ランピィの話

化着眠猫(かぎ・ねこ)

ソルの話

 扉が小さな音を立てて開いた時、ソルはデスクに向かって頭をかかえていたが、音を聞いて焦ってテーブルの影へとしゃがみ込んだ。

「昨日ここで会ったエルロイだ。大丈夫だ、警察じゃない」

 部屋に入ってきた影が話しかける。その声を聞いてソルはそっとテーブルから顔を出した。そこには確かに昨日状況を説明してくれた真っ黒なネコ型のケモノ、エルロイと、その隣にもう一人、白毛に緑と黒の模様が入ったキツネ型のケモノが立っていた。エルロイが口を開く。

「よお、調子はどうだ」

「良いわけないだろう」

 ソルは立ち上がりながらエルロイに向かって強い口調で答える。ソルは一昨日の夜からずっとこの部屋におり、ほとんど出ていない。食事は玄関がノックされ、その後に警戒しながら扉の横に置かれているものを回収する方法で与えられており、その時も警戒して腕だけを伸ばして取るほどだ。

「最悪な気分だ」

 エルロイはそれを聞き流しながら外を確認しながら扉を閉め、内鍵を締めた。

 ソルはエルロイのことはもちろん覚えていた。昨日の昼間にやってきて、状況の説明をしてくれた人物だ。その時エルロイは「昨日の夜から数えて3日間だけ、ここで命を保証する」と話した。ソルは匿ってくれることに感謝した上で、3日というのは短すぎないかと抗議をした。エルロイはそっけなく「それは俺に言うな」と答え、ソルは偉い人を連れてきてくれとお願いして別れたのだった。

「あんたは偉い人なのか? ぼくを助けてくれるのか。話は聞いてるんだろう」

 ソルは初めて会うキツネに向かって言った。キツネはきょとんと立ったまま、返答に困っているようだった。代わりにエルロイが答える。

「こいつはランピィ。ただの俺の友だちだ。偉いやつでも何でもないが、話を聞いてくれる。お前、話を聞いてくれるやつを欲しがってたろう」

「えーと、偉い人じゃなくてごめんね。ランピィっていいます。エルロイとは長い付き合いでね、今日みたいに、たまに呼ばれて手伝ってるんだ。ほら、こいつちょっと話しかけづらいところあるじゃん?」

 そう言ってランピィは笑いながらエルロイを指さす。エルロイは慣れてるのか、表情を変えない。ソルは、ずいぶんのんきな人が来たものだと腹立たしく思う気持ちを隠さず表情に出し、二人を観察した。エルロイは全身黒毛のネコ型のケモノだ。ベージュのズボンに、深い青のコートを着ている。ズボンを履き、コートを着るのがケモノの正装である。ランピィも茶色のズボンに黒いコートを着て、緑色のメッセンジャーバッグを持っている。こちらもすっきりとした印象だ。胸は白い毛だが、腕や頭はバッグの色よりも濃い緑の毛で覆われている。更に手足は黒毛だ。ソルはそこまでたくさんのケモノに会ってきたわけではなかったが、キツネ型としては珍しい模様だと思った。一方のソルは全身くすんだ金色の毛を持つ、犬型のケモノだ。服は黒いマントである。そのマントは、飼い主からもらったものだ。

 そんなことをソルが考えている間に、勝手にランピィとエルロイはテーブルの椅子に腰を下ろした。ランピィはバッグから手のひらサイズの缶と、ペットボトルを3つ取り出しテーブルに並べながらソルに座るよう促した。

「ぼくも突然呼び出されたからさ、状況、あんまり詳しく聞けてないんだよね。エルロイはいつもこういうやつでさ。強引で困るんだよね。雰囲気も恐いしね」

「来るか?って言ったら行きたがったんじゃねえか。あと雰囲気はそこまで恐くねえ」

 エルロイはむすっとしながらペットボトルを開け、コーヒーを飲み始める。

「あ、これはお土産。アルファ・ラルファ通りにあるお菓子屋さん『ディマンシュ』のクッキー。たまたま家にあったからさ。これ美味しいんだよね」

 そう言って、ランピィは缶のフタを開ける。そこにはカラフルなクッキーが敷き詰められている。それを見てエルロイが1枚さっと取り、食べ始める。その様子をちらっと見ながら、ランピィもクッキーを1枚手にする。

「ほら、座って。一緒に食べよう。んで、ソルくんはどの辺に住んでたのさ」

 数秒の間があり、ソルはそこで自分が質問されていることに気付いた。ソルは立ったまま小声で返事をする。

「ヒトがもうすぐ死ぬっていうのにのんきですね」

 ランピィは、「まだ死んでない」とクッキーを咀嚼しながら言う。

「ぼくができるのは君と話すこと。君の命を助けることはできないかもしれない。でもさ、こういう時間を楽しむことができるだけでもありがたくない?」

「ふざけるな! ぼくは助かりたいんだ! そんな無駄なことをしてる時間はないんだ!」

 ソルは二人に向かって怒鳴る。

「なんで助けてくれない! 共存協会は何のためにあるんだ!」

「別に共存協会は君を助けるための組織じゃない」

 エルロイは冷静に答える。ソルが怒鳴っても、ランピィもエルロイもこうなることがわかっていたのかのように動じない。

「3日間」

「……」

「3日間だ。俺らに与えられた時間。少しは大事に使おうぜ」

 エルロイは諭すように言う。

「いいからさ、少し落ち着いて、ね?」

 ランピィも調子を変えずに話しかける。

「ぼくらだって、君を見殺しにしたいわけじゃない。でも、他のすべてのケモノたちを危険にさらすことはできない。ルールを守って人間たちとうまくやっていかないといけない。ぼくらは弱い生き物なんだ」

 そう言うとランピィはさっと立ち上がった。

「さ、エル、今日はもう行こうか。ソルくん、明日14時にまた来るよ。あ、クッキーは食べていいからね」

 エルロイが立ち上がったのを見てから、ランピィは自分たちが飲んでいたペットボトルをトートに戻すと、手を振って二人で部屋を出て行った。扉が閉まり、鍵がガチャリと音を立てて閉まったことを知らせる。

 二人が出て行くと部屋は静まりかえっていた。ソルはテーブルに残されたクッキーの缶から1枚を取り出すと口に運んだ。

「……おいしい」

 自然とソルの目から涙がこぼれた。



「まーたずいぶんと面倒な話を持ってきたね」

「来たのは俺じゃねえ、あいつが勝手に来たんだ」

 ランピィとエルロイはカフェにいた。ランピィはホットコーヒーを、エルロイはアイスティーを飲みつつ、二人ともタバコを吸っている。ここは喫煙可なのだ。

「エルから行ってたら大問題だ。一度の死刑じゃ済まないね」

「既に何度も死んだような目に遭ってきてるから、刑は十分受けた」

「まだ足りないね、ぼくを危険な目に遭わせた罪がたっくさんある」

「お前はもう死んでるようなもんだろ、ノーカンだ」

「ひど、ぼくにだって生きる権利はあるぞ」

「特定愛護動物としてな」

「ケモノに人権をくれ~」

 ランピィは天を仰ぎ、空に向かって煙を吐き出す。そのまま背もたれに寄りかかって天井を見ながら、

「まだ先は遠いなあ。ソルくんの件だって、彼が人間だったらこんなことにならないわけだし。世知辛いよなあ」

 とつぶやく。エルロイは返事はせずにタバコの火を消した。


 ランピィやエルロイたち――ケモノには人間が有している権利、すなわち人権は認められていない。人間社会におけるケモノたちの立ち位置は特定愛護動物とされており、一般の動物よりも少し優位な権利が認められるのみである。

 ただし、この状況に対してケモノ側から反発がないわけでもなく、長年にわたり活動家たちは人間と交渉を続けている。その結果の一つがケモノ自治区の設立であり、ほとんどのケモノたちは自治区内で暮らしている。自治区内で暮らしていないケモノには、自治区外で暮らす者もいるが、ほとんどは人間に飼われている従者獣である。ソルもその一人である。

 自治区の自治は友好派の人間たちと設立した「ケモノ・ヒト共存協会」が担っており、役所と国会を兼ねたような役割を持ち、自治区内の規則を定めている。無論、それは人間たちの法律とは関係がないため、一部の人間たちには無視されるものだ。そんなトラブルを解決するのも共存協会の役割だ。

 しかし、コミュニティとしてはまだ小さなこの自治区には、規則は作れても、それを統べる存在、すなわち警察のような組織が存在していない。規則を守るのは、それぞれの良心に委ねられているわけだ。そんななかで自ずと生まれてきたのが自警団である。彼らはケモノたちの間のトラブルを解決するために緩やかなつながりを持つが、しっかりとした組織や居場所は持たない。あくまで良心に従って動いているだけのケモノという位置づけなのだ。そのため自警団は特別な権限を持つわけではないが、そこは互いの信頼関係によって成り立っている。共存協会も彼らの存在に感謝しており、協会からの依頼ということもあるようだ。

 とはいうものの、自警団のメンバーも一般市民であり、できる範囲には限りがある。特に生死に関わるような案件に関わろうとするケモノは多くはない。人間に危害を与えたケモノは、人間の法律上「駆除」対象となり、警察に追われる立場となる。自治区としては外部の存在である警察が自治区内を捜査することは望ましくない。そこで代わりに自治区内のケモノが捜査、場合によっては対象の「駆除」を行うこともある。彼らの存在には名前は付けられていないが、暗躍部隊とも呼ばれることがある。普段表立つことはほとんどなく、共存協会の役員でも一部の者にしか存在を知らされていない。――エルロイはその一人だ。今回も協会の重役から密かに連絡を受け、ソルというオスのケモノの面倒を見ることになった。一方のランピィは現在は暗躍部隊としての活動はしておらず、ケモノとしては珍しく小説家として暮らしている。ただ過去にエルロイとタッグを組んで活動していたことがあり、今でも度々エルロイからの依頼で手伝うことがあった。


 ランピィは2本目のタバコに火をつけ、煙を吐き出しながら言う。

「身近なケモノ一人を助けられないで、ケモノたちを守る、なあ」

 エルロイはテーブルのカップの中の氷が溶けていく様子を眺めながら、俺らはちっぽけなもんだよとつぶやく。

「明日は何買っていこうか。今日はクッキーだったから、ケーキとか?」

「それお前が喰いたいだけだろ?」

「間違ってはいないけどさ」

 ランピィは表情を変えずにコーヒーを一口飲んでから続けた。

「もしかしたら最後の晩餐になるかもしれないわけでさ、ちょっとでもいいもの食べたいじゃない」

「わかってる」

 エルロイはそう答えると、さっと立ち上がり、コートのしわを伸ばす。

「あれ、先帰るの」

「ああ。ここは払っとけ」

「ケチくさいなあ」

「本、売れてんだろ」

 そう言うと、じゃと言いながらエルロイはカフェから出て行った。ランピィはそれを見送るとゆっくりとタバコを味わいながら考え事をするのであった。



「結局、俺は死ぬしかないんですよね? 今日殺されるんですよね」

 ソルが匿われているマンションの1階の部屋に、ランピィとエルロイが再び訪ねた時、ソルは昨日とは違い、落ち着いた態度で二人を迎え入れた。今はテーブルを挟んで向かい合って座っており、テーブルの上には前と同様ペットボトルのコーヒーと、ランピィが買ってきたチーズケーキが並べられていた。

「まあ、そうだな。それは避けられないだろうな。正確にはここを夜の21時に出て行ってもらう。そこから先は俺らは守ってやれない」

 エルロイが神妙な表情でそう答えるが、その隣でランピィはのんびりとチーズケーキを食べている。エルロイはランピィのこういうところを結構気に入っている。柔らかな雰囲気を常に崩さず話しやすく、それでいながら自分の役割を忘れない。むしろはっきりと物事を言い過ぎるくらいだが、そこにトゲを感じさせないのだ。マイペース過ぎると感じることも少なくないが。

「ぼくらケモノの宿命だね」

 ランピィはチーズケーキを食べながら言う。

「人間サマには逆らえない」

「ぼくは小さい頃から人間のご主人の下で暮らしてきたので、逆らう気も起こりません。まあ、今は逆らってるようなものですが」

「今日はずいぶん落ち着いてるじゃねえか」

 エルロイはちょっとうれしそうに言う。一晩考えて冷静になれましたとソルも少し顔に笑みを浮かべる。

「え、なに、突然二人して笑っちゃってさ」

 そう言いながらランピィも笑顔だ。

「まあ、冷静になれてよかった。感情的になってしまっている時に得られるものは少ないからね。そんな君へのプレゼント、今日持ってきたのは『クレアティフ』のチーズケーキだよ」

「『クレアティフ』……ご主人から話を聞いたことがあります。近所にあって、最近人気があるらしいですね。これがそうなんですね。ありがとうございます。いただきます」

 ソルはそう言うと、袋から使い捨てのフォークを取り出し、丁寧に一口大にカットしてから、それを口に運んだ。それを見てエルロイも自分のチーズケーキに手を伸ばす。

「ご主人に散歩に連れていってもらってる時に、前を通ったことがあります。時々普段と違う道を行くことがあって、その時に。その時も行列ができていましたね。今もやっぱり並ぶんでしょうか」

「うん、ちょっと並んだね。でも並ぶ価値がある味だよね。すごくおいしい」

「はい、おいしいです。最期に食べられて本当によかった。気になっていたんです」

「確かに美味いな。この落ち着いた甘さがちょうどいい」

 エルロイは堅苦しい風貌をしているが、案外甘いものが好きだったりと、俗っぽい面もある。昨日ランピィにクッキーを持ってくるように言ったのはエルロイなのだ。

 ソルはケーキを食べながら話し始める。

「昨日は怒鳴ったりして……すいませんでした。昨日はまだ気持ちが整理できてなかったというか、ちょっと混乱してました」

「誰だってそうだよ。この状況で落ち着く方が難しいさ」

「ええ、なんたって人間を……ご主人を殺してしまったんですから。今こんな時間が過ごせているだけで奇跡のようなものですよね。人を殺しておいて、そう思うのは悪いことなのかもしれませんが」

 ソルはそう話しながら複雑な表情をする。ランピィは丁寧にチーズケーキを食べ終え、フォークを置き、コーヒーのボトルに口を付ける。

「まあね。そこについてはぼくらからは何にも言ってあげられない。ごめんね」

 ランピィは右手に持ったプラスチックのフォークで空に円をくるくると描きながら答える。

「どうやってここまで来たんだ? 君の家から自治区まで簡単に来れるとは思わないが」

 エルロイは半分程度ケーキを食べたところで一度フォークを置き、コーヒーに手を伸ばしながらソルに問いかけた。ソルはその質問を受けるとケーキを食べる手を止め、数秒間悩んだ末、少しうつむきながらこう答えた。

「それは……言えません」

 すかさずランピィがムリに言う必要はないさとフォローを入れる。エルロイは話を変えた。

「まあ、いろいろあるだろうからな。ただ、一つだけ伝えておくことがあるとしたら、今回の事件の容疑者は君だけだ。人間の逮捕者はいない」

 それを聞くとソルは顔を上げ、

「そうなんですね!? 確かに誰も捕まっていないんですよね?」

 と唐突に大きな声を出した。ランピィは、ソルがそう言うのをわかっていたように答える。

「うん。君のご主人の事件では、目撃者はいなかったけども、状況とアリバイから君が殺害したことは間違いないとされているよ。奥さんも、娘さんもそれに同意している」

 ソルはそれを聞くと、すこしほっとした表情になり、

「そっか、よかった……」

 とつぶやき、しばらく黙っていた。その様子を見て納得したように頷いた。


「ぼく、警察に行きます」

 ソルがそんなことを言ったのは、ソルがケーキを食べ終え、ランピィとエルロイがタバコを吸い始めた時だった。食べ終わった跡の敷紙の上に丁寧にフォークを置き、手を膝の上に乗せて、握りしめている。

「警察に捕まりに行きます」

「いいのか? 捕まったら死刑……人間流に言うなら処分は避けられないぞ。ケモノの発言が認められて罪が軽くなるなんてこともないだろう」

 左手に火の付いたタバコを持ちながら言う。

「はい、いいんです。どうせ今夜にはここを出ないといけないんですよね。そうじゃないと皆さんに迷惑がかかってしまいます。もうやり残したこともありませんし、ケーキもごちそうになったし……」

「そうか……じゃあ今夜一緒に行くか?」

「今日これからではだめでしょうか?」

 ランピィとエルロイは顔を見合わせる。これは想定外といった感じだ。

「そんな焦らなくてもいいんじゃないの?」

 ランピィはそういうとゆっくりとタバコを吸う。まるでゆっくりとタバコを吸う時間をくれとせがむようだ。エルロイもうなずき、それに同意する。

「でも、もうしたいこともありませんし。そもそも今この時間をいただいたのもあなたたちのおかげです。もう十分です」

 ソルの決意は固いらしく、姿勢を正したまま、動かない。それを見て、ランピィとエルロイは長い息をついた。

「べつにぼくらはいいけど」

「そう決めたんだったら付き合おう」

 二人は諦めたようにそう返事をした。

「じゃあ、特に荷物もありませんし、行きましょう」

 そういうと、さっとソルは立ち上がった。ランピィとエルロイは、いつの間に出したのか、携帯灰皿でタバコの火を消し、ゆっくりと立ち上がる。立ち上がるとランピィはゴミをまとめて持ってきたビニール袋に入れ、ペットボトルと一緒にバッグにしまう。

「じゃあ、行きましょう」

 ソルは率先して扉の前に移動する。ランピィとエルロイも追いかけるようにして扉の前に立つ。

「本当にいいんだな」

 エルロイは確認をするが、ソルの意思は固いようだ。

「よし、行くぞ」

 エルロイが扉の鍵を開け、外側に向かって開く。まだ昼なので、外の光が部屋の中に注ぎ込んだ。エルロイを先頭に、ソル、ランピィが外へと足を踏み出す。3人が部屋から完全に出きったそのときだった。大きな音がしたと思った時には、ソルが再び部屋の中へと弾き飛ばされていた。

「ソルっ!」

 ランピィが倒れたソルの元に駆け寄る。だが、ソルの頭に開いた大きな穴は、彼は既に命を落としていることを意味していた。頭を中心に血の池が広がっていく。ランピィはもう声は届かないことを理解しながらも名前を呼び続けた。

 音が銃声だと気付いたエルロイは周囲を見渡していると、銃を持ち、特殊装備をした人間が数人、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。その後ろには制服を着た警官が一人、のんびりと歩いてくる。エルロイは彼を睨むと、その警官は視線をそらさないまま、エルロイの下へと近づいてきた。

「ここからは俺らが処理する。君らは帰れ」

 その警官はそう言い放った。

「ジグ……」

 ジグと呼ばれた警官はエルロイと視線を合わせたまま、マンションの塀のところまでやってきた。

「わかってるよな」

 ジグがそういうと、エルロイは視線をそらし、地面を見ながら小声で「ご配慮いただきありがとうございました」と言うと、部屋の中のランピィの方に目を向けた。

「ランピィ、帰るぞ」

 ランピィは目に涙を浮かべ、ソルの死体を抱きしめていたが、「ソル、ごめんな」と一言発してゆっくりと立ち上がった。

「わかってる、帰ろう」

 二人はこういった状況に慣れているらしく、振り返らず、マンションの玄関から出て行った。入れ替わりで警官たちが中に入っていったが、下を向いていた二人は彼らとは目を合わせなかった。ジグはすれ違う時、「おつかれさん」と声をかけてくれたが、二人は返事することなくマンションから離れていった。ランピィのコートと胸部の毛皮には、ソルの血がべったりと付き、白い毛皮が赤く染まっていた。



 ソルの死から2時間後、エルロイは身だしなみを整え、夕方の街――人間たちがくらすエリアのとある高級スーパーの中にいた。周囲を見渡しながら歩いていたが、一人の女性を見つけると後ろから静かに近づき、横に立つ。しばらく棚を前にスマホをいじっていたが、小声で一言、

「ソルは死にました」

 そう言った。その女性は一瞬動きを止めたものの、すぐに棚の物色に戻り、一言、「そう」とつぶやいた。エルロイはスマホをポケットにしまい、

「彼は秘密を守ったまま亡くなりました。お伝えしたかったのは以上です。では」

 と言い残し、すぐにその場から離れた。女性のすすり泣く声が聞こえるようだったが、エルロイは気にすることなくすたすたと歩いていき、そのスーパーを後にした。エルロイの目にも涙が浮かんでいた。


 ランピィはそのまま自宅に帰り、電気もつけないまま、テーブルの席で伏せて静かに泣いていた。もう乾いているが、全身から血のにおいを感じることができた。従者獣としての役割を果たし、自分の主人の妻が犯した罪を被り、何も主張することもできないまま、いや、何も主張することを望むことなくただただ処分された若いイヌのケモノに対して、周りのケモノたちは何もすることができない。

 ランピィができることは、彼のために涙を流してあげることだけだったのだ。

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