第16話 ファーストキスと最愛の家族との別れ


 沙織さんと友香さんはまだ温泉モードって奴だ。


 ショロショロと流れる岩の前で、二人はとろけた表情になっている。


 セレスは医務室でコーラによる覚醒作用の治療を受けて眠っているらしい。


 イーリスは愛美と蜜柑そして未来にバーベキューランチを手厚く振舞われている。


 そして悠菜は俺から少し離れた所に座っていた。



 子供の頃は手を握られても、特に何にも感じなかったけどな。


 最近の俺は悠菜に手を握られると、舞い上がったりドキドキしたりと感情がふらふらしていた。


 悠菜が稀に俺の手を握る事があったが、それは俺の状態や感情を読み取ろうとした行動だった訳だ。


 悠菜にしてみれば、俺の精神状態や体調等を把握しておく必要があった為だろう。


 思い起こすと、色々と心当たりがある。


 あの時もそうだ、愛美が携帯を忘れて帰りが遅かった時。


 あの時は俺が慌てて家を飛び出して、焦って駅に着いたその時に、急に現れた悠菜が手を握ったよな。



 それに……あの夜もだ。


 噴水のある部屋の外で、俺の手を握ったのもそうだったじゃん。


 あ、俺が大浴場の存在を知らなくて、独り取り残された気分になってた時も、濡れ髪にバスタオル一枚で俺の手を握って来た時だって!


 やっぱり恥ずかしいじゃんか!


 いっつも変な事考えてたりした時だもん……。



 俺が沙織さんの手によって異世界で創られ、二人に連れられてこの世界に来てからは、俺と同じ様に身体を成長させながらも、いつも一緒に居た悠菜。


 それは勿論、沙織さんが作り上げた俺と言う実験体が成長するまでの、その保護の為だった。


 だとしたらその任務はもうすぐ完了する筈だ。


 異世界生命体との異種交配によって俺が創られた事実を、沙織さんと悠菜の二人はこの俺に告げた。


 そして、この俺に思う様に生きろと沙織さんは言った。


 しかも、何らかの事情で子供の出来なかった母さんには、既に愛美という念願の子供が出来ている。


 この時点で悠菜の任務はほぼ完了した訳だ。



 俺は、空いたグラスに冷蔵庫から冷たいお茶を注ぎ、それを飲みながら椅子に腰かけた。


 ずっとこのまま二人には居て欲しい……。


 悠菜はユーナとなりエランドールへ戻るのだろうか。


 沙織さんもルーナとなって帰ってしまうのだろうか。


 勿論、俺に引き留める事は出来ないのはわかる。


 元々は二人とも向こうで生活していた訳だからな。


 ふと悠菜を見る。



「悠菜、お前、向こうへ戻るのか?」



 思い切って聞いてしまった。


 悠菜は俺を見ずに頷いた。


 やっぱりそうなのか。


 行っちまうのか……。

 

 心がザワザワと騒ぎ出す。


 頭の中がグルグルと動き出す。


 でも、引き留める事は出来ない。 



「いつ?」



 俺のその問いに、スッと立ち上がるとゆっくり俺を見た。



「二か月前にはその準備はしてある」 



 そう言うと、悠菜は大浴場から出て行った。

 

 二か月前って……。


 俺がハイブリッドの告白された、あの日だろう。


 やはりあの日に悠菜の任務は既に完了していたのだ。


 俺の成長を見届ける義務があると、そう言っていた。


 それならば、これからはエランドールに居ても、親元を離れて暮らす子供の様に、遠くからだって成長は見届けられる。



 待てよ?


 何か引っかかる。


 それは、まだ沙織さんと悠菜がここに居るという事だった。


 愛美が生まれた事か?


 沙織さんが言っていた、母親の不妊が知らずに完治し、愛美が生まれた事。


 その事が俺の力に関係していると考えて、そこも研究材料だとも言っていた。


 母さんはどうして不妊の病気が治った?


 俺がこっちへ来てから凡そ一年後。


 その間に俺が何をして愛美が産まれたか等、勿論俺に分かる由も無い。


 そもそも、俺が原因で愛美が産まれたとか、そんな断言は出来ない。


 第一、そんな確証なんてないじゃん?



「おい、ハルト? お前、さっきからずーっと何してんだ?」



 いつの間にか目の前に立っているイーリスが、アイスを舐めながら見ていた。



「あ、何?」


「あのなぁ~なに? じゃ、ないんだよ!? あたしが聞いてんの!」



 気付くと愛美と蜜柑、未来もイーリスの横に立ち、心配そうな表情で俺を見ていた。



「あ、ああ。ちょっと考え事を、ね」


「馬鹿ハルトの癖に、考え事だと? そんなことより、チョコアイス無くなったぞ? どーすんだよ!」



 俺の目の前に、白く溶けかかったアイスを突き出して来た。


 それは、ミルクアイスか……。



「で、俺にどうしろと?」


「はぁ~? お前馬鹿なの? あたしがチョコアイスが食べたいのがわかんないの⁉」



 わかんないの? ったってなぁ。



「もう、イルちゃん、アイス食べ過ぎだってば! もう今日はやめとこうよ、ね?」



 愛美がそう言ってイーリスの手を掴み、少し離れたテーブルまで連れて行かれる。



「え……。もう今日はやめるのか?」



 イーリスは寂しそうな表情で愛美を見上げると、落胆した様子で椅子に座った。



「だって、お腹いっぱいじゃない? ソーセージだっていっぱい食べたし」



 愛美は幼子を諭すようにイーリスへ屈みこみ、優しく言い聞かせている。


 イーリスは愛美を見上げながら、半べそを掻きながらもこくんと頷いている。


 こいつ、愛美の言う事は特に素直にきくよな……。

 


「あ、あたし、アイスは我慢するんだからなっ! 覚えとけよ、馬鹿ハルト!」



 そう言うとイーリスは、若干涙目のまま力強く俺を指差した。


 覚えとけって何なんだよ……。



「まあ、後で明日の分を買ってきてやるよ」



 俺はそう言うと、立ち上がった。



「え⁉ 明日にはチョコアイスが⁉ 幸せだぞ、こぬやろ!」



 イーリスが何やら言っているが、俺の耳にはさほど届かない。


 俺の視界の先には、温泉モードの友香さんと沙織さんがあったからだ。



「なあ、未来。友香さん、大丈夫?」



 いい加減心配になって来ていた。


 あの騒動の前から入っていたが、それが落ち着いた後に肉を頬張ってから、すぐにまたあの調子だからな。



「あ~、ああなっちゃうと中々ねぇ……一応、友香ちゃんの家に連絡しておくよ。前にもこんな事あったしね」


「まあ、うちは構わないからそうしてくれよ」



 未来はそのまま脱衣場へ向かって行った。


 しかし、友香さんは兎も角、あの沙織さんが温泉モードになるとはな。


 それでこの家に露天風呂を造ったのか?


 恐らく、この世界に移住する際に地脈を読み、源泉のある場所を特定してこの土地にしたのだろう。



「ねえ、お兄ちゃん。もうそろそろお夕飯の支度しなきゃいけなくない? お姉ちゃん、どこ行ったのかなぁ」



 そうだな。


 結構な時間になっている筈だ。


 見渡して見ると、時計は無いが色の違うタイルが目についた。


 そうだ、これだ!



「これで聞いてみるか?」


「あ、うんうん!」



 俺が座る椅子の横にポールがあり、そこにオレンジ色のタイルの様な物が付いている。



「悠菜、何処にいるー?」



 それに触れながら話してみると、予想通りすぐに返事が来た。 



『キッチンで夕食準備』


 流石、悠菜だな!


 急に悠菜の声が近くから聞こえて、不思議そうにイーリスがキョロキョロしている。



「そうだったのか、ありがとな悠菜」


「お姉ちゃんどうもありがとー! ごめんね、やらせちゃってー」



 愛美の傍にもインターフォンがある様だ。



『愛美はイーリスの傍に居てあげて』


「本当~? 分かったぁー」


「あ、あたしはっ! べ、別に一人でもいいんだからな⁉」


「お、お姉ちゃん、私はっ⁉」


『蜜柑は愛美の傍から離れないで』


「らじゃー!」


「んじゃ、あたしだって馬鹿ハルトの傍に居てやるか!」



 イーリスがその場で声を上げているが、その言葉は悠菜に聞こえているかは不明だ。


 だが俺は、そのやり取りを聞いていて、何かが引っかかった。


 何だろう……。


 悠菜の言葉?


 イーリスの傍に居てあげてと言った。


 確かにイーリスは妙に愛美に懐いている。


 どうしてあんなに懐いてるんだ?


 イーリスは確かに天真爛漫なのだが、ああ見えて結構素直でもある。


 それとも、素直に感じるのは愛美が居るからなのか?


 俺は何気なく沙織さんと西園寺さんを眺めた。


 あーあ、二人共あんなに幸せそうな顔しちゃって……。



「ちょっと、お兄ちゃん! 友香さんを見過ぎだってば!」


「あ、いや、大丈夫かな? って!」  



 慌てて愛美を振り返ると、ふくれた表情で俺を睨みつけてる。



「あーあいつ、エロだからな。エロハルト」



 残ったソーセージを指で遊びながら、イーリスはこっちを見ずに言う。


 ボソッと言いやがった!



「ほんと、えっちだよね~? さあ、イルちゃん、あたし片付け始めるから、お手伝いしてくれるかな~?」


「ん? 片付け? こいつを?」



 ソーセージを指で弄りながらも、空いた手で俺を指差してそう言った。

 


「何で、俺を片付けるんだよ!」


「エロだから?」


「うっ……」


「お兄ちゃんはほっといていーの。どうしようもないから」



 愛美と蜜柑がバーベキューの片づけを始めた。


 どうしようもないって……。



「ほら、ハルトも手伝えー!」



 イーリスにけしかけられて、俺も渋々と片づけを手伝い始めた。



「あ、あたしも手伝うよ~これは何処に仕舞うの?」


「未来さん、ありがとー! そっちでいいかな?」



 未来が脱衣場から戻って来るなり、俺達の姿を見て片づけを手伝い始めた。



「あ、友香ちゃんのお母様に連絡はしたからねー?」


「ああ、了解だよー」



 ふと気づくと、ボーっとイーリスが露天風呂を見つめている。



「ん? どーした、イーリス?」


「ルーナって、あんなんだっけ?」


「どうした? 何か変か?」



 俺も露天風呂に居る二人を見るが、さっきと同じ温泉モードだ。



「ルーナには随分前に会ったからな~良く分かんない」



 何だよそれ。



「お前、いつ会ったんだ?」


「んー、覚えてないや」



 こ、こいつ……。


 そう思いながらも俺は、イーリスの妹の話が頭をよぎる。


 だが前にイーリスと話した時に、寂しそうな表情をしていたのを思い出すと、それ以上の詮索はしないでおいた。



「ハルト、早く片付けろよな!」



 何なんだよ、こいつは。



「あ、イルちゃんもちゃんとお手伝いしないと、おやつあげないんだからね?」


「ひっ! て、手伝うってばっ!」



 やっぱりこいつ、愛美には特別素直じゃね?


 俺はそう思いながら片付けていた。



「こんなんでいいかな~? ねえ未来さん、着替えあるけどシャワー浴びたらバスローブがいい?」


「あーそうだよね~着替えたらまたすぐに汗かいちゃうかもね~そうしたいな」


「分かったぁーじゃあ、こっち来てね? イルちゃんもこっちおいでー」


「ぁぃ」



 三人はそう言いながら脱衣場に向かうと、その後をトボトボとイーリスが付いて行く。



「あら? イルちゃんどーしたの? 元気ない?」


「おやつある?」


「お手伝いしてくれたからあげるよ~?」


「おおおおー! お前、いい奴だな!」



 元気に愛美の手を握って出て行った。


 何か、やっぱりイーリスあいつ愛美に弱いぞ?


 そう思うと、少しにやけてしまったが、露天風呂を眺めると困惑した表情に変わる。


 ああ、この二人が居たっけ。


 そう思いながら俺は脱衣場に向かおうとして足を止めた。


 あ、今行ったら皆が着替えてるか……。


 俺は近くの椅子に座って、露天風呂の幸せそうな二人に目をやった。



 俺が椅子に座って、露天風呂へ入っている幸せそうな二人を眺めていたその時、ふと沙織さんと目が合った。


 ついさっき迄は温泉モードだったのに、いつ戻ったのだろう。


 沙織さんがじっと俺を見ていた。

 


「あ、沙織さん⁉」


「あ~! お姉さんでしょ~?」


「あ、お姉さん……」


「は~い」



 沙織さんは悪戯っぽい笑みを浮かべ、ゆっくりとその場で立ち上がる。


 白い水着が悩ましい。



「何だかまた少し成長した様ですね~」



 そして、怪しく薄っすら光る沙織さんがこちらへ近づいて来る。


 身体全体から光っている様だ。


 そして、近づくにつれその光が強くなってくる。


 お湯に濡れた白い下着は、その下の素肌を透かして見せているが、その肌が光り輝いていてよく見えない。


 その不自然な現象でさえも、不思議と今の俺はさほど驚かなかった。


 沙織さんは露天風呂の縁に立つと、俺を微笑んで見つめている。



「悠菜と二人で、二か月前には異世界へ戻る予定だったんだね……」


「あ~、ユーナちゃんに聞いたのね~」


「うん……」


「そう言う約束でここへ来ていましたから~」


「そう……だったんですね……」



 沙織さんはゆっくりと俺の前まで近寄って来た。



「悠斗くんの成長って、きっかけさえあればあっという間なのね~ちょっとびっくりしちゃった~」



 口調はいつもの沙織さんだが、今の俺にはその違いが分かっていた。


 俺は光り輝く沙織さんをじっと見つめた。



「悠斗くん、今の私のスキル見えるでしょ~?」


「え……? スキル? あ、うん」



 スキルと言う単語に少し戸惑ったが、沙織さんのステータスに、技能や能力が示された項目があった。


 いつの間に出たんだろう……。


 今朝見た沙織さんのステータスに、確かこんな項目は無かったと思う。



「簡単に言うと~それが見えるのは、その対象者が悠斗くんよりスキルレベルが同等以下になったという事なの~」


「えっ⁉ そんなまさかっ! 沙織さんが俺よりレベルが低い訳ないじゃん‼」


「あー! こら!」


「え……あ、お姉ちゃんより……?」


「ん~レベルが低いとは言っても、スキルのレア度、レアレベルも影響されるの」


「スキルのレア度?」


「うん~悠斗くんのスキルが私のスキルと同等のレアって事ね~」


「レアなのっ⁉ 俺のスキルが?」


「うんうん~」



 てか、俺のスキルってなにっ⁉


 そんなの記憶に無いんですけどっ⁉



「俺、スキルなんて無いと思うんだけど⁉」


「ん~悠斗くん、自分のステータス見れるでしょ~?」


「あ、うん……見た事あるけど」


「今は発動して無くても、発動準備段階まで来ているスキルなら見られる筈よ~?」


「は、発動準備だんかいーっ⁉」



 何ですかそれはっ!


 慌てて自分のステータスを見る。


 だが、幾つかの文字は見た事も無い……。


 わ、分かんないじゃん!



「今の悠斗くんに理解出来ない所があるよね~?」


「うんうん!」


「そこが準備段階なんだけど~ちょっとだけ後でお手伝いしちゃう~」


「あ、そうなの⁉」


「もう、ここまで成長してるのであればいいでしょ~」


「え……成長? してるの?」



 成長してるとか自覚無いんですけど……。


 あ、早く走ったり高くジャンプ出来たり?


 そう言えば、皆のステータスとか位置情報もハッキリ分かる様になったよね!


 あ、男達に絡まれても素早く避けれたし⁉



「ユーナちゃんも、悠斗くんが目覚めるまではやり遂げるって、ずっと覚悟してここに居たんですよ~?」



 目覚める?


 そう言えばあの夜、悠菜が言っていた。


 俺から離れないって……。



「俺が成長するまでは、離れないで護るって事だったんだ……」



 沙織さんはうんうんと頷きながら、更にゆっくり俺に近づく。



「私だってそうよ~?」


「そうですよね……」


「向こうに戻っても、悠斗くんの事をずっとお守りする事を誓っています」


「そ、そんな……」



 こんな別れ方ってある⁉


 これまでずっと一緒に居たのに、突然帰っちゃうだなんて!



「こんな、突然なの……嫌だよ……離れたくないよっ!」



 急に目頭が熱くなると、目の前が見えなくなる程に涙が溢れて来る。


 同時に鼻水も垂れて来ると、それを思い切り啜るがとても間に合わない。


 Tシャツの肩で顔を拭くが、それでもどんどんと涙が溢れて来る。


 自分の顔が、凄く酷い顔になっていると感じた。


 でも、そんな事よりも抑えようも無い悲しさが、全身の震えと一緒に溢れ出て来た。



「私も別れはとても辛いのです……でも、これが約束ルールなの」


「で、でもっ! ずっと一緒だったから! 家族だったからっ!」



 見っとも無く泣きながら沙織さんに訴える。


 俺はこれまでこんなに泣いた記憶が無い。


 そんな自分の異常事態に、頭のどこかで気付いているが、それでも今はそんな事よりも、沙織さんと別れたく無い気持ちが溢れ、全身でこの現実を拒絶していた。



「ハルトくん……私も貴方を連れて行きたいの。愛美ちゃんも連れて行きたいの……二人を誰にも負けない位に愛してます……」


「だ、だったら、何故っ!」


「ご両親も同じ位にあなた達を愛しているから……」


「あ……」



 何も言い返せない。


 俺を育ててくれた両親の愛は間違いなく本物だ。


 沙織さんに言われるまでも無く、それは俺が一番分かってる。


 その愛情を沙織さんのものと比べる事等出来ないよね。


 分かっている……。


 でも、沙織さんと離れるなんて、これまで考えた事も無かったのだ。


 いつも一緒に居た沙織さんと悠菜……。


 そして、これからもずっと一緒に居ると思っていた。


 それが俺の当たり前だったのだ。



「で、でもっ! 嫌だよそんなのっ!」



 好きだとは言えないけど、離れるのだけはどうしても避けたい。


 一生実らない恋でも構わない。


 ただ、これまで通り一緒に暮らして行きたい。



「私もユーナちゃんも本当はここに居てはいけないの」



 沙織さんは俺にでは無く、まるで自分に言い聞かせる様にそう言った。



「それは、悠斗くんを啓子さんへ授けた、その時から決まっていた事なの……だから……私が帰らないといけないの」


「そんな……沙織さん!」


「あ、こら」



 つい約束を忘れてお姉さんと呼ばなかった俺に、沙織さんは優しく怒ったフリをした。



「あっ……ルーナ! ルーナお姉ちゃん!」


「え……そう呼ぶんだ……」


「うん、これからはルーナお姉ちゃんって呼ぶ!」


「そう……。ねえ、ハルトくん、お部屋の絵を見た?」



 確かに沙織さんの言う通り、あの部屋には大きな絵画が掛かっている。


 緑の広い草原に、大きな木と泉がある絵だ。



「え? ああ、俺とルーナお姉ちゃんが生まれた泉だよね」


「うんうん~私の好きな絵なの」


「お……姉ちゃん……」



 俺の初恋の人は、同じ所で生まれたお姉ちゃんだったんだよね……。



「地球人の姉弟と言うのと大きく違いますけどね~」


「あ……俺は母さんの染色体も使ってるから……」


「そして貴方が子供の頃、色々と違和感を感じてたでしょ~?」


「あ、うん。頭の中に色々出てきたり……」


「それはきっと、私がこっちへ来てから、ずっと感じていた違和感と同じですね~」


「……そうだったの?」


「きっと、悠斗くんはあっちの感覚を、身体の何処かでは覚えているのね」


「そうなのかな……」


「ええ、きっとそうですよ……」



 そう言って沙織さんは手を合わせて俺を見つめた。


 もうこれでお別れなんだと思うと、また涙が溢れて止まらない。



「あまり泣かないで……最後の別れじゃないのに……」


「でも……いつも一緒に居た家族と離れるんだから……泣けるよ……」



 情けない泣き声で沙織さんに言い返す。


 とても離れる事に耐えられそうも無い。



「もう悠斗くんは大丈夫。あのイーリスだって呼び寄せたんだもの」


「そ、そんな事言っても、そんな意識無かったし……」


「悠斗くん、あなたは私が思っていたよりも、ずっと意味があって生まれて来たようなのよ……」


「え……? どういう事? 分かんないよ、俺」



 優しい眼で俺を見つめながら沙織さんは続けた。



「愛美ちゃんもね、きっとあなたが呼び寄せたの……」


「え……? 愛美?」


「ええ。その一つの理由として、啓子さんの不妊は今も治ってません」


「えっ⁉ ど、どうして……?」


「あの時、間違いなく啓子さんは妊娠して、自然に出産をしたのですけれど……」


「う、うん」


「その後の啓子さんは、最初に逢った時と同じ状態に戻ってしまっているの」


「え……その事を母さんは知ってるの?」


「ええ。私からその事は伝えました。勿論、お父様にも」


「そうなんだ……」


「その事を伝えた時にね、啓子さんが言ったの……。私が悠斗くんを啓子さんに授けた様に、愛美は悠斗が授けてくれたって……」


「え……そんな事を……」


「あの時の私には、啓子さんのお腹に赤ちゃんを授ける事は出来なかったのだけれど、悠斗くんは啓子さんにそれが出来たのよ」


「そんな……うそ……だよ」


「それが本当よ? だって、私はずっと悠斗くんを見て来たもの……あなたが生まれてからずっと」



 それは否定できない。


 悠菜と沙織さんはずっと一緒に居てくれたし、いつでも俺を見てくれていた。


 両親よりも俺の事を心配していたのは事実だ。


 きっと、両親は沙織さんと悠菜に任せて置けば安心だったのだろう。


 だから、一番心配してくれていたのは、ある意味沙織さんなのかも知れない。



「そ、そんな事言われても、俺には自覚も無いし……」


「ちょっとだけ見せて……」


「え?」



 沙織さんが俺の手をそっと握った。


 手を握られるだけでこんなに気持ち良いとは……。



「随分前、ユーナちゃんに聞いた次の日にハルトくんを触ってみたけど、その時は分からなかったの~でも、やっぱり間違い無いわね~」


「え?」


「ハルトくん、メングロスさんに逢っている様ね~それと、悠子さんにも」


「え? めんぐ? ゆうこさん?」



 聞いた事も無い……。


 誰っすか⁉



「ユーナちゃんが言うには、初めて啓子さんの義父さまにお会いした日の夜だったと……」


「母さんの義父さま? 父さんの父さん?」


「うんうん~その時に二人の女性が現れたと……」


「女の人⁉」


「ユーナちゃんはどちらも知らない人だと言うけど、一人は私が知ってるメングロスさんで、もう一人はハルトくんのお父さんのお父様の奥さんね~」


「それって、俺の……愛美のお婆ちゃんって事⁉」


「そうなります~」


「えーっ⁉」



 ど、どう言う事よっ⁉



「じゃあ、幽霊とか⁉」


「幽霊~?」


「う、うん。化けて出て来たとか?」


「それは違うと思うけど~きっと悠子さんの姿の方が都合が良かったと思うな~」


「都合が良いって……」



 都合よく姿を変えられるのっ⁉


 その人達って何者ですか⁉



「多分だけど、実体では無くて思念体として逢いに来たんじゃないかしら~」


「思念体って……」



 本当はどんな姿なのさ!



「何か理由が無ければ現れないと思うの~」


「ま、まあそうですよね……」


「あ、でも思念体として現れたら幽霊って言うのかしら~」


「へ? あ、いや、それはどっちでも……」



 何か訳があって現れたのは間違いないだろう。


 メングロスさんって誰よっ!


 悠子さんってお婆ちゃんも何者っ⁉


 でも、どうして?


 孫である俺に逢いに来た?


 まあ、無くは無い理由だけど、普通の人じゃない事は間違いなくね?



「メングロスさんも気になるけど、それよりお婆ちゃんの悠子さんって人間じゃ無いの?」


「悠子さんは元々は地球の方だと思うけど~こちらで亡くなった時にメングロスさんと関係をもったとも考えられるわね~」


「死んだときに?」


「ええ~気になって調べたんですけどね~」


「ええ」


「地球には過去に何度も異世界からの接触が確認出来ているの~」


「異世界って、エランドールじゃなくて?」


「セリカちゃんやユーナちゃんのご先祖さまはこの地球ですけど、その後のエランドールではずっと地球の世界との接触は禁止されているので~」


「じゃあ、エランドール以外の異世界って事?」


「ええ~私も知らない異世界や異次元、異星人も関係してるのよね~」


「そ、そうなんだ……」


「ただ殆どは、地球の進化を妨げない様に配慮はしている様ですけど~」


「でも、例外として今回の様な略奪者もあると……」


「そうみたいね~ムーやアトランティスは過去に略奪の被害を受けたの」


「えーっ⁉」


「その後も何度か過去の地球では、他の異星人達の戦いの場になったと聞いているわ」


「そ、そうだったんだ」



 まあ、現代人がこの地球で生活してまだ数百年だしね。


 何万年も昔の事何て殆ど分かって無いよね。


 そして、二十数日後には異星人が略奪に来るんですよね?


 沙織さんやセレス達が帰っちゃうのに、どうしたら良いのさ!



「でも、皆帰っちゃうのに俺はどうしたら良いの⁉」


「さっき言ったじゃない~ハルトくんはもう大丈夫って~」


「そんな、俺何も分かって無いよ⁉ 何も出来ないよ⁉」


「今はまだ目覚めたばかりだから……きっと貴方は私とユーナちゃん、そしてセリカちゃんの想いを胸に、この地球の皆を護るわよ……」


「地球の皆って⁉ まさかそんな事出来る訳っ!」


「だって、私達とエランドールへ帰る気など起きないでしょう? この先に起こり来る、地球の危機に立ち向かうのでしょう?」



 確かに沙織さんとエランドールへ帰る選択肢は最初から頭に無い。


 何故か一度もそれは考えられなかった。


 今思うと意外だが、地球の危機に俺だけ逃げる感じがしてそれは嫌だ。


 危ない事が置きそうなのに、それを放って置いて何処にも行けない。



「あ……うん。絶対に逃げたく無い……」


「愛美ちゃんとイーリスを召喚した様に、今度はその力で地球の危機を救って下さい。何も出来ない私の代わりに……」


「ルーナお姉ちゃん……」


「そして、いつまでも元気でいて……」


「うん……」



 どうしても帰っちゃうのか……。


 だけど、ちょっと待てよ?


 前に俺がエランドールで産まれた目的を、ユーナやセレスの為だとも言っていたよね?


 彼女達の存続がどうのって言っていた。


 だからこそ、ユーナとセレスの染色体も使ったとか……。



「でも、セレスと悠菜の存続の研究材料って話は……」


「それはね……」



 そう言うと、また優しく俺の手を握った。


 沙織さんの手の温かさが俺に手に伝わってくる。


 同時に何かが、どんどんと俺に流れ込むような感覚になり、俺は咄嗟に身構えたが、すぐに危険なものでは無いと判断できた。


 意図せずに俺の脳内では、目まぐるしくその解析を行っていた。


 沙織さんの身体全体が更に眩い光を放つと、その光は俺の身体も同調するかの様に光り輝き始める。


 声にならずに沙織さんの手を握り返すと、俺と沙織さんの身体を包むように更に光は大きくなる。


 大きな光の塊が辺りの景色を眩く照らし、その存在を感じられなくなる。


 俺には沙織さんだけが見えており、周りの景色は眩い光に包まれて何も見えなくなっていた。



「これが私と悠斗くんの世界。私だけではここに来る事など出来ない世界」



 ゆっくり辺りを見回すがやはり何も見えない。


 それどころか、足の下の床も見えない。


 そこに何も無いのだ。


 え?


 少し力が入るが、踏み込む足の下には何もなく、重力でさえも感じない。


 そして、例えようがない心地よさ。


 快感にも似ている。


 全身を流れる微電流の様な……。


 ちょっとした違和感を感じたその時、沙織さんの意識が流れて来る。


 とても優しく、全てを包み込む様な博愛の気持ち。


 頭の中が光り輝いて真っ白になった様な感覚。


 沙織さん……やっぱり女神の様な人だ……。


 そして、更に何かが俺の中に入って来るのを感じていた。


≪フェオ……ウル……ソーン……≫


 意味は分からないが、そんな言葉が頭に響いてくる。


 幾つもの単語が流れ、その都度頭の中に刻み込まれるようだった。


≪……オセル……ダエグ……ウィルド……≫


 そして、フワッと全身で何かを感じた。


 咄嗟に脳内でそれを確かめるが、ルーナ文字としてインストールされた様だ。


 そしてすぐに沙織さんが祝詞を唱えた。


 また別の言語の様だ。


≪ベネディクティオ・パーフェクタ・アエテルナ……スリーアンヴォスポース≫


 な……何だ?



「これで悠斗くんと私は、いつまでもずっと繋がっているわよ? 覚悟してね?」



 え?


 覚悟?


 何を覚悟っ⁉



「沙、ルーナ……姉さん、今、何を?」


「おまじないみたいなものよ~」



 そう言って、嬉しそうに微笑んだ沙織さんが、掴む手の力を緩めた。


 俺は名残惜しみながらも、握る手の力を抜く。


 スッと二人の手が離れると同時に、身体に重力を感じた。


 俺の身体は無意識ではあるが、当たり前の様にその重力を自分の身に対応させていた。


 足に感じる床の感触に、何気なく下を見た時、自分の身体にある違和感に気が付いた。


 俺の全身に、見た事も無い不可解な紋様が、ハッキリと浮かび上がっていたのだ。


 そして、その紋様を沙織さんが指でなぞるとスッと消えていく。


 同時に全身の光は消え、周りの景色が視界に入ると、向こうには露天風呂が見えた。


 そこに入っている友香さんも見える。


 勿論、辺りはそのままの状態で残っていた。


 その時だった。


 沙織さんが俺を強く抱きしめた。


 えっ⁉


 沙織さんの素肌を全身で感じながら、俺はそっと沙織さんに腕を回す。


 思いも寄らず抱き返してしまったが、その身体は意外にも小さく感じた。


 抱いた腰とその肩は、人間の女性そのままの華奢に思えた。


 これまでは愛美しか抱いた記憶しか無かった俺は、思わず沙織さんを強く抱きしめてしまった。


 心臓がどくどくと強く脈打ち、耳の奥までその音が響き渡っている。


 この心臓の音は、沙織さんに聞こえてしまっただろうか。


 それは恥ずかしいが、今は仕方ない。


 こうして憧れの人と抱き合えているのだから。


 これを逃したら、二度と抱き合えない気がしていた。



「ハルトくん、あなたと一緒に過ごせて幸せでした」



 俺に抱かれた腕の中で、沙織さんはそう言ってくれた。



「お、俺だって……俺ほど幸せな奴は居ないと思う……」



 本心からそう思えた。


 沙織さんが絶世の美女だからじゃない。


 昔から俺には特別に優しく、いつも傍に居てくれた。


 こんな俺に最高に奥深い愛情を、いつでもたっぷりと注いでくれていた。


 育ててくれた両親よりも、実は愛してくれていたのかも知れない。



「お、俺、ずっと好きでした! 今でも、これからも、ずっと好きです!」



 遂に言ってしまった!


 もう逢えなくなると思うと、どうしても言わなきゃいけないと感じた。


 同時に、こうして抱き合っていると、まるで愛し合っているかの様に錯覚したのかも知れない。


 仕方ないじゃん!


 好きな人と抱き合ってるんだから!



「私も……貴方は私の大切な×××××よ?」


「え……何て?」



 大切な×××××?


 その後の言語が、日本語でも英語でも無く、聞いた事も無いものだったのは分かったが、その意味が分からない。


 何て意味なのか分からずに、俺は腕の中の沙織さんを覗き込んだ時、その意味を聞こうとした俺の口を沙織さんの唇が塞いだ。


 突然の事で俺は動転していた。


 思えば、俺のファーストキスだった。


 頭の中がグルグルと回る。


 あの憧れの沙織さんと⁉


 お、俺は、き、キスしてるーっ⁉



 自分の意志とは違う動きで、俺の唇が沙織さんの唇と絡みだした。


 次第に気が遠くなる程の快感が迫って来ると、全身に電流が走り抜けた様な衝撃を感じる。


 股間がぐんっと一気に硬くなった。


 俺の頭の中は真っ白になりながらも、必死に何とか冷静さを保とうと堪えていた。


 だがそんな状況下でも、俺の脳内では彼女の唾液から、数多くのモノを採取解析した様だ。


 ルーナのステータス情報が明らかに増えていたのだ。


 以前は読み取れなかった箇所が、今は見える様になっている所もあった。


 もしかしたら、こうして沙織さんも俺の唾液から何かを採取して感じ取ったのかも知れない。


 そう思うと急に変な気分は冷めていくのが分かった。


 やがてゆっくりと俺の口から沙織さんの唇が離れた。


 名残惜しそうに沙織さんを見ると、何とも言えない優しい表情で俺を見上げていた。



悠斗ハルトくんの最初、戴きました♡」


「あ……うん」



 げっ!


 やっぱり初めてだってわかる⁉


 キスの練習しておけば良かったぁー!



「このお家はハルトくんへの成人祝いで置いておくわね?」


「え? えーっ⁉ こ、ここーっ⁉」


「私がいつ来ても温泉に入れるように、ちゃんとお掃除は宜しくね?」



 沙織さんは笑顔でそう言うと、ゆっくり脱衣場へ向かった。


 いつ来ても?


 そう言われて少しだけ寂しさが紛れた。



「ちょ、ちょっと!」



 後ろ姿の沙織さんは、先程の光り輝く身体では無くなっていた。


 こんな時でも水着のお尻を見てしまうのは男の性ですか?


 そして、つい今までキスをしていた沙織さんを思うと、とんでもない喪失感が俺を襲った。


 俺のファーストキスに二度目は無いのか!



「さ、沙織さんっ!」



 つい、ルーナとは呼ばずに沙織さんと呼んでしまった。



「あ、は~い~?」


「も、もうすぐに、行っちゃうの?」


「こっちへ来る時にそう言うお約束でしたしね~約束は守らないといけないもの……」



 そう言って沙織さんは脱衣場へ消えた。


 そして、姉さんと呼ばなかった事に後から気づいたが、沙織さんはそれを咎めはしなかった。


 気づかなかったのか、それかあえて見逃してくれたのだろうか……。


 いよいよ別れなのか……。

 

 急にまた寂しさが込み上げて来る。


 今までの沙織さんと悠菜の姿が、頭の中にまるで走馬灯の様に流れている。


 自然と涙が溢れて流れ落ちるが、それを拭う事も出来ずに震えていた。


 ファーストキスの相手が遠い世界へ行ってしまう。


 やはり初めての人とは結ばれる事は無いのだろうか。


 そんなのは悲しすぎる。


 俺はゆっくりと露天風呂の中へ入ろうとして、自分の首に掛かっているネックレスに気付いた。


 え?


 いつの間にこんなのしてたんだ?


 ペンダントヘッドには、見た事の無い文字の様な紋様がある。


 きっと、沙織さんが付けたんだな……さっき。


 この程度の事はやりそうだ。


 急に人の気配を感じてハッとして振り返ると、友香さんが気持ち良さげに温泉に入っている。



「うわっ!」



 見られた⁉


 あれ?


 寝てるのか?



 俺はこの先もずっとここで生きていたい。


 だが異世界エランドールでの生活も興味はあるし、あそこにもう一度行ってみたい。


 俺が生まれた世界か……。


 だが、今はまだやる事がある。


 この先に控えた地球存亡の危機。


 その為に召喚したイーリス。


 そして、それをコントロールしてくれる愛美。


 今の俺にはこの二人が助っ人としている訳だ。


 だ、大丈夫だよな?


 あの二人で……。


 一抹の不安が過ったが、俺はその時出来る事を必死にやるしかない。


 もうちょっと、力強い戦力はないのか?


 セレスみたいなさ。



 そんな事が頭に過ったが、考えても仕方ない。


 沙織さんに成人祝いも貰った訳だ。


 俺は沙織さんと光に包まれた事を思い出した。


 すると不思議と心は満ち溢れ、何とか出来そうな気持になって来た。


 沙織さんから注がれ続けられたこの愛は、何があっても絶対に忘れない。


 今度は俺がこの地球の皆を護ってあげたい。


 沙織さんにもお願いされたしな!


 しかし、露天風呂の掃除を宜しくと言われても……。


 俺は露天風呂を見廻した。


 露天風呂だけじゃなく、この家滅茶苦茶広いから掃除が大変だってば……。



   ♢


 さっき沙織さんが脱衣場に行ったが、バスローブを着るだけならば、そんなに時間はかからないと思う。


 そろそろ脱衣場に入っても良さそうだな。


 脱衣場へ向かいながら、露天風呂の友香さんをチラッと見たが、まだ幸せそうな表情でお湯に浸かっている。


 あの人、ある意味凄いな!


 露天風呂を過ぎて脱衣場の前まで来ると、一瞬躊躇いも感じたが思い切って中を覗く。



「あ~!」



 えっ⁉



「わっ! 見てません、見てません!」



 慌てて下を向いて両手を前にし、咄嗟的に身構えた。


 だが、今の声は後ろの方から聞こえた感じだった。


 あれ?


 ゆっくりと露天風呂を見ると、友香さんがこちらを見ている。



「あっ! 友香さん! 気付きました?」


「今、気付いた~」


「あははは! そうなんだ?」



 思わず笑ってしまった。


 この人、本当に天然だねー。



「私ね、温泉来るといつもこうなの~そろそろあがらないとね~」


「あ、うん。皆夕飯の支度してるから、一緒に下がろうか?」



 友香さん、沙織さんに似た所あるんだね。

  

 友香さんを横目に脱衣場を覗くが、沙織さんの姿は無い。


 今は誰も居ない様だ。



「友香さん、その辺のバスタオルとバスローブ、好きな色を使っていいからね?」


「は~い。どうもありがとうございます~」


「俺は部屋に寄って行くから、下の三階のロビーで待っててくれる?」


「はいは~い! すぐ出まーす!」



 そう言いながらお湯の中を中腰になり、両手でお湯をすくいながら泳ぐように移動している。


 見ると友香さんの水着の上が、お湯の抵抗ではだけそうになる。


「うわっ! 友香さん! 水着とれるってば!」


「やだっ! 見えちゃった?」


「見てないっ! 見てないっ!」



 俺は慌てて脱衣場に入るとバスローブを掴み取り、逃げる様に自分の部屋に向かった。


  ♢


 着替えを済ませて三階のロビー迄来ると、丁度友香さんが脱衣場から降りて来た所だった。


 髪をバスタオルで包み、薄いピンクのバスローブが艶っぽい。


 目のやり場に困るんだよな、全く。



「あ~霧島君来てくれた~」


「友香さん。ゆっくり入ってましたねー」


「ええ~どうもありがとう! 凄く良い温泉ですね!」


「そうですよね~俺もびっくりですよ」


「え~?」


「ああ、実は最近初めてこの温泉に入ったんで」


「そうなんだ~? でも、こんな温泉には滅多に巡り合えません!」



 半ば興奮気味に友香さんがそう言うが、俺はこの人がこんなに興奮する事に、若干戸惑いを感じていた。



「いや~こんなに友香さんが温泉大好きとか、思いませんでしたよ」



 俺達は並んで話しながら階段を下がる。



「私、温泉が本当に大好きなんです!」


「あ、そ、そうですか」



 温泉好きな女子って多そうだけど、俺にしてみれば温泉って、何と無く年寄臭いと思っていた。



 ダイニングへ友香さんと揃って入ると、テーブルの上には夕食の準備が既に整っており、そこへ皆揃って席についていた。


 そして、セレスの姿だけは見当たらないが、場の雰囲気がいつもと違う事に気付く。


 セレスはまだ医務室か?



「あ、お兄ちゃん……友香さんも」



 愛美の目は真っ赤になっていて、しかも涙声だ。



「ハルト! 遅いぞ!」


「お? おう」



 イーリスが愛美の膝の上で、バナナを食べながら俺を指差す。



「あ、愛美ちゃん、良いお風呂を頂きました~」


「い、いえいえ」



 そう言って、友香さんは深々と頭を下げる。


 彼女はこの変化に気付いていない様だ。



「友香ちゃん、ここ座って」


「は~い」



 神妙な表情の未来に呼ばれて、友香さんが未来の隣へ座る。



「友香さんにはまだ話してなかったわね~」



 沙織さんが手を合わせながらそう言うと、愛美がイーリスの背中に顔を隠した。


 蜜柑もその横に座って下を向いている。


 あいつら泣くのを隠してるのか……?



「友香さん、私達引っ越す事になったの」



 無表情ではあるが、かなり優しく悠菜がそう言った。



「えーっ⁉ いつですか?」



 驚いて友香さんが悠菜を見る。



「本当は、大学へ入る前には引っ越す予定だったの」


「そうだったのですか……で、どちらへ?」


「とても遠い所」



 普通ならこんなタイミングで、引っ越しなどありえないだろう。


 だが、純粋な友香さんは疑う事もしない様だ。


 キョトンとした表情で悠菜と沙織さんを見る。


 愛美に抱かれたイーリスが、訝しげな表情をしてそのやり取りを目で追う。



「もしかして、大学もお辞めに?」


「そうなる」


「え……」


「友香さん、ここの温泉はいつでも入りに来て下さいね? 悠斗くんにしっかりお掃除お願いしましたから~」



 そう言って沙織さんは笑顔で言うが、やっぱり掃除は大変そうだ。


 そこも問題なんだよな……。


 愛美と蜜柑、二人だけにここの掃除をやらせる訳にもいかない。


 俺も覚悟を決めて置かなけばならないだろう。



「そ、そんな……でも、いいんですか?」


「ええ、毎日でもいらしてね?」



 遠慮よりも、ここの温泉の魅力に勝てなかったの?


 少し友香さんの知ってはいけない部分を見てしまった気がする。


 やはり源泉かけ流しってのが、よっぽど友香さんのお気に入りなんだな。



「そんな……沙織さん……では、お掃除をお手伝いします!」



 お?


 おお! それはいい!


 不意な友香さんの提案に、俺は心が躍った。



「あら~どうもありがと~!」


「いえ、こちらへお邪魔する際には家事の補助をさせて頂きます!」


「あらあら~このお家は悠斗くんにプレゼントしたので、後の事は愛美ちゃんと仲良く管理してね~」



 その言葉でまた、本当にこれで沙織さんと悠菜との別れが来たんだと感じた。



「今日はユーナちゃんと、ハルトくんのお友達にも会えて、本当に感謝します」



 そう言うと沙織さんが二人を見つめる。


 だが、いつものおっとりした沙織さんの口調で無い事に、俺は少し違和感を感じる。



「あ、いえっ! こちらこそです!」



 未来が照れる様にそう言うと、友香さんは深く頭を下げた。



「そうだ、ハルトくん」


「はい?」


「一緒に入った二階のお部屋、あそこだけはあのまま荷物は入れないで下さいね~?」



 エランドールへ行った時に入ったあの部屋かな?



「あ、はい! 悠菜の部屋もそのままにしておくからな?」


「あの部屋にはイーリスの服以外、今は何も無いよ?」



 悠菜はいつもの表情で俺を見てそう言った。



「それでもそのまま取っておく!」



 悠菜の部屋だって片付ける事等、そんなことは考えられなかった。



「それよりも、悠斗がルーナと入ったあの部屋」


「え? あ、うん」


「あそこが私の部屋でもある」


「あ、そうなんだ?」



 いつもの表情ではあるが、悠菜はゆっくり頷き、ゆっくり立ち上がると俺の傍へ寄って来た。



「立って」


「え? なに?」



 目の前まで来ると、そう言って俺の手を取る。


 言われるがままに俺は立って、両手で悠菜の手と繋いでいる。


 悠菜が何やら聞き取れない言葉で、ぶつぶつ言いだした。


 これ、前に塀の前で言っていた様な……。


 恐らく祝詞のりとの様な物であろうか。


 ――っ!


 その時、確かに俺の脳ではそれを理解した。


 自分では意識せずとも彼女の言葉から、これから何をしようとしているのか分かったのだ。


 次第に悠菜の身体が白っぽく光りだすと、沙織さんの光よりもシャープな光が強くなる。


 眩しさに目を開いていられなくなっり、思わず目を瞑ってしまった。


 だが、目を瞑っても俺の脳内には目の前の様子が見えている。


 そう、既に覚醒した俺の研ぎ澄まされた感覚は、視界を遮られてもそれらを認識出来たいたのだ。


 もしかしたら、沙織さんとキスしてから覚醒したんじゃないか?


 愛美に目を遮られた時はこんな事は無かったからだ。


 すると悠菜は、ゆっくり俺の左手を自分の胸に置いた。


≪レフコクリソスアスピダ≫


 なっ!


 何をっ⁉


 悠菜の胸の膨らみがハッキリと感じ取れると、急に鼓動が強くなる。


 だが、明らかに俺の体内へ新たなスキルが入ったのが分かる。


 その後、ゆっくり俺の手は悠菜の胸から離れた。


 胸から離れた寂しさと、新たな安心感を感じて悠菜見ると、彼女が微笑んだ様に見えた。


 え?


 俺は左手の中指に指輪をしているのだ。


 勿論、俺は指輪などした事は無い。


 もしかしたら、沙織さんと同じ様に悠菜が付けたのだろうか。



「これで貴方は、私の盾を召喚する恩恵を得た」



 し、召喚⁉


 恩恵っ⁉


 その様子を未来と友香さんが驚いて見ている。


 勿論、愛美と蜜柑も同様だ。


 それとは対照的に、沙織さんとイーリスは笑みを浮かべて見ていた。


 沙織さんは分かるけど、何故イーリスも嬉しそうなんだ?


 その時の俺は、全く理解など出来なかった。


 悠菜が俺から離れ、沙織さんの傍へ行くと彼女を見てゆっくり頷いた。



「まだ済んで無いでしょ?」



 沙織さんが悠菜にそう言うと、悠菜は黙ってこっちを向いた。



「え? なに?」



 急に俺に近づいた悠菜は、その両手で俺の顔を掴むと、背を伸ばして顔を近づけ……行き成り俺にキスをした。


 ――っ⁉


 な、なにーいぃ⁉


 悠菜とのキスの間、俺は呼吸も出来ずに硬直していた。


 悠菜の唇の感触が、俺の頭の先から順番に全神経を刺激した。


 そして、彼女の舌が俺の舌を捕らえた。


 すると、ユーナとしてのステータス情報が一気に流れた。


 沙織さんの時と同じように、悠菜の唾液から数多くの情報を得た様だ。


 やがてその唇が離れると、妙に名残惜しい様な切ない気持ちになった。


 だが悠菜は俺の目を見る事無く、くるっと後ろを向いてしまった。



「もう良いの~?」


「うん」


「では行きましょうか~」



 そう言って、ゆっくり沙織さんは立ち上がる。


 と、愛美を含めた女子たちが、我に返った様に声を上げた。



「な、何してるのっ! お、お兄ちゃんっ!」


「ぬぉっ⁉ お、おれ⁉」


「やっぱり、悠菜さんと悠斗くんて、そう言う事だったのか~」



 未来がそう言ってニヤニヤすると、友香さんは見たらいけないものを見た様な表情をして、そのまま下を向いてしまった。



「あ、いや、これは……」


「お兄ちゃん、鼻の下伸びてるっ!」


「さてと、セリカちゃんは連れて行くわね~」


「あ、も、もう行くの⁉」



 急に寂しさが込み上げて来て、俺はついそう聞いてしまった。


 聞いたら余計に寂しさが込み上げて来ると言うのに。



「待てっ! 悠菜っ!」



 俺は思わず悠菜を呼び止めた。


 もう二度と会えないかもしれない悠菜に、沢山言いたい事があるんだ。


 いつもありがとうとか、いつもごめんねとか……。



「ゆ、悠菜……。いつも護ってくれてありがとう。今までずっと俺達を護ってくれてありがとう。俺、悠菜に何もしてあげられなくて、ごめんね……。本当に、本当にこれまで悠菜は大変だったよね……。今までそんな事に気付いてあげられなくて、ごめんね……。俺と愛美がこんなに幸せだったのは、悠菜がいつも一緒に居てくれたからだよ……」



 そう言いながら、また涙が溢れて来る。


 そして声が詰まる……。



「悠斗……。私は……」



 そう言いかけて、悠菜は沙織さんを振り返った。


 悠菜と目を合わせた沙織さんは、こくんと小さく頷いた。


 すると、振り返った悠菜の銀色の瞳には、零れる寸前にまで溜まった涙が光っている。



「悠斗っ! わ、私は、あなたと愛美といつも一緒に居て、凄く楽しかった! いつもいつも、毎日が新鮮で、すっごく楽しかった! 私が揶揄われて居たら、自分がされるよりも必死に護ってくれる悠斗が嬉しかった! 無感情な私に全身全霊で感情をぶつけてくれる愛美が嬉しかった! こんな機会を与えて下さったルーナに心から感謝し、悠斗と愛美に感謝しますっ! そして、離れてもずっと、命ある限りずっとあなた達の幸せをルーナと共に祈っています!」



 零れ落ちる涙を隠そうともせずそう叫ぶ悠菜に、俺だけでなく愛美や皆が呆気にとられた。


 あのいつも無表情な悠菜が、こんなにも感情を露わに叫ぶなんて……。


 だが、それが一層別れの辛さを倍増させていた。



「お姉ちゃんっ!」



 イーリスを抱いたままの愛美が急に席を立った。



「愛美……」



 悠菜が振り返り愛美を見ると、イーリスをギュッと抱きしめたまま、その泣き顔をイーリスに埋めた。


 困惑したイーリスだったが、愛美からゆっくり下へ降りると、イーリスは背伸びをしてその頭を撫でる。



「今生の別れではあるまいに――」



 こいつ、やっぱり俺より年上だな。


 そう思いながらも、その二人の様子を見ていると更に胸が熱くなる。



「愛美はもう大丈夫。悠斗が覚醒したから……」



 俺が?


 覚醒って……。


 あ、沙織さんとキスして変化した事?


 悠菜は涙を流しながらも、優しい表情でそう言って、愛美をそっと抱きしめた。


 そして、俺にした様に愛美にキスをした。


 ――っ⁉


 えええええーっ⁉


 これが百合ですかっ⁉


 咄嗟の事で俺は戸惑っていた。


 愛美は最初は見開いていたその目も、今はうっとりと瞑り、その身を悠菜に任せている。


 こ、これは……。


 俺の時より少しながく無いか?


 ゆっくり愛美から離れた悠菜は、優しい表情でその目を見た。


 そして、俺の時とは対応が違いますけど?



「覚醒した悠斗でも、愛美が必要だから。貴女が助けてあげて」



 そう言われた愛美はただ頷くと、悠菜に抱きついて泣き出した。



「悠斗は愛美を含めて皆を護る為にここに残るのだから」



 悠菜はそう言って愛美を抱きしめたまま、蜜柑や五十嵐さん達を見廻した。


 覚醒って、そこまで変化は感じて無いけど……。


 そう思ってしまった。


 大丈夫なのか? 俺は。


 未来と友香さんは貰い泣きにも近いだろうが、その目の涙を手で拭っている。



「さあ、悠斗くんは大丈夫ですよ~私達とはいつも繋がっていますから~」



 そう言って愛美に近寄ると、今度は沙織さんが優しく抱きしめた。



「沙織おねえちゃーんっ! でも、でも寂しくて!」



 愛美はそう言いながら今度は、沙織さんの胸でわんわんと泣き出した。


 それに釣られて未来も大声で泣き出すが、友香さんは声を殺して泣いている。


 ああ、こういうのはどうも苦手だよ。


 俺は愛美の鳴き声が本当に苦手に感じている。


 昔からそうだった。


 そう思っていた時、脳内レーダーが何かを察知した。


 もの凄い速度でこちらに接近している生命体がある!


 これは――っ⁉



 俺の良く知っているステータスだ。


 上方からこちらへ凄い勢いで向かって来ている。


 セレスか⁉


 だが、その力をセーブしている様だ。


 そして、どたどたと彼女が大声と共に入って来た。



「あああああー! すまんっ! 私は何て事をしてしまった⁉」



 バスローブを羽織っているだけで、上半身は大きな生乳が見え隠れしている。


 下には黒い透けた下着が見えていた。



「セレスっ⁉」



 その姿に驚いた俺は声を上げた。



「ああ、ハルト!」


「前っ! 胸が見えてるってば!」


「あ、ああ、すまん! 私、どうしてたっ⁉ マナミに何かしたかっ⁉」



 ああ、全く記憶無いのね?



「セリカちゃん、コーラ飲んじゃったの~もう、大変だったんだから~」



 沙織さんが愛美を抱きながらセリカにそう言うと、彼女はその場で突然土下座をした。



「この通りだ! 許してくれっ! そんなに泣いているなんてっ! この通りだー!」



 頭をリビングの床へ擦り付けて居る。


 あ、もしかして勘違いしてる?


 やはりセレスは、愛美が号泣し他の皆も泣いて居るのは、自分のせいだと思ったらしい。



「あ、ち違うのセレス! これは、セレスのせいじゃないの!」



 愛美が慌てて涙声で訴える。



「え? では、どうして? あ、イーリスか⁉」


「何でだよっ!」



 イーリスは意表をつかれた様子で驚き、セレスに詰め寄る。



「で、ではどうして? あ、ハルトが何かしたとか?」



 正座しながら俺を見上げた。


 俺かよっ!



「なっ! してない、してない!」



 そうして暫く正座をしていたが、セレスは状況が掴めていない。


 すると、愛美が急に笑い出した。



「全くも~! セレスー!」



 すると、蜜柑も涙ながらに笑い出した。



「セレスさん、グッドタイミングです!」


「沙織お姉ちゃんと悠菜お姉ちゃんとのお別れだって言うのに、セレスとイーリスの大騒ぎを思い出しちゃったじゃん!」


「あれは酷かったですよー!」


「ね~? 未来さん?」



 その様子を見た未来も泣いてはいたが、急に笑いだしてそう言った。



「うんうん、酷かったですよ~?」


「ええ、本当に激闘乱舞って感じ!」


「え? 大騒ぎ? 私が?」



 セレスは呆気にとられた表情で皆を見上げた。



「そうなのか? あたし全然覚えてないけど?」



 イーリスはキョトンとして、そう言う皆を見上げている。



「そんな事があったのですか?」



 友香さんも彼女達を驚いて見ている。


 やっぱり友香さん、全然気づいてないのか。


 さっきまでのシュンとした空気は、セレスの出現で一気に明るくなった。

  


「てか、別れ? さては悠斗の覚醒が済んだって事ですか⁉」



 そう言うとセレスは立ち上がって、俺と沙織さんを交互に見る。


 そうか、この人も分かってたんだな。



「セレス、待たせて悪かった。もう大丈夫だ――と、思う」



 俺はセレスにそう言うが、少し不安なのは隠せないでいた。



「そうか、そうか!」


「うん……」


「いつでも私の力が欲しい時は呼んでくれ!」


「あ、ありがと?」



 って、どうやって呼べばいいんだか?



「で、ハルト、恵与はされたのか⁉」


「けいよ? なにそれ」


「まだなのか⁉ では私から! ルーナ、いいですよね⁉」



 そう言うと、沙織さんへ振り返った。   



「ええ。セリカちゃんがそう言うなら~」


「そうか⁉ ハルト、ちょっといいか?」



 そう言うと、俺の両手を握った。


 え?


 ま、また?


 先程の悠菜と同様に、何やら祝詞を唱える。


 すると、セレスの身体が黄金色に光りだした。


 いや、黒と金のツートンだ。


 マーブル模様の光のオーラが、セレスに纏わりついている。


 眩いばかりの黄金の光と漆黒の影の中で、セレスの開けた胸へ俺の手は導かれ、また鼓動が早くなる。


 やっぱ、これかよ!


 しかも今度は生ですよっ!


 その胸は悠菜よりも大きく、弾力感を感じると更に鼓動が早くなる。


≪フリサフィサイフォス≫


 その言葉の意味を頭では無く感覚として理解した。


 だが、新たなスキルが俺の中に構築されたのがハッキリと分かった。



「ちょ、ちょっとお兄ちゃんっ! 触り過ぎっ!」



 愛美が叫んだ時、俺の手はセレスから解放されたが、いつの間にか腕輪が付いていた。



「これで汝は我の剣を召喚する恩恵を得た」


「へ?」


「この力を欲した時、遠慮なく使ってくれ!」



 召喚ったってどう呼べばいいのよ?


 そう言ったセレスは、両手で力強く俺の顔を引き寄せると、思い切りその唇を重ねた。


 そして、そのセレスの舌が別の生き物の様に、俺の舌に絡みついている。


 ――っ⁉


 同時に俺の中で何かが変化した。


 例えるならかなりな量のアップデートをしている感じ。



「お、おにいちゃんっ!」



 いや、俺じゃない!


 これは奪われてるよな⁉


 どう見てもっ⁉



「あ、ながーい……」



 未来が呆気にとられてそう言う。



「も、もう、だめーっ!」



 そう、愛美が叫びながら俺をセレスから引きはがした。



「さあさあ、そろそろ行かないと~。元老院さん達に小言を言われちゃう~。ユーナちゃんが~」



 ユーナが言われるのか?


 俺は悠菜を見た。



「ごめんな、悠菜。今まで待たせちゃって」



 悠菜は黙って俺を見つめていたが、ゆっくり首を横に振る。



「私は悠斗と愛美と居て楽しかった。そして、これからも二人をずっと愛してる」



 その途端、愛美が悠菜に抱きつき、また泣き始めた。



「蜜柑、愛美をこれからもよろしくね」


「は、はい!」



 その様子を沙織さんは優しい表情で見ていたが、ふとイーリスに目をやる。



「イーリス、後は宜しくお願いしますね? 今の悠斗くんには貴女が必要なの」



 珍しく沙織さんが真剣な眼差しになり、近づくとイーリスの手を握った。



「な、なんだよ、改まって言われると気持ち悪いじゃんか! 分かってるってば!」



 照れ臭そうにイーリスはその手を振り払おうとしたが、グッと沙織さんに掴まれて放す事が出来ない。



「本当に……本当に、悠斗くんを宜しくね?」



 沙織さんは笑顔になってそう言うが、目は笑っていない様だ。



「わ、わかった! 分かったってばぁ~!」


「約束ですよ?」


「もう……あたしがルナの女神に逆らえる筈ないじゃん……」



 そう言うとイーリスは観念した様に、手を握られたまま項垂うなだれる。


 え?


 女神って言った?



「それは言い伝えですよ~? とにかく、悠斗くんを頼みましたからね?」


「もう、わかったってば……もう行っていいからさぁ」



 そう言って、まるで駄々っ子の様に沙織さんの手を振りほどいた。


 その様子を困惑した表情でセレスが見ていたが、こちらに気付き笑顔になる。



「では、マナミもハルトも元気でな!」


「では、皆さんもごきげんよう~」


「きっとまた会おう!」

 


 沙織さんとセレスは笑顔でこちらを見まわすと、ダイニングから出て行った。



「二階の部屋から帰るから見送りはいい。ではまたいつか」



 悠菜もそう言って、愛美に抱きつかれたまま俺達を見回す。



「悠菜ちゃん、元気でね!」

 


 未来が悠菜に言うと、愛美はゆっくり悠菜から離れる。



「ずっとお姉ちゃん待ってるからね! あたし、いつもお姉ちゃんの事忘れないからね!」



 俺はそう言う愛美を後ろから抱くと、もう行けと悠菜に頷く。


 悠菜は軽く頷き、ダイニングを出て行った。



「お姉ちゃーんっ! あたし、ずっと大好きだからねーっ!」



 その愛美の声に返事は無く、部屋には愛美の鳴き声だけが聞こえていた。



「皆さん、行ってしまいましたね」



 友香さんがポツンとそう言った。


 俺はぽっかりと心に大きな穴が空いた様な感じに、ただ呆然と立ち尽くしていた。



「霧島君、別れとは辛いものです。気持ちはお察しします」



 友香さんが俺を見てそう言うと、更に続けた。



「沙織さんにしてもセレスさんにしても、勿論悠菜さんにしても、皆さんと同じ位に寂しいお別れだと思います。ですが、きっと皆さんを想ってのお別れだとも感じました」



 そう言って友香さんが笑顔で俺を見ている。


 そうだよな。


 沙織さんも悠菜も今まで俺の傍にずっといてくれたんだ。



「そうだね。愛美も、もう泣くなよ。帰った三人が辛くなるぞ?」



 俺がそう言うと、愛美はピタッと泣きやめて呼吸を整えている。



「う、うん。そうだよね……分かった」



 そう言うが、まだ呼吸が治らない。


 時折しゃっくりの様に、ヒクヒクとその身を震わせていた。

 


「やっと行ったかー心配性だなールーナは」



 イーリスがそう言いながら椅子に腰かけた。



「そう言えば、さっき変な事言って無かった? ルナの女神とか?」



 さっき確かにイーリスが沙織さんに言っていた。



「んー? そう? 覚えてないや~それより、ご飯はー?」



 このやろー絶対誤魔化してるだろ!



「あ、はいはい! イルちゃんこれ食べてね?」


「おおー! いただきまーす!」



 そう言われると、イーリスは勧められたお好み焼きを食べ始めた。



「わっ! これ美味しいぞ! お前らも食えよー」



 友香さんと未来にそう言って、イーリスは夢中で食べている。


 お前が仕切るなよ……。



「あ、二人も良かったら食べて?」



 仕方なく俺も席に着き、二人に勧めた。



「あ、うん。ありがと」



 未来はそう言って座ったが、友香さんは何かを思い出した様に俺を見た。



「あの、さっきはあんな空気で言いそびれてましたけど……」


「ん? なに? どうしたの?」


「悠菜さん達、お引越しでしょう?」


「ええ、まあ」


「上のお部屋からどうやってお出かけを?」


「あ……」



 しまった。


 すっかり流れのままにスルーしてしまった。


 愛美も気が付いた様に目が泳ぎ始めた。



「あ、あれー? タクシーでも呼んでたかなー?」



 おいおい、タクシーって……。


 二階の部屋に横付けするかっ⁉



「もしかして……」


「あ……」



 未来は思いついた様な表情となって、友香さんと顔を見合わせた。


 だが俺と愛美は言い訳も見つからず、完全にフリーズしていた。



「上って事はヘリポートがあるんですね?」


「へ?」



 友香さんが未来の表情を見て、思いついた様にそう言った。



「でしたら、今度からは自宅からこちらへ直接来られますね!」



 まてまて、友香さんち、ヘリポートあるんですかーっ⁉



「いいな~霧島くんちも友香ちゃんちも、ヘリコプターあって~」



 未来が羨ましそうにそう言った。


 いやいや、無いってば!



「あ、お、おほほほー! たまたまヘリがあったみたいけど、沙織さんが乗って行っちゃったしね~もう無いのよね~」



 愛美……お前、キャラ変わってるよ?



「そうでしたか~まあ、急なお出掛けでしたし……無事に新居に着けばいいですねぇ」


「そうですね! へ、ヘリは揺れますからね!」



 お前、ヘリ乗った事ないでしょ?


 俺も無いけど。



「ねえ、霧島君! ここの温泉のお礼なのですけれど……」


「ああ、そんなの良いよ~気にしないで、いつでもおいで」


「そうじゃないの、お手伝いさんに来て貰ってもいいかしら?」



 へ?


 お手伝いさん?



「いやいや、そんなの俺には無理だよ!」



 どう考えてもお手伝いさんを雇うなんて、今の俺には無理だった。



「お給金はこちらでお支払いしますから、どうでしょう?」


「いや、そう言って貰ってもなあ、そんな柄でもないしさ」



 友香さんは暫く考えていたが、何かを思いついた様だ。



「それでは、私がこちらの温泉に入れて戴いた時だけ、それではどうでしょう?」



 なるほど、そう来たか。



「友香さんが来た時にだけね?」


「ええ、こちらへお世話になっている時だけ」


「分かった。俺もそうして貰えると助かるよ」


「いえいえ、こちらこそ助かります!」


「いや、俺こそありがとう」


「ここの温泉は何処の温泉よりも気に入ってしまいました!」



 そんなにここの温泉がいいの?


 一安心した様に友香さんが席に腰掛ける。



「でも、そんなにここの温泉が好きなの?」


「ええ、とっても!」


「そうなの? 友香さんなら色々な温泉知っていそうなのに」


「とんでもない! こちらの温泉は特別な何かを感じます!」



 そういうものか?


 温泉に特別な何かなんて感じます?



「友香ちゃんがここまで言うのは珍しいかも……」



 未来が少し驚いた表情でそう言うと、友香さんは深く頷いた。



「ええ。ここは特別ですね」


「へ~まあ、気が向いたらいつでも来てよ。な、愛美」


「うん、お姉ちゃんが二人も居なくなって寂しいからね、みかんもそうじゃない?」


「うん!」



 愛美が苦笑いでそう言うと、蜜柑は寂しさを奮い立たせるかの様に元気に返事をした。



「き、気持ち悪い……」


「きゃーっ! イーリス! どうしたの⁉」


「食べ過ぎた――」


「やだっ! しっかり! みかん、何かお薬!」


「ら、らじゃ!」



 蜜柑が急いで救急箱を取りに行く。



「すぐ横になって、こっちへ!」


「し、しむ――」



 イーリスは愛美に抱きかかえられ、リビングへ連れて行かれて出て行くと、その後を未来と友香さんもついて行った。



「ここへ寝かせて、愛美ちゃん!」


「大丈夫⁉ どうしてそんなに食べちゃったの⁉」



 はぁ、こんなんでここは大丈夫か?


 沙織さんと悠菜の居ない我が家に、早速不安を感じる俺だった。

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