1-14 新緑を紅(あか)に染めて

 間を置かずして、瑞々しさと重さを伴った、拒否したくなるような落下音が鳴る。音の落下地点を見れば、ラッツが赤黒いな絨毯の中でうずくまっている。右腕から肩甲骨付近までの骨があらぬ方向に曲がり、肉を突き破って、血が止めどなくあふれ出ている。広がり続ける血だまりの中で、男はヒキガエルのような潰れた声で鳴くことしかできない。

 視線を戻せば、巨人の左手の甲が赤黒い液体にまみれており、汚いとばかりに手を振って雫を切った。

(こいつ……今、部下を殺した)

 まだ、ギリギリ死んでいないとはいえ、これはほぼ殺人といっても過言ではない。先ほどまで、必要な『殺』について理解したばかりだったのに、目の前で起きた光景に頭の処理が追い付かない。

 捕まえたカキョウを嬉々として見せびらかしていた姿は? 親分と呼ばれるほど慕われた姿は?

(ああ、そうか……こいつにとって“不要”となったからか)

 単純な話、雷拳のラッツと、先に自分が倒した小剣使いのガナンについては、あくまで自分の目が届かない範囲での手伝いというだけ。人数差や力量差が自分一人で賄えるなら、それらの戦力は要らない。この化け物にとっては、足枷にしかならなかったのかもしれない。

 だからと言って、自ら殺す必要はない。なのに、なぜ? まるで、目の前の怪物が持つ『不要者の末路』の考え方を示されたようなもの。

 ――脳裏に、あの雨の日の、自分の名前が彫られた墓がチラつく。

 不要者の末路は、やはり死でしかないのか?

「おいおいおい……、超速再生持ちで、仲間殺しか。いよいよ化け物だな」

 右肩から伝わる軽い衝撃に意識が戻され、視界の右側が太陽の光に輝く金色一色に染まる。

「なんか、想定よりも相当めんどいことになったね」

 今度は左の肩甲骨付近が叩かれ、左側の視界の下隅に流れる水のような、柔らかい青が差し込む。

「二人とも……、もう大丈夫なのか?」

「俺は腹殴られただけだからな。かっこ悪いとこ、見せちまったな」

「ごめんね、一人で戦わせちゃって。僕はまだちょっと……。まぁ、ロールガイザー二発ぐらいなら行けるよ」

 トールは腹をさすりながら、ラディスは癒えたはずの右二の腕をさすりながら、二人ともバツが悪そうにニヘラと笑う。

(あ……、俺は何をバカなことを考えているんだ)

 自分は今日駆け出したばかりの外の世界初心者であり、現状で必要か不要かを測ろうとするのがそもそもの間違いなのだ。

(それでも……誰かに必要と思われるような人間になりたい)

 今、特定の誰というのはないが今後のことを考えれば、少なくともトールとカキョウからは、そう思われるようになりたいと思った。

(カキョウ)

 頭をよぎる真紅色の髪。気絶しているなら、もう起きても良い頃。打ち所が悪ければ、死亡も十分にあり得る投げられ方。今すぐにでも安否を確認したいが、そんな暇すらもらえないほど、目の前の悪意は大きすぎた。

「次ハ、おまエたぢ、の、番どぅわ」

 人離れ気味の骨格と超速再生に加えて、とうとう呂律がおかしくなり、荒々しい息遣いに交じる唸り声が、余計に人間だという認識を遠ざける。

 三度振り上げられる化け物の右腕。動きそのものは緩慢であり、何度も見た攻撃を避けることは余裕である。

「まっず……。二人とも、一旦森に逃げ込め!」

 しかし、トールの反応は何処か焦りに似た驚きを持ち、弾ける声の指示に体が反応する。一目散に振り返った先の森へ逃げ込めば、背後から鈍くも大きな衝突音に加え、巻き上げられた土や小石が頭に降り注いだ。

 何事かと思って、体を木に隠しながら元居た位置に目をやると、先ほどまで自分たちがいた地面は、拳の形よりも大きく抉り取られており、まるで地面が“爆発”の痕のようだ。ただ地面を殴っただけで、あんな威力になるだろうか?

「ふぇ~……、危なかったな」

 隣には、同じように木に身を隠しつつ、息を整えるトールがいた。

「あ、ああ。ありがとう。しかし、攻撃の変化がよく分かったな」

「ああ、これこれ」

 そう言って、彼は自らの鼻をトントンと指さした。

「どうも、あいつ自身の魔力じゃなくて、ポーションとか色々取り入れたみたいだな。後からどんどん臭くなっていきやがる」

 ポーションとは、魔法が発動する寸前の“変化途中にあるマナ”を水溶液に溶かした薬液のことを指す。トールのジャケット裏に収納されている治癒のポーションは代表的なものであり、患部に垂らすと止まっていたマナの変化が再び進み、瞬時に治癒の魔法と同じ効果を得ることができる。治療薬だけでなく、肉体強化魔法なら飲んだその瞬間から体が強化される増強剤や、攻撃魔法を封入した即効性に長けた魔法爆弾になる。

 魔法と大きく違う点としては、すでに魔力の支払いが行われているために、自分から新たに魔力を支払う必要はない。魔力切れのリスクを負うことなく、魔法と同じ効果が得れるという優れ物である。

 トールの発言からもポーションを中心に、変化や強化に特化した薬物などを大量に摂取することで、人間離れをした身体能力を得たのだと納得がいく。

「あアん? どぅコ、いっダ?」

 巨人の様子が若干おかしい。こっちは身を隠しているといっても、自分の胴回りと大差ない太さの木の裏にいるので、探せばあっさりと見つけられるはずだ。

 しかし、相手は完全に見失っているそぶりで、殴りつけた地面の周辺をウロウロとさまよっている。演技かと勘繰ったが、それにしては動きが自然すぎる。

「副作用かもしれないが、少しずつ眼が悪くなっていっているみたいだな」

 振り返ったグローバスの眼を見れば、膜がかかったかのように白く濁っている。どれほど視力が落ちたかは分からないものの、光あふれる場所に隣接する一層暗くなった影の中に潜むだけで、獲物を見失う程度には弱まっている。

 とはいえ、相手の変化からも時間とともに効力を発揮する遅効型のものも使用しているなら、これ以上の強化が進む前に倒したいところ。

(倒す……。倒す? ああ、そういうことか)

 剣の訓練の時には、何度も何度もネヴィアやグラフ殿に転がされた。それこそボールが転がるように。しかし、肉体の成長とともに転がされる回数は減り、やがて自分が相手を転がす側に転じた。それこそ“自分よりも大きな肉体を持つ巨人族たち”をだ。自分の攻撃が上方を狙う、もしくはさらに上から叩きつける攻撃が多いのも、自分より大きな者たちを相手にしてきたからだ。

(俺は戦い方を知っているはずだ。ありのままの自分を活かせ)

「トール」

「ん?」

「奴の足を狙いたい」

 奇襲の初撃こそガラ空きだった腹部を狙ったが、狙うなら重心を崩すために足を優先させるべきであった。特に膝から下は巨体を支える要となるため、小さな傷や痛みでも無視できない。結局は保護膜魔法(ガードオーラ)によって防がれることになっただろうが、勢いによって姿勢を崩すことはできたかもしれない。

 また、ひとたび転倒させることができれば、あれだけの巨体を起こしてしまうまでに時間もかかるだろう。

「ははーん、なーる。それは確かに面白そうだな」

 こんな緊迫した状況でも、不敵な笑みを浮かべつつ面白いと言ってのける彼の姿は、経験者としての余裕なのか、それとも強靭な精神力によるものなのか、つくづく感服する。

「なら、俺らが前で引き付ける。その隙に背後を取れ。行けるな?」

 提案は了承されてなおかつ、彼によって咀嚼され、新しい行動指針へと変わった。俺らと表現したということは、別のところに隠れているラディスとも連携が取れるということだろう。

「ああ」

 トールの笑みにつられてか、自分の心と声が小さく弾む。提案を受け入れられたことが嬉しかったのもあるが、巨人の歩き回るあの戦場に向けた眼が熱くなり、心の中に高揚感が広がっていく。船上での戦いに、ラッツとガナンの戦いにと、数度は命の駆け引きをしてはいたが、どれも生きるための受け身な考えからくる行動でしかなかった。故に、今の自分に生まれている攻撃的な思考と戦場に馳せたいという気持ちは、誰にも流されることなく自らの願いで戦おうとするはっきりとした、生まれて初めての自発的な戦意だ。体中の血液がたぎり出す。怒りとは違った、緩やかながらもはっきりとした熱が心地いい。

「ちょっとはいい面になったな。……うっし、それじゃお先に行くぜ」

 彼はどことなく嬉しそうにニカッと笑うと、目を閉じて一拍ほど深く息を吸い、気合を補充した後に光の中へ駆け出して行った。

 いい面と表現されたということは、こちらの昂りが顔に出ているということか? と、気恥ずかしさで口元を押さえつつ、自分が飛び出すタイミングを計る。

「うルぉ? ミぃづゲだ」

 視力が落ちたとはいえ、光の下へ駆け込んできた黒と赤の衣服は目立つようで、グローバスもすぐにトールの姿をとらえた。

「ラディス! もう一度、俺を上げろ!!」

「……恵の雫、集いて箱と成せ――アクアボックス!」

 トールの大声に続き、姿無きラディスの魔法名が森中に木霊する。直後、トールの前方五mの位置に突然五十cm四方、高さが一mほどの“水の柱”が地面からせり上がってきた。

「凍てつきて、制止せよ――フリーズ!」

 続けざまに唱えられた魔法は、せり上がる水柱の天辺である“上面だけ”を凍結させ、氷の天板に変化させた。さながら、氷で作られたミニテーブルを持ち上げる水柱という状態だ。

 そこへトールが疾走の勢いのまま、大きく跳躍。目の前に出来上がった水柱の天辺である氷の天板に、美しく着地……ではなく着氷した。

「さぁ、いっくよ!!」

 先の魔法を詠唱した時よりも大きなラディスの掛け声と共に、トールを乗せた水柱が瞬く間に巨人の背丈と変わらないぐらいまで“伸びた”。瞬く間というだけはあり、水柱の伸びたスピードは弓から放たれた矢と表現していいほど速く、生み出された勢いを生かしたまま、トールは氷の板を蹴り、巨人の頭を越えたさらに高い空へ跳躍した。

(そうか、さっきの空からの攻撃は、これか)

 今のトールの高さは少なく見積もっても十mぐらいの位置。周囲の木々でもヒトが乗って跳躍できるような太さの枝はせいぜい五m程であり、ちょっとした疑問にはなっていたが、この水柱を使った方法なら納得ができた。

 天高く舞い上がったトールは、再び太陽を背にして、巨人を眼下に捉える。

「小賢ジい……何度モ同じ手ハぐワン!」

 同じ手は喰わないと言いつつも、グローバスはトールを視界に納めようと再び天を仰ぎ、顔の前で腕を交差させ、余裕と言わんばかりの笑みで防御姿勢を取った。

「んなら、こいつはどうだ?」

 そんな相手の余裕の上を越えるトールの不敵な笑みは、太陽を背にし陰となっても伝わってきた。その根拠となっているのが、彼の手にしているバルディッシュに集められた、“いつ炸裂しても不思議ではないほど大きく膨れ上がった、目に見えるほど緑に色づく濃厚で濃密なマナ”である。

「喰らいな――ブラストネイル!!」

 技名らしき単語と共に、バルディッシュを宙で盛大に振り下ろし、緑に輝くマナが解放された。次いでやってきた変化は、身体が吹き飛ばされそうなほどの強烈な暴風。森の木々が盛大に揺らされ、大量の木の葉が巻き上げられる。

「イイイイダダダダダッ!!」

 自分にはただの吹き荒れる強風に感じたが、目の前の巨人のあらゆる肌には無数の裂傷が浮かび上がり、いくつもの細かな血飛沫の花を咲かせた。裂傷の正体は暴風ので暴れ狂う、目に見えない風の刃がつけた傷。とりわけ、攻撃の始点から最も近い交差させた腕からは、大輪と言わんばかりの花が咲き、赤い雨となって降り注いだ。


 ――カチ。


 耳の奥で小さく鳴り、三度目のゆっくりと動く赤い世界が訪れる。赤が黒となった雨の中を脇目も振らず、体が黒い雨に濡れようとも一心不乱に駆け抜ける。

 グローバスの背後に回り込み、目標物の左足ふくらはぎを眼前に捕らえた。腰を深く落とし、剣を胴の右横に流して地面と水平になるよう持ち上げ、上半身を雑巾絞りのように限界まで捩じる。既に温まった魔力が今か今かと騒ぎ出す感覚が全身に溢れかえった。

「グラインドォ……アッパアアァァァァ!!」

 解放されたすべての力が、技の名に応じて、真っ赤な世界に一筋の白い線を描く。描かれた先はふくらはぎと腱の間。ここを斬られたならば、いくら超速再生といえど体幹が崩れ、崩れ落ちるだろう。

「!?」

 しかし刃は、皮膚から数cm刺さって止まった。皮膚には確かに斬っているというのに、出血が異様に少ない。魔力がぶつかり合う感覚も無く、防御系魔法も使われていない。まるで密度と硬度の高い丸太に、薪割り斧で一撃を与えた感覚に似ている。加えて超速再生によって、すでに切り傷の修復が始まっている。なんと忌々しい能力なのだろうか。

「いっデェんだョオ……!」

 化け物じみた強化の割には、痛覚はまだ消え去っていないらしく、ゆっくりと防御姿勢を崩し、交差を解いた左腕が持ち上がった。痛みによって動き自体は緩慢になったために、相手の攻撃を避けること自体は難しくない。

 だが、あえて避けない。止められた刃を一度抜き、その場で再び構えなおす。シチュエーションでいうなら、腹部を狙ったときと同じであり、このままでは再び巨人の攻撃を受けて、無様に地に伏せてしまうことだろう。

 それでも、今自分の中に溢れる自信は、このまま続けろと鳴り響く。

 足りないなら、さらに支払え。

 届かないなら、届かせろ。

 強く願うは、“あらゆる装甲をも切り裂く、強烈な一閃”。

 イメージが魔力に置き換わり、想いに応えるよう刃がより強く輝きだす。

「ハァァアアアアア!」

 もう技名すら叫ばずとも放たれた白い輝きの一閃は、今度こそ止まることなく再び美しい一線を描いた。手に伝わる肉の感触が嫌に生々しく、はっきりと斬ったと分かる。その証拠に視界が元の新緑の色づく森色に戻ると、目の前が壊れた蛇口から溢れ飛び散るトマトジュースと揶揄したくなるような新しい赤に染まり、巨人の動きが止まった。

「……ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!」

 遅れて出てきた叫びは、身と耳を引き裂かれる爆音とも言ってよい程の強烈であり、爆心地直下にいた自分はそのあまりにも強烈な音によって、あっけなく後方へ吹き飛ばされてしまった。再び打ち付けられた背中、口の中に広がる砂利の味、音波によって軋んだ体。どれもが忌々しく、自分の無力さを痛感させる。

 だが、自分の与えたダメージは思いのほか深かったようであり、目の前の巨大な山がゆっくりと“こちらへ”傾いてくる。傷の深さと吹き出た血の量から見積もっても、あの巨体を支えることはできないだろう。体を起こしながら策の成功を確信しつつ、巨人が倒れこんでくる前に現在位置から遠ざかる。

「ンンンンン!!! ングゥっ!」

 しかし、そこは化け物と言わざるを得なかった。あふれ出る血も、腱を切られた痛みも無視して、グローバスは転倒することなく、その場に踏ん張って見せた。そして始まる超速再生。

(なぜ終わったと思ってしまった? 奴の再生力を甘く見たか? クソ……せめて、もう一撃加えていたら……俺はとことん阿呆だ)

 先ほど『殺』の色に染まることを決意したはずなのに、結局染まり切れていなかった。悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。いや、悔やむ暇があるなら、行動に移せ。

 だがすでに、距離が開いている。今から駆け出して間に合うか? 無理だ。

「――イアイ・アカノハヤブサ」

 諦めたその時、森に響く凛とした女性の声。

 次の瞬間、眼前を支配したのは、太陽に照らされ輝く深紅と、森の色を映してさら深まった深紅、そしてほんのり赤みを帯びた銀色の刃。

 自分は、それらの赤を知っている。視界が覆われるのは、船上の初実戦を含め二度目だ。


 二度目? 本当に二度目?

 一瞬だけ頭痛とともに脳裏に映った、白の中に映える赤。

 輝く深紅ではなく、黒になり行く深紅で真紅。


「切り離しちゃえば、再生とか関係ないよね?」

 そんな白の光景も、現実になびく深紅から発せられた声と、その奥で轟音と共に崩れ行くグローバスに意識が戻された。彼奴の左足の膝から下が消え去り、支柱を失った石橋や廃墟のごとく、真っ赤な海に巨体が沈みゆく。

 再び視線を手前の深紅に戻せば、仕事完了といわんばかりに誇らしげな声を上げたカキョウがいた。彼女は、多少の衣類の乱れはあるものの、見える皮膚に傷は一つもなく、刃に付いた露を払い、美しい所作で刀を鞘に納めている。

「カキョウ……、無事だったのか!」

 彼女の無事な姿に、全身のあらゆる痛みが吹き飛び、瞬く間にカキョウを眼下に収め、両肩を掴んでいた。

「い、一応ね! めちゃくちゃ痛かったけど……」

 彼女の肩がビクリと跳ねる。傍から見れば、大男が小柄な女性に掴みかかっているように見える程、自分たちの体格差は大きい。カキョウにしてみれば動く壁が立った一瞬で目の前に出現したのと同じであり、ビックリしてしまうのも理解できる。

「あっ、驚かせてすまない。つい……」

 自分でも理解できてしまったということは、この状況は咄嗟の喜びとはいえ、彼女に失礼である。加えて「痛かった」の言葉が小屋に投げられたときの感想だとは思うが、自分が掴んでしまっている肩も指しているかもしれないと頭をよぎり、ゆっくりと彼女の肩から手を離した。

「ああ、いいのいいの! それよりも、じっとしててあげて」

「……傷つきし者へ慈愛の光を──ヒーリング」

 彼女の指示に加え、「あげて」という語尾の違和感について気に留めていると、背後から自分知らない別の女性の声が発せられた。その呪文は船上で頬の傷を癒してもらった時と同じく、白絹の淡い光が視界に写る。

 しかし、ラディスが唱えた時と違い、冬場の暖炉の前かと思えるほど、全身が温まっていく。

「ほ、他に痛いところ、あ、ありませんか……?」

 視界の左下から覗き込むように入ってきたのは、クルミの殻に似た柔らかい薄茶色の長髪に、大型の宝石と見間違えるほどの大きく透き通った紫の瞳の少女。教会で見た黒に近い紫のワンピース。少々怯えた挙動を見せつつも、手から注がれる癒しの力は心地よく、全身の痛みはもとより、口の中の砂利味も完全に消えている。正に癒しを専門とする者が発する治癒の力であり、彼女こそ救助対象であるシスター・ルカだと理解した。

「ああ、すっかり無い。ありがとう。しかし、二人はどうして、ここに……」

 二人が無事だったのは良いことなのだが、ふと疑問がよぎった。カキョウはグローバスに盛大に投げられたにもかかわらず無傷なのは、シスター・ルカに治療してもらったのだろう。

 だが、シスター・ルカが自由に動けているのと、カキョウがトールに預けていたはずの刀を持っている。ということは……。

「いよ! ダイン、カキョウちゃん、お見事だったぜ!」

「ルカちゃんもありがとね」

 タイミングよろしく、体のあちらこちらに若い木の葉を散らしたトールと、両手を労わるように摩るラディスがゆっくりとした足取りで、こちらに歩いてきた。

「……トール、無事なことを知っていたのか」

 恐らく、自分とラディスが小剣使いのガナンと戦っている最中に、二人を介助したのは想像できる。しかし、あの場において戦闘よりも介助を優先できる条件としては、二人の無事が事前にわかっていることに尽きる。

「おいおい、俺の種族を忘れたのか?」

 そう言ってトールは、自身の鼻と耳を指差した。

 トールはカキョウが投げ捨てられた後、耳で彼女のか細い呻き声と、鼻で僅かな血の匂いを掴んでおり、カキョウが生きていることを察知していた。

 グローバスの肩から振り落とされると、霧に紛れてそのまま木っ端微塵の小屋へ入り、改めてカキョウの無事を確認。同じく無事だったシスター・ルカの拘束を解き、カキョウの治療を頼みつつ、刀を返却するとそのまま戦線復帰……というより、俺に対する戦う覚悟の授業が始まったということだ。

 カキョウは治療が完了すると、小屋の残骸に身を潜め、打って出る機会をうかがっていた。シスター・ルカは小屋の裏から森へ入り、気づかれないように大きく回りこんで、合流したという流れだ。

(一言欲しかったが……そんな余裕はないか)

 今思えば、トールには優れた感覚器官があり、ラディスには探知魔法があったために、二人は自分が動いた時点で、カキョウとシスター・ルカの状態は分かっていた可能性がある。その通りだとすれば自分一人だけ焦り、馬鹿みたいに一人がむしゃらだったのかと、若干落ち込みはする。

 しかし、それを差し引いても、グローバスの圧倒的な体格やパワー、再生力は脅威以外の何者でもなく、全員がそれぞれの必死な状況だったことには変わりない。現にラディスの腕はいまだに赤々しく、シスター・ルカの治療を受けている。トールも一息と自身についた木の葉を払ってはいるが、まだ武器を仕舞う様子はない。カキョウも同じようにゆったりと立ってはいるが、刀の柄には手が添えられている。かくいう自分も、長大なブロードソードを握ったままである。

「……アガガガ……グゾウ、グゾウウウ!! ナぜだ、なんデ、足、戻らナ……イイイイイィィィ!!!」

 誰だって、こんな光景は望んでいない。安堵の時間が終わりを告げる。崩れたはずの山が動く。左足が完全に切り離された現実を直視できないのか、両足で無理やり立ち上がろうとしては体勢を崩し、再び立ち上がろうと何度も繰り返している。

 超速再生が追い付かないのか、その巨体が揺れるたびに、左足の膝から下や肌中に広がる無数の傷から血をまき散らす。先の手下二人の分と合わせて、周囲は血の海なんて言葉が形容詞ではなくなるほど、木漏れ日に照らされたあらゆる地面が赤黒く、むせ返るような鉄錆の匂いに包まれた。

 『殺』に染まると決めたが、すぐすぐに体が慣れるわけでもなく、その光景に脳が拒絶反応を起こす。こみ上げる嗚咽を押さえつけつつ、まだ動こうとする巨体に対して、剣を構えつつ、カキョウとトールと共に前に出た。

「ジね、ジネェ、ゴロジでやル! ジネ!!」

 足の再生が無理とようやく理解したのか、グローバスは切り離された左足を無視して、右足と両腕を使い、何とか三点で体を支えながら、まだこちらへ迫ってくる。

「往生際が悪いよ!! ――アクアショット!!」

 胸中を代弁するラディスの声が、間を置かずに森へ響いた。声と共に発射された高圧縮の水球は、的を射た矢のごとく巨人の眉間に、豪速と轟音を持って命中。弾丸の威力に負けた巨人は、抜けた左足から赤い海へ崩れ落ちる。

「グゾウ!! グゾオオオ!」

 駄々をこねる幼児のように巨大な手足をバタつかせ、赤いしぶきを巻き上げる。今もなお起き上がろうとするのは、何なのだ? 何がこの者を突き動かすのか。

「オデ……ざマが、“矮躯”ナ゛……ギザまラに、……負ケル道理、ナンぞ、ヌワイ!!」


 ガチャリ。


 これまで聞いた中で、最も大きく、最も耳障りで、一番はっきりとした歯車の合わさる音。

 それを境に、周囲の音が無くなった。

 立ち込めていた鉄錆の臭いが消えた。

 こみ上げていたはずの嗚咽が消え去った。

 息をするのも、忘れつつある。


(ああ……そうか。こいつ、タイタニアだったな……)


 それは疑問が解けた心地とは違った、身を包む圧倒的な“冷め”。こいつもまた、あの国の者と同じく、ただその肉体の大きさだけでしか判断できない低俗種。自らを支配者、搾取者と勘違いするヒトの恥知らず。もしくは、自分の周りにいた巨人族(タイタニア)がどれだけ外に通じる……この場合、常識人だったと表現してよいのだろう。


(もう……奪ワセナイ)


 たった一日、たった数時間だけの関係が与えてくれた……、

 生まれたばかりの居場所。

 自分が世界の住人だという意識。

 考えること、行動することの自由。

 

(排除スル)


 相手がヒトだという意識が無くなった。

 目の前に転がるのは、ただの肉塊。

 周囲の赤い海がどんどん広がり、やがて視界全てを真っ赤に染め上げる。

 これまでの赤い視界とは比べ物にならないほど美しく生々しい赤。

 その世界の中では自分と肉塊だけが、独自の色を持っている。

 まるで今ここには、自分と皮膚を泡立てる肉塊しかいない。


 この肉塊を壊せば、すべてが解放される。

 一歩、一歩と近づき、ゆっくりと天に向かって剣を掲げた。

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