1-10 不安だらけの初仕事

 採取用に舗装された小道から外れ、本当の獣道といった足元の草や低木を踏み抜いた小道を進む。舗装が無くなった道は、湿気を好む植物が群生しており、土が非常に柔らかく泥濘(ぬかるみ)も多い。

「うへぇ……草履と足の間に泥が入った……」

「ははは、僕もだよ。……うん、気持ち悪い」

 カキョウとラディスの履物は、足の一部が素肌むき出し状態のサンダルに近いものであり、二人には悪いが、こういう場面にはめっぽう強いブーツでよかったと心の中でつぶやいた。

 また、大きく出っ張った木の根という天然の罠だらけであり、尚且つ自分の背負っている大剣のせいで何度も木の幹にぶつかり、進むのも一苦労だった。

 ところが、先頭を歩くトールの背には、長物武器であるバルディッシュの代わりに、彼の胴体よりやや長い円柱形の皮袋が下がっている。中身は、バルディッシュを三つに分解したものが入っている。刃付きの柄部分は、そのまま三日月形の斧であるクレッセントアックスとして利用できるようになっている。また、斧なら森の中という狭い場所でも、扱いやすくなる。

 カキョウの刀も長い方ではあるが、普段から肩掛け鞄のように、本体を肩から紐でぶら下げており、これを肩に担ぎなおしているだけなので、邪魔になっていない。

(これが知恵か……羨ましい)

 こんなことを考えている傍で、また幹に剣が当たった。イラッとする。

「止まれ」

 そんな飄々と前を歩いていたトールから掛けられた短い号令に、一斉に足音が無くなった。続いて、トールがその場に屈んだために、自分たちも合わせるように小さく屈む。コートの裾や膝が泥濘の汚れを受け取ったが、それを気にしている余裕は無い。

「あそこが交渉場所の小屋だ」

 トールの向こう側には、遠くのほうに取り分け強い光が差し込む場所が見えている。その光は強く、目を凝らさないとただの白い光の柱にしか見えないほど、この森の中は外との明暗の差が大きいのだと実感する。

 目を凝らせば、中には確かに小屋らしき丸太を組み合わせた建物が、薄っすらと見える。

 目的の場所が見えたということは、ここから任務が本格的に動き出す。ウエストポーチ内の懐中時計を取り出せば、現在時刻は十四時三十分を指している。確かにゆっくりではあったが、もう既に森の中を三十分も歩いていたことに驚いてしまう。

「へぇ、お前も持っているのか」

 こちらの懐中時計に興味を示したトールの手の中にも、鈍い金色をした小ぶりの懐中時計があり、自身の物と見比べているようだった。

「旅立ちの……餞別として貰ったものだ」 

「へぇ、ちょっと見せてくれ」

 どうしても気になるようであり、願われるまま、トールに懐中時計を手渡してみた。

 受け取った懐中時計の蓋に描かれたアンバース家の家紋をゆっくりとなでながら、自身の手の中にある懐中時計の蓋裏をじっくりと眺め、深く思案しているように見える。体感で二十秒程。気が済んだようで、懐中時計を返してきた。

「ありがとな。……大事にしろよ」

 別段何かされたわけでもなく、本当にただ二つの懐中時計を見比べていだだけだったが、トールは再び自身の懐中時計の蓋裏を見つめている。一拍後、大きな溜息を付きつつ、懐中時計の蓋を閉じた。

「よっし、ぼちぼち動きますか。まず、全員持ち物の申告をしてくれ。俺は治癒ポーション三つに、迷彩柄のケープ」

 トールは自身の所持品を言い終わると、ジャケットの裏地を翻して見せた。向かって右の内側には、ほんのりと鮮やかな緑色を含む乳白色の液体が入った細い筒状の硝子の容器が三本。左の内側には内ポケットから少し出ている黒と緑の色が斑に染められた布のような物が見えている。

「なんか、今日のトールは身軽だね」

 ラディスが身軽と表現するように、トールはジャケット裏の収納とバルディッシュの皮袋以外は、何も持っていない。

「まぁ、隠れるにしろ、助けるにしろ荷物は少ないほうがいいし、戦闘になれば本隊と合流するから、あまり必要ないと思ってな」

「なるほどね。ちなみに僕らはネストから直行したから、何も準備してないよ? 僕は一応治癒ポーションが一個あるけど、武器が無いよ」

「分かった。んで、そっちの二人は?」

 ラディスとの打ち合わせが終わり、次はこちらの番とばかりにトールが振り向いてきた。

「戦闘に役立ちそうな物は、このブロードソードのみだ」

 自分もラディス同様に事前準備もなければ、旅立ち用品一式の中に回復薬のような役立ちアイテムは無かったため、着の身着のままの状態だ。

「アタシも、この子だけ」

 突発的に家出してきたカキョウにいたっては、カバンのような収納道具すら持ち合わせていないため、さらに酷い状態である。

「オッケーオッケー。なら、かなり慎重に行きますかね……」

 ただでさえ素人であるのに、用意も無い二人はお荷物同然だろう。

「ラディス、これがあの小屋の見取り図だ。そんで周囲と中の生体反応数を探ってくれ」

 トールがラディスに指示と共に手渡した見取り図は、メモ用紙に簡単に書き殴られた荒々しく簡単な図解となっている。小屋は入口側の居間兼作業場と奥の寝室の二部屋と、小さくまとめられた一人用の造りとなっている。見取り図とこの位置から薄っすらと見える扉の大きさと壁の長さから考えると、居間の部分でも五人入れば、窮屈さを感じる広さではないかと想像する。

 また、小屋の前には木材の加工用に、すでに伐採してある広々とした空間が描かれている。

「分かった、やってみるね」

 ラディスは光の中の小屋と見取り図を見比べながら、小屋に向かって右腕を突き出すと、ゆっくりと瞳を閉じ、小さく何かをつぶやきだした。

「大空の雫、大地の涙、漂いし者の声を届けよ。──ミストアナライズ」

 魔法名が唱えられると、突き出された右手から腕、肩、首、目元までがかなり小さく、また細かく歪んだ。歪みは徐々に透明から白へと変化し、右腕から目元まで霧や雲をまとった姿となった。加えて、周囲の空気が重く、湿気りが強くなった気がする。

(そうか、教会の入り口では、この魔法を使ったのか)

 名前のとおり、霧や湿気等の空気中の水分を利用して、一定の範囲内にいる生体反応を探る水属性の魔法である。砂漠など空気中の水分濃度が低い場所では使用することができないなど、使用できる場所や時期が限定されるために、探知系の魔法としては、少々使い勝手が悪く、魚人族(シープル)以外にはお勧めできないと教本上では評されていた。

「まず……小屋の外、入口のそばに二人。……一人は耳の形から犬のガルムス。もう一人はホミノスかな。中は扉も窓も開いてないから見れない」

 ミストアナライズのもう一つの弱点は、扉や窓の閉まった建物などの閉鎖空間など、水分の繋がりが断たれた場所を外側から透視する事ができないこと。シュローズ教会の入口は扉を開けた後に繋がった空間として、内部を探知することができたために、中にトールがいたことを知る事ができていたのだろう。

「ありがとさん。現在、外に二人が確定。んで、外の一人はガルムスで、犬か……」

 牙獣族(ガルムス)は、他の種族と比べて全体的に五感が優れており、中でも犬系の牙獣族(ガルムス)は、嗅覚と聴覚が抜きん出ているために、近づく者や異変もすぐに察知する事ができる。見張り役として打ってつけであると同時に、こちらとしては厄介極まりない。

 加えて、小屋の規模から考えれば、室内には多くても五人ぐらいは入れるため、多く見積もれば七~八人を一度に相手にする可能性が出てくる。

「さて、カキョウちゃんにダイン。これからどうすればいいと思う?」

 恐らくトールの中では、どのように動いたほうがいいのかは既に決まっているはず。この場合、自分達への意見を求めているというより、問題に対する回答を待つ感じであり、自分たちの状況判断能力を測られているということだろうか。

 確定情報は小屋の外の二人のみ。小屋の中の様子が分からない以上は、どうにかして近づき、シスターの様子を確認しなければならない。

「……まず、小屋の表に出て気を引く囮役と、小屋の裏手に回って中を確認する役の二人に分かれるべきだと思う」

 全員で裏手に回ることも考えたが、一気に全員見つかるよりは、囮役が先に注意を引いている間に、確認役が確実性も増すだろう。

「裏手に回る者は、危険だが相手に見つからないようにする事を考えると一人のほうがいい。森の中に紛れれるような匂いの物を付着させるなどしつつ、小屋の裏手に大きく迂回するように回り込む」

 無駄な足掻きかもしれないが、犬系の牙獣族(ガルムス)の嗅覚を誤魔化しつつ、相手に気取られないための対策はやっておくべきだろう。その上で大きく迂回するように移動することで、相手が察知するまでの距離や範囲を稼ぐ事ができる。可能ならば、小柄なカキョウかラディスのどちらかが良いが、場数の関係や女性を危険な場所に送り込みたくはないために、ラディスのほうが適任だろうか。

 本来なら表の囮役も、相手の出方を伺うという点や油断させるという意味で、一人で前に出るのが好ましいところだが、こちらは半分が素人という点を踏まえると、囮役は残る全員という形になる。

「上出来だ。俺から付け足すなら、囮役はダイン。お前が一人で担当しろ」

 確かに囮役としてなら、複数人よりも一人のほうが良いのは納得のいく話ではあるが、そこでの人選が素人の俺なのかが分からない。

「理由を聞いてもいいか?」

「まず、俺とラディスでは顔が割れている可能性が高いから勘ぐられる。カキョウちゃんは女の子でホーンドだから、油断はさせれるだろうけど、捕まったりした時が怖いから除外。お前なら旅に不慣れな坊ちゃんが森に迷い込んだって体で、ありのままの自分で近づけば、さっさと失せろ言われるか最悪身包み剥がしに来るんじゃないかと思う。どっちにしろ森に逃げ込めば、メンドクサがって追ってはこないはずだ。

 それでも危険な役を任せてしまうが、これも経験だと思ってくれ」

 顔割れについては、はっきり言って盲点だった。それこそ、場数を踏んだトールが気さくに声をかけるような自然な流れで注意を引くのだと想像していた。

(ありのままの自分を利用する、か)

 そして、まさかこの世間知らずという汚点が、役に立つ時が来た事にも驚きだ。確かに土地勘もなければ、物理的に外を出歩いた経験も少ない。しかも装備品は新調したてで、如何にも旅の初心者を表している。

「いや、納得した。出来る限り努める」

「そうか。ありがとな。さて、裏手のほうだが、ラデ」

「アタシが行く!」

 トールの言葉を遮って出てきた言葉は、このパーティ唯一の女性であるカキョウだった。さすがにこの反応には、俺を含めて男三人が一斉に難色を示した。素人を向かわせたくないというよりは、もっと単純に男として女性を一人敵地に送り込むようなことは、したくない気持ちで一致している。

「……どうしてだい?」

 特に現状のリーダー格となるトールは、出会って早々の態度からも、女性に対しては甘めであると同時に、大事にする節があるように見受けれる。そんな彼が明らかに冷ややかかつ、威圧的な態度で問いただせば、カキョウは気圧されるように一瞬怯んだ。

「ま、まず、傭兵の仕事って男とか女とか関係ないんだよね? なら、救助対象が女性ってことで、やっぱ同じ性別のほうが救助されるとき安心だと思うの」

 彼女の言い分は分からなくもないが、何故か納得できない自分がいる。

 性別の部分については、同性と異性のどちらにも利点があり、シスター・ルカの性格、体格等にも左右されるために、考慮材料としては弱い。

「次にこの中だとアタシが一番小さいからコソコソと近づくには、うってつけだじゃないかな?」

 小柄な体格については一応納得は出来るものの、先ほど自分の中でもラディスのほうが様々な面で適任だと思っているために、やはり弱く感じる。

「加えて、アタシ、足と剣には自信があるから、何かあっても戦ったり、逃げたりできる」

 これは俺とラディスなら、定期船でのケンギョ襲来時に彼女の戦いっぷりを見ているために、考慮材料として含めていいと思う。反面、俺自身が彼女を送り込むこと自体に難色気味であるために、彼女の意見には同意も否定もない。

 また、トールはまだ彼女の実力については、まったく知らないために、戦闘及び身体能力に関しては判断材料に含める事ができないと思われる。

(何をそんなに行き……生き急ぐんだ?)

 言葉の積み重ねの中から、今の彼女はまるで必死に自分を選んで欲しく、焦っているように見える。自分が臆病風に吹かれているせいもあるが、素人の俺たちが出しゃばったところで、事態を悪くする可能性のほうが大きい。トールもラディスの名前を言いかけているのだから、そのまま任せたほうが勝算はあるというのに。

「……言いたいことは分かった」

 カキョウの自論を静かに聴いていたトールは、重い腰を上げるように、それでいて軟派とは思えないほど、異性相手に酷く冷めた目つきで反論を始めた。

「じゃぁ聞くけど、自分が紐で雁字搦めに縛られ、全く身動きが取れない状況において、助けに来たのが男と女だったらどっちが嬉しい? 俺が女性だったら性別なんて関係なく、そのまま担ぎ上げたり、紐を引きちぎったり、状況を打破してくれる奴だな。

 てかね、目的は偵察なんだから、救助は二の次なの分かってる?」

 カキョウには悪いが、トールの発言には一字一句同意である。目的のすり替わりも問題だが、助け出される立場の気持ちを考えれば、性別以前の話である事も納得できる。仮にシスター・ルカがカキョウと似た体格なら、俺やトールが行ったほうが救出できる可能性も高くなる。

「次に、いくら君が小さくとも、角はあるわ、髪はかなり明るいわ、白と赤の服じゃ森の中でもかなり目立つ。何も準備せずに行くんなら、男女関係なしに俺は止めるね」

 せめて実りの時期なら、紅葉などに紛れる事もできただろう。しかし、新緑と深緑にあふれるこの森では完全に違和感でしかない。さらには服の白い部分に木漏れ日でも当たろうものなら、光が反射しかねない。

「それに君が捕まったらどうするの? 戦うかい? 小屋の裏手は表と違って、伐採もされていない自然の森そのもの。小屋の中だって家具とかがあって、カキョウちゃんの刀も含めて、俺たちの武器は総じて扱いづらい。せめてナイフみたいな小さな物じゃないとね」

 カキョウの刀は刀身と柄も合わせれば約一mと長く、木々の生い茂る森の中で振り回すには適さない。自分の背負っている巨人族(タイタニア)用ブロードソードも刃渡りだけで一.五mと、外の世界では大剣や長剣に分類される物であり論外。トールのバルディッシュに至っては、柄だけで二mはあるのではという長さである。

 その点、ラディスに至っては武器を持っていないものの、魔法による攻守ともに不足はないと思う。

 次々と出てくる反論にぐうの音も出ないまま、カキョウは小さくうな垂れた。彼女も初めからラディスが適任である事は理解していた上で、自身を推したのは何か理由があったのだろう。悔しさを滲ませながら彼女は握りこぶしを作り、音が聞こえてきそうなほど強く握り締められている。

「…………まぁ、だからと言って、ラディスの髪色もかなり目立つし、長いからコレを使っても隠し切れないんだよな」

 そう言ってトールは、自らのジャケットの裏地に収納されていた黒と緑の斑模様の布を取り出した。広げてみれば、布は森の木々に擬態することができる迷彩用のフード付きケープであった。ケープ部分の長さは〇.五m程あり、ラディスの髪の半分は出てしまうだろう。

「俺も女性の傭兵はたくさん見てきたし、性別で差別はしたくない。でもな、やっぱ男ってのは女性を守りたいと思うし、俺たちから見えないと所で傷付かれるのは、結構辛いんだよ。でも、君は俺が思っている以上に、この任務に何か掛けているみたいだ。

 改めて聞くけど、君に何か危険が及んでも、すぐには駆けつけれない。それでも君はどうしても行きたい?」

 決して攻めることなく、ただ切実に懇々と綴られるトールの言葉は、どれも自分達の心をそのまま言い表したものであった。

「アタシは……今、自分に出来ることをしたい。うん、アタシに行かせて」

 これだけの材料を並べられたにも拘らず、彼女の気持ちが変わることはなかった。顔を上げた彼女の眼には、正義感に溢れる情熱というには少し違う、負い目にも似た暗い熱が込められているように見える。その視線に、生唾が喉を通った。

 ただの偵察かもしれない。されど、彼女には何か大きな意味を持つものなのだろう。

「そっか、分かった。じゃぁ、コレと……コレも渡しておくよ。その刀じゃ不利だろ?」

 彼女の頑なな決意に折れたトールは、手にしていた迷彩柄のケープと、背中から一本の短剣を取り出し、カキョウに手渡した。短剣の長さは、柄まで含めるとトールの前腕と同じぐらいであり、鞘の形から両刃のダガーだと分かる。

「……っ! ありがとう! じ、じゃぁ、この子を預かって」

 カキョウは差し出されたケープと短剣を受け取ると、ケープは一旦小脇に抱え、短剣は鳩尾辺りの腰帯にそのまま挿しこんだ。代わりに、船倉で出会ったとき命の次に大事と言わんばかりに抱き込んでいた愛刀を、トールへ差し出した。彼女なりの決意に対する担保なのだろう。

「早速、コレ被ってみるね」

 トールが差し出された刀を受け取るのを見て、彼女は小脇に挟んでいたケープを頭に被ってみた。ケープは彼女の二の腕まで綺麗に覆ってしまい、低木がある場所なら服の色を完全に隠せるほど、完璧な大きさだった。

 また、小ぶりながらも頭の輪郭からはみ出る彼女の角を頂点に、二つの小さなテントが出来ていた。

「……猫耳みたいだな」

 綺麗な三角形をかたどったテントは、犬よりも短く正三角形寄りの猫耳に近い。まるでシーツの中に隠れる猫のようだ。

「あはは、分かる。かわいいよねー」

 自分でも気づかなかったが、思っていたことが口に出ていたようで、さらにラディスが拾って同意までしてくれた。少々、恥ずかしい。

「か、かわいいって……! ラディスだって被ったら、同じようになるじゃん」

 飛び火は本人にまで伝わり、やや頬を赤らめながら、カキョウも反論を返した。確かに、ラディスの頭にも魚人族(シープル)特有のエラ耳があるために、同じようなテントは出来るはずである。

「男の僕がやっても面白みはないから、遠慮しとくよ。ね? トール」

「おいそれ、俺にケンカ売ってる? そうだよな? なぁ? ラディス君」

 売り言葉に買い言葉。トールはラディスの発言に噛み付くように、目玉を見開きながら顔を近づけている。受け狙いなのかアピールなのか、頭に生える犬耳を行水する鳥の翼のように、高速でバタつかせてみせている。

「さぁ? 何のことやら」

 そして、トールから放たれる顔面の圧力を逃がすように、ラディスは笑いながら明後日の方向を見た。

 この二人のやり取りは、端から見ればシュールとも取れる絵面だが、緊張で底の浅くなった沸点に加え、強張った腹筋や表情筋が刺激され、良し悪しに関係なく笑いがこみ上げてきた。

「ちょ、耳、耳っ」

 特にカキョウへの受けは良かったご様子であり、大声にならないように口元を押さえながら、ヒーヒーと小さく笑った。

 トールはわざとらしく頭をかきながら、大きくため息をつきつつ、ポケットに仕舞っていた懐中時計を取り出すと、小さく「そろそろか」とつぶやいた。自分もつられて懐中時計を見れば、交渉時間まで残り十五分となっていた。

 茶番劇のおかげで緊張が台無しになった半面、無駄に強張っていた背筋もほぐれた。

(やれるかではない……やるんだ)

 光に包まれる奥の小屋を見つめながらゆっくりと深呼吸すると、深緑の匂いに溢れる森の冷ややかな空気が、身体の隅々まで行き渡り、視界や感覚が澄み渡っていく。 

「よし、ラディス。カキョウちゃんに支援」

 短い命令を受け取ったラディスは了解として頷くと、カキョウのほうへ向き直りつつ、右手を掲げた。

「……水の帳、霞の衣、影の歩みを助けよ。――ミストヴェール」

 魔法名が告げられると、一瞬は肌に伝わる空気に重みが加わったと感じたが、すぐに重みが消え去り、代わりに唇に乾燥のような張りが生まれた。

「何これ、ちょっと気持ち悪いんだけど」

 不快そうな声を上げたカキョウを見ると、彼女の姿や輪郭が雨を受けた窓ガラスの視界のように、徐々にどことなく滲みぼやけている。周囲の木々ははっきりと見えているために、自分の視界がおかしくなったわけではないようだ。

「周囲の水分を身体に纏わせて、匂いや雰囲気を馴染ませたり、輪郭をぼやかす魔法だよ。まぁ、相手はガルムスだから、完全に隠しきれるわけじゃないけど、無いよりはマシじゃないかな」

 言い換えれば、彼女の表面だけが大雨の日の湿気状態となっており、一人だけ極端に不快な感覚を帯びているということだ。逆に彼女以外は、水分が移動したために、唇が乾いてしまうほど空気が乾燥した。

「そ、そっかぁ。うう……気持ち悪いけど、がんばる」

 可哀相ではあるが、これも彼女の身を案じた策であるために、我慢してもらうしかない。

 もうまもなく開始ということで、作戦の最終確認へ入る。

 まずは自分が小屋の表に回り、外で見張りをしている二人の注意を引く。相手が攻勢に出ることは容易に想像でき、その場合は森の中へ逃走を図ること。

 次に、自分が表に出ている間に、カキョウが小屋の裏手に回り込み、裏面に設置されている窓から中の様子及びシスターの安否を確認する。カーテンなどで中が見えない場合は、即座に引き返すこと。

 トールとラディスは、自分かカキョウに危険が生じる事態となれば、即座に対応するためにこの場で待機。ラディスは引き続きミストアナライズでカキョウを中心に索敵を行う。トールは牙獣族(ガルムス)の耳と鼻を使って、自分とカキョウの様子を見守る。

 自分とカキョウの作戦失敗による逃走が視野に含まれているとは言え、人質のシスターの命が係っている以上、何よりも作戦の進行速度と正確性が求められる。恐らく、彼らしか知らない情報を持っているのだろう。だからこそ、素人の自分達なんとかなるという算段がついているはずだ。

 結局のところ、自分には道化となって、敵の注意を引くしかできない。逃げろとは言われているが、場合によっては初めての実戦を行う事も視野に入れる。最終的にはカキョウが持ち帰る情報さえあれば、何でも良いのだ。

「よし、帰るまでが作戦だからな。では、行動開始だ」

 トールの号に各々が小さく頷き、「行ってくるね」と一言残して、カキョウは腰を落としたまま、小屋の裏手を目指して、森の道無き方向へと入っていった。

 自分も彼女の背中を見送ると、光差す小屋に向かって歩き出した。

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