第二章 はじめからいたもう一人

                  1

 フルートから渡された地図は丁寧ながらも難解で、みかんは一通りを俯瞰してすぐにそれを読み解くことをあきらめた。

 きっと地図は正しいのだと思う。けれど、理解するには相応の知識と感性が必要で、何が言いたいのかといえば、それは晩年のピカソの絵画に似ていた。立体構造である建物の、上空と真横の情報を一緒くたにして平面的に紙に落とし込んだようなその図面は、いかに人間の文明が人間のために最適化されているのかをみかんに教えてくれる。

 ここまで考えて、みかんは自分が自然に頭の中に思い起こしたピカソの絵を実際には見たことがない事実に思い至った。

 自分の中にあるのは高倉涼吾の知識だ。他人の知識が自分の思考を形成しているという事柄は、いまさらながらに不思議な感覚だった。

 違和感はない。逆に、違和感がないということが違和感としてしこりのように胸に残る。

 何かがおかしいのは、はじめからわかっていたことだった。けれど、『おかしい』と警鐘を鳴らしているのは自分の中にある知識だけだ。ある意味、個人の知識というものからも切り離された、常識のようなものなのかもしれない。

 そう思えれば、心がわずかに軽くなった気がした。

 自分を拒絶しているのは社会であって、高倉涼吾ではないのかもしれない。その可能性をほんの少しでも見出せるからだ。

 可能性。それは前向きな言葉では決してなかった。自分はまだ判断を下せるほど、物事を知らないという、ただそれだけのこと。

 だからみかんは扉を開いて、一歩を踏み出した。

 読めなかった地図からも雰囲気はなんとなく伝わってくる。目的地はおそらく下で、そのための階段は道なりに進めばどこかでぶつかるはずだ。あたりだけつけて、みかんは歩いた。

 コッコッコ、と硬い足音だけが静かに響く。

 大きな螺旋階段を見つけるのはすぐだった。円柱状に湾曲した階段ホールを降り続け、やがてたどり着いた小さな踊り場の先に、目的の赤い扉は静かに存在していた。

 みかんはフルートから渡されていたもう一枚の紙をポケットから取り出す。


  往来特権における制限条項

  

  ・生界への一回の滞在最長時間は二万千六百秒です。

  ・生界では静止物に対し触れることは可能ですが動かす、或いは破壊

 など影響を与える行為の一切を行うことができません。

  ・生界では動体(定義については別紙参照)に対して、触れることは

 もちろん、一切の干渉を行うことができません。

  ・その他、質問等はこちらまで (909‐xxxx‐xxxx)

「電話番号、か……」

 そういえば、みかんは電話を持っていない。与えられた個室にもなかったはずだ。

 けれど、あると思えばあったのかもしれない。そのあたり、みかんはこの異界の仕組みをよく理解していなかった。少なくともこれから向かう世界で、このナンバーに頼ることはできないだろう。

 丁寧に紙を畳んで、ポケットの中にもう一度しまった。

 二万千六百秒――六時間という時間は、具体的な目的を持たないみかんにはひどく短い。

 何もできずに帰ってくることになるかもしれない。あるいは何かを失って、戻ってくることもあるのかもしれない。

 それでもいいんだと自分に言い聞かせて、みかんはドアノブを握った。

 何をするかは、これから決めよう。

 何ができるかは、これから知ればいい。

 今の自分にできることはきっと、肩の力をほんの少し抜くことだけだ。

 ノブを回す。扉が開く。

「わっ」

 扉の向こうから強い光があふれるように飛び出して、薄闇に慣れたみかんの目を刺した。遮ろうとした右手も間に合わず、視界が真っ白に覆われる。

 何も見えないみかんの耳に、今度はつんざくような硬い金属の音が飛び込んだ。時計塔の中で時折聞こえる鈍重なものとは違う、スピードを伴った塊の音。

 それが甲高い引き攣るような音に変わってすぐそばで止まったのを、みかんは気配で察した。これは、ブレーキ音だ。

 瞑っていた瞼を開くと、大きな壁がそこにある。

 黒を基調としたボディーにシルバーとゴールドのラインが走り、その独特な形状をこれでもかというほど主張するそれは、みかんのもつわずかな知識の中にも確かに存在していた。

 ――蒸気、機関車……。

 まるで怪物の唸り声のように、警笛が二度鳴った。一瞬の間を置いて、第二車両の扉が開く。

「いってきます」

 みかんは誰にともなくそういって、異なる世界をつなぐものに乗り込んだ。車内の真っ赤なシートはふかふかで、それだけで気分が盛り上がる。

 もう一度、警笛が鳴った。

 何かが見つかるといいなと、まだ何も映さない窓の外を眺める。

 だから――

 隣の車両から慌てて降りていく少女に、みかんは気が付かない。

 機関車は走り出す。


 カラカラカラカラカラカラカラカラ…………。

                  2

 

 光、だ。

 自分の周りには光があった。

 さまざまに輝く光。

 小さな光。大きな光。

 強い光。儚い光。

 様々な光に包まれて、自分自身も光を持っていた。

 自分は光が好きだった。自分の周りにある光も。自分の中にある光も。

 周囲の輝きに魅せられていた。自分の輝きが誇りだった。

 光は温かい。光は柔らかい。光は美しく、光は気高い。

 光は自分にとって、なによりも居心地が良かった。

 光の中にいることこそが自分にとっての日常だった。

 どこまでも続くと思っていた日常だった。

 

 それなのに、

 夜は突然やってきた。

 

 気がつくと、辺りが暗い。

 太陽が沈んでいくように、徐々に光が遮られていく。

 光はどこにも逃げられなかった。

 囚われることもなかった。

 奪われることもなかった。

 ただ跡形も残さず、消えてゆく。

 後には静寂と、暗闇だけが残った。

 どんなに研ぎ澄ましても何も聞こえない。何も見えない。

 ただ一つ、感じるものがあった。

 唯一になった光。それはまだ、自分の中にある。

 ポツンと残った光。それも少しずつ小さくなっていく。

 足掻いた。

 失うのが怖かった。

 無くなるのが恐かった。

 両手を振りまわし、出せるだけの声を吐きだす。

 でも、届かない。

 こんなに近いのに、どこまでも遠い。

 光が小さくなる。

 怖い。

 足掻く。

 消えてゆく。

 恐い。

 足掻く。

 やっぱり届かない。

 光が……。

 …………。

 

 そして夜が明ける。

 辺りはまた光に包まれて、輝きを取り戻してゆく。

 いつもと変わらぬ日常。

 何もなかったかのように存在している光。

 違うのは自分だけだった。

 自分の中にあった光は、夜の闇の中に消えていった。

 何もかもが帰ってきても、それだけはもどらない。

 失ってはいけなかった。無くしてはいけなかった。

 自分に寄り添っていた光の一つが、何かに気付く。

 気づかれたくなかった。それでもどうしようもなかった。

 その光が、自分を見つめる。

 自分に生まれた闇の存在と光の不在を見られたくなくて、その場を逃げ出した。

 走って、

 走って、

 走って、

 たどり着いた闇の中で最後に見た光は、

 目前に迫った大型トラックのヘッドライト。

 そして……

 

 

 

 

 幹村信幸は目を覚ました。

 薄暗い蒼が視界を覆っている。自分がいるところがいつもの部屋でないことに気がつくまでに大分時間がかかった。

「そうか俺は……」

 その先は言葉にならない。昨日はできたのに。少しずつ、事実が現実味を増しているのかもしれないと、他人事のように信幸は思った。

 ぼーっと、天井を眺める。

 今は何時だろう。この部屋に時計はなかったはずだ。

 目覚まし時計に起こされない朝を経験するのは何年振りだろうか。もしかしたら初めてかもしれない。朝なのかどうかは定かではないけれど、そんなことはどうでもいい。

 どうでもよかった。

 信幸にとっては全てのことが、どうでもよかった。

 自分は全ての可能性を捨てて、死を選んだはずだ。死の先を想像していた訳ではないが、なんとなく思い描いていたものがあった。

 何もできなくなると思っていた。何も考えられなくなると思っていた。

 いや、そうじゃない。

 自分は、何もしなくてよくなるのだと思っていた。何も考えなくてよくなると思っていた。

 そうなることを、望んだ。

 今思えば、それは明らかな『逃げ』だ。何かに身を委ね、全ての自分の意思を放棄する。

 選択からの逃走は、自分の想像を絶する形で失敗に終わった。

 はぁ、とため息を吐きながら昨日の話を反芻する。

 特例は三つの願望を叶えることができる。

 二つ分の願いをつかって生き返ることもできる。

 そして、三つ目の願いを叶えると消える。

 言い換えればそれは死だ。もう一度、未知に飛び込むことになる。

 選択。

 生きるということ、死ぬということ。また選ばねばいけないのだろうか。

「もう、うんざりだ」

 これから何かをするという気にはなれない。虚脱感に似た感覚に襲われて、体がずっしりと重くなったような気さえする。

 ………………。

 …………

 ……。

 ――ん?

 本当に気のせいだろうか。

 覚醒が進むにつれて、本来の感覚を取り戻しつつある体が右半身に異常を感じ取っていた。

 右腕は痺れを訴えている。なにかが、のっている?

 信幸はゆっくりと、頭を動かした。

 …………。

 見知らぬ女の子の頭が乗っていた。

「のわぁぁぁ!」信幸が飛び起きる。

「わひゃぁぁ!」と、それによってベッドから追い出されるように転げ落ちた少女も悲鳴を上げた。腰を抜かして、ずりずりと後ずさりしながら怯えた目で信幸を見つめている。「だだ、だだだだだだだ、誰?」

「こっちのセリフだろ! お前こそ誰なんだよ!」

 信幸の低い声に反応して、露出している少女の肩がびくっと跳ね上がった。少女は水色のキャミソールに、寝巻用なのだろう白いショートパンツを履いている。真っ白な素足がやけに眩しく映るのは、異様に真っ赤な靴のせいだろう。

「私は、」震える声で少女はつぶやくようにそういって、何かに気付いた風にあたりを見渡し始めた。「ここ、どこ?」

「気づいてると信じたいが、質問に答えてないからな。ったく。ここは俺の部屋だよ。402号室」

「402……、あれ?」少女は扉に掛けられた札を確認して、首を傾げた。「間違っちゃった」

 少女は立ち上がり、両手でパンパンと服を払った。赤茶けた色のショートボブが空気をはらんで揺れる。

「ごめんなさい」

 少女はそういって踵を返し、「あいたぁ!」扉に向かって出した二歩目で転んだ。

「おま、大丈夫かよ!」

「えへへぇ」

 にヘら笑いを信幸に返して、今度こそ少女は早足で出ていく。恥ずかしかったのかもしれない。そもそも部屋を間違える時点で相当恥ずかしいが。

 信幸は痺れの残る右腕をぐるぐると回した。人のいない部屋ならともかく、ここには信幸がいて、そのうえ他人の腕を枕に爆睡できる神経を想像することができずに、信幸は世間の広さを考える。

 自分には、わからないことばかりだ。

「それにしても、誰なんだあいつ」

「麻木奈美は幹村信幸の先輩だよ」

「先輩?」

「そう、たった二日だけだけどね。麻木奈美も特例なの」

 そうか、と呟いて信幸は背後を振り返る。

「で、おまえはいつからそこにいたんだ?」

「もちろん最初からだよ」

 視線の先のフルートが答えた。

「幹村信幸がにやにやと不気味に笑いながら、眠っている麻木奈美にそっと近づいてあんなことやそんなこと、果てはこんなことまで……」

「事実だけを述べろ」

「麻木奈美が幹村信幸の布団に潜り込んだところから」

 フルートはひひひ、と笑みを浮かべる。意地悪な顔は不思議と長い黒髪によく似合った。

「なんで止めようとしないんだよ」

「止めたら面白くないでしょ」

 おい、こら。

「というのは嘘だよ」

「嘘かよ」

「半分はね」

「…………」

 フルートは信幸から発せられるぎらぎらとした怒りの視線を飄々と受け流して、部屋の中央にある四足の丸テーブルによじ登った。そこにちょこんと座る。

「麻木奈美は毎日限界まで生界にいるの。それはたったの六時間だけど、麻木奈美にとってはとっても長い時間。少なくとも生きていた時には経験もしたことのない時間なんだよ。だから毎日くたくたになって帰ってきて、半ば寝むった状態で部屋に入るからよく部屋の番号を間違えるの。そんな麻木奈美を、じゃあ幹村信幸だったら起こせるのかな?」

 フルートはまた、ひひひと笑った。

 信幸は黙る。相変わらずフルートの言葉は不可解だが、理解できないことはない。理解できないのは奈美という少女の行動だった。

 生きていた時から何か問題を抱えていたのかも知れない。特例なのだから何かしらの事情はあるのだろう。でも、そういうことではない。彼女は死んで、特例になって、それでも何かを求めている。くたくたになるまで動いて、何かを成そうとしている。

 それは信幸がなくしたものだった。自ら捨てたものだった。

 信幸が生きていた時に投げ出したものを、あの小さな少女は死んだ今もなお追いかけている。

「俺には無理だろうな」

 何にも向きあわなくて済むように、自分はここに来たのだから。

 あひゃひゃひゃとフルートの笑い声がする。信幸の呟きを、先の質問の答えと受け取ったのだろう。

「幹村信幸にも優しさは存在するんだね」

「ばーか、そんなんじゃねぇよ」

 会話がかみ合っていないことを承知で、信幸は答えた。どちらでもよかったから。

「照れたの?」

「照れてねぇ」

「それより、」

 どうでもよかったらしい。

「幹村信幸も生界に行くの」

「おい、疑問符はどうした」

「?」

「そこで使うとわけがわからないみたいになるだろ」

 信幸はいつもの調子でフルートに突っ込みを入れたが、当のフルートはきょとんとした顔を少しも変えない。

「わけがわからないみたいなんじゃなくて、わけがわからないんだよ」

 フルートの表情はまるでフランス人形のように冷え切って見えた。感情がないというのともまた違う。あえて言うのなら、人間には存在しない感情をその内側に抱えているような、分類できない顔。

「幹村信幸も生界に行くんだよ。それは不可避で、不可欠で、どうしようもなく確定条項なんだよ」

「なんでだよ! 何をするのも特例の自由だって、昨日お前自身が言ってたじゃねぇか」

「特例としてはね。自由だよ」

 くくっとフルートが笑った。

「でも、幹村信幸にそれは許さない」

「それも彼らってやつの意思なのか?」

「彼らは関係ないよ。神は幹村信幸にこれっぽっちも興味なんてないんだから」

 フルートが親指と人差し指をくっつけて信幸に見せつける。その間に、隙間は『これっぽっち』も存在していない。

「なら!」

「私が許さないんだよ。何も知らないことも、それに怯えることも、幹村信幸はとっても人間らしいけれど、何も知らずにいることを良しとするのを私は許容できないんだよ」

 それは人間じゃない、とフルートは言う。目はじっと信幸を見つめていた。

「そんなこと、知るか」

 信幸は吐き捨てるように答える。

「全部お前の都合じゃねえか! そんなものに俺が付き合う義理はない。全部捨ててきたんだ。俺の知りたいものはあそこにはない。もう、一つもない。死んだんだぜ、俺。そのために死んだんだ」

「それでもいくの」

「いい加減にしろよ! 神様の使いはそんなに偉いのか? 人様の行動にあれこれ言えるほどの――」

「私は神様の使いなんかじゃないんだよ」

 信幸の叫びを遮って、フルートの口からこぼれた言葉は、これまでのものとは全く別の感情がこもっているように、信幸には聞こえた。

「神様の使いなんかじゃない。私は・・・・・・」

 信幸にも理解ができるほど、それはどこか寂しそうで――。

 世界が一瞬時を止めたような、そんな気がした。

「私は死神。言葉通りの、死神なんだよ」



 カラカラカラカラカラカラカラカラ……


 


                  3

 機関車は見覚えのある街で止まった。

 目の前には交差点、それをはさんで向こうには背の高いマンションがそびえている。

 みかんが降りると、機関車はまた一つ警笛を鳴らして走り去っていった。レールは先頭車両から三メートルほどのところまでしかなく、みかんにはそれがこれからいったいどこに向かっていくのか見当もつかない。

 それは、自分自身のことも同じだった。

 けれど途切れたレールは、見えなくともどこかに繋がっている。あるいはすべての場所に繋がっているのかもしれない。どこにだって、いけるのかもしれない。

 何もわからないからこそ、前向きでいようとみかんは思う。

 ふぅ、とため息を一つ吐いて、みかんはあたりを見渡した。

 街の空は、記憶の中とは打って変わって白く青い。太陽はまだ高く、ぎらぎらと照り付ける日差しをアスファルトが反射して、どちらを向いても眩しかった。

 後ろにある小学校の時計は、ちょうど四時を回ったところだ。人通りはまばらで、自動車の交通量も少ない。ここが住宅地ということを考えれば、それは当然のことなのだろう。

 同じ場所に立っているのに、昨日とは全く違う世界が広がっているような気がした。

 街は生きているのだから、常に同じでは決してない。

 では、自分はどうなのだろうか。死んでいる、自分は。

 止まらない思考を振り払うように頭を振った。

 ――僕は、考えるためにここに来たんじゃない。

 接触している四本の道から一本を適当に選び、みかんは歩き出す。石畳の歩道はまっすぐに伸びていた。どうやら住宅街はまだまだ続くようだ。

 街の景色を、好奇心の赴くままに眺めながら、みかんは進んだ。

 ふと、カッカッカッカと後ろから近づく足音が聞こえて、反射的にみかんは横に避けた。数瞬前までみかんのいた場所を、高いピンヒールを履いたスーツ姿の女性が足早に通り過ぎる。女性はそのままのペースで数十メートル進むと、建物の一つに消えていった。

 彼女にみかんを避けるような素振りはない。あるいは通行における障害物のような認識も持っていない。ただ道に沿った空間を歩いていただけ。

 見えていなかった。

 そのことを再認識する。この生界にいる人々に、みかんは見えていない。

 この街の誰の目に触れることなく、この街の誰の耳に入ることもなく、この街に一切の干渉を行えない。

 みかんはそういう存在だ。そういう存在だった。

 それは存在しないのと、何が違うのだろうか。

 ――僕には何ができて何ができないのかを、確かめなくちゃいけない。

 歩きながら、みかんは手を伸ばした。五十センチ先には同じ速度で歩く男性がいる。肩幅の広いジャケットに触れる瞬間、まるで古いビデオテープの映像にノイズが走るように、目の前で腕の輪郭が左右にぶれた。

 すり抜ける。

 なににも触れずに、なにもつかめずに、手は自分のもとに返ってきた。感触もない。

 動いているものに干渉できないということ、その意味がはっきりと理解できる。

 突然、目の前に人が現れて、みかんは足を止めた。なにかの飲食店の制服を着たその男性の背中が、相対的に遠ざかっていく。

 すり抜けているのは、みかん自身だ。

 この街に自分がたった一人でいることを自覚して、みかんは生まれて初めて寂しいと思った。



 数分後。

 漠然と探していた小さな建物は住宅街を抜けた先、商店の並ぶ大きな通りの中ほどにひっそりと存在していた。ずいぶん、歩いたように思う。

「やっと、見つけた」

 交番だ。

 一部屋しかない間取りの、小屋とすら呼べるくらいに質素な作りで、玄関は開いたままになっている。中には紺の制服を着た駐在らしき警官が二人いて、机を挟んで会話をしていた。内容は好きなスポーツ選手の話らしく、時々笑い声が混じる。

 平和、だということなのだろうか。

 高倉涼吾の死体が見つかったのは、つい昨日のことだったはずなのに。

「お邪魔します」聞こえないのを承知で、みかんは声をかける。当然返事はないので、微かな罪悪感を覚えながらも、みかんは交番の中に入った。

 目当てのものはすぐに見つかる。

 この街を俯瞰した大きな地図が、奥の壁の三分の一の面積を広々と使って張られていた。

 フルートの言葉を思い出す。


「それを教えてしまうのは、私の本来の役割を逸脱することになるね。知ろうとすることを止めることなんて決してないけれど、答えを導くのは私の仕事じゃないから」

「やっぱり、だめですよね……」

「だめだけど、」くくく、とフルートは笑った。「だめじゃないんだよ。私だって縛られていたいわけじゃないからね。だからこれは特例。みかんが一歩目を踏み出すための、羅針盤をプレゼントするよ」


 受け取ったモノを、みかんは頭の中で復唱した。それだけでは意味をなさない言葉と数字の羅列だ。けれど目の前の地図と照らし合わせれば――。

 宝探しをしているみたいに、みかんの胸は高鳴った。幸運なことに、ここからそう遠くない。

 すぐに交番を飛び出して、記憶したルートを早足で辿った。

 目印にしていた角の神社を曲がり、小川に掛けられた狭い橋を渡る。さっきの地図によれば、川はそう遠くない下流で湖に繋がっているらしい。

 街の建物は少しずつ、歴史を感じさせるものになっていった。時代、と言ってもいいのかもしれない。住宅街で見たような大きなビル群やマンションはこの辺りではもう見当たらず、代わりに瓦葺の一軒家が右にも左にも立ち並んでいた。

 小学生たちが野球をしている公園を素通りしたところで、みかんは足を止めた。

 近くの自動販売機に書かれた住所を確認する。ここで間違いない。

 大きな地震が来れば今にも崩れてしまいそうな、ぼろぼろのアパートだった。年季の入った木製の外装は風化して痛々しく、ひどく汚れている。備え付けの階段は塗装がところどころ剥げ、酸化して赤黒くなった中身を見せていた。

 その階段を登る。自分が質量を持っていたら横板を踏み抜いてしまっているんじゃないかと想像して、みかんは笑った。そんなはずはないのだから。自分の体は、何度も何度もここを登ったはずだ。

 205号室。

「ここが、高倉涼吾が住んでいた部屋……」

 扉には名字の入ったプレートがかかっている。当然だけれど、既視感はなかった。

 自分は彼ではないのだから。みかんは、高倉涼吾ではない。

 それならどうしてここに来たのか。

 わからなかった。わからないなりに考えて、答えが出なかったのだ。

 ただ目的を持たない自分にできることは、彼を辿ることだけだと思った。

 ドアノブに手を伸ばす。

 どんな生活を送っていたのだろうか。家族はいたのだろうか。友人は、恋人は。

 どんな話をしていたのだろう。楽しい話か、嬉しい話か。もしかしたら、他愛のないことばかりだったかもしれない。

 想像はいくらでも膨らんだ。

 膨らんで、膨らんで、太陽の光を返す銀のノブに触れる直前でみかんは動けなくなった。

 脳裏に昨日のことが思い起こされる。あの褪せたコートを着た男の言葉だ。今思えば、男は刑事だったのだろう。


『また、自殺ですか』


 確かに、そう聞こえた。いや、聞く前からみかん自身がそう感じていたはずだ。

 高倉涼吾はあのマンションから飛び降りたのだ。きっと、自ら。

 だとしたら、

 この扉の向こうに、今までみかんが想像したような世界はないのかもしれない。

 それどころか高倉涼吾が悩み、苦しみ、耐えてきた爪痕ばかりがこの部屋に残されている可能性だってあるだろう。

 ドアノブに近づいた手が小刻みに震えた。

 どんなに見つめても、木製の扉はその向こうを透かしてはくれない。

 自殺。それは生まれたばかりの自分が踏み込んでよい領域なのだろうか。事実みかんは昨日の信幸との会話の後、言葉をなくしたではないか。

 ――それでも、

 ドアノブを握った。ひんやりとした金属の感触が、考えすぎてぐちゃぐちゃになった頭を冷やした。

 ――それでもここまで来たんだ。

 どんなに想像したって、ここで悩んだって、変わらないのだから覚悟を決める。

 高倉涼吾のすべてを受け入れる覚悟を。

 ぐっと、握りこんだ。

「……ん、あれ?」

 扉は開かない。

「そっか、僕はこの世界に干渉できないから」

 開かないのだ。そして、静物には触れることができてしまうがためにすり抜けることもできない。

 目の前にあるのは扉ではなく、とてつもなく強固な壁だった。壊すことも、隙間をこじ開けることすらもできない。みかんには中に入る術が、初めからなかったのだ。

「これだけ悩んだのが、無駄になっちゃったな」

 笑いがこみあげる。残念な気持ちよりも、間の抜けた自分の行動がおかしくて堪らなかった。

 よくよく考えればきっと鍵もかかっているだろう。そんなことにすら頭が回っていなかった。

 扉に触れてみる。もちろんびくともしない。

 何かを始めるというのは、こういうことなのかもしれないと思った。こんなことの繰り返しなのかもしれないと。試してみては失敗し、そして時々、前に進めることもある。

 今日はきっと、これでよかったのだ。

 負け惜しみのように、そう思った時だった。

 後ろから、キンっと高い音がした。それが何かはわからない。わかるより早く、何かがみかんの体を音もなくすり抜けて……、扉にぶつかった。鈍い音がした。

「野球のボール……、いやそれより」

 偶然、なのだろうか。

「扉が……」揺れている。

 動いているものには触れられない。つまり……。

 伸ばした手が扉に近づき、そのままの勢いで指が視覚的な境界を超える。手首、肘、肩、そして全身が、瞬きする間もなく部屋の中に進入していった。不思議な感覚だ。テレビのチャンネルを突然回したように視界が変わる。

 心臓が早鐘を打った。

「高倉涼吾の、部屋……」

 六畳ほどだろうか。驚くほど整然としたワンルームの畳の部屋だ。外装ほどの劣化はなく、最低限の大きさが割かれた水回りもきれいに片付いている。部屋の中心に置かれた背の低い机には中身のないカップが一つ乗っていた。

 みかんの視線はそこからすぐに移る。

 特徴的なのは部屋の壁だ。部屋を支える四つの面のほぼ全てが、床から天井まである大きな本棚に埋め尽くされていた。大きさの異なる本がぎっしりと並べられ、こちらを凝視するように背表紙を向けている。

 息が詰まるほど、圧倒的な光景だった。

 みかんは本棚に近づいて、その中の一冊に目を向ける。

「新・マール哲学論考?」手首ほども厚さのあるその本の上からは、いくつものカラフルな付箋が出ていた。けれど、自分自身の頭の中をどんなに探してもこのタイトルに関連するような情報は見つからなかった。

 高倉涼吾の知識の全てがみかんに引き継がれているわけではないらしい。

「こっちは、粒子力学の応用に関する私的見解……それから、現代経済における諸課題、心霊体験談集、三国志演義……」

 よくわからない本ばかりだ。本当に必要な知識なのかどうかすらよくわからない。

 ジャンルは雑多で、一切の規則性がなかった。専門書や雑学本、エッセイや小説、探せば図鑑や地図まで幅広くそろっていて、日本語のものでない本も多い。いくつかの言語はみかんでも読めたが、何かの記号にしか思えないタイトルも数多く存在していた。それらの本にも必ず付箋が付いている。

「まるで、小さな地球みたいだ」

 そんな感想をみかんはもった。

 この部屋には世界中の情報が並んでいて、部屋の主、高倉涼吾がそれらをときどき覗く。

 まるで、神様のように。

 神様はこの地球で起こる事象を閲覧し、人間を観察し、知識や記憶として蓄えていく。

 それで何をしたいのだろうか。高倉涼吾は何をしていたのだろうか。

 この地球の中心に、神様はもういない。みかんがここに立ってもそれは同じことだった。

 ――僕は高倉涼吾じゃない。神様なんかじゃない。

 神様不在のこの部屋は静かに、ただここにある。それだけだ。

 何気なく耳を澄ますと、部屋の外から足音が聞こえてきた。

「この辺に落ちたと思うんだけど……あ!」

「おーい、見つかった?」

「あったよー。いま投げるー」

 声が遠ざかる。

 高倉涼吾がいなくてもこの世界で人々は普通に、何の不便もなく生きている。会社員は忙しそうに通りを歩き、交番では談笑が飛び交い、子供たちはスポーツに興じる。

 ではなぜ、高倉涼吾は生まれたのだろうか。なぜ、死んだのだろうか。彼だけのことじゃない。何のために人は生まれ、死ぬのか。

 昨日聞いたフルートの説明は、外から見たシステムの話だった。

 人が生きるのも死ぬのも意味なんてない。それはひどく客観的で、無機質な言葉だ。

 みかんは人が生きるこの生界で、内側からその答えを見つけたい、と思う。

 ふー、と息をゆっくりと吐いて、みかんは部屋の床に転がった。

 この部屋で過ごした記憶はない。

 けれど何かに包まれるような居心地の良さがある。異界の部屋とはまた違う、安心感に似た感覚だった。

「んんーーー、ん?」

 景気づけに伸びをした手が何かに触れる。目を向けると、丸テーブルの下に隠れていていままで見えなかったらしい分厚い本がこちらに背表紙を向けていた。タイトルはアルファベッドだ。

「DIA……」

 これもまた偶然、なのだろうか。

「DIARY…………高倉涼吾の……日記」

 そして、

 


 カラカラカラカラカラカラカラカラ……

                  4

「幹村信幸も生界に行くの」「いーや、俺はいかねー」「いくの」「いかねー」「いくの」「いかねー」「逝くの」「逝ってる」「いーくーのー」「いーかーねーって」「いけっ」「やだっ」「いーけ」「やーだ」「ばーか」「ばーか」「あーほ」「まぬけー」「はげ」「はげてねぇ」「この辺」「げ、マジか」「嘘ぴょーん」「こんのー」「あひゃひゃひゃひゃひゃ……」

 と、幹村信幸はフルートと無駄な時間を過ごしていた。

 信幸は譲らない。フルートも同じだ。先の見えない水掛け論はいつしか水遊びに変わり、ずっしりとした疲労感が肩に蓄積していくばかりだった。きっと信幸が生きていたならば、汗でびしょびしょになっているはずだった。

 今の自分には関係ない話だ、と信幸は思考を突き放す。

 自分は、死んでいるのだか「生界に行くの」ぴきっと頭の中で何かが切れた。

「えーい、うざったい。大体この部屋は特例の特権として俺がもらったものなんだろ? だったら入ってくんな。俺は静かに一人でいたいんだ」

「つまり、幹村信幸はこの部屋で一人になって人さまには見せられないような行為にいそしみたいんだね。それなら……」

「なんだか凄まじくよろしくない誤解を受けそうな妄想はやめろ! っつかそんなときだけ素直に部屋を出ようとするな! おいこら」

「照れなくてもいいんだよ。幹村信幸」

「誰が照れたよ、だ・れ・が!」

「あ、そう言えば」

 信幸の言葉を完全に無視してフルートが突然何かを思い出したように振り向いた。すたすたと、ようやくどこかに行くらしい。

 何時間かぶりに離れたフルートから視線を放し、信幸は今まで椅子にしていたベッドに横になった。

 何もしなくていい時間を過ごすのは久しぶりだ。生きていたころの信幸にそんな暇は少しもなかった。

 自分自身が欲して手にしたものなのに、何かがつかえているように不意に胸が苦しくなる。多くのものを捨て、また放棄して様々な覚悟とともにここに来たのに、意識はすぐに置いてきたものを思考の中心に持ってくるのだ。

 気を抜くと、すぐに呼び込まれる。

『信幸』

「……やめろ」

『ノブ』

「やめろ」

 信幸は耳を塞ぐように頭を抱えた。

『信兄ぃ……』

「やめろーーーーーーーーーーー!」

「幹村信幸?」

 はっとして顔をあげると、フルートが何の表情も浮かべることなくベッドの脇から見下ろしていた。

「はい、これ」

 差し出してきたのは見覚えのある写真立てだった。

「これを握ると思い出が形になるんだよ。幹村信幸が心の底でしがみついているものがここに映るの」

「俺はそんなに未練たらしい人間じゃねーよ」

「逃げちゃだめ」

「だからそーじゃ……」

「幹村信幸は恐がっているだけ、これに触れられないのも全部、そう」

「お前……」

 見てたのか? 自分がその写真立てに触れようとして、拒んだところを。

「全部、わかるんだよ。私はそういうもの」

 フルートはもう一度、写真立てを信幸に差し出す。

「これはこの異界でたった一つ自分を反映できるもの。全てから逃げてはだめなの。異界に染まっては、だめ」

 見つめる目が、信幸を拘束した。

 目の前の写真立てが信幸に問いかける。そして思い出が、信幸を問い詰める。

 持ちあがろうとする右手が、震えた。自分は逃げている。わかっている。恐れている。わかっている。後悔は……。

「俺は、自分から生きることをやめたんだ。今さらそこに映すものなんて、ない」

 わかっている。自分に言い聞かせているみたいだった。

 フルートは何か言おうと口を開いて、けれど何かに気付いて振り向いた。

「おかえり」

 フルートの視線の先、半開きになった扉の向こうにみかんが見えた。ちょうど通りかかったところらしくみかんもこちらに気がつくと立ち止まる。

「あ、フルート。それから信幸さんも、ただいま……でいいのかな? ちょっと、不思議な感じ」

 みかんは生界に行っていたはずだ。少し疲れた様子で、けれどどこか晴れた表情をこちらに見せている。

 そして、信幸は気づいた。

「お前、それ……」

 気付かされた、と言ってもいいのかもしれない。この場所にあるにはあまりに異質な存在感を発していたからだろうか。とにかく、すぐに信幸はピンときた。

「はい、持ってきちゃいました」

 そう言って、みかんは差し出す。何なのかはすぐに分かった。

 くくくくっとフルートの笑いが聞こえる。

「えっと、部屋に戻ってもいいですか? 読んでみたいんです」

「もちろんだよ。個室は特例に与えられた特権だもの」

 失礼します、と言ってみかんは信幸の視界から消えていった。

 くくくくっともう一度、今度はこちらを向いてフルートが笑う。

「みかんの一つ目の願いは高倉涼吾の生前の日記の所持。みかんのはじめの一歩だね。選択するものとしてはおもしろいよ」

「あいつはもう、願いをつかったのか」

「もう、という言葉はふさわしくないの。三つもあるんだもの。それとも幹村信幸は恐い? 選択することが? 消えてしまうことが? それとも生き返ることが?」

 フルートの言葉が信幸を威圧する。

「俺は……」

 信幸は逃れるように視線をさまよわせ、机に置かれた写真立てを見つける。

 自分はまだ、手を伸ばせない。



 カラカラカラカラカラカラカラカラ……。




                5

 部屋に戻ると女の子がベッドにもぐって眠っていた。

 知らない子だ。ベッドからはみ出したつやのある赤毛は印象的で、みかんはしばらくそれを眺めながら事態を把握しようと試みる。

 部屋は間違いなく自分の部屋だ。中に入るときに番号を確認しているし、机の上の写真立てにもフルートが写っていた。

 もしかしたら何かのトリックを使われたのかもしれない。番号を変えたり、部屋の中のものを動かしたりするくらいのことは簡単にできるのだから。

 ――そんなことをする理由は思いつかないけどなぁ。

 思考は長くは続かず、みかんは机とセットになった椅子に腰を掛けた。持っていた日記を音がたたないようにそっと置く。

「ふぁ?」

 みかんの配慮も虚しく、女の子が目を覚ました。

「あれ…………あなた、誰?」

 少女の目は半分閉じたまま、それでもみかんを捉えたらしい。寝ぼけた様子のまま呂律の回らない口調で問いかけてくる。

「僕はみかん。ここにきてからつけられた名前だからおかしいかもしれないけどね。ここは僕の部屋だよ。君は誰?」

 なんだか新鮮だった。みかんにとって女の子と会話をするのは初めての経験だ。フルートは……、どうだろう。彼女を普通の枠組みでとらえることはどこか危険な気がする。

「みかんくんの……部屋。それなら、私はどうしてここにいるの?」

「それは僕の方が聞きたいんだけど」

「瞬間移動?」

「超能力者さんだったのか」

「?」

 ただの天然さんだったらしい。たぶん単純に部屋を間違えたのだろう。なかなか考えられない話だけれど。ある意味では超能力者よりもすごい存在なのかもしれない。

「私、邪魔?」

 天然さんが問いかける。まだ瞼が重そうで、気を抜くとくっついてしまいそうだった。

「邪魔じゃないよ」そう答える。

「おやすみなさい」と返ってきて、少女の姿は布団に隠れた。

 みかんの言葉に嘘はない。だから何も言わず、残像のように目に焼き付いた赤毛が消えるのを待って日記を手に取り、おもむろに開いた。どこから読むべきか少し迷ってパラパラとページをめくる。右手に持っていた分厚い束は徐々に減っていき、やがてそれは始まりで終わった。


――○○月○○日、

 姉貴から日記をもらった。


 文字はボールペンによる手書きで、決してきれいなものではない。それはきっと日記の特性なのだろう。本来自分以外の誰かに見せるものでは決してないのだ。その考えはどこか皮肉のように胸に響いた。


――○○月○○日、

 姉貴から日記をもらった。

 去年は北欧神話全集。一昨年は資本主義崩壊の序曲。その前は中世を網羅した地図帳。

 どれも暗記するほど読み込んだ。姉貴は僕の趣味をよく知っている。

 その上で今年は僕が一番嫌がるだろうモノを選んだわけだ。

 姉貴曰く、「白紙が嫌なら自分で埋めな」と。

 ひとまず乗せられてみることにする。

 癪だけど。癪だけど。

 姉貴の行動に、意味がなかったことはないのだから。

 姉貴の言葉に、意味を見いだせなかったことはないのだから。

 P.S.添えるようにはっぴーばーすでーと発音して帰ったことも記しておく。

 ブロンドの髪に似合わない上手な日本語だった。

 

 日記の日付はちょうど一年ほど前だ。そこから毎日、そう長くはない文章で高倉涼吾の日常がつづられていく。

 不思議な感覚だった。自分ではない自分の、記憶にない記憶が記されているということ。高倉涼吾ではないみかんが、どれだけ間違った存在なのか再確認させられているように胸が痛んだ。

 


――○○月○○日

 Dと出会った。陽気な奴だ。

 僕が声をかけるとそれを待っていたかのようにべらべらと自分のことを話し続けた。三時間だ。その間、僕は一切しゃべらなかった。必要がなかったから。それでも満足したようで、彼は笑顔で去っていった。

 僕は疲れたよ、さよならD。


――○○月○○日

 目が覚めるとSがいた。彼女の方から僕を見つけたらしい。

 それはとても珍しいことだった。じっと僕を見つめて何かを言いたそうにしていたけれど、眠かった僕はもう一度目を閉じた。悪かったとは思う。

 きっとそれで愛想をつかしてしまったんだろう。次に目を覚ました時にはいなかった。

 ごめんよ、さよならS。


 彼の日記にはたくさんの人が現れた。とは言っても数日に一度、あるいは数週間に一度だ。けれど、会って話す友人がいたらしい。

 それはみかんにとって、とても嬉しいことだった。なぜかはわからない。彼が孤独に飲まれて自殺したのでないことにほっとしているのかもしれない。

 高倉涼吾は一人ではなかった。

 自分のように一人ではなかった。

 それならどうして自ら、死を選んだのだろうか。

 なぜあのマンションから……。

 新たに生まれた疑問が、頭の中をぐるぐると巡る。

 思索にふけてみても答えは出ない気がした。あるいはこの日記の中にも答えなんて存在しないのかもしれない。それでも読む。なぜ?

 行動の意味を探すと、存在の意義を見失う気がしてみかんは考えることをやめる。

 なんとなく視線をあげると、ベッドで眠る少女の口から伸びたよだれが枕に到達する寸前だった。「でめまろー、でめまろー」と小さく呟きながら、額にしわを寄せている。

 どんな夢を見ているのか想像すらもできないのは、きっと自分の人生経験の少なさだけではないのだろう。

 はは、と声に出して笑った。

 なんだか、きっと大丈夫だ。

 自分だって今ここで、一人ではないのだから。

『あなたも恵まれている方』

 フルートがそう言った意味を少しだけ理解できた気がした。

 視線を重ねる。

「君はどうして、僕を残したの?」

 的外れにも聞こえる言葉を鏡に投げかけて、みかんはまた一枚、ページをめくった。



 カラカラカラカラカラカラカラカラ……



 

                 6

「…………!」

 いつの間に眠っていたのだろうか。かぶさるように体重をかけていた机から体を離し、枕にしていた日記を閉じて、みかんはあたりを見回した。

 自分の部屋だ。時計がないから正確にはわからないけれど、それほど時間が経ったような感覚はない。せいぜい一時間か、二時間か。

 変化はほとんどなかった。相も変わらず薄暗く、居心地だけがいい空間が自分の周りを形成している。この状況にも慣れたものだ。と言っても、何かに慣れるというのはやっぱり初めてのことなのだろうけれど。寝ぼけて動きの鈍い頭は、何の感慨も起こしてはくれない。

 突然、「ふにゃあ」と、布団が鳴いた。

 もぞもぞとまるでモスラの幼虫が身じろぎをするように一瞬暴れ、やがてそれは音もなく止まった。ふくらみだけがこちらを威嚇している。

 ――そうか、女の子がいたんだっけ。

 名前も知らない、赤毛の女の子。

 記憶が遠く、ぼんやりと凝った眠気が意識を支配しているようだった。そんなに疲れていただろうか。……疲れていたのかもしれない。

 生身の人には触れられないこの中途半端な体は、それを感じていなくても。

「何か飲む?」唐突に、声は扉の先から聞こえた。

「フルート……いつからそこに?」

「今だよ、これは本当」くくく、と笑う。

 ではどれは本当でなかったのかと聞くのはなんだか愚問のような気がしてみかんは黙る。きっと自分とは関係のない話なのだろうし、そもそもそんな突っ込みを期待してはいないというように、フルートはみかんと向き合ってちょこんと椅子に座った。

 漠然とした違和感に襲われて、少し考える。そして、すぐに思い当った。

 この部屋に、椅子は一脚しかなかったはずだ。その椅子には今、まぎれもないみかんが座っている。

「異界では、『有限性変動存在率』が働くんだよ。不思議に見えることは、実はちっとも不思議じゃない。本当に不思議なことは、だって実際にはおこらないんだもの」

 そういって、フルートは机の下からカップを取り出す。「なにがいい?」

「それじゃあ、えっと、コーヒーをお願いします」

 みかんは瞬間的に知識の中から、眠気を覚ますためのモノを探り当ててそう答えた。

 そして視線をカップに集中する。最低限のものすら足りないこの部屋には、もちろんポットもコーヒーメーカーも存在しない。水道すらないのだ。けれどフルートが手首をくるっと返した途端、カップからは湯気が立ち上る。澄み切った黒が何もなかったはずの中身を満たしていた。

「どういう仕組みなんですか?」

「仕組みはないんだよ。理論があるだけ」

 机の上を滑らせるように、フルートはコーヒーをみかんの前に置いた。縁に触れると、今この場で注がれたばかりのように温かかったけれど、みかんには本当にそれが今この場で注がれたばかりのものなのか、自信が持てなかった。

「例えば、コーヒーを飲みたいと思ったとして、それを実現するにはいくつかの工程をクリアしていけばいいんだよ。はじめの状態にもよるのだろうけれど、シンプルに考えるなら、豆をブレンドして、それを挽いて、ドリップする。実際にやるのはめんどくさいよ。でもやればできる。有限変動存在率は、そのできることをやったこととしてとらえるの。過程や効率を無視して、願望から結果を直結させる可能性の具現化法則なんだよ」

「それじゃあ、このコーヒーは過程を省略されているけどフルートが作ったものということ?」

「考え方としてはその通りだけど、結局、私は何もしていないんだよ。コーヒーはここにあったの。椅子もそう。そう望んだ時点で、それはこの場に初めからあったもの」

「初めから……」

 それは理論でありながら、論理を真っ白な霧の奥底に隠しているように聞こえた。自分の理解が追いつかないだけなのか、或いはそもそも『常識』的な理屈の在り方自体がこの異界の中ではナンセンスなのかもしれない。

「手作りじゃなくて、ショックかな?」

 いたずらを楽しむ子供のような表情でフルートが聞く。

 答えを逃れるように、みかんは急いでカップに口をつけた。「う、苦い」

 どうやら高倉涼吾はコーヒーに関する知識は持っていても、飲んでみたことはなかったらしい。想像していたものとは全く違う刺激を味覚に感じて、みかんは大きく狼狽えた。

「望んだものが、望んだとおりのものとは限らないという、皮肉なのかな?」

「いえ、目は冴えましたよ。望み通りに」

 くくく、とフルートがもう一度笑った。長い黒髪が、それに合わせてゆさゆさと揺れる。散らばった毛先は空間と同化するように曖昧で、いつの間にか見えなくなってしまいそうな儚さを常にまとっているようにも見えた。

「すべては」フルートが、今度は自分のためだろう二杯目のカップを取り出しながら言う。「望むことから始まるんだよ。願うことから始まる。全知でも、全能でも、それだけなら神ですら何もできないのだから」

 カップの中は真っ白な液体で埋まった。

「フルートにも、望みがあるの?」

「あるといえばあるけれど、それがカルシウムの摂取で解決できるかどうかはわからないんだよ。本当は誰にもわからない。少なくともこの世界の法則は答えを出してはくれないんだよ」

 特例だから、と主語をつけずに続ける。

 自分が小さいことを、気にしているのだろうか。なぜだかそういうものとは、無関係なように思っていたけれど。

「ねぇフルート、……君はどうして生きているの?」

 その言葉は至極自然に、みかんの口から洩れた。それは自分自身への問いかけを、他者に転化したそれだけのものだ。だから、別段大した意味はなかったように思う。

 みかんにとっては。

 だけどフルートは止まった。

 見開いた目ははっきりとみかんを捉えている。けれど、いつもなら賑やかに変化をし続ける表情が、微動だにせず人形のように固まっていた。整った顔立ちがその印象を強くしているのかもしれない。

 まるで世界が停止してしまったのかと思うほど、静かな時間が流れた。

 …………。

 …………。

 …………。

 みかんが動き出せたのは、どれほど経ってからだろう、背後で「ぐがぁ」という奇声とともに寝返りをうつ気配がしたからだ。

「フルート?」

 恐る恐る声を出す。

「少し考え事をしていたんだよ」返事はすぐにあった。「考えたことがなかったからね。そう聞かれることを想定していなかったし、自分に問いかけたこともなかった。初めてだったんだよ。わからないこととは違う、想定外の質問はね」

 あひゃひゃひゃと、心底楽しそうに彼女は笑った。

「答えは見つかったの?」

「見つからないということが分かったの。だって私は生きてないもの」

 それはいつも通りのフルートらしい言葉に聞こえたけれど、どこか不完全な、プラスチックで形だけを整えた、中身のない言葉にも思えた。

「そろそろいくんだよ。きっともうすぐ、麻木奈美が目を覚ますからね」

「あさぎ、なみ……」聞き覚えのない名前だ。

 トン、と硬質な響きをたててフルートの足が床につく。音に反して体重を感じさせない、流れるような所作だった。

「私にはできなかったけれど、きっとみかんにはできるんだよ。みかんと麻木奈美は似ているから。誰にも似ていないことが当たり前な特例の、きっとさらに特例なんだよ」

 フルートの視線がみかんの、その後ろに流れた。

「おやすみ、みかん」

 つられて目をやると、幼虫だったモスラが羽化の準備を始めている。具体的に言えば、布団の中で両手を広げて伸びをしているようだった。

「そう、聞こうと思っていたんです。このこは――」

 フルートはもういない。

 それはカップにコーヒーが注がれる瞬間を見過ごしてしまった時と同じような、気配のない消え方だった。『初めからそこにあった』、というフルート自身の言葉を借りれば、まるで『初めからここにいなかった』かのような存在感の消失。

「夢を、見ていたのかな……」

 そんなふざけた妄想を、けれど否定できる材料は何もなかった。

 机の上にあったはずのカップすら、もう見当たらなくなっていたから。

 みかんは二回、頭を振った。

「あれ、…………あなた、誰?」

 赤毛の少女は、数時間前と全く同じセリフを繰り返す。

 完全に覚醒したわけではないらしく、両手で目をこすりながら大きな口を開けてあくびを繰り返している。

「僕は――」

「あ、レモンくん!」……違う。

 違うのだけれど、ちゃんと一度目のあいさつは成立していたらしい。それすらも夢だったのかと疑い始めていたみかんはほっと胸をなでおろした。

「あれ、グレープくんだっけ? パインくん? キウイ……マンゴー?」

 首を傾げながら少女が自問する。無邪気な表情を向けられて、思わず肯定してしまいそうになる気持ちをみかんは必死で自制した。

「惜しいけど、僕はレモンでもグレープでも、メロンでもスターフルーツでもなくみかんだよ。ここは僕の部屋」

「ここはみかんくんの部屋……、どうして私はここにいるの?」

「瞬間移動かな?」

「できるわけないじゃない、そんなこと」どうやら眠りなおして常識人に進化したようだ。

 少女は半分かかったままだった布団をひきはがしベッドに座りなおす。隠れていた足は髪よりも真っ赤なパンプスを履いたままで、この世界にはなじまない異質な輝きを返しているように見えた。異質、みかんはもうそれを知っている。

「僕がこの部屋に戻ると君がそこで眠っていたんだよ。えっと、君の名前は?」

 語りかけながら、みかんはそっと少女の頬に手を伸ばした。

「?」と不思議そうな顔をしたけれど、避けようとしないのでそのまま指が彼女に触れる。ゆっくりとなぞった。本人は気づいていなかったのかもしれない。

 涙の筋が消えると、本当に泣いていたのが彼女なのか疑いたくなるような笑顔がみかんをじっとみつめてくる。

「私は、」

 けれど、少し言いよどむ。

「私は麻木奈美。たぶん私の方が、麻木奈美なの」

 違和感のある言い方だった。まるでそれが確定情報でないかのような、不安定な名乗り方。きっとこの奈美という少女も何かを抱えている。『普通』と対比させると『歪み』のように見えてくる何か。異界にきて人が歪むのか、歪んだ人ばかりが集まるのかはまだわからないけれど。

「ねぇ、バナナくんも……特例死者なの?」奈美が聞く。

「僕のことだよね」「もちろん、バナナくんは他にいないでしょ」「そっか」バナナくんはどこにもいないのだけれど。

「フルートにはそういわれたよ。本当のところ、あんまり実感はないんだけどね」

「どうして?」

「どうしてって、」生きていたことがないから。みかんはそれをどう伝えるべきか迷う。

「どうして、ゆずゆずは特例になったの?」

「名前をちゃんと覚えてもらうのは、あきらめた方がいいのかな……」

 みかんは伝える内容を整理しながら、奈美が起き上がってできた布団の隙間に腰をかけた。今まで気に留めることがなかったけれど、特例にも体温があるということを発見する。

 まだ少し、温かい。

「僕は、もともと高倉涼吾という人間だったんだよ。彼は何かの原因で自殺した。マンションから飛び降りてね。その拍子に高倉涼吾は記憶を失ったんだ。今の僕には生前の思い出はなくて、ただ常識……だと思うんだけど、最低限の知識だけが残っているんだよ。フルートが言うにはそれは神様にとってあってはいけないことなんだって」

「記憶、そーしつ?」

「そう、死亡時ショック性記憶障害……だったかな」

 そう言えば、これは正式な病名なのだろうか? もちろん生界ではありえないだろうが、名前が残っているということは、この異界では……以前にもあったということなのか。

「それって、悲しいこと?」

 奈美が問いかける。

「みかん君は、記憶そーしつになって悲しい?」

「かな…………」

 問われて、みかんは黙る。悲しい? 考えたこともなかった。

 言われてみれば、昨日訳も分からずあの住宅街にいた時も、今日高倉涼吾という人間に日記を通して少し触れたときにも、悲しいという気持ちはなかったような気がする。

 悲しい、感じたことのない感情。

 それはつまり……、

「他人事だったのかな」

「ヒトゴト?」

「うん。死んで、記憶を失って町を眺めていた時、あったのは焦りみたいなものだったと思う。それから、記憶喪失だと知らされた時にも、何もわからないっていう漠然とした恐れだけだった。僕にとっては初めからなかったから、『ない』っていうことに対する焦燥や恐怖はあるけど、『なくした』って事柄に関する感慨はいまだに湧いてこないんだ。悲しいって気持ちは、だから今の僕にはないんだと思う」

 記憶を失ったのは高倉涼吾。みかんはもともと記憶を持っていない。だから涼吾の気持ちを理解できないのは当然だと思う反面、それがひどく残酷なことのように感じられた。

「ずっと考えてたんだ。僕と高倉涼吾という人間は同じ人物なのかなって。今ようやく気がついたよ。最初から、僕は高倉涼吾という人間を『自分』としては見ていなかった。他人事だったんだよ。彼が死んでしまったことも、彼が思い出を無くしてしまったことも」

 そして今も、それらのことに関して悲しみは湧き出てこない。

「薄情なのかな?」

 灰色の空間に何故かその言葉は自然に溶け込んで、輪郭を失って消えていく。答える声はなかった。視線をあげると、境界のない天井が迫ってくるように感じられる。

 ふと、匂いを感じた。嗅ぎ覚えのある匂い。それも何度か。これは……

「多分、私もヒトゴト」

 奈美が、そっと体重を預けてくる。重みと温もりが妙にリアルで、ほんの少しだけ気恥ずかしさを感じた。さわさわとあたる赤毛の髪がくすぐったい。

「私もヒトゴトだったの。きっと」

 そういう奈美の顔は窺えない。

「君は、」「奈美って呼んでよぅ」「奈美は、どうして特例になったの?」

 それほど、気になったわけではなかった。ただ、そういう流れだったと思う。自分は聞かれたから答えた。だから同じように聞き返すのは当然だと、そう思ったのに、

「ひ・み・つ」だった。「今はね」だそうだ。

「ごめんね。私も、うまくレモネード君に説明できないの」

 彼女の中で、みかんは果物という枠をほんの少し逸脱する。

「私自身も本当はよくわかってないのかもしれない。最近いろんなことがあり過ぎて、というより今までがなさ過ぎたんだけど、私今ぐちゃぐちゃなの。知ってる? ねるねるねーるね。小さいころ大好きだったお菓子なんだけど。たぶんあんな感じ」

「あんな感じかー」みかんは知らない。少なくとも高倉涼吾の知識の中にはなくて、それが常識の欠如なのかどうかはわからなかった。でもニュアンスは伝わってくる気がする。フルートよりは例えの使い方がうまいのではないだろうか。

 ……どんぐりの背比べだけれど。

「ほんとに知ってる?」しかも奈美は鋭かった。

「ごめんなさい」――嘘を吐きました。

「うむ、許そう」

 不思議と、お互いに笑みがこぼれた。今日、いや、今あったばかりなのに、どこかそれは約束された出会いだったかのように、二人の距離を近づける。

「ねえねえ、レモンくん」

「うん? って僕だよね?」

「…………」

 そして、沈黙。

 今まで触れていた肩のあたりが急に軽くなり、横で体勢が変わる気配がある。

 奈美はこちらを向いていた。それを見てみかんは視線を合わせる。向き合った顔が妙に近くて、止まっているはずの心臓が動き出したような錯覚を覚えた。

 奈美の手が、ゆっくりとベッドに置いてあったみかんの手に触れる。そっと持ち上げられて二人の視線の少し下で止まった。

「あの、」「ん?」「あ、あのね」「うん」「えとー、そのー」「うん?」「お」「お?」「おー」「おー!」「じゃなくてね」「うん」「そのー」「ぎゅっ」「ひゃっふ」手を握っただけなのに、反応が面白い。

「大丈夫だよ」そう伝えてみた。

「あ、あのね」

「うん」

「すーーはーー」これは深呼吸。

 ふー、と最後に一息ついて、奈美はこちらをもう一度見つめる。今度はすらすらと言葉が出てきた。

「お友達になってくださぁい!」

 力んだ語尾が必死だった。それが何だか可笑しくて、みかんは笑いがこらえられない。

「あ、うぅ」

「もちろんだよ。というか、もう友達のつもりだった」

 そういうものじゃないのだろうか。少なくとも高倉涼吾の知識に基づけば、もう友達だったと思う。今さらだけど、自分を持っていない人みたいだ。

「初めて……」

「え、あ、いや、」

 今度はみかんが慌てる番だった。泣かせるようなことを言ってしまっただろうか?

「初めてなの……友達が、できたの」

 少しだけ彼女の中にある悲しみの欠片を見た気がして、みかんは静かに奈美の頭を優しく撫でた。


 カラカラカラカラカラカラカラカラ……。

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