第43話 くさったみかんを素敵なあなたに


 酷い匂いだった。そこらに充満している煙が鼻腔をくすぐってくる。

 落ち着いてものを考えている状況でもないだろうに、乱れた思考の中でニーナが抱いた感想は、そんなぼんやりとしたものだった。


「…………はぁ」


 壁に寄りかかりながらも足音を殺し、ゆっくりと一歩ずつ歩を進めた。

 アルラを撒くのに起こしたさっきの爆発は、同時に油と炎を一面にまき散らし、音と臭いで自分の足跡を隠してくれている。


「はぁ」


 『叡智』と魔法。家を出て、黒樹討伐の為に詰め込まれたマナを操る理論と技術。

 故に、アルラはニーナじぶんがそれらを使えるなんて想像もできなかっただろう。魔人がそれらを学ぶ環境に身を置けることなんて普通はあり得ないことなのだから。


 彼女をやり込められた理由なんてそれだけで、自分の性根を熟知している妹の不意を突く方法なんてそれくらいしかなくて、あいつがさっきの爆発でくたばってるとも思えない。


「……はぁっ」


 つまるところ次は無い。普通にナイフで襲いかかってもまず間違い無く返り討ちだ。

 だから、彼女の鼻を鈍らせるこの臭気はむしろ自分の生命線と言えるのだが、それはそうとしてやっぱり不快で、そんな風に古城の中をうろつく内適当な扉が目について、扉を引き、中に身体を滑り込ませた。

 例に漏れず古ぼけている内装。そこらに並んでいる本棚を見るにどうやらこの部屋は元は書斎だったのだろうか。


 余計なことを考える気力も無くなって、荒く息を吐きながらその場にへたりこんだ。


「はぁぁっ――――ううっ、痛った……っ……!」


 軽く身じろぎするだけで体が痛む。

 火傷だ。一時とはいえ爆炎の中に身を投げた代償。

 特に左腕から昇ってくる激痛が酷い。少しでも気を抜けば狂ってしまえそうな気がする。

 痛い、痛い、痛い、痛い――――


 それでもぼやつく意識を鎮めて纏め、必死に纏め、深く息を吸う十数秒の後、右手をそっと宙に掲げた。


「……せー……のっ!」


 かけ声と同時、


「……やった!」


 成功に思わず漏れた感嘆詞。人間くらい大きさをのは初めてのことだったから、激痛で乱れきった精神状態の中、彼をのは奇跡と言っても――――自由落下が始まった。


「――わっ!」


 宙に現れたコトノは当然ながら地に引かれ、その下にいる自分を押しつぶした。


ぅぅ……!……恩知らずめ!」


 投げた悪態に返答はない。

 爆発の寸前に飛びつき甲斐あって、コトノの傷は増えてはいないけれど、アルラの光で焼かれた背の火傷は元のままだし、落下の衝撃をうけてなお気を失ったままなのだから当然か。

 しかしなにより、だらりと脱力したコトノの体がのしかかって、全身に伝わってくる温かな脈動、確かな感触。


「――!!うううう……っ!何で男なんだこいつ……!?」


 泣きたくなるのを押し殺し、少年をそっと床に降ろして仰向けに寝かせる。

 そうしてコトノを改めて見直してみると、アルラが言ったのも頷けるような顔つきをしていて、だけどこいつはシャルさんじゃない。

 頭がおかしくなりそうだった。



 ******



 ずっと昔、シャルさんと一緒に暮らし始めて間もない頃、静かな夜。

 床に着いていた幼い自分は、隣で小さく寝息を立てる彼女の姿を見てふと思いついたことがあった。


「……今なら殺せる?」


 思い立ったら行動は早い。

 寝室を抜け出し、台所から包丁を拝借し、握りしめて確かめる冷たい感触。

 戻った寝室の扉を押し、変わらず熟睡する彼女の様子を一瞥し、躊躇うことなく喉元に包丁を突き立てた。


「…………!!!」


 が、刃は首元に触れる寸前で止まる。包丁を握った手に、横から伸びたシャルさんの手が覆い被さって、ぎゅっと強く掴まれたのだ。

 強引に包丁を押し込もうとする自分の足掻きに気づきすらせず、眠そうに目を擦ってのんびり体を起こす彼女の様子に、当時の自分は気が触れるほどの怒りを覚えたものだ。


「…………またぁ?寝てる途中はやめろっていってんだろぉ、もう……」

「っっ……!放せっ!放せ!!」

「いいけど静かにな、アルラが起きちゃう」


 シャルさんはふぁと声を出し、口を隠して欠伸をする。

 綺麗な人だった。そんな欠伸が、落ち着いた声色が、思い返した全ての仕草が今でも頭にこびりついて消えなくなってしまったくらい、すごく綺麗な人だった。

 そのとき自分は幼くて、そんな当たり前のことにさえ気が付かなくて、寝起きの彼女に恨みのこもった視線を飛ばし、ヤケクソに何度も包丁を振りまわした。


「――――!!……くそっ!!」

「前にも聞いたけどさ、ニーナは何で私のこと殺したいんだ?恨みを買った覚えは無いんだけど」

「くそっくそっくそっくそっ!!!」

「言ってみなよ。殺されるわけにはいかないけど、できる範囲なら協力するぞ?」


 十数回振った包丁は全て空を切り、はい危ないから没収な~という言葉と共にするりと自分の手をすり抜ける。

 軽々取り上げた包丁を自分の手の届かないところに置き、シャルさんはこちらに向き直った。

 綺麗な瞳で覗きこまれながら、ほら、と小さく催促され、少しの沈黙が流れた後、自分はゆっくり口を開く。


「…………だって、殺そうとしたって、シャルはボクのことを許してくれるでしょ?」

「そうだな」

「でも、この先シャルの気が変わって、魔人を駆除しだすかもしれないよね。だったら今のうちに殺して家とお金奪っておくのが一番安全だなって」

「……ほぉ」

「シャルがどれだけ強くたって、何度も試せばいつかは殺せるだろうし」

「………………」


 そのとき自分は幼くて、そしてなにより愚かだったのだ。

 シャルさんは、そんな自分の顔をじっと見つめて、身じろぎ一つせずに固まっていた。


「……うううううぅ!!ニーナはかわいいなぁっ!」

「――――!??」


 瞬きした瞬間には抱きつかれていた。

 一瞬にして混乱に陥る思考。柔らかな彼女の身体に包まれて、頬ずりから温かな体温が伝わってきて、人から向けられる好意の表現に訳がわからなくなってしまったのだ。

 できることといったら、パニックに任せて拒絶の言葉を吐くだけだった。


「……っ放せ!!」

「……ニーナは賢くて優しい子だから、色々考えちゃうんだろうけどさ」

「放せ!!」

「私はニーナのこと大好きだから、そこは心配しなくていい。この気が変わるってのが想像できないくらい大好き。かわいい。かわいい。愛してる」


 自分の言葉に従って、そっと離れていく彼女の身体。

 無論、自然と覚えた透明な感情を廓寥と知る分別などない。


「でも、信じられない気持ちもわかるから、信じなくていいよ。私はニーナの想像より100倍強いから、何をどうやっても死なないし、その状態でも2人を守り切れる自信がある」


 優しく頭を撫でてくれて、優しく微笑みかけてくれた彼女。


「安心して殺しに来い。何度来たって返り討ちにしてやる。勝って勝って勝ち続けてれば、そしたらニーナはずっと平和に暮らせるよな。一生ずーっと幸せにしてやる」


 ちょっとだけ照れて、薄く染まった艶やかな表情に、何も言うことができなかった。


「贅沢言うなら睡眠中はやめてくれ。――あとは、その優しさをもっと色んなところに向けてくれると嬉しいかなぁ……」


 困ったような笑い顔もとっても綺麗。

 愚かな自分の、後悔ばかりの昔の記憶。




 ******




 薄暗い古城の書斎。頭に回る痛みと鬱憤。


「ああああぁっ…………!!イライラするっ!!」


 シャルさんの目は節穴だ。


 優しくて強くて綺麗で格好いい彼女は、人を見る目だけは絶望的になかった。

 しばらく彼女と一緒に暮らして、どうしようもなく惹かれてしまって、一緒にいられたらそれでよくて、こうも恋い焦がれた彼女の望みを容易く捨り、人殺しに踏み切ることができるような人間を優しいと評価してしまうのだから、彼女の見立ては的外れもいいところだ。


 それに、ここ数日でようやくわかった。

 魔人は例外なくゴミクズだ。まともな倫理観を持ってる奴は1人としていない。

 つまり、自分という1人の魔人を助けてしまったのが、完璧な彼女が生涯唯一犯した過ちということなのだろう。ああ可笑しい。


 爆発しそうに衝動に任せてコトノを揺する。


「……起きろ」


 いや、そうだ、なにもかも全部コトノこいつが悪いのだ。

 魔人になんでもないように接してくる珍獣が妙に善人ぶった素振りを見せたから、いなくなったシャルさんの孔を埋められるかもなんて馬鹿げた妄想をしてしまったのだ。

 こいつが少しでもクズを晒せば話はもっと単純で、こんな最悪な気分にならずに済んだのに。

 ……なんて、すぐ八つ当たりに走るところも腐ってる。


「起きろって、言ってるじゃん」


 そんなゴミクズにできることは一つ。

 頭の足りない犬のように、己の欲求をただ追いかけることだ。

 真っ直ぐに。


「――コトノ!」


 少年の目が、うっすらと開いた。

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