第三章 存在の理由と場違いな真実

                    1                                                                                                          

「人間は何気なく空を飛びたいなんて言葉を使うよね。それが自由だって思ってる。ツバメが空を飛ぶのは、飛べるからではなく飛ばなければ生きていけないからなのに。飛ばなければ、餌をとることも水を飲むこともできないのだから。親鳥がいるうちはいいけれど、そんなに都合のいい生活は長くは続かない。与えられることで生きていけるのは、選択肢を持たない最弱の生物でいられる間だけなの。他の何ができなくても、或いは他の何もできなくても、ツバメは飛べるのだから飛ぶしかないんだよ。つまり、初めから飛ばなければいけないという鎖に縛られてツバメは生まれてくる。飛ぶことを強要されて、強制されて、生きているんだよ。それはある種の運命と言えるものなのかもしれないね。生物が固有に持つ不可能性とも呼べるかもしれない。ここまで話すと人間は、今度はそれを不自由だと言い始めるの。ツバメは空を飛べるのに。何も変わっていないのに。さて本当は、ツバメは自由なの? それとも不自由なの?」

「……………………」                                                            

「幹村信幸?」

「……………………」

「幹村信幸?」

「……………………なんだよ?」

「人間は何気なく空を飛……」「わかった、からストップ!」「自由だって思っ……」「のわぁ、だからやめろって!」

 一日経った、ってことなんだと思う。一晩眠り、目を開くと暗色の天井より先にフルートが視界に入った。ひたすらに気分が悪い。それで目を閉じたらよくわからない話をされてこの流れである。

「で、つまり何が言いたいんだ?」

「幹村信幸は生界に行くの」

 今の話からなんでそうなるんだ。とりあえずもう一度布団に戻る。

 眠い。それもあるけれど、意識を保っていることが億劫であることの方が今は大きい。そもそもフルートの相手をしてやる理由も余裕もない。

「ツバメにも鎖はあるの」

 信幸の行動には構わずフルートは話を続ける。そしてフルートの話に構わず信幸は眠る。

「人間にもある。特例にも。特例の鎖は生界へ行くことなんだよ。いけるから行くのではなくて、いかなければいけないから行くの」

 少し聞こえ方は違っても、内容は今までとおんなじだ。生界に行け。そうしなければならない。フルートの主張が変わらないように、信幸の考えも変わらない。自分は生界へは行かない。あそこに、自分に必要なものは何もない。

「幹村信幸」

 微かに、フルートの声色が変わった。

「特例に特権があるように、死神にも特権があるんだよ。私にも自室があるし、生界にも特例より自由に行き来できる。それから、もう一つ」

 瞼の外がぱっと明るくなった。強い赤。この世界に来てはじめて目にする本当の光。思わず見開いて、あまりの眩しさですぐにまた瞑った。見えたのは一瞬だったが、光はフルートの両手から発せられていたようだった。

 視覚を失って、その代わりに鋭敏になった耳にフルートの声がはっきりと聞こえる。

「死神は特例特権に干渉できるの。幹村信幸の個室特権に干渉すればこんなこともできる」

「うわ、なんだ?」

 ふっ、と体が軽くなったような感覚があった。さっきまであった布団の感触はなくなり、周囲のものが瞬間的に全てなくなったかのようだ。まだ、目は開かない。

『人間は何気なく空を飛びたいなんて言葉を使うよね』

 先ほどの言葉を無意識に思い出した。

「まてまてまてまて、なんだよおい」

 ようやく、目が開く。

 開けた視界。一面に広がる青い空。そんなに厚くない雲に一瞬触れる。太陽が近い。けれど離れていく。スッと何かが横を通過した。建物だ。ビル? マンション? 窓から中が窺えるが、誰もこちらを見ていない。体勢を変えた。この状況でもうつ伏せというのだろうか。下を見る。もう、地面が近い。

「のわああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 確信できる、これは絶対嫌がらせだ。





 ひどい目にあった。

 痛みはないが、何というかショックが大きい。死ぬかと思った。というか雲の上から落とされたのだから信幸がすでに死んでいなければ確実に死んでいただろう。モウイミワカラン。

 とりあえず、生界に連れてこられたということは理解できる。正面にあるマンションは見覚えがあるし、背後にある小学校は母校だった。ここは信幸の家からそれほど遠くない。

「それにしても他にやり方があんだろーが」

 あひゃひゃひゃ、という笑い声が聞こえてくるようだ。今度会ったら許さない。絶対に許せない。

 しかし、今そんなことを言っていてもどうにもならないこともなんとなくわかる。帰り方がわからないのだ。それに、誰にも姿が見えないとはいえ道の真ん中でいつまでも寝そべっているのも居心地が悪かった。

「よっ、と」

 起き上がる。

 時間はちょうど正午くらいだろうか、日差しはほぼ垂直に信幸を頭上から照らしている。できた影は最大限に濃く、最小限の大きさしかなかった。

 立ち上がる、歩きだす。

 ここまで来ると、なんだかいろいろなものがどうでもよくなってきた。あんなに逃げていたのに、おそらく今も逃げていることには変わりないけれど、少しだけ周りに目を向けてもいい気がしてくる。海で釣られた魚が、生簀の中で泳ぎ続けるようなものだろうか。

「俺の例えもあんまり人のこと言えないな」

 死んだ自分に生簀というのも、笑えない。

 足は自然と最寄りの総合病院へ向かっていた。家に戻るつもりは最初からない。あそこには信幸が捨てたものしかないのだから。

 道中には懐かしい景色が広がっていた。懐かしいというほどの時間は経っていないはずだけど、もう何か月もあの薄暗い部屋に閉じこもっていたような感覚がある。子供の頃によく遊んだ公園の脇を通り、なかなか開かないことで有名な遮断機を抜けると白くて大きな建物が見えた。

 玄関の自動ドアを、腰の折れたばあさんと一緒に通る。エレベーターは自分だけ取り残されるシュールな絵面を容易に想像できたので避けて階段を上った。使う予定のない生界での制限をこっぴどく叫んでいたフルートに今だけ感謝する。でも許せないものは許せない。

 目的の階は四階だった。生身で上ればそれなりに疲れる長さだが、幸い今の体には肉体的な疲労は存在しない。特例が眠るのは精神的なものなのだそうだ。

「ん?」

 上りきると、廊下の先を見知った顔が横切っていった。あれはみかんだ。向こうは信幸には気づいていないようだった。なぜ病院にいるのか気になったが、それぞれ事情を抱えているのはわかっているので追わないことにした。

 それぞれ。自分の場合を、今は考えたくはない。思考を切り替えるように、信幸は頭を振った。

 そう言えば、自殺をしたことで特例になるのなら、特例と言う存在はもっと多くてもいいのではないだろうか。日本だけでも年間に三万二千人以上の人が自殺によって死んでいて、これは約十六分に一人という計算になる。と、廊下に大きく張られたポスターに書かれている。締めは『死ぬ気で生きよう』笑えない。

 信幸の目指す病室は四三二号室。病気で倒れた母親の顔でも拝んでやろうかという魂胆だ。ついでにどうにかして伝えてみるのもいいかもしれない。

「死んだって、いいことなんて一つもねぇぞってな」

 だからまだ、こっちにはくるなよと。

 ふと、コツコツという足音が背後から聞こえた。何でもない足音のはずなのに、妙な感覚がある。足音は徐々に近づいて、近づいて、信幸は振り向いた。

 タイミング良く、誰かがすり抜ける。脇ではなくて体をすり抜けられていく感覚にはまだ慣れない。それよりも、一瞬だけ見えた赤毛の髪に既視感があった。あれは、

「麻木奈美」

 振り返りながら呼びかけた。フルネームで呼ぶとフルートみたいだ、なんて軽く思う。

 少し待っても、返事はなかった。聞こえなかったということはないと思うが、奈美が信幸のことを覚えていなかったとしても何も不自然ではない。話をしたのは一瞬で、半ばパニック状態だったのだから。

「まあ、いいだろ」

 気にしないことにして、信幸はまた歩き出す。

 足音はしなかった。

 

 

 

                    2

 四四六号室。みかんは病室の前で麻木奈美を待っていた。昨日あの後、場所を変えて話したいという奈美に呼び出されたのだ。約束の時間になっても、当の本人はまだ姿を現していないのだが。

 なんだか少し落ち着かない。もちろん、みかん自身がここに来るのは初めてだが、感覚的にも病院という場所はあまりなじみがなかったように思う。

 どこを見ても白い床、白い天井、白い壁。統一された内装はあの蒼い空間を思い起こさせる。ただやはり同色の真っ白なカーテンから差し込む日の光が、その印象を和らげているような気がした。

 みかんは壁に備え付けられた手すりにそっと体重をかける。これも白い。

「病院……」

 なんとなく言葉に出して思う。不思議なところだ。たくさんの人がここで生まれ、たくさんの人がここで死ぬ。誕生の周りに死が集まるとも言えるし、その逆ともとれるのかもしれないけれど、始まりと終わりが同じ場所に集中するというのは面白いと思う。フルートは否定していたけれど、つまり命が循環しているようにも見えるのではないだろうか。

 そう考えてしまうのは昨日読んだばかりの日記の影響なのかもしれない。目を閉じて、内容を思い出す。


――○○月○○日

 『循環』という考え方を姉貴は好んで使った。

「生から死の因果ってのは、まぁ目で見える範囲でもよくわかるじゃない。これは一見すると矢印の関係、直線の関係に思えるけど、人ってまっすぐ生きてないと思うのよね。つまりぐるっと湾曲して遠回りしながら進んでいく。だから人生って半円だと思うわけ。わかる?」

 わからない。

 姉貴のいうことはいつもそうだ。根元に感覚的な前提を置いているからだろうか。理論的に話してはいても論理的には聞こえない。もっとも、だから間違っているとはとてもじゃないけどいえないけれど。

 じゃあ、その残りの半円で人は生まれ変わるっていうことなのかよ。僕はそう聞いた。

「そんなこと知らないわよ」あっけらかんとそう語る。これが言えるから姉は強い。

「人、はわからないけど、命は循環してるんじゃない?」


 コツコツと廊下の先から足音が聞こえた。気になった理由もわからずにみかんは振り返ったが、その人物を確認する前に視界がぐるっと変わった。目の前に床が迫る。完全に静止してようやくみかんは事態を把握した。痛みも衝撃もなく転ぶことにはまだまだなれそうもない。どうやら体重をかけていた手すりが揺れたらしい。だから、みかんはそれに触れていることができなくなりバランスを崩したのだ。

 原因は、

 ドンっ!

 足音の主がもう一度手すりに力いっぱい拳を叩きつけた。

「どうして、私じゃなかったの!」

 特徴的な赤毛の少女は毒づきながら四四六号室の扉を開ける。一瞬、左腕の手首に真っ白な包帯が見えた。

「奈美……じゃ、ない?」

 少女にはみかんの存在が見えていなかった。意図的に無視をしていると考えることもできるが、呼び出しておいてそんなことをする必要もないはずだ。

 それに、少女はこの生界に物理的に干渉しているようだった。足音を立てて歩き、手すりを殴って揺らす。そして今、扉を押して開いた。そんなことは特例である自分たち、いや死者である自分たちにはできるはずのないことだ。

 つまり、一見すると麻木奈美に見えるこの少女は、生きている。

「入って!」

 病室の中から、聞き覚えのある声で呼ばれた。さっきの少女のもののようで、どこか違う雰囲気を持った女の子の声。

 みかんはわずか数センチの隙間を残して閉まりきる寸前の扉に飛び込んだ。実際には動体ならばすり抜けることができるため、隙間の大きさなどは関係ないのだが。

「いきなりになっちゃってごめんね。今しか呼べなかったから」

 病室にはいると二人の少女がいた。一人は部屋の中央にある真っ白なベッドに腰掛けて窓の向こうを眺める赤毛の少女。そしてもう一人は、ベッドを跨いだ向こう側からみかんを見つめる同じ顔立ちの赤毛の少女だった。

 後者である少女が声をかける。

「メロン君」

「あ、こっちが奈美か」

 間違いないと思う。というか、名前を覚えられない人間が周りに二人もいたら困る。では、もう一人のこの少女は誰なのだろう。

「その子が気になる?」

「気になるっていうか……」

 ベッドの少女は、相変わらず外を見ていた。みかんたちの会話が聞こえている様子はない。やはり、生きている?

「双子のおねぇさんとか?」

「少し、違うのです。ううん、少しじゃないかな」

 そう話しているのは紛れもない奈美のはずだけど、どこか昨日とは違う、何かを決心したような落ち着きが感じられた。

「ちょっと長くなるけど、きいてくれる?」

「うん、もちろんだよ」

 きっとそのためにみかんはここへ呼ばれたのだから。

 おそらくそう、初めてできた唯一の友達として。みかんにとってもそれはほとんど変わらないようなものだけれど。

「ありがとう」

 奈美はそっともう一人の少女の方を向き、ゆっくりと語り始めた。



「私ね、ママとパパが大好きだった。ママはいつも笑ってて、たくさんお話をしてくれたし、料理がとっても上手だった。パパは忙しくてお休みの日にしか家に帰ってこなかったけど、その度に楽しい所に連れて行ってくれた。遊園地だったり、動物園だったり、時には近所の公園なんてこともあったけど、どこにいっても私を肩車して言うの『どうだ世界は広くて大きくておもしろいだろ』って。すごく小さいころの事だけど、今でもよく覚えてる。大きな背中のパパに乗っていると本当に街の隅から隅まで見渡せる気がしたの。その景色が私は大好きだった」

「家族って、僕は知識としてしかわからないけれど、きっと幸せだったんだね」

「うん、幸せだった。二人とも大好きだった」

 奈美の視線が窓に移った。同時に奈美には思い出がそこに映ったのかもしれない。そっと笑った。

「小学校の二年生の時、パパが死んだの」

 奈美自身の心境と反して淡々と紡がれていく言葉。

「どうして死んじゃったのか、まだ小さかった私にママは教えてくれなかった。でも、死ぬってことがどういうことなのかくらいはちゃんと知っていて、もう会うことはできないんだってことは理解していて、私は悲しくてずっとずっと泣いていた。何度も何度もパパを探したの。でも、肩車されていない私の背じゃ世界は全然見えなくて、もう肩車してくれるパパはいないんだって気づいてまた泣いた。悲しくて悲しくて、私はその日から学校に行かなくなったの。えと、とーきょーこーひー?」

 東京コーヒー……? 「登校拒否かな?」

「多分それ。ずっとずっと自分の部屋で泣いてた。ママは『学校に行こう?』とはいったけど、それだけだった。きっと無理して行かせようとは思わなかったんだと思う。ママも毎日、私に隠れて泣いてたから。もしかしたらあの時ほんとは、私よりママの方がいっぱい辛かったのかもしれない。半年経って私が三年生になった時、ママは新しい男の人を連れてきた」

 奈美の小さな手が自然に拳をつくっていた。音がしそうなほど堅く握りしめて、けれど振るうことのない拳。

「『パパって呼んでね』ってその人は言ったけど、私はその人をお父さんって呼ぶことにした。私のパパはパパだけだったから。何より私はお父さんが好きになれなかったんだよ。だってママはやっぱり泣いていたから、あれはきっとお父さんのせいなんだと思った。ううん、今でも思ってる。私はお父さんの顔を見たくなくて学校に行くことにしたの。そうしたらお母さんがまた笑ってくれるかもしれないとも思った。けどね、」

 表情が変わらないまま奈美の頬を涙が伝った。それだけで先の読める展開。ありふれた、残酷なあらすじ。

「ずっと家にこもっていた私に学校はすごく冷たかったよ。冷たくて、厳しくて、痛かった。だって私はみんなが持っているものを持っていなかったんだもん。友達も、父親も、私にはいなかった。簡単にいじめられたよ、みんなにとってきっと当然の流れだったんだよね。必然って言うのかな。お母さんには絶対に言いたくなかったから、私には味方なんて一人もいなかった」

 知らない、わからないということが一番端的に恐怖に変わる、それはみかんがこの世界に生まれて最初に感じたことだ。いじめるという行為は、学校という日常の中に知らない子がいるという『恐怖』と戦う防衛本能の一つの形なのかもしれない。それはあたかも敵に対する虚勢のように。その敵も、知らない場所で知らない人に囲まれ『恐怖』しているというのに。

「我慢して我慢して我慢して、そうしていればいつかいいことが起こるんだって思ってたよ。どこかで報われるんだって、そのために今辛いんだって。叶わないとわかっていても、こんなに苦しいんだからもしかしたらパパが生き返るかもって考えてた。おかしいよね、そんなことあるはずないのに。へへへ」

 本当の感情を隠すように冗談めかして、奈美が笑う。

「そんなこと考えてたから罰があたったのかな。……すぐにお母さんも死んじゃった」

 ドンっと、聞こえるはずのない声に呼応するようにベッドに座った奈美と同じ顔の少女が壁を殴った。指に赤いものが滲む。

「そのとき私達は別れたの」

 奈美が言う。

「私と彼女に。奈美と亜美に。無視と痛みに。逃避と現実に。……悲しみと、怒りに」

「わか、れた……」一人が、二人に? 

「みかん君」「いや、僕はレモンだよ」あれ、違う。自分は、混乱している?

「みかん君は他人事って言ったよね。私もそうだった。苦しいのだって辛いのだって、そうなった原因だってほんとは全部私のものなのに、見ないふりして投げ出して、逃げ出して背負わせた。私はなんにも考えずに四角い部屋の中でただただ生きてたの。亜美はずっと戦ってたのにね」

 ずっと、ずっと。ずっと、ずっと。そう呟きながら奈美はもう一人の少女の元へ近づく。近づいて、手を伸ばして、触れようとして、できずに空を切る。

「私はこれから、亜美になにをしてあげられるのかな」

 恩返しのようにも贖罪のようにも聞こえる奈美の言葉に、みかんは答えることができなかった。それは経験が足りないのではなく、知識が足りないのでもなく、それを最善だと思ったからだ。最高でもなく、最良でもなく、最善。

 奈美が探しているものは、誰かが親切に教えてくれるものじゃないから。きっと奈美自身が一人でたどり着くことに意味のあるものなのだろう。そう、思った。

 だから、溢れだしそうになる言葉を必死でかみ殺す。

 落とした視線の先で、ただただ赤い小さな靴だけが暗い病室の中に光を発していた。

 

 

 カラカラカラカラカラカラカラカラ……。

 

 

 

                 3

 どうして私じゃなかったのだろう。

 床も壁も天井もただただ真っ白な病室で、麻木亜美はそんなことばかりを考えている。誰もいないこの部屋で。誰も来ないこの部屋で。

 どうして私じゃなかったのだろう。

 私が死ねばよかったのに。

 私が死ぬべきだったのに。

 私が死ぬはずだったのに。

 いつもそうなんだ。私が生きてきた八年間、現実というのは常に思うように動いてはくれなかった。きっと、この世界は私がいるべきところではないのだ。この世界は私のことが大嫌いなのだ。何度も何度も失敗してきた。成功しても喜べないことだっていくつもあった。誰も、私のことで喜んでくれはしなかった。辛かったし苦しかった。投げ出したかったし逃げたかった。それでも私は頑張れた。私が生きているのは私のためではなかったから。私のためでは、なかったから。

 拳を壁に叩きつける。

 どうして私じゃなかったのだろう。

 殺したのは私で、それなのに死んだのは私じゃなかった。

 私は人殺しだ。大切な人を、護りたかった人をこの手で殺してしまった極悪人。涙が流れないことに怒りがこみ上げた。振るった拳は、それを少しも解消してはくれない。

 ……違う、そんなの嘘だ。

 ほんの少しはすっとする。纏った痛みに、私は心の底で安堵している。

 それが許せなかった。許されたいと願う自分が、なにより一番許せない。

 なのに世界はそんなことには寛容で、私を世界に今でも留めている。

 それもまた、許せない。

 指に血がにじんでいた。真っ赤な、血。生きている証拠。私はどうしてまだ生きているのだろう。失敗したのなら、やり直せばいいではないか。今からでも死んでしまえばいい。

 今の私に、生きている理由なんてなにもないのだから。

 自分自身の手で、失ってしまったのだから。

 残っているのは人の命を奪った罪だけだ。

 ベッドの脇の小棚の上にフルーツの盛られたバスケットがあった。私が眠っている間にあの人が持ってきたものだ。私の意識がある時間を避けて来たのだろう。私の知るお父さんは、そういう人だった。

 その横に置かれた、果物ナイフに視線を移す。柄から数えても刃の長さが十センチほどしかない小さなものだけど、それでも奈美の命を奪ったカミソリよりはずっと鋭い。

 亜美はかぶりを振って、もう一度考える。

 どうして私じゃなかったのだろう。

 そのことに、意味があるのだろうか。

 

 

                  4

「要するに、麻木奈美は解離性同一性障害だったんだよ。多重人格ともいうの。一人の体の中に二つの人格、んー、一つの体の中に二人の人格でもいいんだけど、そういう風に存在していたんだね。自分に起こる不幸や悲しみに、『母親の死』をきっかけにして耐えられなくなったんだよ。逃れるには、自分ではない自分に現実との関わりを転嫁するしかなかったの。だから麻木奈美は麻木亜美を創りだしたんだよ」

 迎えの鉄道で眠ってしまった奈美を自分の部屋のベッドに寝かせながら、みかんはフルートの言葉に耳を傾けていた。別に自分のベッドであることに他意はない。ただ、なんとなく女の子の部屋に勝手に入るのが躊躇われただけだ。それに、ここに寝かせておけばいつの間にか奈美自身の部屋に瞬間移動したり、するのだろうか。靴を脱がせようとしたけど、寝相で抵抗されたのでそのままにすることにした。

「奈美、小学三年生からここに来るまで、……というか死ぬまで、自分の部屋を出たことがないって言ってました。ずっと、部屋の中で飼ってる熱帯魚を眺めてたって」

「麻木奈美の自室の扉が人格の切り替わるスイッチになっていたんだよ。部屋の中では麻木奈美に、外に出れば麻木亜美に変わることで麻木奈美自身は学校や父親との関わりを完全に回避していたんだね。八年の間ずっと」

「でもそれって……」奈美はその間ずっと一人だったってことじゃないか。誰とも関わらず、接することもなく独りで。

「選んだのは麻木奈美だったの。孤独を条件に辛いことや悲しいことから逃げていたんだよ。そして麻木亜美は選べなかった。身勝手に創られて、そのまま放られて、あるがままを受け入れざるを得なかった。麻木奈美のように無関心でいることも戦うこともできずにじっと耐えていたんだね。父親との不仲を、クラスメイトからの苛めを、社会との軋轢を。耐えて耐えて耐えた」

 眠る奈美の髪をそっと撫でた。奈美が逃げ出した苦しみも亜美が受けた痛みもみかんには想像しきれない。だからそれは恐怖となって、赤毛に触れる指を震わせる。

「でも結局限界がきて麻木亜美は湯船で自分の手首を切ったの。すぐに父親に発見されて麻木亜美は一命をとりとめたけど、なんの皮肉か麻木奈美は体を残して死んでしまったんだね。だから麻木奈美は特例になった。体を奪い取られちゃったようなものだもの。神はこれを死なのかどうかさえ判断できていないんだよ」

 神の想像を超えたもの。

 異物。

 特例。

「僕たちは、特例はなんのために特権をもっているんでしょう。死んでしまった自分のため? それとも残された誰かのため?」

「それは特例自身が決めることだよ。そんなことにまで、神は関心がないんだもの」

「奈美は、亜美という女の子に自分がなにをしてあげられるのか考えていました。そうやって亜美に何か願いを使って、自分が消えてしまうことなんてなんでもないみたいだった。でも、苦しかったのは奈美だって同じなんです」

 逃げることが楽しいはずがない。目を逸らしていることが楽なはずがない。ただ生きるということを、心から望んでいたはずがない。

「麻木奈美は、創作者にして捜索者なんだよ。生きていた時『麻木亜美』を創った麻木奈美は特例になって今度はなにを創ったと思う? 空飛ぶ靴だよ。部屋の中でしか生きることをしなかった麻木奈美は靴を持っていなかったの。特例特権の話を聞くと、すぐに願望を使って靴を創った。生界における制限すら無視して、どこにでも行ける真っ赤な空飛ぶ靴を。麻木奈美は探しているんだよ。自分にできること、やらなきゃいけないことをね」

 ん、と漏らして奈美がやんわりと寝がえりをうつ。

 生界を走り回っては帰ってきて眠る少女。

 自分はどうだろうか。みかん自身は。

「僕は、正直自分が何をしたいのか分かりません。したいこととかしなくちゃいけないこととか、そういうものがあるのかどうかすら分かりません。涼吾さんのことだって他人事で、僕には残してきたものなんてなくて、だから生界で何かが見つかったりなんてしないのかもしれない」

 そしてそれを、悲しいことだとも思えない。

「それなら、僕の願いを奈美のために……」

「みかんはまだ何も成していないんだよ」

 遮るように発せられたフルートの言葉が広くない部屋でこだまする。

「死ぬことと存在しないことは全く違うの。死んでから生まれたみかんはまだ存在してない。そのまま消えるなんてさせないの。神の意志なんかじゃなくてね」

 不敵な、笑み。

「私が絶対させないんだよ」

 そう言ったフルートの視線は、ごくごく自然な動作で開いたままの扉に向かった。


 まるでこの後起こる出来事がわかっていたみたいに。


「おかえり、幹村信幸」

 通りかかった人影に、フルートはそう声をかけた。いつもの調子で、いつも通りに。

 信幸は答えない。

 代わりに、進行方向を変えて部屋の中に入ってくる。その表情はどこか虚ろで、みかんの知っている信幸とはまるで別人のように暗く映った。今までだって、明るい顔をしていたわけではないけれど、それでもこれほど悲壮感に満ちた険しい雰囲気の人ではなかったはずだ。

 怖い、と思った。そんな印象を払拭したくて、みかんは無理やり言葉を発する。

「……信幸さんも、生界に行ってきたんですか?」

 返事はない。ぎろっとした目を一瞬みかんに向けて、すぐに離しただけだ。代わりにその目は、今フルートに向けられている。それをなんと呼ぶべきなのかみかんにはわからないけれど、もし近い言葉を探すのならば、『殺意』のような危うさを孕んだ視線。

 そして、

 それまでの緩慢な動きが嘘だったかのように、信幸はフルートに詰め寄った。襟首を掴みあげられ、小さなフルートの体が床から離れる。一見、重力を感じさせない不自然な動きに見えたけれど、それはフルートの特異性から生まれたものではなく、それだけ力づくの行動だったということだ。

「やめてください、信幸さん!」

 みかんの言葉は届かない。こんなに近くにいるのに響かない。体は何かに縛られたかのようにピクリとも動かなかった。フルートも抵抗しようとはしない。ただじっと、信幸を見つめている。

「お前、」

 フルートに向けてこの場で唯一力を持った言葉がぶつけられた。

「お前、俺に死んだって言ったよな? 俺を死者と呼んだよな?」

「幹村信幸は死んだんだよ。トラックに轢かれて死んだ。だからここにいるの。ここはそういうところだもの。死んだ人間の中でも、神の想像を超えたものだけが留まる場所」

 事実だよ、と答えた。幹村信幸は特例死者、と。

「なら、教えろよ!」

 ぐっ、と信幸の腕に力が入った。ありったけの怒りを込めて、或いは困惑を込めて。

「どうして俺が生きてるんだよ……」

 そう言った。

「どうして俺が生きてるんだよ!」



 カラカラカラカラカラカラカラカラ…………。




                     5

 数時間前、幹村信幸は四三二号室の扉の前にいた。

 ネームプレートには油性マジックで『幹村 美佐子』と書かれている。信幸を二〇年間育てあげた母親の名前だ。いや、信幸を含めた四人の兄弟をたった二本の腕で支え続けた豪傑の名前でもある。信幸は親に対する愛情を超えた、強い尊敬を込めてその文字を指先でなぞった。

 

 彼女は二週間前に脳梗塞で倒れるまで、時間という時間を二つのパートと家の炊事にあて働き続けた。睡眠時間は一日に四時間とれればいい方で、つまり病気で倒れたのはたまたまだったのだ。そうでなければ、過労による限界が訪れていたことが誰の目にも明らかだった。どこかで潰れることになっていただろう。それが丁度、二か月に一度の家族で外食をする日と重なったことも、そのために手当てが遅れることなく一つの後遺症も残さずに処置が済んだことも、やはりたまたまだった。

「もちろん油断はできませんので、術後数週間は入院をしていただきます。お母様の体力を鑑みても、長期的な休養が必要になるでしょう。しかし、重症率が高いこの病気でこれほどの回復を見込める方はそういらっしゃいません。年齢を考えればなおさらです。奇跡と呼んでもいい。そう沈んだ顔をなさらず、喜んでいいことですよ」

 たまたまを、医者は奇跡と呼んだ。

 けれど、信幸はそうは思えずに「はぁ」と曖昧に答え、医者を困惑させた。彼女のこれまでの頑張りを考えれば、奇跡くらい起こって当然だと思っていたからだ。むしろ、彼女の変調に気付いてやれなかった自分に怒りが湧いた。

「脳梗塞は前兆が非常にわかりにくく、発症の直前まで自覚することすら難しい病です。ご自身を責める必要はありません」

 医者の言葉は何の慰めにもならない。誰にできなかったとしても、それは自分にはできなければならなかったことだったのだ。誰にも気づけなかったことだからこそ、自分が気づくべきだった。

 何のために生きてきたのか。

 彼女を守るためではなかったのか。

 彼女を支えるためではなかったのか。

 信幸は、母親にどうしても行けと言われた高校にアルバイトと並行しながらなんとか通い、卒業後すぐに就職した。まだ小さい兄弟の面倒を見るため、家の近くの土木作業員として勤務し、きつい力仕事を率先してこなした。複雑な作業や危険なこともあったが、持ち前の器用さと呑み込みの速さで着々と仕事を覚え、実際同期の中では飛びぬけて複雑な作業を任されるようになる。まだ若い信幸の努力に、人は優しく、時には愛情をもって厳しく接してくれたが、給料は少なく、なかなか上がらなかった。それは仕方がないことだ。そこにいる誰にも、養わなければいけない家族がいるのは同じなのだから。

 彼女の負担を少しでも減らそうとした自分の力は、あまりにも無力だった。


 パンッ、と信幸は自分の両頬を挟むように叩く。実体を持たないはずの体が熱を帯びてじんじんと痛んだ。

 昔のことを考える必要はない。この世界の住人ではなくなった自分に、それはもう関係のないことなのだから。選んだ道だ。逃げた道であっても。

「っんゴール! トヨの勝ちー。へっへーん」

「わー、待ってよトヨちゃん。……ヒサはもう走れないよ」

 扉を開く方法を考えていると、聞き馴染みのある声が階段の方から聞こえた。今年小学校に上がったばかりで双子の豊音と久満だ。豊音が姉で、久満が弟。そして男勝りなのが豊音で、女々しいのが久満。

「もう、ヒサはしょうがないなぁ」

 階段を数段残して立ち止まった久満に、豊音が上から手を伸ばす。久満はなんとかその手に掴まり、ひっぱりあげられるように、けれど力強く登りきった。

「はい、ゴール! よし、トヨは勝ったことママに褒めてもらう。ヒサは走りきったことママに褒めてもらおう」

「はぁ、はぁ、トヨちゃんはすごいね……」

「ううん、ヒサもすごい!」

「ねぇ……トヨちゃん」

「ん?」

「次はヒサが勝つよ!」

「それじゃあ、強くなろう。兄ちゃん達みたいに」

 自分がいなくなっても変わることのない二人のやり取りに、信幸は自然と胸が熱くなった。それはただ、家族の死をちゃんと理解できていないだけなのかもしれない。大人にだってよくわからない概念を、この年の子供たちに受け止めろという方が難しいだろう。わかるのは、『強い兄ちゃん』の片方がいなくなったということだけ。もしかしたら、今はどこか遠くにいるけれど、そのうち帰ってくるだろうくらいに思っているのかもしれない。ありそうな話だ。

 帰ってくることは永遠にない。けれど、この子達なら強く生きていけるだろう。あの母の血が流れているのだから、当然といえば当然だが。

「ママー」

「ママー」

 豊音が扉を開けて、久満がそれに続き、信幸も乗じて病室の中に入った。六畳ほどの面積にベッドと棚があるだけの質素な空間は、白を基調として黄色や橙など柔らかな色合いで統一されている。病室、人を生かすための部屋。窓から入る日差しが、カーテンを透かして足元で揺れていた。

 あの薄暗い蒼とは大違いだ。自分を拒絶し続ける、異界の蒼とは。

「こーら! 病院の中では静かにするのよ。それから走っちゃダメ」

 部屋の主が声を張る。言葉の内容とは裏腹にそれは双子の声より数倍大きく、窓ガラスをびりびりと揺らした。

「はーい」

「はーい」

 負けじと二人も叫ぶように答えて、その場が賑やかな笑いに包まれた。信幸もつられて笑う。

 家族の笑顔を、懐かしいと感じるにはまだ早すぎるだろうか。もう二度と取り戻すことができないという事実が、感覚的な距離を生じさせているのかもしれない。

 届くけれど、触れられない距離。

 思えば、死んでから自分の周りにはそんなものばかりだ。

「よろしい。いい返事」

 ベッドに腰を掛けたままで、母が豊音と久満に手を伸ばす。また少し、頬がこけただろうか。

 すぐに二人が駆け寄った。

「トヨね、今ここまで一番にこれたの!」

「ヒサも、とっても長い距離走ったんだよ!」

「うん、偉い偉い」

「あとね、あとね。ここに来るときおっきい虹がかかってたの! ヒサが見つけたんだよ!」

「ヒサはいっつもいろんなところを見てるの。トヨは走ってるとき前しか見えないのに」

「でもヒサはトヨちゃんみたいに一生懸命走れないよ、足だって遅いし、すぐ疲れるし」

「あんたたちはそれでいいの。一緒に生まれたって、できることが違って当たり前なんだから。できることがあるということを誇りに持ちなさい。豊音も久満も、素晴らしい才能を持っているんだからね」

 誇りに持ちなさい、は母の口癖だ。信幸自身も何度言われたかわからない。そして、苦しいとき、辛いとき、一番勇気づけられた言葉でもあった。「誇りに持ちなさい」

「うん、そーする」言って、豊音が母に抱き付いた。

「ヒサもー」久満も続く。

 母は、二人を抱えるように手を回し、頭を順番にわしゃわしゃと撫でた。

 信幸は知っている。その手が乱暴に見えるのは傍からだけで、慈愛に満ちた優しい手であることを。

「よしよし」

「ママ、おからだはどう?」豊音がそう聞いた。

「ん、平気よ。とっても元気」

「ママは、倒れた日の朝もそう言ってたよ……」久満が呟く。

 母は一瞬はっとした表情を見せた。珍しいことだ。

 いつだって強く正しくあった彼女のそんな表情を信幸は知らない。そんな弱さとも呼べないような動揺すら持たない人だと思っていた。

 いや、そんなはずはない。強く正しいだけの人などいないのだから。本当は子供たちに見せなかっただけで。自分にも、見せてはくれなかっただけで。

 母は抱えた腕にぎゅっと力を込めた。そう見えた。

「ママはここでいっぱい休ませてもらっているから、大丈夫。たくさん眠りすぎて疲れちゃうくらいよ。だから心配しなくていいの。私はもう少ししたら家にも帰れるんだから」

 信幸が聞いていた段階よりも、体の調子は良くなっているようだった。痙攣を起こして倒れた彼女を見た時には、このまま大切なものを失ってしまうような錯覚と絶望感を覚えたが、真っ青だった表情にも赤みが戻り、もはや普段の彼女と変わらない。

 医者が言うように、奇跡だったのは間違いなかった。そのことに初めて信幸は喜びを覚える。

 母の顔を見れて、よかったと思う。

 拒絶して、否定して、逃避し続けたこの世界は最後に自分に幸せをくれた。

 今度こそもう何一つ、悔いはない。残してしまったものもない。

 とどまる理由もなくなった。

 ――あいつ、そういえば帰り方は一回も説明しやがらなかったな。

 心に生まれた余裕が、肝心なことを伝えなかったフルートに対して毒づかせた。

 きっと、どうにでもなるだろう、と扉に向かう。

「ママ、このお部屋に一人で寂しくない?」

「寂しくなんてないわよ。ママは誰よりも強いもの。それにお医者さんも看護師さんもよくしてくれてるの。だから一人でだーいじょうぶ。それより他に寂しがり屋で、あなたたちがくるのを待っている子がいるでしょう?」

「うん」久満が小さく頷いた。

「ほら、遅くなる前に行こう、ヒサ」

 豊音が足取りの重い久満の手を引いて扉の前まで連れていく。自分がお姉ちゃんだという自覚が、豊音を弟より一歩進ませているのだろう。

 扉は久満が開いた。そして最後に振り返り、


「五階の、信兄に会いに行ってくるね」


 そう、言った。

 扉が閉まる。

「気をつけていってらっしゃい」母の声がしずかに響く。

 何が起こったのか、わからなかった。

 自分が何を聞いたのか。

 久満の口がなんと言って、それが何をさしたのか。

 わからなかった。

 信兄というのは、信幸のことだ。

 豊音も久満も、それに知良も自分のことをそう呼んでいた。

 信幸はここにいる。

 誰にも知覚されず、誰にも触れることもできずに、ここにいる。

 それは、つまりこの生界にはもう存在しないということだ。

 いや、

 遺体があるのかもしれない。

 あるいはもう骨として、遺骨として、どこかに保管されているのかもしれない。

 そうだとして、

 そうだとしてだ、

 どうしてそれがこの病院の五階にあるのか、わからなかった。

 わからないことは、怖い。

 わからないことが、恐い。

 会いに行くといったのは、死に対する理解が乏しいからか。

 子供特有の、人とモノに区別のつかないただそれだけの表現だったのか。

「信幸、」

 後ろで母が独り言のようにそう言った。

 違う、この部屋にはもう誰もいないのだから、まぎれもなく独り言だったはずだ。

 ただそれが、まるで自分に向けて発せられたように感じてしまっただけのこと。

「みんな待ってるんだよ。あんた、早く戻っておいで」

 病室の扉が開いた。

「幹村さーん、ご飯をお持ち――」

 入ってきた看護師の言葉は半分も聞こえなかった。

 廊下を走る。すべてをすり抜けて、誰もをすり抜けて、最短距離で階段を登った。母が見たら叱られるかもしれないなんて、そんな場違いな想像が一瞬よぎる。

 右を見て、左を見ると角を曲がる豊音が見えた。そう認識する前に体は動き、全力で走った。体は疲れない。もし、生身の体だったとしてもそうだったかもしれない。

 無我夢中だった。

 開かれたばかりの扉に飛び込む。いつの間にか、先にいたはずの豊音と久満を追い越していた。

 先ほどの病室よりも広い。

 先ほどの病室よりも白い。

 窓はなかった。そのかわり、その場にある影全てを塗りつぶすように強烈な照明が煌々と部屋全体を照らしていた。

 ベッドは四つある。その間に、プライベートを仕切るカーテンは存在していなかった。複雑な機械と、太さの異なる管が入り組むように設置され、まるで自身を人間であると錯覚したように歪な間をおいてピッピッピと鳴っている。表示されている数字が何を指しているのかを信幸は知らない。

 ベッドに横たわる人間は、ピクリとも動かなかった。それこそがんじがらめに絡み合う機械の一部のようにただそこにいる。死んでいるのかと思った。けれど、耳を澄まさなければわからないほど微かに、呼吸の音が聞こえる。よく見れば小さく胸も上下していた。

「信にーぃ!」久満の声がすっと自分の体をすり抜けた。

「こら、ヒサ。ここでは静かにしなきゃダメでしょ」と、豊音も続く。

 二人は部屋の右奥にあるベッドへ迷わず向かった。

 自然と、信幸の足もそちらに向かう。

「あら、あの子たち今日も来てるのね」

「親族の方ですか? あそこの514番ベッドは……幹村さんでしたっけ」

「そう、毎日来てるの。ご兄弟だそうよ。聞いた? あの患者さん交通事故で、打ち所が良かったのか悪かったのか、意識の戻らない植物状態だって」

「聞きました。田辺先生が、回復の見込みは0.3パーセントだって。私はそうやって親族の方に希望を持たせるのよくないと思うんですよねー。知ってます? あの先生絶対ゼロとは言わないんですよ」

「知ってるわよ。有名な話じゃない。田辺先生の0.3パーセントは奇跡が起こる確率だって」

「それって、もう助からないって意味じゃないですかねー」

「しー、……ほらあの子たちに聞こえたらどうするのよ。いいから仕事にもどりなさい」

 ベッドの手前で、足は止まった。

「ねぇ、トヨちゃん。信兄はいつ起きるのかな?」

「んー、明日か、明後日か……その次はなんて言うんだっけ? ま、疲れてるんだよ。信兄はいーっぱいお仕事がんばってたんだから」

「そうだね、ヒサも早くお仕事したいな」

「それじゃあ、強くなろう。兄ちゃん達みたいに」

 横たわるソレを覗く。

 一瞬、鏡なのかと思った。そんなはずはない。

 自分は目をつぶっていないし、パジャマなんて着ていないし、酸素を吸入するマスクも点滴もしていないのだから。

「兄ちゃんが早く元気になりますように」

「兄ちゃんが早く笑ってくれますように」


 獣のように吐き出した叫びは、誰の耳にも聞こえなかった。

 届かなかった。


 カラカラカラカラカラカラカラカラ……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る