ちに反して、よく体調を崩してしまっていた。今でこそ、それは様々な環境変化に適応できていなかっただけでなく、トールの言う生きることに疲れたことによって、さらなる悪循環を引き起こしていたのだと分かる。

 また、体調を崩すたびに迷惑をかけたくないからと、顔色が悪くとも平気と言い張り、風邪の諸症状を隠し、朦朧とする意識の中で自分が死んだら、誰にも迷惑をかけなくなるなんて考えてしまう時も多々あった。

 今思えば、トールがいう『生きることに疲れる』というのは、もうずーっと引きずっていたのだろう。それが養子先を出ることによって解放されるはずだったが、外ではまた新しい悩みを抱えてしまっている。

「んま、お前の雰囲気からして、すぐすぐにってのは無理そうなのは分かるさ。特に新しい情報が溢れすぎていて、頭の整理や納得が追い付かない状況だろうしさ。とにかく決意はこの際、忘れてしまってもいいから、今はこの心地いい風と光景を堪能しろ。そして必要な時に思い出せ。何事も切り替えが大事だからな」

 忘れてもいいから、ここで一度は心をまっさらにしてしまったほうが、これから始まる旅と仲間と、自分のためでもあるのは確かである。

「……そうだな」

 促されるままに、眼下に広がるポートアレアの街を見ながら、大きく息を吸う。鼻を通じて取り込まれる空気には、若草が放つほろ苦いにおいと潮風に乗ったほんのりと香る磯のにおいが乗り、肺を伝って、全身を満たしていく。そして、代わりにと体の中に溜まっていたわだかまりや不安を、一緒にすべて吐き出した。

 次に空気を吸った時には、全身と心が軽くなり、世界がより一層光り輝いているように映った。

「気合、充填できた?」

 もう何度目だろうか。視界の隅に映り込んできた煌めく髪と瞳の深紅に、眼と心を奪われるのは。丘の敷き詰められた若草を背景にしているために、なおのことカキョウの赤は強烈なコントラストとなって、視線を外させてくれない。

「あ、ああ。すまん、もう大丈夫だ」

 なお、今しがた自分が思いをトールに対して吐き出していたのは、カキョウとルカにもしっかりと聞かれていたために、今更ながら恥ずかしさがこみ上げてくる。

 だが、悪い気分ではない。ここにいる3人は、人生の中でも最も濃い経験を共有し、弱み的な部分も互いに晒していくことになる『仲間』なのだから、これぐらいの恥ずかしさは本当に些細な事だろう。

 止まっていた足を再び動かし始める。

 この見慣れない青空の下、見知らぬ大地の上、知らない常識の中で、味わったことのない苦難が待ち構えていようとも。

 たとえこの春風の向こうに続く道が、危険を伴い、血塗られ、常に生死の境界を行き来することになろうと。

 今は、ただひたすら、前を向いて歩いて行こう。

 


 ――第1章:俺たちは生きるために、『殺す』ことを覚えた。

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