1-4 外の世界は荒れ模様
限が無いと思っていた鍔迫り合いの音も、いつの間にか止まっており、甲板は時が止まったかのように静寂に包まれていた。見渡せば、甲板のいたるところに、写真に見る網漁後のごとく、高く積みあがったケンギョの死骸。
終わった、のだろう。
しかし、それが倒しつくしたからという感覚には至れなかった。それはいつの間にか、まるで引き際と言わんばかりの、“知性が含まれた戦略的撤退”と思える静けさ。
恐らく終わってはいなかった。むしろ、俺達は見逃されたのかもしれない。
そう思えるほど、この静けさは不気味だった。
「初めての実戦、お疲れ様」
剣に付着しているケンギョの血を払い落としていると、無傷で乗り切ったラディスと、刀を納めようとしているカキョウがこちらに近づいていた。
「うわ!? その傷、大丈夫!?」
「き? ず……、んぐっ!」
カキョウに言われて思い出したが、自分は先の戦闘の際に、左の頬を思いっきり斬られていた。傷は思い出した途端、自分の存在感を宣伝するように、痛み掻き鳴らした。もはや血は出ていないものの、潮風に呷られる痛みは、なんとも耐えがたいものだ。
「ちょっと、頬貸して」
こちらが痛みで返事が出来ない間にラディスが真隣まで近づいてきて、傷口に触れないギリギリの位置に右手を近づけた。
「傷つきし者へ慈愛の光を──ヒーリング」
小さく詠唱と魔法名が告げられると、右の視界の隅に白絹のような淡い光が見え、徐々に頬の痛みが消えていく。
彼が唱えたのは、誰もが知っているであろう治癒魔法。空気中に漂うマナを集め、魔力に反応させて対象の皮膚組織に変換し止血、修復、欠損補填、復調を行う。発せられた光は、マナが変換される時の反応である。
「ごめんね、“癒し手”じゃないから、治癒速度が遅くて」
非常に便利な魔法である半面、魔力の消耗が激しく、専門的に学んだ者以外は、その効率の悪さにあまり使うことがない。また、生体の知識も必要とするために専門性が高まり、治癒魔法を重点的に習得している者を『癒し手』と呼ぶ。
癒し手ではなくとも、先の戦闘では水の弾丸を飛ばすアクアショットを撃ち続け、戦闘後には治癒魔法のヒーリングと魔力の消費が激しい行動ばかりにもかかわらず、彼は汗一つかいていない。
(つまり、彼は魔術師系ではあるのか)
ラディスが言い終わった頃合では、痛みは完全に消え去っている。頬をなでれば、傷のような凹凸もなく、見事に修復されているのが分かる。魔力が少なく、魔法よりも技(アーツ)の習得に注力した自分からすれば見事なものであり、彼がどこに卑下する要素があるのかと思ってしまう。
「いや、助かった。ありが」
「ちょっと!! さっきの揺れは何なのよ!! しかも甲板に行かせないとか、どういうつもりですの!!!」
ヒトが言い切る前に、怒気の孕んだ女性の声が甲板にこだました。
船内への入り口には、光沢のあるワインレッドのドレスローブに身を包み、手には羽毛たっぷりの扇子を持ち、いかにも自分が上流階級の人間であるかのような振る舞い。加えて、上等な物を食い荒らしたような見事な恰幅の純人族の中年女性が立っていた。表情は、眉間にしわを寄せ、奥歯むき出しの如何にも怒り狂っていると言わんばかりの形相であり、床板を踏み抜きかねない勢いで、甲板の中央へ歩いてくる。
「ひぎぃ! 何ですのこれは! ケンギョですの!? じゃぁ、アレのせいなの!?」
中年女性が叫ぶのも無理は無い。甲板は現在、大量のケンギョの輪切りや中身が惨たらしくブチ撒かれた状態となっており、洗浄処理する者たちに、戦闘の負傷者を治療する者もいる。様々な意味でも、まだ戦場が続いている状態だ。
中年女性の叫び声を聞きつけた他の乗客たちも、甲板に次々と上がってきては、甲板の様子に小さく悲鳴を上げはじめた。
「ラディス、アレとは?」
「ああ、最近、この海に出現する海竜のことだよ」
それは新聞に載っていた記事と、ネヴィアが語ってくれた噂話を思い出した。
ティタニスのヒュージェン、サイペリアのポートアレア、ミューバーレンの首都ミューズの三箇所を繋ぐ定期船の航路上に、先ほどのケンギョの大群と共に謎の巨大生物、通称『海竜』が出現するようになった。
出現し始めた頃は、まだ航路から遠く離れたところで、水面から顔を出す程度であり、頻度も一か月に数回と低いものであった。
次第に航路近くでの目撃情報が増え、最近では航行する船の間近に現れ、自身の作り出す大波によって、船に危害を与えるというものだ。
蛇に似た細長い姿、頭は角のようなものが生えているらしく、大きさは全長一〇〇mとも二〇〇mとも言われている。表現が曖昧なのは遠近に関係なく、巨大な身体が霞がかったようにぼやけた姿をしており、誰もはっきりとした姿を見た事がないという話である。
また、移動速度は船の航行速度以上で泳ぐと言われており、連日で起きた襲撃事故の発生地点が、船の航行速度でなら三日かかる距離だったという報告がある。
ケンギョもまた、海竜が出現するようになってから、発生し始めたモンスターである。海竜がケンギョを生んだのか、ケンギョが海竜を生んだのか、被害の規模から調査が中々進まず、いまだ解明に至っていない。
「アタシも聞いたことある。なんか、もう二十隻は沈められたって……ヒィッ!」
不気味な穏やかさを切り裂くように発せられた、カキョウの小さな悲鳴。彼女の視線を追えば、そこには急激に様変わりした海が広がっていた。
船の進行方向から波間を漂い、通り過ぎていく無数の木屑。時には木箱。時には柱のような丸太。いつヒトが流れてきても不思議ではないほどの、惨状というべき異様な光景だった。
ここは、見渡す限りの水平線。座礁しそうな岩場もない。この惨状が物語るのは、進む先に海竜に襲われた船が存在し、まだ近くにいる可能性を指している。
海面の変化に乗客たちも気付き、中年女性の盛大な悲鳴を皮切りに大音量の奇声が甲板を包み込んだ。恐怖心の伝染というのは極端に早いものであり、奇声を聞きつけた船内の乗客たちも慌てて甲板に駆け込んできた。
船員達もまた、海の藻屑となった他船の残骸に気が動転しており、次は自分たちの可能性を考えながらも、必死に乗客をなだめるので精一杯の様子だ。
甲板はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図を描こうとしている。
「あーあー、皆様落ち着いてくだせぇ! 落ち着いてくだせぇ!!!!!!」
それまで金切り声や怒声に包まれていた甲板が、巨大な男の野太くひしゃがれた声によって、瞬く間に静まり返った。
声の発信源は、船長室などがある後部甲板の二階部分、舵の前に立っている男。左手を腰に当て、右手にはメガホンと呼ばれる音声拡張魔法が施された三角錐の魔道具を持ち、襟の立ち上がったネイビーブルーのコートを引っ掛ける形で着ている、これぞ海の男といわんばかりの筋骨隆々な魚人族だった。
羽織っているコートの肩口には、この船の認証記号となる船旗と同じ文様が刻まれており、風格と様相から、この男が船長である事が窺える。
「この船は予定通り、このままポートアレアを目指します!」
静寂の中、新たに響き渡った言葉に一同はまず息を飲み、そして小さく動揺の声が起きはじめた。
自分も少し耳を疑った。このまま、危険と分かっている方角へ進むのか? と。
「貴方、馬鹿なの!? このまま海竜のいる方向へ進むというの!?」
船長に対して突っかかったのは、先ほど船員に詰め寄っていた、地獄絵図の中心角になってしまった純人族(ホミノス)の中年女性だ。
中年女性の言わんとしている事は、ここにいる全員の思いそのものだ。このままの進路を保てば、海竜との遭遇率だって格段に上がるはずである。
しかし船長は、中年女性の睨みに怯むことなく、むしろ鼻歌交じりの笑顔を送った。
「ミューバーレンの研究機関の調べでは、海竜とケンギョが船を襲うのは一日一回との報告が出ておりやす。ゆ・え・に! このまま最大速度で突っ切り、一気に駆け抜けるつもりであります」
男の力強い次の言葉に、甲板は再び静寂になった。
この船長の自信に満ち溢れた顔と、同調していた面々が押し黙った状況が余計に気に障ったらしく、中年女性の顔つきが周りから見てもはっきりと分かるほど歪み、絵で描写できそうなほどの明らかな怒気を爆発させた。
「お黙らっしゃい!! シープルごときの研究機関? 聞いたことありませんし、信用できませんわ! こっちはお金を払ってるんですから、 すぐに引き返して頂戴!!」
中年女性の負の感情がたっぷり乗った金切り声は耳障りではあるものの、こちらが金銭を払っている以上、金銭に見合った安全が確保されるべきだという意見には、賛同するものがある。
だが、それ以上に俺個人としては『シープルごとき』という差別的な言葉に反応してしまった。
ラディスに、外の国ではこういう人種差別が当たり前なのか聞いてみた。
「……サイペリア国だと、ホミノスとガルムスの人口比率が多いから、国内での少数種族に対してはあんな感じなときがあってね」
特に、現在サイペリア国は面積と人口が世界で最も多い国となっているために、自分達が世界の頂点、世界の中心、選ばれし民族であるという意識が芽生えているらしい。
また、サイペリア国にはティタニス国同と同じく王族、貴族、平民という三つの階級から成る身分制度が設けられている。王族は国そのものの運営権を有し、国の象徴たる極僅かな最上位特権の階級である。貴族は王族の国営を補佐する中間的階級であり、国営補佐という重要な役割からいくつかの限定的特権を与えられる。そして、王族と貴族以外の国民は全て平民と呼ばれる。
この二つの背景からサイペリア国民の中でも貴族に分類される者の中には、他国民に対しても無差別的な特権意識の突きつけを行うことがあるらしく、目の前の女性はその一例といえる存在のようだ。
「だからと言って、三国同盟の条文でも三国の国家と国民は対等と謳っているではないか」
三国同盟とは、現在向かっているサイペリア、出発国であるティタニス、この二国の南側に位置する海洋国ミューバーレンとの間に結ばれた各種友好条約を纏めた国家間協力体制を指す。
その条文には三国間での様々な制約を取り払いつつ、相互が対等な関係である事が記されており、三国間での基本的な理念となっていると思っていた。
「そうだね……。本当はそう考えるべきなんだけど、あくまでも政治経済での話でしかないからね。下々には関係ないっていうヒトも、結構いるんだ。……所詮、理想は理想でしかないんだよ」
小さく囁かれた言葉が、目の前で繰り広げられている光景という現実を物語っており、蔑むという行いは外だろうと、内だろうと一緒なのだ。
こうして話している間にも、中年女性の金切り声が止むことなく、また船長もそれをずっと無視しながら、舵を切ることなく真っ直ぐ進路を保っている。
「しかしなぁ、こっちにも、他の客達にも予定っちゅーもんがあるからなー。アンタの意見だけじゃぁ、簡単には引き返せんぜ」
「だから何なの!? シープルごときが、私に逆らおうっていうの!?」
「む~……シープルごときかぁ……。あんた王都民だろ? 海のことはちーっともわからんだろ? ま、ここは海に生きる我らに任せといてくだせぇ。なーに、必ず送り届けますぜ」
「ふざけないで下さる!? 私を誰だと思っているの! シープルごときが口答えしないでくださる!?」
中年女性は論理的思考を捨て置き、感情だけで喚き、顔は茹蛸のごとく真っ赤な状態だ。加えて、船長らしき男の対応が、中年女性の憤怒の炎に油を注ぎ続けている状態であり、最早収拾の付けどころが失われつつある。
向き出しの感情から出る差別的な言葉が、例え自分に向けられたものではないと分かりつつも、どうしても耳の奥に残ってしまう。
『矮小』
『出来損ない』
『呪われた子』
『血族の面汚し』
『だから私は言ったのだ。さっさと外へ出してしまえと』
雰囲気が似ているのだ。まだ、前の家に居た頃、ただ近くを歩いただけで次々と浴びせられた言葉。大人たちの蔑む顔。何年経とうとも、養子となって接触が一切無くなろうとも、些細なことで思い出し、その時の思考を侵食する。
「……大丈夫?」
腕に生まれた感触から、意識が再び甲板の上へと戻った。
顔を向けると、こちらを心配そうに見上げるカキョウに、苦々しい表情を向けるラディス。
二人の表情から、俺の眉は相当中央に寄ってしまっているんだろう。
正直、助かった。彼女が呼んでくれなければ、自分は延々と負の感情を生産することになっただろう。
まだ、中年女性の喚きは続いているが、周囲の状況は変化し始めていた。
初めこそ、中年女性の言葉に同調していた他の乗船客達も、次第に「おいおい、勝手なこというなよ」「戻られたら商談までに間に合わないぞ」など、時間に追われた者たちの小言を発し始めている。
見渡せば、取り囲んでいる人々の表情が徐々に辟易としたものになってきており、新たなる険悪な雰囲気が生まれつつあった。
「お、奥様、そろそろお引きなったほうが……」
中年女性の付き人らしき細身で明るい茶髪の男性が、周りの雰囲気に飲まれそうにオドオドとした様子で中年女性へ勇気の意見具申を行った。よく見ればに垂れ下がった犬耳が見え、牙獣族(ガルムス)だと分かる。ただし、その体は非常に細く、種族的知識が無い者からしても痩せ細っていると感じる。なおかつ、中年女性の恰幅との対比がまるで裕福と貧困を体現したかのように見える。また、付き人として支給されたであろう衣類は、着せられている感じが前面に出ている。
「お黙り!! お前も誰に物申しているの?」
付き人の言を理不尽な権力を持って一蹴した風景に、甲板の険悪な空気は更に色濃さを増し、早期終了が望まれる事態へとなっている。
「ご婦人」
どこからとも無く、中年女性を制する声。
「何よ、うるさ……!!」
「ご婦人、もうお良しになってはいかがですか?」
ソレは自分の声だった。
気づいたときには、中年女性の隣に立っており、周囲の目線は中年女性と自分に注がれている。
制止させられた中年女性は、驚いたのか目を見開き、餌を求める水槽の魚のごとく口を何度も開閉している。
一度止められてしまうと、激高の波は引き過ぎ去り、徐々に落ち着きだした。
が、何故か徐々に頬を赤らめ、目をトロリと細め、こちらを見つめだした。黙ってくれたのはよかったが、何処か寒気を感じてしまった。
「せ、船長。今から一度引き返すとして、引き返した先に海竜やケンギョが現れる可能性は?」
寒気を帯びた熱視線を無視するように、後方甲板上の船長を見上げた。
船長は俺の言葉に僅かに口角を上げると、まるで勝利を掴み取ったような誇らしげな笑みとなった。
「無い。これはミューバーレン政府の発表でな、どんなに大きな船団を組み、日に何度も出航したところで、襲撃は一日一回だけだ。海竜に関してはさらに船の大小を問わず一隻しか襲わねぇ」
「大小問わず、一隻だけ?」
「ああ。何度か試しに戦闘艦を混ぜた調査船団を出したことがあってだな、どの船団も襲われたのはテキトーに選ばれたような一隻だけだったらしいな。もちろん、こっちから攻撃した場合には、みーんな襲われるらしいな」
それはヒトも化け物も変わらず、自分を攻撃してきた相手への報復は行うという事だろう。
ケンギョに関しては、海竜の被害にあったから一定の範囲内に入る船全てに攻撃を襲うようであり、ケンギョに襲われるということは、何処か近くのほかの船が海竜に襲われている証拠でもあるという。
「でもって、どこかの領海まで入ってしまえば、襲ってこないっちゅうことも報告されてるな」
つまり、何かしら一隻の犠牲があれば、その日の安全な航行は約束されている。
また領海とは、各国の陸地からおよそ五〇〇〇m先までの海を指し、陸地と同じようにそれぞれの国の法律が適用される範囲の事を指す。領海の判定となる陸地は、上陸可能な浅瀬や小島も含まれるために、安全な範囲は大陸に近づく程、急速に増大する。
また、ティタニス国の港町ヒュージェンから三日間の航程で、現在は既に二日目。ここから引き返すのに丸一日。すぐに再出航したところで、さらに三日が加算される。
先の話で本日の襲撃はもう無いと断定できるならば、このまま突き進み、明日にでもサイペリア国の領海内に入ってしまえば、海竜とケンギョに遭遇する確率は引き返すよりも格段に低くなるではないか。
船長の話から、ミューバーレン国を中心に海竜の行動については、多くの研究が進められており、各国の港関係者には通達済みなのだろう。こちらの様子を見守る船員達や乗客の中にも、船長の言葉に頷く者たちがいる。
なればこそ、今ここで引き返すのは得策ではなく、先に襲われた船の犠牲を無駄にしないためにも、突き進むしかない。
「ご婦人」
俺と船長が話し始めてから、一言も発していなかった中年女性に意見を仰いだ。
この場の全員が恐らく同じ答えに行き着いたと思うが、盛大に異を唱えていた者にも一応の確認は取っておく必要があるだろう。
中年女性は制止されてから、俺と船長の会話を黙って聞いていた。……というより、こちらを見つめていたかにも見える。
「今引き返せば、時間も命も無駄になってしまいます。ここは船長に任せてみては、いかがですか?」
俺から声をかけられたことに気づくと周囲の見渡し、ようやく自分の立場が危うくなっている事と、船長からの言葉に納得せざるを得ない状況であることを理解したようだ。
「……そ、それだけの根拠があるのなら、先に言いなさい! 部屋に戻ります!!」
中年女性は身を小さく震えさせながら静かにお怒りを振りまくと、ドレスローブを翻し、重量級の動物の足音を立てながら、船内へと入っていった。付き人の男も周囲に一礼すると、中年女性を追いかけていった。
そして、回りで見ていた乗客たちも、納得と安堵によって散り散りになった。
「いやぁ! 助かりましたぁ!!」
安堵したのは、乗客や自分達だけではなかった。
二階建て建物よりは少々低いで高さの後方甲板から、船長が万遍の笑みを浮かべながら柵を飛び越え、重い音を立てながらも軽やかに着地したのだ。
ここで初めて船長と同じ高さになったのだが、船長の背丈は俺よりもラディスに近いぐらいであるが、衣類にまで現れてしまうほどの盛り上がった筋肉から、遠目からは自分よりも大柄に見えていた。
「改めまして、俺は船長のバステロだ」
豪快な動作で差し出された右手に対して、こちらも右手で握り返しながら名乗った。
握った手は船長の肉体と似た筋骨隆々としており、これが話に聞く荒波を越えてきた海の男の手なのかと、感心してしまった。
「船長。彼が例の箱の中身さんですよ」
握手を解き振り返れば、ラディスとカキョウが寄って来ていた。
カキョウは俺の隣まで来ると、小さく「いきなりでビックリしたよ」と小声で伝えてきた。俺自身も中年女性の声や言葉が不快に感じたものの、実際の行動に出たことについては驚いている。「俺自身もだ」と返せば、彼女は眼を丸くして、不思議そうな顔をしている。
「なーるほどぉ……あんたがあの“謎箱”の中身さんか。よーさん寝とって、あんの戦いぶりとは恐れ入ったぞ!!」
「謎箱、ですか」
「ああ、中身がヒトだって聞かされてな、どんなヒトが入ってるのか気になってな! 色んな荷物を運んできたが、人が入った箱っちゅーのは滅多にねーからな! ガーッハハハ!!」
荷物の中身が人間というのは、普通なら小説のような物語の中だけの話だろう。外の常識が乏しい自分でも、それぐらいは分かる。そんな荷物なら、中身を見ておきたいというのも分かる。
「そんで、ははーん……お嬢ちゃんが密航者か」
すると船長は、次にカキョウへ視線を向けた。その視線を追えば、それは密航者という不審者を見るような眼というよりは、何か物珍しそう観察するような眼で彼女をじっくりと見ている。
どちらにしろ、視線を向けられた彼女は気まずそうに、俺の半歩後ろに隠れた。
「おうおう、すまんすまん。金は貰ったし、よーさん戦ってくれたからな! お前さんももうお客さんだ! 心配せんでええぞ! ガーッハッハ!」
船長の直々の言葉で密航者から乗船客と改められると、カキョウは一度、驚いたように大きく目を見開いた後、ようやく安堵のような微笑を浮かべた。
彼女と出会ってから、まだ三十分と経っていないが初めて見た笑顔であり、俺もようやく今の状況を静かに受け止めようと思った。
進行方向から流れてくる船の残骸が、まだ不穏な気配を運んできながらも、遠くの空が今日の不穏の終わりと言わんばかりに晴れ始めた。
これが自分にとっての、初めての外の景色。
遠くに見える何もない海は、絵本で見た青一色の世界。一括りに青という大きな分類の色にも関わらず、空の青と海の青は色がはっきりと違った。水平の彼方に線を作って、二つの領域を演出している。スカイブルーと呼ばれる水平に向かって白くなっていく空の青。マリンブルーと呼ばれる何処までも色褪せない海の青。
青の世界を表現する作品が多いのは、この美しい青を多くの人に伝えたいという気持ちの表れなのかもしれないと思った。
「よーし、気合入れて突っ切るか! お前ら、配置に着け! 物見ィーーーー! 漂流者いないか、死に物狂いで見ろよ!!」
船長は笑い終わると、大声で喝に似た指示を出し始めた。
ケンギョとの戦いで疲れているはずの船員達は、ロープや浮き輪、漁に使うような大きな網、救助用の小型艇の準備に、甲板に残っている乗客の誘導、声を張り上げながらの要救助者の捜索と、ひどく慌ただしくなった。進行方向から流れてくる船の残骸の量は、船体の木材だけでも多いのに、家具や荷物も流れてくるために、漂流者を見逃さないようにするのは骨が折れるだろう。
「船長、俺たちにも何か手伝わせてくれませんか?」
指示を出し終わり、舵の元へ戻ろうとした船長の背中に提案を投げかけると、船長は振り返りながらも、苦笑しながら頭を掻いた。
「気持ちはうれしいが、これは"海"の男の仕事だ。なーに、たっぷり戦ってもらったからな、ここからは客は客らしく、まずは休むといいぞ! ンガーハハハハ!!!」
そう、自分は金を払っている側であり、航海の安全を買っている者なのだ。船長を含めた船員たちは、これから仕事を行うだけ。
加えて、自分は海を知らない。この水の底が何百mと聞いていても、入ったことも無ければ、泳いだこともない。つまり、海に関しては本当の素人であり、専門家に任せるべきだろう。
さらには、休めと言われて初めて、身体に重みを感じた。この剣での実戦が初めてだった自分は、予想以上に疲れているようだ。
申し訳なく思いながらも、船長へ一礼を送りつつ、大人しく船内へ入っていった。
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