レンの話

 この季節の雨は予測が難しい。先ほどまではきれいな夕日が見えていたが、今は前が見えないほどの豪雨が降っている。雨の音と匂いが、扉が閉まっていても店内に流れ込んでくる。ギィロはそんな光景を眺めながら、この雨の中帰るのはいやだなあなどと考える。

「ギィロくん、たぶんこの雨はすぐに止むよ。コーヒーをのんびり飲んでいればね」

 そんなタイミングでマスターが提案をくれた。ギィロはありがたくそれを受けようと、一番端のカウンターの席に自分のメッセンジャーバッグを下ろしながら答える。

「ありがとうございます、そうします。コーヒーは自分で淹れますね」


 ギィロはこの喫茶店で2週間前からアルバイトとして働いている、全身が銀色の毛で覆われたイヌ型のケモノだ。この人間たちが暮らす街においてケモノが職を得られる機会は、決して多くはない。ここはもともとはギィロの同居人であるランピィが働いていた店だ。ランピィが小説家に専念するために辞めてからは、しばらくマスターが一人で経営していた。最近になり街で働きたいというギィロのためにランピィが紹介してくれたため、ギィロが店員として雇われることになったのだ。マスターは人間だが、ケモノに非常に友好的だ。それもあり、この喫茶店はケモノフレンドリーを掲げており、近辺で働く人たちを初めとしたケモノたちがよく訪れる。また、ケモノに対して差別的感情を持たない人間たちも彼らに混じってコーヒーを飲んでいる姿が日常的に見られる。もともとランピィが働いていたこともあり、ギィロは彼らともうまく友好的な関係を築き始めているようだ。時々店員も交えて会話を楽しむようなイベントも開催されており、それも友人を増やすのに一役買っている。


 ギィロがコーヒーの準備を始め、店内にコーヒー豆の焙煎の香りが広がる。ギィロはこの香りが大好きだ。最適な焙煎の時間は経験が一番とマスターはよく言っており、それに従って休憩時間や、今日みたいに閉店後に練習をさせてくれる。うまく煎れたかどうかは挽いて淹れてみるのが一番早い。これもマスターの受け売りだ。丁寧に煎った豆をミルに入れてゆっくりとハンドルを回す。始めは少し力が要る。回し始めるとだんだんとハンドルが軽くなっていく。最後まで回しきると、今度は挽いた豆をフィルターを置いたドリッパーの中に入れる。お湯の注ぎ方にもコツがあるという。くるくると回すように、全体にお湯が染み渡るように。ポコポコと空気が出てくるので、10秒程度蒸らしてから、残りのお湯を数回に分けて入れる。今度は豆を煎った時の香ばしい香りとは違う香りが広がった。ちょっぴりナッツのような、フルーツのような。


「どうだい、今日の味は」

「んー、正直昼に淹れたのとの違いはわからないです。でもおいしいかな」

「はは、そんなもんだろうよ」

 そんなもんらしい。コーヒーは奥が深いと改めてギィロは思う。ふと顔を上げるとマスターは入口から外に出ようとしていた。そちらに目を向けると、人間の女性が一人、お店の軒下で雨宿りしているのが見えた。女性は白いワンピースを着ていて、髪は長髪。どうやら傘は持っていないようだ。日も沈みはじめ、雨の降る暗い空をぼんやりと眺めている。そんな女性の下へマスターは近づき、何か話しているようだったが、ギィロの位置からではその会話は聞こえなかった。やがて女性はマスターと共に店内に入ってきた。

「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」

 そう言うとマスターはカウンターに入り、慣れた手つきでコーヒーの準備にとりかかる。お店は既に閉店時間を過ぎているが、女性を雨宿りさせてあげることになったようだ。女性は一番入口に近いテーブル席――ギィロのいるカウンター席からは一番遠い場所に腰を下ろした。

 しばらくして、マスターは淹れたてのコーヒーを静かに本を読んでいる女性の下へと運びにいった。「よければお召し上がりください」「あ、ありがとうございます。いただきます」そんな簡単な会話が交わされるのを聞きながら、ギィロはコーヒーを飲みつつ携帯電話をいじりながら雨が止むのを待っていたが、ふと思い出して電話をかけ始める。

「もしもしランピィ?」

「あ、いや、仕事は終わったんだけど」

「そうそう、雨が降ってきちゃってね。ちょっと残ってから帰るよ」

「うん、じゃあねー」

 ギィロが通話を終了すると、いつの間にか本を閉じ、それを机の上に置いていた女性がギィロに話しかけてきた。

「ランピィって、あの小説書いてるランピィさんですよね」

「そうですよ。ご存知なんですね」

「はい、まだ拝読させていただいてないんですが…評判も良いので気になっているところなんです」

「そうなんですね。是非読んでみてください。ぼくから言うのもなんですが、面白いのでおすすめですよ。彼とは一緒に住んでるんです。今ここで働いているのも彼の紹介です」

 マスターが一言付け加える。

「彼は以前ここで働いていたんですよ」

「そうなんですね。ケモノさんが働いているお店もこの辺りじゃまだあまり多くないですよね」

「そうなんですよ。ケモノフレンドリーなお店じゃないと難しいですし、まだ偏見は多いです」

「ですよね。残念なことに私の周囲にもケモノさんたちを蔑視している人がいます。私自身はもっとケモノさんたちと平等な社会になっていったらいいなって。もっとケモノフレンドリーのお店が増えて、それが当たり前になっていったらって思ってるんです」

「そういう方が一人でもいてくれるだけで、ぼくとしてはありがたいです」

「私は小さい頃にケモノさんにお世話になったことがあるんです。小さい頃はやっぱり親の教育で『ケモノは危険な生き物だ、関わりを持っちゃいけない』と教わってきていたので、やっぱりちょっと距離を取ろうとしていました。でもその出来事があってから、考え方を改めたんです。だからといって何か行動を起こせているわけではないですが……」

 ギィロはちらっと外に目をやる。雨はまだ勢いを弱めることなく降り続いているようだ。手元には暖かいコーヒーがまだ半分以上残っている。

「まだ雨は止まなそうですし、その小さい頃のお話、伺ってもいいですか?」

「いいですよ。長くなっても大丈夫ですか?」

「ええ、時間は気になさらず。よければ是非」

「まあ小さい頃の記憶なので、ちょっと曖昧な部分もありますが……」

 マスターはピッチャーを持って女性とギィロを周り、2人のカップを水で満たした。女性はその水に口をつけるとゆっくりと話し始めた。


「8歳くらいの頃、小学校に通っていた私はドール地区に住んでいました。ドール地区は、ご存知かもしれませんが、ケモノ自治区のD地区と川を挟んで隣接しています。橋を渡れば簡単に行き来することができますが、D地区は治安が悪いと聞かされていましたし、橋を渡る人間もケモノさんも見かけることはほとんどありませんでしたから、遠い場所のように感じていました。だから、どんなケモノさんたちがそこに住んでいるのかとか、どんな暮らしをしているかとか、何も知りませんした。ただ私はそんな近くて遠いその地域に興味津々でした。子どもって禁止されていることほど、興味を持ってしまうものなんですよね。

 ある日、学校の歴史の授業でケモノ自治区の成立について学びました。授業の後、同級生たちと当然身近なケモノ自治区であるD地区の話題で盛り上がりました。そこで同級生の一人が言ったんです。『D地区内にも私たちのものと同じような小学校があるらしい』と。ちょうど好奇心が旺盛な時期の小学生なので、何人かでその小学校を見に行こうという話になりました。しかし皆当然両親にD地区へ入ることを止められていましたし、学校でもD地区に入ることはキツく禁止されていましたので、なかなか実際に行動に移すのには抵抗がある子どもたちばかりでした。最終的には私と男子2名の3人がその好奇心を抑えられずに、放課後に一緒に、こっそりD地区内の小学校を探しに行こうということになりました。子どもってすごいですよね、行動力が。よくやろうとするなって今では思います。

 それで授業が終わって、すぐに一旦家に帰って学校鞄を置き、すぐに遊びに行ってくると家を飛び出し、待ち合わせ場所の公園に向かいました。私が到着してから5分くらいで残りの2人がやってきて、いよいよ近くの橋を渡ってD地区に入ろうということになりました。橋の向こう側は塀で囲われていて、その先は橋の通路分の幅しか見ることができませんでした。しかもその橋の先はすぐに丁字路になっていて、D地区内がどうなっているか、全くわかりませんでした。橋の手前まで来たところ、周囲に人はおらず絶好のチャンスだということで今だ! と男子2人が先に走り始めました。その後すぐに私も追いかけて一気に橋を渡りきりました。案外あっけないものです。ですが私はドキドキとわくわくで胸がいっぱいで、その上全速力で走ったのでものすごく息が苦しかった記憶があります。さて、いよいよD地区へという時でした。D地区から車が一台、丁字路を曲がってくるのが見えました。車の色は……ちょっと忘れてしまいました。私たちがあっと思った時にはその車は私たちの前で止まり、運転席から人が降りてきて私たちのもとに歩いてきました。運転手は背の高い、人間の男性でした。なんと言われたのかははっきりとは覚えていませんが、子どもたちはここに入ってはいけないと、早く帰るように怒られたんだったと思います。小学校の名前も聞かれて、同じ事をしようとしたら学校に連絡するとも言われました。私はそれよりも、後部座席に座っていたケモノの影が気になって仕方がありませんでした。黒いネコ型のケモノさんだったと思いますが、あんまりよく見えなかったので違うかもしれません。とにかく私たちはすぐにその橋を引き返し、学校に連絡されるのはさすがに困ると言うことで解散することになりました。ですが一人になった私は懲りていませんでした。むしろ、一瞬見てしまった見慣れない姿を持つ人たちのことが更に気になってしまったのです。そこで私は、再度橋を渡ろうと思ったのです。

 再び同じ橋の近くまで来て、周囲を確認し、耳をすませました。それで周囲に誰も居ないことを確認すると、こっそり歩いて橋を渡りました。今度は車は現れませんでした。丁字路の影から道の先をそっとのぞき込みました。先には塀に向かって、石造りの家が並んでいるのがわかりました。ただ、どうやらほとんどの家の入口は反対側のようで、壁がずっと続いていました。たまに裏口なのか、扉状に穴が開いている場所もありましたが、人通りは全くなく静かでした。その雰囲気に私は少し怖くなりましたが、逆に誰もいないということは誰にも見つからないということなので、かえって好都合だとも思い、右方向へ、足を進めることにしました。その道は分岐もなく、ずっと続いていました。10分程度、誰とも出会うことなく、歩いた時でしょうか。十字路にぶつかりました。まっすぐ行くと、同じような通りが続いています。左方向を見ると、少し開けていて、更に道が分岐しているようでした。ですが、私が衝撃を受けたのは右方向を見た時でした。右方向にも、道が続いていたのです。私はそのとき、ずっと川沿いを歩いているものだと思っていたからです。橋を渡ってから一度右に曲がってからずっと真っ直ぐ進んでいたので、次に右側に曲がる道はてっきり次の橋に出るものだと思っていたのです。これは後から知ったことなのですが、どうやらその道はあの橋からどんどん川から離れる方向に続いていたのです。その頃は日が沈むのが早い季節でした。恐ろしいことに、だんだんと辺りは暗くなりはじめました。私は恐ろしいところに迷い込んでしまったとパニックになりました。その場に座り込んでしまい、動けなくなってしまったのです。

 そのうち完全に日が沈んでしまいました。私は交差点のそばで小さくなって泣いていました。向かって左の方からだけ光が漏れてきていて、その時はその明かりが安らぎよりも恐ろしさを感じさせました。誰かに出会ってしまい、学校や両親から怒られることが怖かったのです。そんなときに、人の気配を近くに感じました。伏せていた顔を少しだけ上げると、その明かりの中に影が見えました。頭から2本の耳が上に伸びている影で、その人物が人間ではないということを教えてくれました。

 大丈夫? とその人物は話しかけてきました。私はどうしたらいいか分からず、何も答えませんでした。それまでにケモノと話をしたことはなかったのです。同じように話ができるかどうかすら知らなかったほどでした。私が黙っていると、今度は迷子? と聞いてきました。私は勇気を出して顔を上げました。そこにいたのは私と同じくらいの背丈の、白い毛をしたイヌ型のオスのケモノでした。服は黒いマントを着ているだけで、そのマントもボロボロでした。彼は私の返事を待っていました。私はなぜだかとっさに、ここにも小学校があるって聞いてと答えました。この場面に適さない私の返事に、彼は笑いを漏らし、つられて私も笑いました。彼はこう言いながら、私の隣にしゃがみ込みました。

『ぼくはレン。小学校は近くにあるよ。ぼくが通ってるところがね』

 私たちはいろいろ話をしました。レンはD地区から出たことがなく、逆に私はドール地区から出たことがなかったので、たとえ隣り合っている地域だったとしても、お互いの暮らしを全く知らなかったのです。話をしたことで、私たちのような子供たちは家族の下で暮らし、日中は学校に通うなど、似通った生活を送っていることがわかりました。小学校も似た雰囲気だそうです。ただ、街の雰囲気は大分違うようで、D地区はかなり荒れているようでした。盗みやケンカなどの小さな犯罪がたびたび起こるらしく、治安はあまりよいとは言えない地区のようです。これはあまり今も変わっていないんじゃないでしょうか。そういうわけで、レンは、私がずっと裏路地にいて、他のケモノたちの目に触れなくてよかったと話していました。ケモノによる人への危害は大罪になるので、大変な事態にはならなかったでしょうが、もしかしたら私が今ここにいることはなかったかもしれません。その頃には周囲は真っ暗になっていて、私もそろそろ帰らないと家族が大事にしてしまうかもしれないと思い、そのことをレンに伝えました。すると彼は手を取りながら立ち上がり、じゃあドール地区まで案内するよと言ってくれました。私もそれに従って立ち上がりました。彼は他の人に見つからないようにと、裏通りを通って近くの橋まで誘導してくれました。その時の彼は本当に頼もしかったんです。彼は普段から裏通りを探検しているらしく、暗い中でも迷うことなくそこまで辿り着くことができました。私の住んでいる街の明かりが見えてきた時、ものすごく安心したことを覚えています。私はレンにありがとうとお礼を言って、いつかまた話をしようと約束をしました。彼は橋を渡ることなく、その場で手を振って見送ってくれました。橋を渡り切った後、振り返ると暗闇の中で彼がまだ手を振り続けているのがぼんやりとわかりました。私は大きな声で『レン、ありがとう! またね!』と叫び、手を振り返しました。それが彼と会った最後です。私はその後家に帰り、両親に遅くなったことでこっぴどく怒られました。D地区に入ったことは最後まで黙っていました。未だにそのことは両親には伝えていませんが、今ケモノの方々とも関わるような仕事をするようになったのは、このことが影響しているんです」

「今は何をお仕事に?」

 女性の話が終わると、マスターは立ち上がり、再びグラスを満たそうと水のピッチャーを手にする。

「花屋をしています。配達でケモノ自治区に行くこともあるんですよ。ほとんどはA地区ですが」

 女性はお水を飲み干し、マスターから水を受け取る。マスターが水を注ぎながら外を眺め、つられて2人も外を眺めた。今ではだいぶ雨は落ち着いてきている。もうすぐ止みそうだ。


「レンさんとは再会できたんですか?」

 話が終わり、一呼吸ついたところでギィロが話しかけた。

「それが、彼とは会えていないんです。今何をしてるかも分かりません」

「そうなんですね。ちょっと調べてもらいましょうか?」

「え、わかるんですか? 是非お願いしたいです」

「ええ、同居人のランピィに電話してみます。彼はそういうのに強いので」

 そういうと、ギィロは手元の携帯電話を手に取り、電話をかけ始めた。

「もしもし、ランピィ?」

「あのさ、ちょっと調べて欲しい人がいるんだ。D地区に住んでいる、もしくは20年前に住んでいたレンっていう白いイヌ型のケモノなんだけど。今どこに住んでいるか分からないかな」

「うん」

 ギィロは女性の方を向いて、今調べてくれてると言うと、女性は頷いて答えた。

 しばらくの間のあと、返事がきたようだ。

「あ、もしもし」

「あーうん、そうなんだ」

「おっけ、メモるちょっと待って」

 ギィロはカバンから手帳とペンを取り出し、何かを聞きながらメモを取っていく。

「ありがとう。帰るのはちょっと遅くなるかも」

「うん、じゃあまたあとで」

 ギィロは電話を置くと、真剣な表情で女性に向き直った。

「ええと、残念な報告があるんだけども、聞きたいですか」

 女性も少し戸惑った後、真剣な表情で答える。

「はい、お願いします」

 ギィロは手元のメモを見ながらゆっくりと答える。

「レンさんは亡くなっています……正確には、3年前に行方不明になって、それ以来消息不明のようです。ケモノには度々あることで、ほとんどが亡くなっているんです」

「そうなんですね……残念です……」

「一応奥さんがD地区内に住んでいます。住所を聞いたので、訪ねることも可能です」

 女性は少し悩んでからこう答える。

「是非、お願いします。お花を持っていきたいと思います。一度お店に寄って、車で行けますでしょうか?」

「はい、大丈夫です。案内するしますね。ちょうど雨も上がったみたいですしね」

 外は雨が上がったが、すっかり日は沈み、もう真っ暗だ。マスターはギィロに閉店作業はやっておくからもう店を上がっていいと言ってくれた。


 女性の運転する車内で、助手席で道を案内しながら、ギィロは話し始めた。

「さっきランピィにレンさんのことを調べてもらったじゃないですか。ランピィはレンさんのこと、知ってたんですよ」

 女性は前を向きながら、そうなんですねと答える。

「あなたが彼に助けられたように、何度も人間助けをしていて、一部ではそれなりに有名だったそうです。だから今回の失踪も、どこかで人間助けをしていて、トラブルに巻き込まれたんじゃないかとか言われているそうです」

 今度はちょっと間をおいてから、そうなんですねと答える。その後は二人とも会話を交わすことなく、車は目的地に向かって走っていった。


 その家は、石造でできた平屋だった。D地区では一般的な家の造りである。女性は家の前に車を止めると、綺麗にラッピングした一輪の花を持ってギィロと一緒に降りた。ギィロは短時間の滞在だろうし、他に車が通ることも少なそうなので、ここにしばらく止めておいても大丈夫だろうと女性に伝える。玄関に扉はついていない。ギィロは車中から電話をし、訪問する旨を伝えておいていた。玄関からすいませんと声をかけると、まもなく中から灰色の毛をした女性のイヌ型のケモノが出てきた。レンのパートナーだろう。彼女は全身を包むようなコートを着ていて、落ち着いた印象をしていた。

「先ほど連絡したものです。レンさんにお花をお渡しできればと」

 ギィロがそう言うと、笑顔でレンのパートナーは中に招き入れてくれた。中もさっぱりと片付いていた。普段から掃除をきちんとしているのだろう。ちょうど食事のタイミングだったらしく、中央のテーブルにはまだ湯気が立つ食事が並べられているーー2人分。一つ気になるのは、テーブルの一席にはレンと思われる大人の白毛のイヌ型のケモノの写真が置いてあることだ。

「すいません、レンはまだ帰ってきていないので直接会わせることができず」

 パートナーはそう話す。少し困惑しながら女性は手に持った花をパートナーのケモノに渡す。

「これ、レンさんにお渡ししようと思って」

「ありがとうございます。人間の方からのプレゼントだなんて、きっと喜びます」

 そういってパートナーのケモノは花を受け取り、そっと写真の横に花を立てて置いた。彼女は笑顔を崩さない。

「彼は昔から人間を助けるのが大好きで、こうやって帰りが遅くなるくらいまで手伝うようなお節介焼きなんです」

「そうなんですね。私も昔彼に助けられました。とてもいい人ですね」

「そうなんです。いい人なのよ」

 3人は写真と、その横に置かれた紫蘭の花を無言で眺めた。紫蘭の花言葉は『永遠に忘れない』。ギィロも女性も、まだレンが帰ってくることを確信している彼女のことを、哀れな目でなど見ることはできないのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る