第42話 なかよし2人と1人と1匹


 気配一つない古城跡、天にカーテンがかかったような暗闇。

 壁に空いた大穴に座り、外の景色を眺めながらも流れていった沈黙は、だいたい2分か3分くらいだっただろうか。


「――うん。」


 唐突に声をあげたアルラはおもむろにおもむろに腰を上げ、そのまま後方に向かって歩きだした。


「……どうしたの?」

「ほら、目を覚ます前にコトノを無力化しておきたいなって。手足もぐのにも止血がいるし、設備が整ってるところまで運ばないと」


 気絶したコトノをひょいと担ぎ上げたアルラは、こちらに向かって向き直る。

 少し離れただけでよく見えなくなる表情。辺りの暗闇はそれほどまでに濃いのだけれど、しかし、古城を訪れた時よりちょっとだけ明るくなっているような気がして、アルラが変わらない無表情が少しだけ固くなっているような気がした。


「で、お姉ちゃんはこれからどうするの?」

「……どうって、これからの生活のこと?」


 明るくなったとはいっても、ほんとうに僅かな違いだから、勘違いと考えたほうがよさそうだけれど。


「……ちょうど良い隠れ家は見つけたし、しばらくそこで凌いで安全な引っ越し先探しかなぁ。アルラが住んでる街になんて長居したくないしね」

「――そ。心配ないみたいでよかったわ」


 視線の先の影が手を挙げた。


「それじゃ、さよなら」

「じゃあね、バイバ――」


 そう、言い切る直前。

 ひゅう、と風切り音が耳に触れた。


「――イ……?」


 一切の前兆無しにその場に突如現れた気配。考える間もなく、反射的に音の先に視線を向ける。

 方向は上。現在自身が腰掛けているのは壁に空いた横穴で、そこから上ということはつまり、音の出所は古城の外壁を伝う何かということで。


 顔を上げた。


 壁に何か黒い影がしがみつい――


「ィィぃぃぃヤアァァァァ゛ァァアァァア゛ア゛ッ!!!ぴぎひぎア゛アッビヤッァッァ!?」

「――――ひぁっ!??」


 鼻を突き合わせるほどの至近距離涎を垂らした黒竜が大口を開け焦点の合わない目を剥き出していびつに笑って揺れる影が自分の瞳に降りている自分の耳をすり抜け唐突に理不尽に現れた魔物という信じられないグロテスクな光景になんでという感情だけが頭で弾けて冷静な思考なんて紡げるわけがなくてそれでも反射的に身体をのけぞらせようと――――!!

 理不尽なのはここからだった。


「ァビァップピョヨオオ゛ォオァッォ!??」

「ッっ!?」

「お姉ちゃ……ひぃっ!?」


 遅れて黒竜それを目視したアルラが悲鳴をあげる。

 理不尽にも黒竜はすぐ側にいる自分を無視し床に脚をつけ間髪入れずアルラのほうへと真っ直ぐに突き進む。ぐねぐねと不必要に身体を捻りながら床に身体を擦りつける姿は百足のような不快感とおぞましさを――


「――ッッッ!???っ嫌ぁ!」


 反射的なものだろう、身の毛もよだつ光景にアルラが勢いよく飛び退いた。

 あまりの動揺だったのかバランスを崩した彼女が地面に転げ、衝撃で手が離れたコトノが地面を擦って離れていくが、すぐさま理性を取り戻し、体制を立て直したアルラは少年の方に目を向ける。

 自分も即座に手の平を床につけ、振り返って同じ方向を――――


「「――――!??」」


 黒竜がコトノを舐め回していた。


「ア゛ーッア゛ーッア゛ーッア゛ーッ!!ヴィイイイイイイイイイイ!!!エ゛ビャハハィ!」


 ベロベロベロベロベロ、と。

 意識を失っい床に這いつくばっている少年の顔の上、何度も何度も執拗に行き来する舌。

 恍惚とした表情を浮かべ目玉はぼこっと飛び出していて瞳がぐるぐる高速で回った三メートルほどの黒い影。魔物に人間と同じような情動が存在するなら、こいつはまず間違い無く快感に狂っていると断言できる蕩けた所作とともに、奇声を発し、ベロベロベロベロベロベロベロベロベロと高速で動き回る舌の肉。


「――う、わ……っ」

「……ぇ。……ぇ?」


 言葉も出ない。

 アルラも自分と同様に、何もできずに立ち尽くしている。


 古城に入った時窺えた屋上で戯れる黒竜達の様子。あの時の、気品さえ感じられる静かな佇まいからは想像できない、かけ離れた狂気が眼の前にある。

 魔物が人になれることなんてあり得ないのに、ただひたすら顔を舐め回すだけでコトノに危害を加える気配がない黒竜。そんな明らかな異常事態がどうでもよくなってしまうくらいに気色が悪い光景。

 地に着けた手の平から伝わってくる、じわりと液体が滲みだす感覚。


「…………なっ、なんなの、これ」


 アルラの声が引きつっている。


「――――そんなの、ボクが知ってるわけが……!」


 それが仕方ないと心底思えるほどに、眼の前の光景は異質だった。


「イ゛ーッ!!イ゛ーッ!ア゛ッア゛ッア゛ッア゛ッア゛ッア゛ッ!!」


 黒竜は少年を舐めて舐めて舐め尽くさんとばかりに舐めて、ぐるぐる回る飛び出た眼球が片方ぼろりと地面に転げ落ちても舌の動きを止めず、快感と悦に浸った顔をぶんぶんと振り回している。


「ア゛ッア゛ッア゛ッ、ア゛、………………。」


 その動きが、突然、ピタリと静止した。

 数瞬固まった黒竜が、首をぐるりと回し、焦点の合っていない瞳と無くなった眼孔が一方に向かう。

 こちら側を……正確に言えばアルラのほうを、まっすぐに見据え。


「う゛ァァァァ……」


 暗闇でもわかるほどはっきり、にたりと笑った。


「――――――ッッッ!?」

「――アルラっ!」


 衝撃にアルラの肩が小さく跳ねるが、それでも彼女の対応は迅速だった。

 手の黒竜のほうに向けて狙いを定め、瞬間的に魔力を高める。

 コトノを焼いたのと同じであろう、肉を焼き切るマナの奔流が手の中で急速に高まって、攻撃的な光が手の中から漏れ出していく。

 懐かしさすら覚える攻撃の予備動作と共に、アルラの唇が詠唱を紡ぐ――――!!


「『地を裂く白夜と永遠の薄――」


 しかし、それを放つ直前。少女の動きがピタリと止まった。

 黒竜を殺すのに十分な威力を有していたはずの光がほどけて宙に霧散していく。


「――!??アルラ!?何で!?」


 地に手を着けたまま声をかけた先、アルラはゆっくり手を下げ立ち尽くしている。

 今はこちらを見て舌なめずりするに留まっている黒竜だけど、それもいつまで続くかわからないのに。

 一刻も早くアルラの『叡智』で迎撃しなければならないというのに。


「……お姉ちゃん」

「――お姉ちゃんじゃなくて!早く黒竜こいつ殺さないといつ襲ってくるか!」

「どういうつもり?」

「……え?」

「どういうつもりかって聞いてんの」


 アルラが横目に刺し向けてくる鋭い眼光。

 わけがわからない。


「……え?……え!?そんな……っ、いやっ……、」

「………………」


 実の妹から向けられた身に覚えの無い敵意に身が震え、瞳が縮み、上手く言葉を発することができず、それでも殺気は収まらず。

 諦観とともに溜息をついて、地面に着けていた手の平を放す。


「……あー、駄目か。気づくよねやっぱり」

「こんな刺激臭ばらまいておいて、とぼけられるわけがないでしょ?そんなこともわかんないくらい頭が悪いなんて知らなかったわ」

「駄目元だって。できることはなんでも試してみるものだよ、馬鹿にはわかんないだろうけどさ」


 理想とまではいかなかったけれど、まあ、これでいい。この暗闇のおかげで既にけっこうな時間が稼げている。

 床に着けた手の平から油は床面を伝わり、すでにアルラの足下にまで広がって気化して辺りに漂っている。

 濡れた手の平を振って嗤う。


「こうなったら光は使えないでしょ。結局攻撃に使ってるのは熱なんだし、下手に手を出したら引火してドカンだよ。死にたくなかったら気をつけてね」

「……黒竜これもお姉ちゃんの差し金ってわけ?」

「まあそんなとこ。まさかこんなのが来るなんてボクも想像できなかったけどさ」


 黒竜のほうに身体を向けながらも横目でこちらを睨み付ける少女から、ギリ、と強い歯ぎしりが鳴る。


「……もとから信用できない奴とは思ってたけど、まさかこうまで捻子が外れてるなんてね。こういう状況を整えれば私を殺せるって思ってるの?お金に目が眩んだのかしら、可愛そうに」

「あははっ、実は前から怪しいと思ってたんだーって後出しで言われてもね。どうせ、ボクがどこにこれ隠してたのかも分かってないくせに」

「……それともコトノに絆されちゃったのかしら?1人で寂しいよーって泣いてる時に優しくされて嬉しくなっちゃってご主人様を助けるぞーって奴隷根性剥き出しってこと?ばっかみたい」

「――黙れ」


 アルラの喉が小さく鳴った。

 そんなことにさえ腹が立って仕方がない。


「……さっきから黙って聞いてりゃ調子に乗りやがって。性欲だとか、支配欲だとか、どっかで聞いたようなことをぺちゃくちゃぺちゃくちゃ偉そうにさぁぁっ……!!」


 腹の底でずっと燻らせていた、脳の奥がブチ切れそうな激情が上がってくる。


「コトノに関しちゃ知ったことじゃないけど!じゃあッッ!!コトノに似てたシャルさんはッ!!!そんな汚い情欲に流されてボクを助けたって言うのかあ゛あ゛あ゛ッッ!!!!ぶっころしてやるッッ!!」


 同時、咆哮が合図となったかのように、アルラに黒竜が飛びかかった。


「ビャァァあぁぁあぁエ゛ッ!???」

「――ッッ!!『春朝迷霧』!!」


 回避の動きと同時に紡がれる詠唱。あの日、コトノに騙った『透明化』と同じように、アルラの身体が端のほうから透けていく。


 そりゃあそうするだろう。ボクが彼女の立場だったら迷わずそうする。

 光の攻撃が封じられた以上、彼女にとれる唯一の手は、即座に姿を消してこの場を離れること。『叡智』無しに魔物を殺すなんて芸当、普通は人間にも魔人にも不可能なのだから、迫り来る黒竜を凌ぐ手段はそれ以外に存在しない。一端この場を離れてさえしまえば、黒竜もニーナじぶんも容易く焼き切ることができるのだから尚更だ。


 逆に言えばこの瞬間、自分がどんな行動をとったとしても、アルラはそれに対応することはできない。


「『赤色』ッッ!!!」


 手の平で調整された魔力が創り出す炎魔法。小さな火球が宙に浮き。気化した油と反応し。


「――なぁっ!?」


 気づいたときにはもう遅い。

 ――――ぱっ、と。

 あふれんばかりの閃光が、轟音が、熱波が、3人と1匹を纏めて一気に飲み込んだ。

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